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愚か者と師(後)

 

「信虎殿に頼みたいのは、諏訪、真田、根津、望月の元服前、裳着もぎ前の子供たちが、しっかりとした考えを持つ大人に育つよう指導して欲しいのです」


 呆けた顔の爺様が、俺の前にいる。

 俺の言葉で凄みも雲散霧消した武田信虎である。

 声は聞こえているが、意味が理解できていない顔である。それだけ、予想外の頼みであったのだ。


「海野家臣の子供たちは、将来の海野家をもり立てる担い手です。家が起きるのも、家が沈むのも、それは家の人次第。であれば、人を育てれば良いだけの話。簡単なことです」


 呆けから立ち直った信虎が俺に答える。


「儂が、子供らをか」


「ええ、読み書き、武芸や書は別の者でも良いのですが、知識があっても知恵がなくば役には立ちません。信虎殿には、広い視野での考え方、諦めぬ心、そして、いかに生きるか、生様を子供たちに授けて欲しいのです。いかがでしょうか」


「また、なんとも、想像だにせん話だ。儂は武将ぞ」


 もちろん、知っている。だからこそだ。


「信虎殿は、あの晴信はるのぶ殿、信繁のぶしげ殿、信廉のぶかど殿の親父殿ではないですか。皆様が、一方ならぬ人物です」


 晴信は、信玄公のことで武田の大将。

 信繁は、信玄公と同母の弟で武田の副将。

 信廉は、同じく同母の弟で武田二十四将の一人。

 皆が皆、武勇と知略を備えた優秀な武将で、信虎の子供たちである。


「儂は、教えなど施してはおらぬ」


「ですが、皆様、信虎殿の背を見て育ち、一方ならぬ方々になっておられます」


「大井が、あ奴らを育てたのだ」


 信虎が、苦々しい顔をした。

 大井とは、大井の方のことで信虎の奥であり晴信たちの母である。

 信虎が駿河に追放された時、大井の方は夫を追って駿河に行くこともできたが、甲斐に残った。子供たちのもとに残ったのである。

 信虎とは政略結婚だったと言われており、夫より子供たちとともにいたかったのかも知れない。信虎が甲斐より追放されて十一年後、大井の方は子供たちに看取られて亡くなった。


 そのような大井の方が、晴信たち兄弟に四書五経や「孫子」「呉子」といった高価な書を子供のころから与え学ばせて、子供らを優れた武将に育て上げたと信虎が静かに言った。


 だから、子供たちは大井が育てたのであると。


「ですが、信虎殿もそれは承知していた」

「その息子らに甲斐を追われた」

「だからこそ」

「だからこそ、だと」


「ええ、この世は親子で争い、兄弟で争い、血を流し合います。ですが、晴信殿たちは信虎殿の追放を選ばれた」


 晴信たちは、信虎を殺すこともできたが、そうはしなかった。それが、外聞のためか、夫婦愛親子愛のためかはわからない。

 しかし、そのことは、理性的であることや、愛情深いということの証明である。


 いつの間にか、凄みのある顔に戻った信虎が俺を睨む。


「儂の利は何だ」


「死ぬまでの安住の地と役目を。きっと、子供たちの相手は楽しいですよ。聡い子もいれば、最後まで理解できぬ子もいましょう。また、他の子を謗る子もいれば、それに甘んじる子もいましょう」


「その子らに、儂に、何を望む」

「何も」

「何も?」


「子らにも、信虎殿にも、好きにしてもらって結構です。教えを施してなお理解できぬとなれば、その子はそれまで」

「厳しいのう」


「人が、玉石混淆ぎょくせきこんこうであるのは事実。しかし、石も磨けば光り、玉でさえ土に埋もれることもあります。某は、少し磨くだけ、どう光るかは本人次第。信虎殿であれば、その子の先が見えるはず。楽しくはないですか」


「お主の利は何だ」


「信虎殿です」

「儂だと」


「はい、信虎殿こそ、青海にいて欲しい人物。一向衆勢が、いつ、気を変えて越後侵攻に出るかはわかりません。青海にいる某や根知の長親殿が防ぎ切れるとは思えません。百戦錬磨の信虎殿であれば、容易いことでも、我らには難しいことです」


「一向宗勢が攻めてきたら家臣でも客将でもない儂に戦えというのか。都合のよい話だな」


「はい、まったくその通りです。ですが、いかがでしょうか。引き受けてもらえませんか」


「一つ、よいか?」

「はい、なんでしょう」


「こちらからは、越中に攻めぬのか。椎名が五月蝿かろう」

「もちろん、攻めます。秋になり天候がよくなって、こちらの準備が整い次第攻めます」

「ほう」

「椎名殿には申し訳ないですが、椎名殿のためではありません。青海の、海野のためです。敵たる一向宗勢が親不知の先にいると思うとゆっくりと寝てもいられませんから」


 越中の神保一向宗勢が、越後侵攻した場合、国境の親不知を越えて最初に越後の地を踏むのが青海となる。家族のいる青海を戦場にするわけにはいかない。


「信虎殿が先頭に立って越中攻めるようなことを頼むつもりはありません。ですが、もしもの時、最後の砦をお願いしたいです」


「なるほど」


「そうならぬように戦うつもりですが、某、武器具足を投げ出して逃げた男。次も、そうならぬとは言いきれません」


 俺が、さも自信なさげに言うと、「そうであったな」と信虎は、カッカッと笑った。


「わかった。引き受けよう。お主の企みに乗ってやるわい」

「ありがたく」

 俺は、信虎様に頭を下げた。


「よい、よい、儂が根津や望月をここに連れて来た責もある。だが、なぜ女子おなごもじゃ」


「これはしたり、信虎殿がそのようなことを言われるとは。日の本はもともと女子が治めた国ではありませんか。神々の天照大神しかり、太古にあったとされる邪馬台国の卑弥呼しかり、神代の神功皇后じんぐうこうごうしかり、男が争いでどうしようもないとき、国をまとめたのは女子ですよ」


「そうであった。そうであった。日の本は女子がまとめる国であったな」

 カッカッ、と信虎は笑って膝を叩いた。


「男が合戦で亡くなっても、女子は強く生きていかねばなりませぬ。その女子にこそ知恵や生き抜く力があっても良いと思います」


「そうだの。そういえば大井も、そういう女子だった。よかろう、男も女も等しく教えよう」


「よろしくお願いします。では早速」


 俺は、いままでずっと黙って話を聞いていた鳶兄弟に向きを変える。


 待たせたな。角雄、段蔵。


「角雄、段蔵、お前たちにもやってもらうことがある」


「はい、何なりと」

「待っていましたぜ、殿様」

「おいっ」


 やっと自分たちの番がやって来たと目を煌めかせ口が疎かになった段蔵が、角雄にたしなめられる。


 いいよ、いいよ、それでこそ段蔵だ。


「角雄には、信虎殿と子供たちの学舎を作ってもらいたい。場所は根知の土地を選べ。学舎の造りは信虎殿の意見をよく聞くこと」


「はい、わかりました」


「そして、青海、糸魚川、根知にそれぞれ大きな学舎を作ってくれ。場所は、青海は親不知側、糸魚川は姫川の東側、根知は青海よりが良い。万人が集められる広場と敷地を囲う塀もだ。ちょっとした砦だと思ってくれ。こっちも信虎殿の知恵を借りよ」


「はっ」と角雄の返信。


「また、儂か」と信虎は苦笑する。

「武家の子らの学舎の他に、三つも学舎を造るとな。民の子らのためか」


「はい、根知は人が多くありません。ですがすべき事は多い。一人一人が知恵を持って効率良く事に当たらねばならないのです」


「教える者はどうする気だ」

「青海では、すでに村の寺で和尚がやってくれております。その場所が変わるだけ。人が足りねば寺に頼みます。手伝ってくれる寺には、人の出し方で布施の量を増やします」


「五年後、十年後を見るか」

「はい、これからどのような世となるかはわかりませんが、やって損はないかと」


「また、学舎を砦風に造れと言う」

「ええ、いざというときのためですね」


「まったく。お主、何者だ」

「某は、商人上がりの武家ですよ。損得は得意です。一つの物に二つ三つの利を乗せれば、それだけ得をするのは道理と言うものです」


 信虎様が、「ふん」と鼻を鳴らした。

「面白い小僧よ」


「そうそう、角雄、忘れていた」

「なんでしょう」


「道だ」

「なるほど、学舎への道ですね。青海、糸魚川、根知と学舎を結ぶ道を造って、さらに、それらを結べというところですかな」


 さすが、角雄、わかっているね。その通りだ、よろしくな。


 俺が角雄に頷くと、段蔵が騒いだ。


「殿様、殿様、俺は、俺は」

「段蔵っ」


「よいよい、段蔵、お前には角雄にもひけをとらない仕事をやってもらう」

「おう」


「まず、姫川に橋を二本かけろ。根知の当たりに一本。その下流に一本。どちらも土台は石だ。百年持つ大橋を造れ。皆が、あっと言う橋を造れ」


 段蔵は、「おうよ」と返事した後、「ぬー」と鼻息を荒くした。


「角雄が造る道と繋げるのを忘れるなよ」

「もちろん」


 角雄が段蔵を見て、「こいつは駄目だ」と首を横に何度も振る。


「段蔵には、もう一つやってもらう。越中と越後の国境、親不知に関を造れ。関と言っても番所じゃないぞ。塀がある砦だ。越中の敵が攻めて来ても十人で二刻はもつ代物にしてくれ。これも信虎殿の知恵を借りよ」


「おいおい、また儂か。いい加減にしろ」という目つきで信虎が睨んできた。


 いえいえ、爺様だからといって見逃しませんよ。この中で一番実戦的な意見を出せるのは信虎殿ですからね。


「そして、青海と関まで街道を造ってくれ。浜や波打ち際を通らなくていいようにな。山を削り、山を堀り、道を通すだ。親不知の名が返上できるような立派な道にしてくれ。往来する人々が、悲しむことがないようにな」


「任せてくれ」と段蔵は胸を叩いた。


「お主、親不知は道なき道だから攻めを防ぐのに適しているのだ。そこに道を造ってどうする」


「信虎殿の言われること、確かにそうです。しかし、親不知は、名の通り波に拐われ亡くなる人も多い街道の難所。狭くとも安心して通れる道が必要だと考えています。それに、道ができたといっても親不知の道も浜も隘路には変わりません」


「うむ」

「むしろ、狙いは別にあります」


「狙い?」


「角雄、四つの学舎と道の整備、二つの大橋、親不知の関と道の整備、ざっとどのぐらいの人工にんくになる」


「順番は、どうします」

「もちろん、全部同時だ。大橋と親不知の関と道の整備以外は、年内に造って欲しい」


「また、無茶苦茶な注文ですな。…そうですな、二千から二千五百ぐらいかと。ところで、橋や道なんぞ、勝手に造って大丈夫ですか」


「問題ない。全て、御屋形様、村上様、長親殿の許可はもらってある。遠慮なくやるぞ」


 どうせやるなら、大掛かりにやるさ。ちまちまやるのは性に合わない。


 それに、この大事業の狙いは、海野家の即応部隊の恒常的雇用だ。徴兵するならいざ知らず、城代を首になった俺に徴兵権はない。


「よし、では、二千五百を雇え。ただし条件付きだ。信虎殿、いざという時、二千五百の兵で青海を守れますか」


「ふん、儂を誰だと思うておる。十分過ぎるぐらいだ」


「では、条件次第で松倉城を盗れますか?」

「ほう」


 信虎の目が、輝いた。


次回、三人の男と地獄行き



信虎様を確保しつつ、子供たちのために学校を開設します。

そして、兵保持のために公共事業を始めました。

皆を豊かにするためじゃないんだからね。

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