越後侵攻と防戦準備
永禄六年(1563年)三月、越後、糸魚川、青海にて
海野幸稜
濃姫様、海野家、明智家の面々の和やかな刻の終わりは、急に訪れた。
『幸稜、知らせだ。軍勢と推測される集団が親不知の西側に侵入した』
月さんからの知らせが頭の中に響き、つい「おい、おい、勘弁してくれよ」と声に出してしまった。
場違いな俺の一言で、一瞬で座が静まりかえってしまう。
「すまない」と言って席を立ち、庭の前の廊下に出る。
くー、どこのどいつだ。
神保家の反撃か?
それとも、一向衆が能登攻めを諦めて、北条家が画策している通りに越後攻めに切り替えたか。
「詳しく教えてくれ」
庭に話しかけて、忍びの報告を聞く振りをする。
親不知は三里ほどの隘路だが、西側に侵入した軍勢が、東側に抜けるまでさほど時間はかからない。
背に皆の視線を感じる。しかし、場所を替えて月さんと話している余裕はない。
『親不知の西側に侵入した軍勢は、松倉城から出立したものと推測。兵数は約2000』
松倉城から出た集団というのであれば、それは椎名家の軍勢だ。
上杉家が、椎名勢を呼んだのだろうか。
椎名勢が青海を通過するなどと言う知らせは、村上様からも宇佐美様からも受けていない。爺様方が連絡を忘れている可能性も否めないが。
『現在の移動速度を続けた場合、親不知の東側である青海に現れるのは4時間後と予想される』
ちょっと待て。
北越後、関東、どの戦線に向かう?
越中松倉城の守りを放棄してまで、軍勢を移動させる命令が出ているのだろうか。
苦労して松倉城を取り戻したというのに、上杉家からの命令で城を開ける椎名家。
松倉金山を取り上げられたと俺を睨み付けてきた椎名康胤の顔が浮かぶ。
まさか、上杉家に反旗をひるがえした訳じゃないだろうな。
一度、疑い出すともうその考えが、止まらない。
椎名家が裏切った理由を、頭が勝手に作り出してゆく。
椎名家は、知っている。
神保家は弱体化して椎名家を飲み込むような勢いはない。
一向衆の狙いは能登と越前に移っている。
海野家が雇った雑賀衆は引き上げ、雑賀衆と共に戦った海野鉄砲隊はすでに解散している。
そして、越後糸魚川方面に有力な上杉家の戦力はない。
北条、織田、蘆名といった反上杉勢に対抗するのが精一杯の上杉家には、身動きできる余裕などないのである。
そのような状況の中、北条家から反上杉になれと唆す手紙があったのかも知れない。
本来、越中の半分は椎名家の所領だ、共に上杉を攻めればそれが現実になる、とでも書いてあり、それに乗った可能性もある。
もともとは、椎名家は、一向衆、神保家と同調して越中守護である畠山氏から独立した国人である。
その後、越中の覇権をかけて神保家との争いとなり、その争いに敗けて越後上杉家の助けを借りることになった。
上杉家臣となることで越中での勢力を保ってきたわけであるが、今回の越中合戦の結果、松倉金山を取り上げられた。
その不満を切っ掛けとして、再独立を企てているとしたら。
手始めに、松倉金山を奪い取った商人上がりの海野家を襲い、青海や糸魚川で乱取りを働く。
悪い想像は、悪い想像しか生まない。
もう、椎名家が越後に攻めてきたとしか思えない。
『数日前の記録を検索したところ、富山城方面から数度に別れて兵500が松倉城に入城している』
「なるほど」
椎名家の離反は、確実だ。
おそらく、兵五百は神保勢だろう。
振り返ると、皆が心配した顔で見ていた。
弱気は見せられない。余計に心配させるだけだ。ここは強気で。
「光秀、到着したばかりで申し訳ないが、合戦になる。知恵を貸してくれ」
「はっ、微力ではありますが、何なりと」
頼もしい顔で光秀が答えてくれた。
光秀だけ残して、女たちを屋敷の奥に下がらせる。そして、屋敷に居るだけの家人を呼び出し、伝令を頼んだ。
「親不知の関に伝えよ。椎名勢は敵だ。できるだけ刻を稼ぎ、椎名勢が攻め始めたら関を放棄して逃げよ。一人たりとも犠牲となることは許さん。必ず屋敷に戻り椎名勢の状況を伝えよ」
「はっ」と言って二人の家人が伝令となり走り去る。
「根知城代の河田様に伝えよ。椎名勢が親不知を越えて越後に攻めてきた。二刻後には合戦になるやも知れん。織田家の姫たちを根知城に迎え入れるために人を出して頂きたい」
「織田家屋敷の姫たちに伝えよ。椎名勢が越後に攻めてきた。二刻後には青海は合戦場となる。急ぎ支度を済ませ根知城に入られよ」
速攻で書いた同じ内容の文を渡すと、返事とともに伝令たちが走り去った。
「近隣の村々に伝えよ。青海、根知、糸魚川は合戦場となるゆえに、いつでも山に逃げられるようにせよ」
「角雄と普請組に伝えよ。椎名勢が越後に攻めてきた。二刻後に合戦となる。逐次でかまわん、青海に集合せよ」
「段蔵と普請組に伝えよ。椎名勢が越後に攻めてきた。二刻後に合戦となる。逐次でかまわん、青海に集合せよ」
「信虎殿に伝えよ。椎名勢が越後に攻めてきた。二刻後に合戦となる。青海で兵たちの指揮を願いたい」
「内海屋に伝えよ。椎名勢が越後に攻めてきた。二刻後に青海は合戦場となる。急ぎ女子供を海野屋敷に入れよ」
次々と命令を出すと家人たちが少なくなった。
残った家人たちには、海野屋敷に逃げてくる者たちの受け入れと屋敷の防戦体制を命じて下がらせた。
春日山や信府への一報は根知城代の河田長親となるので、経過の私信を別途出すことにする。
とりあえず、ここまでは一向衆の越後侵攻に備えて事前に決めていた手順に従った行動だ。この先は、相手次第となる。
大丈夫だ、恐れることはない。
椎名勢は二千、普請組が集まれば海野勢は二千五百。
こちらには、武田信虎と明智光秀がいる。それに、親不知は隘路だ、簡単には抜けない。
敗ける要素は見当たらない。
勝利条件は、椎名勢を青海に一兵たりとも入れることなく退却させることで良いだろう。
「殿、某、この地については詳しくはありませぬ。できれば先に合戦場となる所を見たく、案内役の家人を貸して頂きませぬか」
「俺が、案内しよう」
「いえ、殿は戦の支度を」
「刻がない。それに誰も光秀を知らないのだ。良い知恵が出たとしても、それを現場で活かせないのなら無策と同じ。それが惜しい」
「ですが、具足がなくば危のうございます」
「光秀とて、具足がまだないのだろう。それに危ない所に行くつもりはない。さあ、刻が惜しい。行くぞ」
戦場には不釣り合いな普段の格好で、屋敷を出て、親不知の東側の出口まで急ぐ。
海野家の屋敷から親不知の東側までは半里ほど。
屋敷の近場で普請していた男たちが、普請道具を短槍に持ち替えて、親不知まで走って集まってくる。
皆、武具などは身につけていず、槍一本だけである。根知からの援軍がくるまで、もたせる覚悟なのだ。
椎名勢がすぐに現れないのは分かっているが、気が急いているので、いつの間にか歩きが早歩き、早歩きが小走りにと変わっていた。
親不知の出口に到着すると、先発隊が三間(約4,8メートル)ほどの柵を作っていた。
親不知の出口には、一向衆の越後侵攻に備えて弧を描くように柵と浅い堀が作られていて柵の親不知側には逆茂木が打ち立ててある。
しかし、柵の中央に二間(約3,6メートル)ほどの通行口があるので、そこを作った柵で塞ぐのである。
「光秀、ここで敵を防ぐ。何か見逃していることがあるか」
光秀が、山に目を向け、そして、海に目を転じる。
信虎爺さんの意見を入れて、柵と浅堀を用意した。柵は、山の斜面から海の中まで続いている。
「鉄砲が、気になりますな」
「と言うと」
「敵側には浅堀がありますが、我ら側にはありませぬ」
「隠れ場所か?」
「はい」
「なるほど、それは困るな」
越中戦のため外海屋から借りていた鉄砲は、全て返していた。海野勢の鉄砲の数は少ない。
そして、鉄砲は海野家だけの物ではない。敵たる椎名勢も少なからずの鉄砲を持っている。
親不知に作った柵は、味方を守ってくれるが、敵をも守るのだ。
柵を挟んでの鉄砲の撃ち合いとなった場合、椎名勢には浅堀も逆茂木も伏せて隠れる場所になるが、海野勢に隠れる場所はない。
隠れ場所がなく鉄砲を恐れた海野勢が柵から距離を開けては、椎名勢に柵を簡単に越えられてしまう。
鉄砲がなかった信虎時代の防戦方法では、敗けていたかも知れない。
「殿様、遅くなりました」
段蔵が、駆け込んできた。
「段蔵、ちょうどよい処に来てくれた。早速だか普請を頼む」
「任してください。で、何を」
「親不知側の浅堀を埋めて平らにしてくれ。それと、青海側に堀を造ってくれ。要は、堀を逆に造ってくれということだ」
「それは分かりましたが…」
「なぜかか?」
「はい」
「それは、海野勢が鉄砲から隠れるためで、敵には隠れる場所を無くすためさ」
「なるほど、分かりました。では、早速に」
段蔵が、大声を出して普請組頭たちを呼び寄せる。組ごとに普請を割り当てるためだ。
集まった組頭と円陣を組み、次々と指示を出す段蔵の声が響く。すると組頭から質問が出たようで段蔵が円陣から振り返って叫んだ。
「殿様、逆茂木は抜きますか? それと、弓の対策はどうされます」
「どうだ、光秀」
「はっ。弓は技が必要なもの。見えぬ相手に中々当てられるものではありませぬ。逆茂木は、間引く程度で良いかと」
「と言うことだ。堀を第一、逆茂木は次、弓については最後だ。竹で盾を作れ」
「はっ。皆、やるぞ」
「「「おう」」」
円陣を解散させた組頭たちは、自分の配下を集めると割り当てられた普請に取りかかった。
段蔵は、それに参加せず次々に集まってくる他の組頭に普請を割り当てる大声を出している。
俺と光秀は、その様子を少し離れた処から見守ることにした。
「光秀、これが海野勢だ。どうだ、この者たちといっしょに戦えそうか」
「はっ、問題なく」
「今、海野勢の兵は、青海、根知、糸魚川の普請で忙しいが、越中の椎名家が反上杉勢に寝返ったからには、普請を止めざる得ない」
「はい」
「戦などやっている暇はないのだが、先に片付けねばならなくなった。当てにするからな」
「はっ」
松倉金山なんか理由をつけて返したものを。
まったく、椎名康胤も面倒なことをしてくれる。
嫌がらせにでも隕石の雨を降らしてやろうか。それとも、大きいのを一発降らせて…。
「小僧、待たせたな」
「殿、遅くなり申し訳ありません」
夢想を払い、声に振り返ると頼もしい顔の二人が見えた。
次回、機と挑発
「椎名家の離反は確実だ!」と言うわけで対椎名戦となります。