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風呂と養子

 

 永禄五年(1562年)十一月、越後、青海屋敷にて

 海野幸稜



 昼さなかの湯けむり、そして、かしましい声。


 海野家の青海屋敷の一角に、広い湯船を据えた露天の風呂場がある。温泉ではないが、たっぷりの湯量を誇る代物だ。


 俺は、その二十畳もある広い湯船の隅で漂っている。湯船の縁に頭を乗せて海草のようにゆらゆらと体を湯に浮かべているのである。

 顎を上げて全身の力を抜けば、人の体は自然と湯水に浮く。


 顔面を覆う手拭いによって、女たちのかしましさから隔絶した世界。


 湯が、とても気持ちいい。


 湯に入っていると、普段よりも寛容になれると思いたいのだが…。


 やれ、肌が白くて羨ましい、だの。

 そっちの若い肌のほうが眩しい、だの。

 悔しいから、こうしてやる、だの。

 いやいや、だの。


 湯船の反対側で騒いでいる女たちの声が、うるさく聞こえる。


 もっと、のんびりとした世界に浸りたいのに。


 忍耐に、寛容だ。


 うん、別の事を考えよう。


 ぼんやりと、今年は家族といっしょに正月が迎えられそうだなと思った。

 去年は美濃で、むさ苦しい男どもとむさ苦しい正月を過ごしたことを思えば、天国と地獄だ。


 ああ、よかった、よかった。


「ゆきかど、からだ、あらってくれ」


 湯に融けそうになっている俺を、幼い声が呼ぶ。

 顔の上の手拭いを摘まんで覗き見ると、秋助が俺の前に立って、俺の返事を待っている。

 湯船の反対側では、秋助を応援する優しい福の顔が見える。


「ゆきかど、だめか?」


 赤ちゃん言葉が少なくなり、しっかりとした言葉になってきたのが、嬉しくも悲しくもある。


 おっと、秋助が、福を見ている。

 すぐに返事しない俺が、秋助を不安にさせたようだ。


「よしっ、秋助、こい。ごしごし洗ってやるからな」

「うん」


 手拭いを顔から取り、湯船で立ち上がる。

 そして、輝く顔で見上げてくる秋助を連れて、洗い場に移動した。


 南蛮から購入した石鹸を、同じく購入した海綿体で泡立てて、立った秋助の体を洗い始める。


 ごしごしと洗うと、痛いのか、くすぐったいのか、体をよじる秋助。

 秋助の大きくなった体を相手にしていると無事に成長しているのを実感できる。

 本当に、秋助は、大きくなった。


 幼い子供の成長は早い。

 去年の夏から今年の暮れまでの一年半。

 なかなか、秋助と遊ぶ時間が取れなかった。それでも、俺を忘れていなかった秋助が、洗ってくれと言ってきたのが嬉しい。

 たとえ、福の後押しがあったとしてもだ。


「秋助」

「うん?」


「かか様は大好きか?」

「うん」


 俺に片手を挙げられ側体を洗われている秋助が頷いた。


「善し。秋助、早く大きくなれよ。そして、かか様を喜ばせてやれ」

「うん、わかった」


 大きくなったと言っても、幼い子供の体を洗うのに、それほど時間はかからない。秋助をぐるりと回転させながら一通り洗い、湯をかけて泡を流してやる。


「どうだ。さっぱりしたか?」

「うん」


「よし、今度は秋助が俺を洗う番だぞ。できるか?」

「できるぞ。まかせろ」


「それは頼もしいな」

 石鹸をつけた海綿体を秋助に渡し、少し冷たい石床に座って背中を向ける。


 秋助は両手で持った海綿体を俺の背中に押しつけて、ごしごしと洗おうと頑張るが、子供ゆえに力の入っていない洗いとなっている。


 秋助も今年で五歳、このまま、すくすくと育ってもらいたい。


 戦国時代の幼児の死亡率は高く、二十人に一人は五歳以内に亡くなっていると聞いている。

 無事に生まれた赤子であっても、衛生状況が悪かったり、栄養が足りていなかったり、伝染病が流行ったりと、いくつもの壁を越えなければ生き残れない。

 ある程度の年齢まで達すると、そこからは大人まで生きられると言われている。そして、人間五十年と唄われるのである。


 海野家系列の家では、衛生面、栄養面の両面で子供たちを守っているものの、病気になったら本人の免疫力次第となってしまう。後は、祈るのみ。


 だから、強くなれよ、秋助。


「秋助、もっと力を入れて、ごしごししないと汚れが落ちないぞ。ほれ、もっともっとだ」

「おう」


 洗ってもらった背中を湯で流して、秋助に「気持ちよかったぞ」と言って、頭を撫でてやった。

 ちょっと自慢気に、ちょっとはにかんだ秋助が可愛い。


「よし、次は湯に入って三十まで数えたら上がっていいぞ」

「えぇぇ」と嫌そうな声。


「間違っても見逃してやるから、大声で数えろ。かか様にはないしょだぞ」と耳打ちすると「うん」と返事をする。


 笑っている福には、筒抜けだがな。


「いち、に、さん…」と、秋助は元気よく数え始めた。




 適当に数え終えた秋助が風呂から脱衣場に行ったのを見て、妙を抱いた福は「先に戻るわ」と言い残し、秋助を追いかけていった。脱衣場で秋助の濡れた体を拭くためである。

 娘の前を歌と織に預けて、外は寒いから母屋に戻るようにと杏が促す。


 結果、風呂に残ったのは、湯に浸かる俺と、足湯をしている二人の妊婦、杏と濃姫様だ。


 女たちは、二人の妊婦を気遣い足湯につき合っていた。

 妊婦には、熱い湯も、長い湯もさせる訳にいかない。それに、滑りやすい風呂場で転んだらどうするんだと、脱衣場で目を光らせる産婆が許さない。


 だから、湯にとっぷり浸かっていたのは、男たちのみ。俺と秋助のみ。

 女たちは、皆足湯で会話に盛り上がっていたという訳だ。


 杏が、俺を手招きしている。

 手招きに応じて、二人の側まで移動して湯船の縁に腰掛けた。


「幸稜、どうするか決めたかい?」


 杏が、俺に尋ねているのは、当然であるが濃姫様の大きくなった腹の子のことだ。


 俺の子である。


 幾度となく肌を重ねた結果だ。

 歌とは濃姫様と比較もできないほど頑張っているものの結果は出なく、数少ない濃姫様とは、すぐに結果が現れた。


 濃姫様の妊娠を知った俺は、すぐさま市姫様と犬姫様を新築したばかりの織田屋敷に移動させ、濃姫様は同じ頃に妊娠した杏の話し相手にと青海屋敷に残した。

 織田家と濃姫様の外聞を気にして、秘密裏での出産を計画したのである。


 濃姫様の妊娠を知る者は、海野家に連なる者たち、濃姫様の侍女、村上義清様だけである。

 織田家の市姫様、犬姫様や他の侍女たちは、知らない話である。


 秘密裏としているのはよいが、問題となったのが生まれた子供の処遇だ。


 俺は、海野家の庶子で良いと思っていたが、濃姫様を含めた周りの者たちの反対を受けた。


 それでは、あからさまだと言うのだ。


 濃姫様が海野家の預かりとなり、数ヵ月間誰にも顔を見せなかった。そして、海野家が養子を取った。


 それでは、誰がどう考えても、濃姫様が関係していると考えてしまう。それは、織田家にとっても、海野家にとっても、濃姫様にとっても外聞の良い話ではない。


 であれば、同じ妊娠中の杏が生んだ子とすることを考えた。双子との考えだ。

 しかし、それは杏から拒否された。

 なぜなら、生んだ杏も生まれた子も不幸になるからだ。

 戦国時代、双子は生んだ親とともに忌み嫌われている。双子は引き裂かれ、養子か、寺か、最悪は一人が殺される。

 もちろん、そんな選択はできない。


 では、生まれた子を内海屋か、外海屋に養子に出すことも考えた。


 内海屋の主人の秋助は、まだ小さい。

 だから、佐吉と福は、生まれてくる子に内海屋を渡すと言ってくれるに違いない。

 もともと内海屋は俺が作った商家であるし、今なら秋助も傷つくことなく番頭格に育てられると。


 しかし、それは嬉しい話ではあるが、俺の本位ではない。

 福は俺の姉だし、秋助は可愛い甥っ子だ。我が子可愛さがあっても、そこまでは考えていない。


 同じ理由で、外海屋の支配人である大熊さんの養子にする線も考えていない。


 越後商人の倉田屋や越中屋への養子は論外だ。そんなことをしては、永遠にむしり取られるのが目に見える。


 では、真田家、諏訪家、根津家、望月家、さらには武田信虎への養子はどうかと考えたが、それもなしである。


 各家は、これから家を盛り上げていこうと考えている。そこに主家の庶子が入っても、反発と抑圧が起こり、お互いに不幸になる将来しか想像できない。

 武田信虎への養子などもっての他だ。武田家では、由緒がありすぎて出処が問題になってしまう。


 海野家も駄目、養子も駄目、寺に入れるしかないと周りは言うが、それは俺が納得できない。


 坊主が悪いとは言わないが、生まれてくる子の可能性を狭めるのは嫌だ。


 俺は、困っていた。


「その顔じゃ、結論は出てないんだね。相変わらず、優柔不断だね。しっかりしなよ、幸稜」

「幸稜様、申し訳ありません。私に子ができたばかりに…」


 湯に足をつけた濃姫様が、すまなそうに俺を見る。


「濃姉さん、何、言っているんだよ。濃姉さんが悪いことなんか、これぽっちもありゃしないよ。悪いのは全て幸稜のせいさ。そうだろ、幸稜」


「濃姫様、杏の言う通りです。全ての責任は某にあります。こちらこそ、心配をかけて申し訳ありません」

「全くだよ」


 杏、もっと、俺をなじれ。濃姫様の不安など消し飛ばしてくれ。


 初めて子ができ、ただでさえ不安なところに、生まれた子をすぐに手放さねばならないのだ。なんという悲しみだろう。


 それもこれも、俺が不徳の致す処だ。


 俺の意志が弱くて濃姫様に溺れた処もある。溺れれば、当然このような結果となるのは分かっていた。

 海野家の者たち、歌も、織も、平然と受け入れてくれたので、それにも甘えてしまった。

 こうなると分かっていて続けた俺は、弱い男だった。


 だから、杏よ。俺を詰って濃姫様を助けてくれ。


「幸稜様、そのような顔をしないで…」

「いつまで経っても子供だね。女に心配なんかかけるんじゃないよ。全く、たまに顔を見せに現れたと思ったら、すぐにいなくなる。今度はいつ顔を見せるのか分からない」


 すみません。


「合戦をやった。勝った敗けたと言うけれど、無事なら合戦の勝ち敗けなんてもんは、どっちだっていいんだよ。無事に帰って来てくれたら」


 そうだな。杏の言う通りだ。


「娘が可愛いのは分かるが、もっと、私の相手をしてくれたっていいじゃないのさ。そうは思わないか」


 おいっ、自分のことかよ。濃姫様を励ませ。


 ぶつぶつと不満を続ける杏を見て、俺と濃姫様は目を合わせて苦笑する。

 杏のことは、平安時代ではないのだが古風な通い婚と思っているようだ。


「しかし、困ったね。海野家も駄目、内海屋や外海屋も駄目。海野家臣や他の商人は論外。寺も駄目だとくれば、八方塞がりだねえ」


 何か、良い手はないものか。口が硬く、身内に近い者が…。


「九郎佐衛門の爺様に相談でもするかねえ」

「仕方ないな。できればと思っていたが」

 できれば武家か商家と思っていたのだ。農家は豪農でもない限り生活は大変だ。


「誰か、口が硬く、身内に近い者がいないかねえ」


 山間で細々と暮らしていた杏も、農民の苦労を知っている。俺の考えを分かってくれている。


 湯に足を浸けたまま腕組みをして考える杏。

 俺も空を見上げる。


「幸稜様、私に、心当たりがあります」

「濃姫様、織田家に近い方は、良くないかと」

 空から濃姫様に視線を移す。

 杏も腕組みを解き、耳を立てた。


「いえ、織田家には縁のない者です」

「では、実家の美濃斎藤家の方ですか?」

「そうでもありません」


「そうでもないって。濃姉さんの身内なんだろ」

「ええ。父の斎藤道三さいとうどうさんに味方したため、兄の義龍よしたつに攻められて滅んだ、母方の実家の者です」


 ん?


「身内が争うなんて、なんとも悲しい話さね」

「そうですね」

 濃姫様は、寂しそうに目を伏せた。

 濃姫様の父の道三は兄の義龍に討ち取られた。しかし、その後すぐに義龍は病気で亡くなっている。

 一体、何のために親子で争ったのかと、濃姫様には無常観しかないに違いない。


「母方の実家の城が落ちた後、逃げ延びた者たちは行方知れずとなっていました。ですが、越後にくる少し前に連絡が取れた者がいたのです」


 おい、おい、まさかな。


「それは良かったじゃない。やっぱり身内が一番いいさね」


「ええ。その者は故郷の美濃を離れ越前の朝倉家に仕えたのですが、他国者であるため苦労を重ねているとのことでした。できれば、幸稜様に、その者の力になってもらいたいのです」


「いいかも知れないね。どうだい、幸稜」

「幸稜様、その者は私の血に連なる者。幼き頃に、私にも優しく接してくれました。決して生まれてくる子を無下にはしないでしょう」


 濃姫様の真摯な瞳に俺が映る。


 子を養ってもらう替わりに、海野家の家臣とするってことだ。

 悪くない条件だ。それに血が近いのも良いかも知れない。

 しかし、確認せずにはいられない。


「濃姫様、その方とは?」

「はい、明智光秀あけちみつひでと言う者です」


次回、明智光秀と理由(仮)




次回投稿は、5月27日(月)を予定します。

連休が忙しいのと、書き溜め、新作構想のための休暇とさせて頂きます。


では、皆様、楽しい連休を。



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