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明智光秀と理由

 

 永禄六年(1563年)三月、越後、青海屋敷にて

 海野幸稜



 大寒、立春、雨水うすい啓蟄けいちつ、春分、清明せいめい穀雨こくうと季節は巡り、もう少し経つと桜が咲く時期となる。


 この冬は、平年よりも雪が少なく、暖かくなった今となっては山の北斜面に少しばかり残るだけとなっている。


 青海や根知では、田起こし、しろかきと続き、その後に田植えが始まる。

 農民にとっては忙しい時期となり、とてもではないが合戦に出ている暇などない。

 全国的に合戦が減少する時期である。




 さて、越中の松倉城防衛の任に当たっていた雑賀衆は、雪融けとともに越後に引き上げた。そして、海野家との傭兵契約の解除を行うと、内海屋の船で紀伊へと帰郷した。


 鈴木重秀の弁を借りると、越中合戦は学ぶ処の多い戦だったとのことだ。

 船による補給、手旗による通信などだ。

 特に、鉄砲の撃ち方と詰め方の組は参考になったので雑賀衆でも採用することにしたらしい。


 重秀は、別れしな「また、呼んでくれ」と片手を上げた。

 俺は、「また、お願いするよ」と両拳を重秀の胸元に突き出した。


「なんだ、これは?」といぶかしがる相手に、「これは、友誼ゆうぎの証さ」と同じ拳を作らせてぶつけ合った。

 重秀にグータッチを教えてやったのだ。


「幸稜、お前は可笑しな奴だ。だが、俺は嫌いじゃないぜ。またな」と残して、鈴木重秀は船上の人となった。



 内海屋の大船は、北海からの荷と雑賀衆を載せ、各地の津に寄りつつ九州を回って外海から堺に入港。そして、荷と雑賀衆を下ろした。


 数日後、大船は畿内で買い集めた物資を積み、堺を出港した。来た道の逆回りで越後に戻るのである。

 しかし、違うのは、途中、越前で一つの家族を拾ったこと。


 その家族は、大船の停泊地である越後の糸魚川で下ろされた。

 糸魚川で下船した家族一行は、縁者から受け取った手紙内容に従い、一里ほど離れた海野家の青海屋敷に向かって歩き始めた。






 永禄六年(1563年)三月、越後、糸魚川、姫川の渡し場にて

 明智光秀


ひろ、加減はどうだ」

「ええ、段々と良くなってきました。船頭が言った通り、船に酔っただけなのでしょう」

「であれば、良い。しかし、子らも疲れたであろう。少し休んでいこう」

「はい、旦那様」


綾乃あやの革手あらた 、少し休む。離れてはいかんぞ」

「「はい、父上」」


 川の渡し場の待ち合いを指して、娘たちに注意を促した。

 見渡しの良い場所であるが、注意するに越したことはない。


 柱と屋根だけの簡素な掘っ立て小屋に近づくと、小屋には長椅子が置いてあるのが分かった。渡し場の舟を待つための物だ。


 今まで静かだった腕の中のたまが、休憩するのを待っていたかのようにぐずり出した。

 妻の煕を小屋の長椅子に座らせて、珠を預ける。煕は、珠に様子を見て乳を与え出した。

 少しばかり血色の良くなった煕が、菩薩のように見えた。




 妻の煕は、美濃明智家家臣の娘だった。

 儂に嫁いでからは、苦労ばかりをかけてきた。


 美濃での土岐氏と斎藤氏の国主をめぐる争い。その後に美濃国主となった斎藤家の内紛。そして、明智城の落城と娘たちを連れての逃避行。


 越前の朝倉家で仕官を得たものの、うだつの上がらぬ日々。

 果ては、自分の黒髪を切って銭に変え、儂の役目のために使ってくれと渡してくれるほどに気を使わせた。


 儂には、過ぎた女で、賢い妻であった。



 子らは、娘が三人。

 手を繋ぎ、対岸に向かう小舟を眺めている娘たちの綾乃と革手は、実子ではない。彼女らが幼子のころに、叔父より預かった娘たちである。


 明智家の本拠地は、亡き道三様に組していたため、新たに美濃国主となった斎藤義龍に攻められた。

 そして、抵抗むなしく明智城が落城した折りに、叔父より預かった娘たちが、綾乃と革手なのである。今から六年も前の話である。


 生まれたばかりの珠は、煕との間にやっとできた我が子。

 我らは、五人だけの家族である。


 我らの荷物を持った商家の男たちも、少し離れた処で休みに入り、小声で、この渡しも今年限りだと話始めた。

 どうやら、この川には橋がかかるという話のようであった。





 思い起こせば、越後までの道のりは、あれよあれよと瞬きしている間に起きた驚きの連続であった。


 ことは昨年の春に織田家に嫁いだ従兄妹の帰蝶よりもらった手紙から始まった。


 明智一族の消息を探していた帰蝶は、明智の里に残してあった伝にたどり着き、文を送って来た。

 そこには、越後の上杉勢が東美濃に現れ、遠山家の後詰めに向かった織田勢を合戦で破ったと書いてあったのだ。


「まさか」と武田の間違いではないかと目を疑った。


 だが、越前朝倉家にも信濃での川中島合戦と、その後の上杉勢の動きが伝わってくると本当に起きていることなのだと知った。


 そして、朝倉家中もにわかに騒がしくなった。

 上杉家と結び加賀一向衆を討つべきだと叫ぶ者。

 越後と越前の距離を考え、直ちに動く必要はないと言う者。


 当主である朝倉義景あさくらよしかげは、不動を選択した。


 越前国内が安栄となり約六十年。希代の名将である朝倉宗滴あさくらそうてきのもと、第二の京とでもいうべき文化の担い手となり、六角家や三好家といった大国にも対抗できるほど、越前朝倉家は繁栄を極めた。

 しかし、その名将も年には勝てず天文二十四年(1555年)、今から八年前に亡くなった。


 朝倉家当主の義景は、自分は宗滴ではないことを良く知っている人物であった。政はともかく、武の才はないことを良く知っていたのである。

 数年前の若狭征伐でも、親族を大将に据えて行っているほどであった。


 義景と朝倉家臣は、不満を持っていた。


 朝倉家の親族や家臣たちは、義景に宗滴であることを期待する。しかし、義景は宗滴のようにはできない。それが、お互いに不満となり、お互いの侮りとなる。


 栄華を誇る越前朝倉家には、その不満と侮りが溜まりつつある。満ちるまで間もないほどに。


 弘治二年(1556年)に明智城が落ち、妻子らと美濃から逃れた時、朝倉宗滴の威光が残る越前は、未来があるように輝いて見えた。

 しかし、越前に来て六年。期待とは異なり、見込めぬ出世のために苦労をかけたことを、妻の煕には申し訳なく思っていた。



 帰蝶からの二通目は、織田家と上杉家の和睦のため自らが人質となって越後に行くとの文であった。


 帰蝶は、儂と同じだ。

 居場所を持たぬ者だ。


 故郷を失い、利用価値も低い。

 居ても居なくてもどちらでもよい者たち。

 それが、帰蝶と儂だ。


 帰蝶は、越後へと赴くことで自分の価値を作ろうとしているのだと思えた。

 帰蝶の行動は、儂に動揺をもたらした。


 儂は、このままでよいのか。

 帰蝶のように自分から自分の価値を作らねばならぬのではないか。

 妻や娘たちを、できぬ理由にしているのではないか。

 行動しているつもりになっているだけなのではないのか。



 そのように日々悩む折りに、帰蝶より三通目の文が届いた。


 越後上杉家への任官斡旋の文であった。

 ただし、ただの任官の世話ではない。任官の話には裏があり、その裏を条件に任官となることを匂わせていた。



 数日後、越後商人だと言う帰蝶の使いの者が現れ、文と支度金を置いていった。驚いたことに支度金は二百貫もの大金であった。


 朝倉家では、武家とは言え年五十貫の末端の扶持であり、家人を養いながらの生活は苦しく借財もあった。


 文は、人質である帰蝶の上杉家世話役を担っている海野幸稜という者からであり、海野家の家臣となって帰蝶の力になって欲しいと率直に書いてあった。

 海野幸稜本人のこと、どのような家柄で、どのような武勇を誇るかなどは一切書いていない。さらに、儂の知行や扶持にも触れていない。


 ただ、帰蝶の力になって欲しいとだけであった。


 支度金については、越後に来られるのであれば、越前での身の回りの整理に使って欲しいとあり、越後に来られないのであれば、支度金を払うので帰蝶が喜ぶ話を一つ教えて欲しいと書いてあった。


 思わず、苦笑した。


 儂は、五十貫で苦労をしていると言うのに、この者は帰蝶を喜ばすための話一つに二百貫もの大金を払うと言う。


 美濃から越前に来て六年もの間、ずっと自分の中で張り詰めていたものが弾けたような気がした。

 さらに、そのような心境が普段しないことを儂にさせた。身重である妻に、文の内容を伝えたのだ。


「旦那様について行きますゆえ、好きな道を進んでください」と煕は言った。


「苦労かけてすまぬ」と返すと、「旦那様といっしょなのです。苦労とは思うておりませんよ」と笑って言ってくれる。


 気がつけば、儂は三十五となり、煕は三十三となっていた。

 煕の若い頃のふっくらとした顔は痩せ細り、赤子の手のようだった若々しい手も荒れている。

 つくづく、煕は、儂には過ぎた女子だと思った。



 さらに、数日後、再び越後商人である使いが現れて儂に返事を求めた。


「今は、動けぬ」と返事をする。


 越後商人は、困った顔をしていたが、気がついたように言った。

「今は、と言うことは、いずれは越後に行けるとのことでございましょうか?」


 儂が頷くと「それはよろしゅうございました。して、いつ頃となりましょう」と商人が尋ねた。


 身重の妻が年明けに出産することを伝えると、越後商人は祝いの言葉と「では、夏頃ですな」と返してくる。

 夏頃と言う理由を尋ねると、赤子の首が座る時期だからと商人は答えた。

 赤子をともなう越後までの旅路を考えたらしい。さすが商人は気が回ると感心する。


 儂は、商人に向かって言い直した。

「今は、動けぬ。だが、夏頃に越後に伺うと伝えてくれ」


 商人は、七月になったら再訪問すると言うと、いきなり半年分の俸禄ほうろくだと二百五十貫と文を差し出した。


 文を開くと、新たな主となる海野幸稜からであった。


 文は、家臣となることへの謝辞から始まり、俸禄は年五百貫とすること、越後に向かうと決断したときから支払とすること、海野家で越後までの船旅を手配すること、それと当面の役割が書いてあった。


 当面の役割としては、離散した明智一族と家臣たちを越後根知に集め家臣団を編成すること、越前朝倉家、及び加賀一向衆の軍編成と家臣の力関係を整理し、まとめることであった。


 帰ろうとする商人に二日後に再び訪れるように願い、煕と産婆に船旅のことを相談した。

 そして、再来した商人に三月末に越後に向かうことを伝えた。


「よろしいのですか」と生まれてくる子を気づかう商人に一言「良い」と返答し帰した。


 破格な俸禄であるのも魅力である。

 気づかいのできる者を使いに出すほどの人柄とも分かる。

 今や飛ぶ鳥を落とす勢いのある上杉家でもある。

 帰蝶を助け明智一族を集められるのも嬉しい。

 そして、何より「明智光秀に会うのが楽しみだ」と言ってくれる相手である。


 是が非でも越後に行かねばなるまい。





「旦那様、舟が参りました。休みは十分ですので出発いたしましょう。あら、どうされました、嬉しそうなお顔をされて」


 煕が立ち上がり、珠をあやしながら笑顔を向けてくる。


次回、海野と明智の子


再開いたします。とは言ってもすぐにストックが尽きそうですが・・・


おまけ


永禄五年(1562年)


明智光秀あけちみつひで 1528 34 濃姫様の母方の従兄妹、愛妻家で子煩悩


明智煕あけちひろ 1530 32 光秀のために黒髪を切って売るほどの良妻


綾乃あやの 1553 9 明智家の長女、光秀の叔父の娘


革手あらた 1555 7 明智家の次女、光秀の叔父の娘


たま 1562 1 明智家の三女、光秀と煕の娘



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