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海野と明智の子

 

 永禄六年(1563年)三月、越後、糸魚川、青海にて

 明智光秀



 青海にある海野家の屋敷は、濠も塀もあり平城とも呼べるような広大な敷地であった。

 母屋にたどり着くまでに、二つの大きな門櫓が存在し、この屋敷を容易には落とせないと思わせている。


 ここまでの道中、家財を運んできた越後商人の若い使いたちの話では、海野幸稜は、総大将として二度越中侵攻していた。

 そして、一度目の侵攻での失策のため根知城代を解任されたという。

 だからと言って、話をしてくれた商人たちに海野幸稜を侮るような様子は微塵もない。むしろ、恩義を感じているような話し方であった。


 糸魚川からの道中で見ることのできた数々の普請が、海野家の主導で進められているからであるようだ。その普請が、糸魚川、根知、青海の民を潤しているのだ。


 海野家に知行地はないようだ。だが、広大な屋敷を持てる財力、広域の普請を賄えるだけの財力、多くの武田遺臣を抱えるだけの財力があるらしい。

 さらに、明智一族を集めて家臣にしても問題ないぐらいに。


 海野家は信濃武家の出であるが、合戦に敗け離散した。だが、二十年後、商家として大成し越後上杉家に食い込み、武家へと復活を果たした。

 さらに、滋野一族の嫡流として、同族の根津家、望月家を家臣とした。

 海野幸稜が、一代で成し遂げたことだという。




 青海屋敷の母屋を尋ねると、家族五人が取次の間に案内された。そして、儂一人だけが、小姓に連れられて拝謁の間へと進み、屋敷の主を待った。


 四半刻ほどして、拝謁の間に近づく海野幸稜らしき気配を感じて平伏した。

 主が間に入って上座に座り、声がかかるのを待つ。


「頭を上げてくれ」


 若い声に従い顔を上げた。


 海野幸稜は、思っていた以上に若い男だった。元服したての少年の顔のように見える。

 文にあった内容で想像していた人物像との差を感じずにはいられない。

 儂を見る瞳の奥には、少年ではない何者かがいるような気さえする。


「海野幸稜だ。よく越後に来てくれた。感謝する。これから海野と濃姫様の力になって欲しい、頼むぞ」


「はっ、明智光秀でございます。お召しにより参上いたしました。微力ながら海野家のため、そして濃姫様のために力を尽くしとうございます」


 新しい主となった若者に頭を下げた。


「よし、儀礼はこのくらいで良いだろう。光秀、立ってくれ。移るぞ」


 移る?


「さあ、立て、俺について来てくれ」


 新たな主である海野幸稜は、挨拶も早々に切り上げて立ち上がり、さらに儂にも立ち上がれと促してくる。

 儂が立ち上がると、新たな主は間を出て、すたすたと廊下を先に歩いて行く。


 ついて行くしかないと思い追いかけた。


 いくつかの廊下を曲がり、一つの大部屋へとたどり着いた。

 広い部屋の中には、大きく長い一枚板と思える天板の机と床几しょうぎより遥かに大きく背もたれがある椅子がいくつもあった。

 机の上には、席の数だけ菓子の載った小皿と湯気を上げる湯飲椀が用意されている。


 間に入って驚いたのは、その椅子に煕と娘たちが座っていたことであった。

 煕の隣には台のついた大きな籠があり、その中で珠がすやすやと寝ていた。

 妻と娘たちの対面には見知らぬ二人の若い娘たちが座っている。


 煕が、すまなそうに儂を見上げている。

 状況が全く分からない。


「光秀、煕の隣の椅子に座ってくれ」


 主が、煕の隣の空席を示すと、娘たちの方に歩いて行き「どうだ、綾乃あやの革手あらた、かすてらは甘くて旨いだろう」と娘たちの目線まで屈んで声をかけた。


 綾乃は、菓子を食べている手を止めると、姿勢を正して「はい、美味しいです」と笑顔で答えるが、隣の革手は栗鼠のように頬を膨らませて頷くだけ。

「そうか、そうか」と主は嬉しそうだ。


 なぜ、主が娘たちの名を知っているのだ。


「煕、これは、どういったことだ」

 煕の隣席に座る振りをして、小声で煕に尋ねると、煕は申し訳なさそうに小声で返してくれた。


「はい、旦那様が間を移られてすぐに、海野様が現れたのです。到着した私たちにすぐ会いたいと顔を見せてくれたのですが、旦那様とは入れ違いになったようで」

「なるほど」


「先に、この間に通され菓子と茶を頂いておりました」


「分かった」と煕に言って席に座った。


 なんとも間が悪い。こちらに落ち度はないが、我らの印象が悪くならねば良いがと思った。


 人の印象ほど、当てにならぬものはない。印象とは、勝手な思い込みと勘違いであるからだ。

 その印象が、対象の真実を表している訳ではない。


 しかし、人はその印象に翻弄される。


 その印象ゆえに受け入れ、その印象ゆえに拒絶する。そして、一度、拒絶したことを受け入れるのは難しい。だからこそ、第一印象が大切なのだ。


 だが、この世の中、印象は、印象を抱く者の勝手だ。

 それが上役ともなると、不幸の種となる。

 さらに言うと、上役が狭量である者の場合は不幸の花が咲くことになる。

 受け入れてもらうおうとする努力さえ、拒絶されるからである。


 越前朝倉家を見限って越後まで来た理由はそこにもあった。朝倉家臣の下では、努力さえ認められなかったのだ。


 この越後では、新たな主では、どうなのだろうか?


「光秀」


 はっと、思いから現実に戻る。

 いつの間にか席に座っていた新たな主が、自分を見ている。


「入れ違いで、すまなかったな。先にお前の妻や娘たちとは挨拶をさせてもらった。悪気は、なかったんだがな」


 不思議な目だ。

 儂の顔を見ているのだが、別の誰かを見ているようでもある。


「許せ」

「許せなどと、そのようなことは不要でございます」

「そうか」


 この若い主は、儂を計っているのだろうか?


「では、海野の者たちを紹介しておこう。手前から、室のうたおりだ。あと、姉にきょうと言う者がいるが、今は所用で紹介できない。後で紹介しよう」


 主の声に従って頭を垂れる若い室たちに向かって、相手より深く頭を下げて応える。


「歌様、織様、明智光秀でございます。微力ながら海野家のため力を尽くしとうございます」


 主となる海野幸稜も若いが、室と紹介された娘たちは、さらに若い。

 織様は、綾乃と同じ年頃にしか見えない。

 姉がいると言うが、海野家には年寄りや大人たちはいないのだろうか。


「光秀、海野家には家臣となった者たちに与えられるだけの知行地はない。だが、海野に知行地はないが金がある。俸禄で辛抱してくれ」


「はっ、十分にございます」


「そう言ってもらうと助かる。まあ、守る土地もないのだ、気楽にやっていこう」

「はっ」


 頭を下げて返答はしたが、気楽にとは覇気がなく情けないと見るべきか。しかし、若い主、若い家臣、ということは、無茶で無謀ということだ。

 儂が諫言せねばならぬ時が訪れるやも知れん。


「そう言えば、朝倉家の名将である朝倉宗滴公は、武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候と言ったそうだな。聞いたことはあるか」


「はい、朝倉家にいた折り、そのように聞きました」

「どう思う」


 朝倉宗滴公の言葉は、武家の本分は勝つことにあるとの意味だ。世の人々に犬や畜生と言われようとも勝つことに意味がある。

 争い事を避けたり、争い事に敗けては何も得られず、失うだけとなるためである。


 それに、犬や畜生と蔑むのは、決まって敗れた者たちが言うこと。すなわち力なき者たちの言葉である。


「宗滴公の言葉は、戦うことを恐れるな、勝つことに貪欲になれ、との訓戒かと」


「なるほど、戦うこと、勝つことか…」


 若い主は顎に手をやり、何かを懐かしむような目になった。


「俺は、昔、恩人から勝ちたいかと問われたことがある。その時、俺は考えた。俺の勝ちとは何だろうなと」


 再び、不思議な目で儂を見る。

 儂の芯を見ようとする目だ。


「俺は、相手の驚いた顔を見て大笑いすることを勝ちとした。光秀、お前の戦うこと、勝つこととは何だ」


「某の戦うこと、勝つことの意味でございますか?」


 若い主が、目を反らさずにゆっくりと頷く。


 なぜ、戦わねばならないのか。

 なぜ、勝たねばならないのか。


 正直、そのようなことは考えたことはなかった。それは、武家として当たり前のこと過ぎる。


 戦わねば、一族が滅びる。

 勝たねば、一族が滅びる。

 ただ、それだけだ。


 戦わないという選択もできる。だが、それは力ある者に従うという選択。

 強者の理不尽な要求にも従わねばならない。

 生かすも殺すも強者の匙加減だからである。


 それが、世の仕組み。


 だが、世の仕組みを知っていながら滅びる家もある。我ら明智の者のように。


 美濃で勢力を伸ばし国取りを狙っている斎藤氏に荷担することに利があると見た明智一族は斎藤氏に娘を預けて味方した。

 利を見ての選択だった。


 道三様と明智の娘の間に帰蝶らの子ができ、明智一族は美濃斎藤家の外戚となった。

 道三様と義龍の争いの時は、利を見て義龍側につくという選択もあった。しかし、義龍に味方することはできなかった。

 猜疑心の強い義龍が甘言につられて、明智の娘が産んだ道三様の子らを謀殺し、道三様と明智を攻めたからだ。

 明智一族もまた、今さら他の家臣たちの風下に立つことを良しとはしなかった。他の家臣たちへの意地であったのだ。


 人は、利だけでは動けない。

 人には、悪意があり、譲れぬ意地があるからである。




 気がつくと、新たな若い主が儂をじっと見つめていた。

 感情のない静かな目、深淵を覗き込む目である。


「申し訳ありませぬ」

 問いに答えず夢想してしまったことに、頭を垂れて許しを乞う。

 儂の悪い癖だ。

 ことを考えるあまりに、あれこれ考えてしまい答えに時をかけてしまう癖だ。


 人を不愉快にさせる悪い癖が、出てしまった。


「よい、ゆっくり考えてくれ。では、次の話だ。顔を上げてくれ」

「はっ」


 頭を上げると「しばらく待ってくれ」と言って間を出ていった。そして、すぐに知った人物を連れて戻ってきた。

 席に座っていた皆が立ち上がって、出迎える。


「光秀叔父上、お久しぶりでございます」

 覚えのある笑顔を向ける娘。

 幼き頃の少女の面影を残して大人となった帰蝶が、腕に赤子を抱えて目の前に現れた。


「帰蝶か、久しいのう。もう十年にもなるか、達者でおったか」

「ええ。叔父上こそ、恙無く。お元気そうでよろしゅうございました」


「お互い無事で何よりだ。この度の話、かたじけなかったな」

「いえ、むしろ余計なことをしたかと心配しておりました」

「いや、感謝こそすれ、余計なことなどとは思わんよ。これで儂も明智の者たちも日の目を見ることができよう。今、明智の里に家人をやって集めておる」

「よかった。役に立てて何よりでございます」


 すっかり女の顔になった帰蝶が笑う。

 織田家内での立場、上杉家で人質としての立場で憔悴している訳ではなさそうだ。


 若い主が皆を座らせた。


「さて、光秀に頼みたいことがある」

 しばらく黙っていた若い主が話し出した。


「はっ。何なりと」


「濃姫様が抱いている男の子を、明智の子として育てて欲しい。頼めるか?」


 帰蝶が抱いている子を?


 おそらく、帰蝶の子であろう。

 しかし、父親は誰であろうか。


 織田信長ではない。

 父親が信長であれば、帰蝶は織田家に戻っているはず。

 では、子の父親は、目の前の若い主か、それとも上杉家の誰かと言うことだ。

 このことは、帰蝶にとっても上杉家と織田家にとっても醜聞となる。


 我が家は娘ばかりだ。この先、嫡男が生まれるという保証はない。

 仮に生まれたとしても、滅んだ叔父の明智家を再興したら良いだけの話だ。

 帰蝶の子であれば、それは明智に連なる子であり何も問題ない。


 それに、若い主の頼みを断っても良い未来は見えない。であれば、自ら飛び込むだけである。


 煕と目を合わせると、煕が頷く。


「はっ、喜んで。明智家の子としてお育ていたしましょう」

「よかった。そう言ってくれて。叔父上、よろしくお願いいたします」


 そう言って帰蝶が、嬉しそうに赤子の顔を見る。

 若い主も安堵したように、息を吐いた。


「当面は、この青海屋敷に泊まってくれ。根知の屋敷は、すでに手配してあるが、もうしばらくかかりそうだ」

「ありがたく」


 若い主の話では、織田家の姫たちがいる織田屋敷敷地内に儂らの屋敷を建てているそうであった。

 おそらく、帰蝶の近くに子を置く配慮だろうと思われた。


 子の話はそれで終わり、新たな主と帰蝶に乞われ、美濃明智の里での昔話に花を咲かせた。


 話は、次第に今の明智の里のことへと移った。

 今、明智の里は上杉家の所領となり、落城した明智城も再普請したと帰蝶は言う。

 織田家より比較的自由な出歩きを許されていた帰蝶は、織田と上杉の合戦の合間に明智城の再普請を見たらしい。

 帰蝶が楽しそうに話すくだりでは、若い主は苦笑いをしていた。


 和やかな刻の終わりは、急に訪れた。


「おい、おい、勘弁してくれよ」と脈絡なく呟いた若い主は、席を立つと間を出て庭の前に立った。


「詳しく教えてくれ」との若い主の声が聞こえた。主の顔色は見えないが、背中が急ぎの用件だと訴えていた。


 皆が、緊張した面持ちで若い主の立ち姿を見ている。


 海野家の忍びが、報告に来たのだろうか。

 それにしても、全く気配が感じられなかった。


「なるほど」と若い主が呟いた。そして、振り返って言った。


「光秀、到着したばかりで申し訳ないが、合戦になる。知恵を貸してくれ」


「はっ、微力ではありますが、何なりと」

 顎を引いて、若い主に答えた。


次回、越後侵攻と防戦準備



幸稜と濃姫の子は、光秀の養子となりました。

ですが、水を差すように何かあったようです。

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