姫様と侍女
永禄五年(1562年)八月、越後、根知城下、織田屋敷となった新居にて
海野幸稜
「幸稜様、先日のカステラも美味しかったですが、この大福もとても美味しいです。それに、お茶ととても合いますね」
そう言った犬姫様が、再び大福を口にする。
両手で大福を持ち、小鳥が啄むように口にする姿は、とても可愛らしい。
「姫様、不作法でございますよ。殿方の目の前で食するなどと」
犬姫様の横に侍る若い女が言った。
若い女は、犬姫様の侍女。
最近、市姫様と犬姫様の世話をするために尾張からやって来た新しい侍女の一人で、市姫様と同じ十五ぐらいの年頃に見える娘である。
犬姫様は、その侍女に「そなたの分もありますよ。いっしょに食しませんか」とにっこり微笑んで言い返した。
すると侍女は、「えっ」と驚いた後に、犬姫様の前の三方に積み上げられた大福に目をやり少し悩んだ。しかし、気がついたように首を小刻みに振って「私は、後ほどで結構です」と言った。頑張って断った決意が読み取れる表情だ。
「あら、苦手なの、残念ね。こんなに甘くて美味しいものなのに。それでは、他の者たちに分け与えることにいたしましょう。誰が良いかしら」
細い首を傾げる犬姫様。
「ええっ」
続けて「そんなぁ」と情けない小声で呟く侍女。
「姫様、私は大福が苦手だなどとは言っておりません。後ほどで結構ですと言っただけでございますよ。姫様のように殿方のいる前で食すなど、不作法はできませんから」
若い侍女は、涙目になりながら犬姫様に訴えた。本当はすぐにでも大福を食べたいのに、と言わんばかりだ。
「あら、私は囚われの身ですよ。幸稜様のご厚意を無下にはしたくありません。目の前で食することこそ、誠意なのだと思うのですよ」
「ですが…」
「まあまあ、お二人とも。大福はたくさん持って来ました。侍女の方々にも行き渡るぐらいです。よければ、奥でゆっくり大福を吟味して、市姫様への面談を取り付けて来て欲しいのですが」
「大福を吟味…ですが」
大丈夫、犬姫様に無体なことはしませんと、言おうとしたら犬姫様が先に言ってくれた。
「大丈夫ですよ。私と幸稜様の二人だけにすることを心配しているのでしょうが、幸稜様が無体を働くことはありません。ゆっくりと大福を吟味した後、市姉上の取り次ぎを。これは幸稜様の命ですよ」
侍女が、俺を見るので「命じます」と一言。
「はい、ではしばらくお待ち下さい」と、僅かに嬉しさを滲ませた言葉を残し、若い侍女は間を下がった。
「幸稜様、いかがですか?」
「ん?」
「可愛い娘でしょう。本当は、すぐにでも大福を食べたかったのに我慢している仕草の可愛らしいこと」
「ええ」
犬姫様の方が、小鳥のような食べ方で可愛らしいと思ったけどね。
確かに、侍女の娘は犬姫様の世話を一生懸命に果たそうとする素直な意志が感じられ、その素朴さが可愛らしい。
一方、犬姫様は幼いながらも織田家を背負っていると自負がある。そして、自分が美人になることを知っていて行動する小悪魔的な魅力がある。
大人と子供のちょうど境を行ったり来たりするその姿が可愛らしいと感じる。
それに、今の言動だ。
自分より年上の娘を捕まえて可愛らしいと言う犬姫様の大人ぶる姿が、子供が一生懸命背伸びしている姿に見えて微笑ましい。
「良かった。幸稜様が可愛らしい娘だと言ってくれたら問題ありませんね。でも、そうすると市姉上が、またむくれますね。幸稜様が、姉上以外を可愛らしい娘だと言って見つめていたなどと知れたら」
犬姫様は、手を合わせて俺を見つめてくる。
おいっ、こら、そんなことは一言も言ってないし、見つめてもいないぞ。捏造するな。
「ふふふ」と袖で口元を隠し笑う犬姫様は、可愛らしい仕草をする。
俺をからかって言っているのが分かっているから怒りは湧いてこない。逆に可愛らしいので頭を撫でたくなる。
じゃれついてくる子犬感覚だ。
困った姫様だ。
「犬姫様、今度来るときは桃と無花果のパウンドケーキを持参いたしましょう」
「ぱうんどけいき?」
「南蛮風の焼いて作る菓子です。桃や無花果を砂糖で煮て練り込んだもの。練り込まずに果実煮をかけて食べても美味しいですよ」
「まあ、それは、美味しそうです」
手を合わせ、目を輝かせる犬姫様。
「いかがですか」
「分かりました。それで手を打ちましょう。市姉上には秘密ですね。ふふふ」
片目を閉じて、俺に取引成立の合図をくれる。それが、また、小悪魔的で可愛らしい。
まったく、困った姫様である。
「ありがたく」
俺が頭を下げると、犬姫様は鈴が鳴るような笑い声を上げた。
「さて、犬姫様。尾張に帰した侍女の件にございます」
「はい」
犬姫様の笑顔が、人質の顔に変わった。
「当家や城下を探るような真似は、控えるよう侍女に言い含めてください。目に余るようであれば処罰をせねばなりません。濃姫様、市姫様、犬姫様を哀しませるのは本意から外れますので」
「はい、分かっております。尾張に帰した者の件は、兄上に伝えてあります。信じてもらえるか分かりませんが、兄上も命じてはないと返事がありました」
上杉家への人質となった織田家の姫様たちとともに数人の侍女たちが尾張から越後に来ていた。
その侍女たちの一人が、織田方の密命を受けていたようで、たまに、姿を消しては春日山を探っていたのだ。しかし、月さんの監視からは逃れることができず、俺の知るところとなった。
俺も、その侍女を放置するわけにもいかず、犬姫様に警告と相談を持っていったのだ。
その結果、侍女は犬姫様とそりが合わないとの理由で尾張に帰すことにした。
なぜ、犬姫様に相談したかと言うと、濃姫様では責任を感じて俺との関係が、さらに濃密化しそうなのが怖くて止めたし、市姫様では、市姫様の真っ直ぐな気性が事を大問題に変化させそうなので止めた。
俺としては侍女を消すのは簡単だが、姫様たちが哀しむのが嫌で穏便にしたかったのだ。
だから、この件については濃姫様と市姫様は知らない。知っているのは犬姫様だけ。
幼い犬姫様には申し訳ないのだか、犬姫様のわがままとして処理することに決めた。
俺の話を聞いた犬姫様は青い顔をしていたが、幼いとは言え、さすが織田家の姫様である。犬姫様は、毅然とした態度で俺の提案を受け入れたのだ。
そして、俺には幼い娘に可哀想なことをしたとの意識が残り、珍しい菓子を手土産にして暇を見つけては、今日のようにご機嫌伺いに来ている次第となっている。
犬姫様は、忍びの侍女を尾張に帰すとともに新しい侍女をよこすように兄の織田信長に手紙を書いた。
どのように侍女の件を書いたかは分からないが、信長は新しい侍女を派遣してきた。
織田家の姫様たちや侍女たちが故郷の尾張に出す手紙の内容は、一切検閲していない。
上杉家の度量の広さを表していると言えば外聞はよいが、内実は面倒だから検閲してないだけだ。
侍女に密命を与えた者が、織田信長か織田家臣かは分からないが、それはどうでもよい事。本当に探りを入れたいのであれば、侍女などではなく専門の忍びを入れればよいだけなのだから。
犬姫様には、一言「分かりました」と答えて別の話題にすることにした。
「犬姫様、尾張から離れ寂しくはありませんか?」
「寂しく思うこともあります。でも姉上もおりますし、兄上からの便りもあります」
「信長様もさぞ心配されていることでしょう。不甲斐ない海野家に世話をされて大丈夫なのかと」
「兄上は、手紙で嘆いておりました」
織田信長が嘆くのも仕方ない。
戦場に全てを捨てて逃げるような家の者が、姫様たちを世話しているのである。
目に入れても痛くない妹の姫様たちを預けるには、頼りない者に見えて不安に思うのだろう。
「何もかも捨てて退却した幸稜様を織田家臣たちの多くは、情けないと笑ったそうにございます」
まあ、笑われて当然だ。
刃を交えることなく武器具足を放り出して逃走した武家を、情けない者だと笑うのが普通の反応だ。
「ですが、兄上は幸稜様を情けないと侮る者たちを嘆き、皆にこう言ったそうにございます。逃げるとは、このように振る舞うことを言うのだ。武器や具足が惜しくて討ち取られては本末転倒であろう。織田家が退却するときの見本にいたせと」
「信長様には敵いませんね。敵前から逃げた某を見本にいたせなど」
「いえ、兄上の言う通りです。勝頼様や昌幸様が根知に戻られたのに幸稜様だけが、戻らない。幸稜様が、敵に討たれたかも知れないと噂が流れたときの、私たちの気持ちが分かりますか?」
「心配をかけました」
「大将自ら殿に残り、家臣を逃がすなんて」
犬姫様の目が、潤む。
過去の気持ちを思い出したのだろう。
自分たちを庇護する者が、合戦場から戻らない。もしかしたら戦場で討ち取られたかも知れない。
そのような思いとともに、姫様たちに過去の記憶と漠然とした不安が襲ってきたのは、想像に難しくない。
過去の記憶。
俺のことは、犬姫様たちの兄である織田信長の姿に重なったことだろう。
織田信長とて順風満帆で尾張を統一したわけではない。少数で多数を相手にすることなど多々あった。
その最大の出来事は、今川義元による尾張侵攻だ。
敵は、織田勢の十倍にも迫る大軍。
その時、姫様たちは、兄信長の死と自分たちの死を覚悟したことだろう。
歌や織にも泣かれ、姫様たちを心配させ、俺は一体何をやっているのかと疑問もあるが、襲ってくる敵がいる限り戦わざるえない。
俺が戦うことを止めては、歌や織、姫様たちに直接的な災いが及んでしまう。
そのようなことを見たくもないし、想像もしたくない。
誰が何と言おうと俺は、俺なりの戦いをする。
「犬姫様、大丈夫ですよ。俺は、小心者です。勝算ないことには勝負を仕掛けません。これでも元服したばかり、まだまだやりたいことがたくさんあります。死んでしまう余裕などないのですよ」
「もう、幸稜様は…」
「歌や織には、まだ、何もしてやれていませんし、姫様たちには、まだまだ、食べて頂きたい菓子がたくさんあります。とても忙しいのですよ」
「もう…」
犬姫様に笑顔が戻り、こぼれ落ちそうな涙を指で拭った。
「犬姫様に美味しいと言って貰えて、俺も嬉しいですからね。これからも菓子を持参しますので楽しみにしてくださいね」
「はいっ」
元気のいい犬姫様の笑顔の返事が、間に響いた。
次回、二人の姫と芭蕉の実
頼りになるのは犬姫様。
濃姫様(自分で抱えるタイプ)、市姫様(真面目タイプ)では解決できない問題があります。