二人の姫と芭蕉の実
永禄五年(1562年)八月、越後、根知城下、織田屋敷となった新居にて
海野幸稜
忍び侍女や合戦から無事に戻れるかの重い話を払拭するために、犬姫様の知らない菓子や果物の話を始めた。
なるべく明るく振る舞い、犬姫様の笑顔が多くなるようにである。
姫様に悲しい顔をさせる訳にはいかない、姫様には笑顔が似合う。
「幸稜様は、私のことをからかっているのですね」
犬姫様が、少しだけ頬を膨らませて怒った顔を作る。だが、その目には笑みがあり、犬姫様が本気では怒っていないことが分かる。
話の掛け合いでの仕草だ。
俺は、犬姫様が怒った風の仕草に合わせて、嘘ではないと手を大仰に振って答える。
「いえいえ、本当のことですよ」
「本当のことであれば不思議なことです。芭蕉の実がそのようなものだなんて。ましてや食べることができると聞かされても想像がつきません」
小首を傾げながら、食べられる芭蕉の実を天井で想像する犬姫様の表情が可愛らしい。
「このような湾曲した形で、小さな実から大きな実まであります。色も緑、黄、珍しいものでは桃色から紫まであるそうですよ」
両手の指を使って芭蕉の実の形を目の前に再現する。芭蕉の実の大きさは、前世の記憶を探ったもので適当だ。
「そこに住んでいる人々は、芭蕉の実を焼いたり蒸したりして熱を加えて食するようです。もちろん食べるのは皮を剥いた白い実の部分とのことですがね」
「面白いです。是非、見てみたいものです」
「ふっ、ふっ、ふっ」
「何ですか? 幸稜様が悪巧みしているような顔をされています」
「実は」
「実は?」
俺が声を潜めると、犬姫様も声を潜め周りを気にした風に僅かばかり身を近づけた。
「実は、南方の呂宋から芭蕉の実を取り寄せる手配をしてあります。糸魚川に荷揚げしたら根知まで持参しましょう」
「まあ」
「どうです。悪巧みでしたか?」
「ふふふ、とても。姉上たちへは秘密なのですね。珍しい物で二人を驚かせようとしているのでしょう」
「ええ、ですが驚かせる相手はもう一方様おりますよ」
「あら、奥方様ですか」
「残念、奥方たちも驚かせますが、違う方です。誰か、分かりますか?」
「うーん、誰かしら」
困ったと犬姫様は、頬に手を添える。
「犬姫様が、よく知っている方です」
「よく知っている…まさか、兄上」
犬姫様、さすがにそれはないよ。
信長に芭蕉の実を送ったら面白い反応があるかも知れないが、贈り物をしたことが謀略の種にされそうで怖いし面倒だ。
いや、待てよ、尾張には秀吉もいるし、芭蕉の実を送るか?
いやいや、ないない。
「違いますよ。もっとも犬姫様の近くにいる方です」
「もっとも近く…うーん、分かりません。どなたでございましょう」
「犬姫様ですよ」
「私!?」
自分を指差して驚く犬姫様。
「ええ」
「ずるいです。私自身が答えだなんて分かりません。幸稜様の問答はずるいです」
犬姫様は、口を尖らせて拗ねるが、横目で俺の様子を伺う。
「犬姫様には色々と面倒事を頼んでいます。犬姫様には珍しい物に驚いてもらい、楽しんでもらい、美味しく味わってもらいたいのですよ。それに」
「それに?」
「それに、何より某が、犬姫様の可愛い笑顔を見たいのです」
「もう、幸稜様は」
犬姫様は、口を手で隠して鈴の音のような笑い声を上げた。
眩しいぐらいの笑顔とともに。
「何ですか、お犬。織田家の姫とあろう者が大声で笑うなど。不作法ですよ」
犬姫様によく似た透明感のある声が廊下からした。
声につられて振り向くと、大福を食べに下がった侍女を引き連れた市姫様だった。
「姉上、こちらへ」
犬姫様は上座を開けて、俺は軽く頭を下げて市姫様が座るのを待つ。
犬姫様は、俺に視線を向けると、「怒られてしまいました」と、少しだけ舌を出した。
「もう、お犬は…」と、市姫様のため息が聞こえる。
市姫様が上座に、案内してきた侍女が端に座った。
「幸稜様は、姉上とも、お犬とも、大変仲がよろしくていらっしゃいますのね」
市姫様の少し拗ねた言い方が、妹の犬姫様の言い方とそっくりだ。さすが、姉妹だと思えた。
市姫様が言う姉上とは、越後上杉家への人質として一緒に下がった織田信長の正妻である濃姫様のこと。
「某は、濃姫様、犬姫様と同じぐらい、市姫様とも大変仲がよいと思っておりますよ」
「そ、そう…」
「それに、この屋敷に来るのは楽しみでもあるのです」
「楽しみ?」
「ええ、市姫様の可愛い笑顔が見られるからです。もちろん犬姫様の可愛い笑顔も見られるからですけどね」
「もう、幸稜様の口には敵いません」
市姫様は、ぷいっと顔を反らすが口元には笑みがある。
「犬の笑顔が次点なのは残念です。でも、さすが幸様。その意気で市姉上を虜にしてしまいなさいませ」
「もう、お犬は…幸稜様はそのようなことは…」
ふふふと朗らかに笑う犬姫様をよそに、市姫様がチラリチラリと俺の様子を伺うのが分かる。
織田家と上杉家の尾張合戦の和睦条件で、市姫様と犬姫様の美人姉妹を指名したことが、俺が市姫様に懸想しているからだという噂がいまだに消えていない。
犬姫様などは、人質と管理者の関係を円滑にするためか、はたまた本気で俺と市姫様をくっつけようとしているのかは分からないが、俺が市姫様に懸想している前提で言動する。
俺には、市姫様にその気は一切ないので反応に困る。
懸想してないと事ある毎に発言しているのだが、強く剥きになって主張する訳にもいかず、照れ隠しのように受け取られている。
であれば姫様に会わなければよいのだが、織田家の人質たる姫様たちの管理役としては様子伺いに訪れない訳にもいかない。
それに、美人姉妹を相手にするのは、やぶさかではないとも思っている。
本当に困った姫様たちだ。
「本日は、手土産に大福という菓子を持ってきました。琉球にて手に入れた砂糖と小豆を煮て餡を作り、糯米粉で作った皮で包んだ菓子でございます。市姫様、犬姫様、皆様に喜んで頂ければと思います」
必殺の話題変えを試みると、「幸稜様、それでは敵前から逃げるというものです」と、犬姫様が小声で囁き、残念そうな目で俺を見る。
そして、犬姫様の囁きに合わせたように、市姫様はさも残念そうにため息を吐き、端に控えている侍女も首を横に振った。
はいはい、分かっておりますよ、皆さん。それもこれも俺が悪いんですよね。
分かっておりますよって…うがー。
「大福を持って帰ったほうがよいですか」
「まあ、幸稜様ったら大人げない。姉上、この大福という菓子はとても美味しいですよ。召し上がってくださいまし」
「お犬は、食したのですか?」
「はい。大福の餡はとても甘く小豆の風味が残り、皮は食感がもっちりでとても美味しかったです」
「甘くもっちり…いや、そうじゃなくて。幸稜様の前で食したのですか?」
「はい。私が食している姿を、幸稜様がじっと熱くねっとりとした視線で見つめるものですから、少し恥ずかしい思いをいたしました」
おいっ。見つめたけど熱くはなかったぞ。
それにねっとりって何だよ。
「幸稜様はお犬に熱い…いや、そうじゃなくて」
犬姫様は、姉が何を言わんとしているのか分からないと小首を傾けた。
「私、分かりません」といった犬姫様の表情だが、絶対分かっている。
犬姫様の惚け方は天下一品だ。
初めて出会ったとき、姉の着物の裾を掴み怯えていた姿も演技だったのではと、犬姫様の性格を知った今となっては疑っている。
俺がそう思う以上に、生まれてからの付き合いである市姫様の方が、犬姫様の性格はよく知っている。
市姫様は、糠に釘だと諦めたのか、大きなため息を吐いた。
パンッと軽く両手を鳴らし、閃いたとばかりに犬姫様が話出す。
「よいことを思いつきました。みんなで食したら不作法ではありませんね。うん、よい考えです。では、犬が」
犬姫様は、立ち上がると山盛りに大福が載った三方を持ち上げて、大福を配り歩いた。
「ささ、幸稜様、姉上、そなたも」
と強引に大福を配り終えた犬姫様が、自席に戻り自身でも大福を持つ。
「では、いただきましょう。いただきます」
皆が唖然としている中、犬姫様は大福を啄む。
「うん、やはり、大福は甘く美味しいです」
犬姫様は、満面の笑顔を振り撒いた。
「仕方ありませんね。幸稜様の好意を無にする訳にはいきません。では、いただきましょう。はむっ」
市姫様は、観念した様子で手にした大福を口にする。
「あら、美味しい。お犬が言うようにとても甘く美味しいわ」
「でほう」
もぐもぐと口を動かす犬姫様。
もう誰も犬姫様を嗜める者はいない。
市姫様も侍女も諦めて、先に大福を食することにしたようである。
俺も大福を食べる。
甘さ控えめの餡であるが、それは現代人の感覚。この時代の人間からすると貴重な砂糖を使った菓子など贅沢品であり、少量の砂糖を使っただけで、とても甘く感じるようである。
海野家では日常的な菓子のため、貴重さを感じない。ぱくぱくと誰よりも早く食べ終わる。
皆が、幸せそうに食する表情がよい。
菓子を手土産にして良かったと感じる瞬間だ。
皆が大福を食べ終えると侍女が「茶をお持ちします」と言って間を下がっていった。
茶は、海野家や内海屋で飲まれている茶と同じ物。姫様たちが暮らす屋敷にも常備されており、今では日常的に飲んでいるようだ。
犬姫様が、俺に目配せをする。
ん、なんだろう。まあ、いいや、とりあえず頷いとけ。
俺が頷くと、犬姫様は嬉しそうに両手を合わせた。
「姉上、食べられる芭蕉の実があるなどとご存知でしたか」
「芭蕉? あの大きな葉の芭蕉のことですね」
「はい」
犬姫様の目配せは、芭蕉の話をして良いかだったようだ。何にも問題ない話だ。
「芭蕉に実などあったかしら」
「これぐらいで、このような形のたくさん連なっているのが実なんですって」
「ああ、あれね。でもあれは種だけでとても食べられる物ではないと聞いたことがあります」
「ですよね。でも幸稜様は芭蕉の実は美味しく食せると言うのですよ」
「そうなのですか?」
犬姫様の視線が俺に向くので、頷いて返す。
「姉上も、あれが食せるなどと想像できませんよね。ですが、さすが食べ物に抜かりのない幸稜様です。すでに手を打っていて、その芭蕉の実を手配しているようなのですよ」
「まあ」
食べ物に抜かりないって、俺が食いしん坊みたいじゃないか。もうちょっと言い方が…。
「日の本より遠く遠く離れた南方の呂宋から取り寄せるらしいです」
「まあ」
「呂宋にある芭蕉の実は、このように大きな実だそうです。さらに、なんと七色の実があるそうなのです」
「まあ」
いや、七色は言い過ぎじゃないか?
知らんけど。
「それもこれも、姉上を喜ばせようとの幸稜様の努力ですね」
「まあ」
こらこら、それは言い過ぎだ。
ああ、市姫様のキラキラの目を直視できない。犬姫様、頼むからそっちに話を持っていかないでくれ。
「芭蕉の実を糸魚川に荷揚げ次第、市姫様と犬姫様に献上するために根知に伺います」
「ええ、幸稜様をお待ちしておりますわ」
「幸稜様、南方の呂宋でも芭蕉という名なのでしょうか?」
「いえ、芭蕉とは言わず、バナナと言うと聞いております」
「ばなな」
犬姫様は、天井に視線を送り小首を傾げてバナナを想像しているようだ。そして、上座にいる市姫様も同じ姿である。
やはり、似ている美少女姉妹である。
芭蕉とバナナは、植物としては同じバショウ科の多年草なのだが、温帯で育つ木か、熱帯で育つ木かの違いがある。
温帯で育つ芭蕉の実を食すには難があり、熱帯で育つバナナは有益な食糧となり得るのが大きな違いだ。
バナナと人類の付き合いは長い。
人がバナナを栽培し始めたのは、稲と同じ今から約一万年前と考えられている。
熱帯の東南アジア地方で発見されたバナナは、人の手によって栽培され主要な食糧として太古から人類の腹を満たしてきた。
バナナは、栽培する手間が少なく収穫が多い、当時最良の作物であったのだ。
その生産性の高さから今から五千年前頃には、東南アジアからインド、中近東、東アフリカまでに広がっており、四世紀頃には太平洋を渡ってイースター島にまで持ち込まれているのである。
これは、稲や麦に匹敵するバナナ作文化圏があったと考えてもよいほどであろう。
バナナにまつわる面白い話をいくつか語ろう。
始めに、かの有名なアレキサンダー大王がインド遠征のおりバナナを見たとされており、記録にはイチジクと記されているそうだ。
なぜ、イチジクと記されたかと言うと古代のインドや中近東地域ではバナナをイチジクと呼んだためである。
そして、聖書やコーランの創世記にでてくる楽園にあった知恵の木と実。その禁断の果実を食べたイブとアダムは神によって楽園を追放される。
知恵の木そして実として一般的に広まっているのは、リンゴの木でありリンゴの実である。
だが、古代ギリシャ語やアラビア語で書かれた古い時代の創世記ではリンゴの実とは書いていないのだ。知恵の実がリンゴとされたのは、他言語へ翻訳する時の誤訳であるとの説が有力である。
では、リンゴが知恵の実でなければ、一体何が知恵の実だったのか?
知恵の実として有力なのは、イチジクとバナナなのだ。いずれも今から一万年前から人の手で栽培されており、創世記に書かれた通り知恵の木と実なのである。
イチジクとバナナでは、どちらが禁断の実か?
バナナである。
バナナは、人類の知恵によって栽培され、人類の食糧事情を支え、人類が更なる土地に進出することを助けた。
そう、人類はバナナを得て狭い生活圏から広い世界へと旅立つことができたのである。
広い世界へと旅立った人々にとってのバナナは知恵の実であり、楽園という狭い世界の権力者にとってのバナナは、人々を権力者の鎖から解き放つ禁断の悪魔の実なのである。
最後に、日本で初めてバナナを食べた人物は、織田信長であるとされる。
日本に上陸した宣教師によって献上されたバナナを食したと伝わっているのだ。
「市姫様、犬姫様、本日はこれにて。次はバナナとともに参上いたします」
俺は、姫様たちに頭を下げた。
次回、織田屋敷と四十八
バナナ旨い。よし、もう一本。