城代返上と答え合わせ
永禄五年(1562年)七月、信濃、深志城にて
海野幸稜
六月下旬に根知城から軍勢千五百を率いて越中に進出。しかし、敵の策略にはまり包囲殲滅されるところを、武器具足の全てを放り投げ速度重視で退却。その速さのお陰で、一兵も失うことなく越後まで退くことができた。
一方、足に自信のないものは、越中から飛騨、美濃と山を越えて撤退した。そして、美濃から信濃、越後へと反時計回りで根知城へと戻る。
結果だけみると上杉勢は神保一向衆連合軍とは一戦もせず越中から軍勢を退いたことになった。
負け戦である。その責任は俺にある。
責任を取って根知の城代は返上せねばならない。
仕方ない。仕方ない。うけけ。
「村上様、申し訳ありません。某の力が足りぬばかりに神保一向衆連合と刃を交えることなく越中を取られました。この責任は某にあり、根知城代を返上いたします」
「うむ」
深志城内にある評定の間で、俺は平伏した。もちろん相手は、上杉勢を構成する信濃衆の主将であり、上杉領西部方面軍大将であり、俺の上司でもある村上義清様である。
村上様は、六十を超え頭もすっかり白くなり皺も深く刻まれた顔の立派な爺様であるが、眼光の鋭さはいまだ健在の現役武将だ。
評定の間には、その村上様と俺の二人だけ。
根知城代の返上を申し出たら「馬鹿者、当たり前だ」と怒られる覚悟をしていたのに、頭の上から声も落ちて来ず不審に思って顔を上げると、村上様は目を反らした。
ん?
「して、子細は御屋形様には伝えたか」
「はい、文を出しました。いつもの家の近況と越中での状況を合わせてでございますが」
村上様が、怪訝な顔をして呟いた。
「家の近況?」
「はい、いつもの家族報告でございます」
「ああ、あれか」
「はい」
なぜか、村上様が精彩を欠いている。しばらく会わないうちに耄碌したのだろうか。いやいや、そんなはずはない
俺が言った家の近況とは、姪の前のことである。歯が生えて笑った顔が可愛いとか、よちよち歩く姿が微笑ましいとか、他愛ないことを書いては御屋形様に送っている。
壁に耳あり障子に目ありだから、声に出す時は、前のこととは言わず、家のことと言うし、手紙には姪が可愛いとしか書いていない。
もちろん、これは前が御屋形様の娘だとバレないようにとの工夫である。
本文には他の事案も書いてあるのだが、御屋形様にとっては娘の近況が本文かも知れない。
まあ、これで目的は果たしているのだから問題はない。
「この後、いかがする」
いかがするも何も。
「兵たちを根知に戻し、城代は後任に引き継ぎ、それが終わったら青海屋敷にて静かに暮らしていきます」
「そうか」
そうかって。
おかしい。いつもの村上様ではない。
耄碌したのでなければ、何かある。
「村上様、根知城代の後任はどなたになりますでしょうか」
「長親を考えておる」
なるほど、長親殿か。
村上様が言った長親とは、河田長親のことだ。
御屋形様は、二度目の上洛の折り、近江の坂本で日吉大社に参拝した。その時、案内役を務めたのが当時十六の若者であった河田長親だった。
麗しい見た目、柔らかな物腰、利発な話し方が御屋形様の目に止まり、その場で家臣として取り立てたそうである。
実は、御屋形様が坂本に赴いたのは、日吉大社の参拝が目的ではなく、比叡山延暦寺の高僧と極秘に会うのが目的だった。
比叡山延暦寺は、不入権を盾に西は京の都の一部から東は琵琶湖の西岸までを勢力範囲とし武力まで保有していた。
坂本にあった日吉大社も支配下にあり、さらには琵琶湖西岸の街道と水路の徴税さえ行っていた。
まるで戦国大名のような独立国となっており、若狭から京へと至る物流路を押さえている勢力の一つなのだ。
越後の苧や塩を京へと運ぶための重要な物流路を支配している勢力、さらには上杉の敵である一向衆と敵対している勢力の延暦寺と誼を通じることは大事なことであったのだ。
その事を理解した上で、御屋形様の案内役を見事成し遂げた若き河田長親は、とても輝いていたことだろう。
家臣に誘う御屋形様も御屋形様だが、応じた河田長親も河田長親だ。余程の縁だ。
その縁は、豊臣秀吉と石田三成の出会いの逸話を思い出させる。有名な三献の茶の話である。そして、秀吉の家臣となった石田三成は、終生豊臣家に尽くした。
史実の河田長親も、奉行役として智を、越中戦では武将として勇を、そして終生、自分を取り立ててくれた御屋形様に忠を尽くした。
長親は、智勇を兼ね備え、忠を持った戦国のイケメン武将なのである。
さてこの世では、取り立てられて三年間は御屋形様の側近として活躍していたそうだが、いよいよ満を持して独り立ちさせ、武将として育てるようである。将来の重臣候補だ。
御屋形様に忠を尽くす河田長親が、根知の城代になるのであれば根知の民も、青海の海野家のことも邪険にはしないだろう。
良かった。良かった。
これで、面倒な城代を返上したら外海屋の指揮に専念できる。
外海屋の極東支配人たる大熊さんと文で連絡は取り合っているものの、任せっきりだから意図した通りに事業が進んでいるか不安なところがあったのだ。
「引き継ぎは、いつ頃になりましょうか」
「それについては本人に聞け。すでに長親を深志に呼んでおる。会わせよう」
村上様が手を打って小姓を呼び「長親をここへ」と告げた。
小姓が下がり、この深志に河田長親がいるとはやけに手回しがいいなと考えていると長親本人が現れた。
うりざね形の白い顔、一重の切れ長の目、整った顔立ち、確かに美形だ。女装したら、さぞかし美女に化けることだろう。
現れた長親は、俺の横に座ると村上様に参上したことを告げて頭を下げた。
「河田長親、参上いたしました」
抑揚は少ないが、スッキリとした意思の籠った声である。
現れた美形は、声まで美形だった。
ちっ。
「長親、お前を根知城代に任ずる。御屋形様には話を通してある。いつから根知に登城できるか」
「いつでも。某は身一つなれば、いつなりとも根知に行けます」
「そうか、では隣にいるのが、海野幸稜だ。共に根知へ行って引き継ぎを行うがよかろう」
「はっ、承知いたしました」
「幸稜よいな」
「はい」
「村上様、海野殿に挨拶させて頂きたく」
「う、うむ」
ん?
長親が、俺の方に向きを変える。俺も長親の方に向きを変えた。
「某、河田長親と申します。以後、良しなに」
「海野幸稜です。こちらこそ、よろしくお願いいたします。長親殿、この度は某の不手際で迷惑をかけます。城代の引き継ぎ、よろしくお願いいたします」
「いやいや、大層な役目ご苦労様でした。あのような役目は、誰にでもできることではありません」
何だと、それは何もかも捨てて逃げだした俺への嫌みか。
こいつ、爽やかイケメンの癖に黒いのか。
くー、だが、反論できない。
「武器具足を放り投げての撤退。情けなき撤退です。上杉勢の名に泥を塗りました」
「聞きしに勝る御仁だ。これほどの手柄を立てて、なお、謙遜するとは。少々嫌みに聞こえますよ」
はあ? 手柄だと、嫌みだと。嫌みを言っているのは、お前だろ。何を言っているんだ、こいつ。
「狙いの通り一向衆の目を越後より反らしたこと、お見事としか言い様がありません。しかも、撤退したことの責めも受け城代を辞するなど、なかなかできることではありません。村上様、しいては御屋形様への厚い忠義。この長親、見習いたいものです」
狙いの通り?
狙いの…。
まさか…。
村上様!?
今、目を反らしましたね。
「村上様」
「な、なんだ、幸稜」
「ふふふ、長親殿に見破られてしまいました」
「な、何のことだ」
「村上様、と」
「と?」
「宇佐美様、の」
「の?」
「企みでございます」
「…」
ふ、ふふ、俺は見逃しませんよ。
額から汗が流れていますよ、村上様。
「長親殿、答え合わせをしましょう。いかがでございましょう」
「ほう、幸稜殿は某を試すのですな。よろしい、受けて立ちましょう」
「では、いざ、答え合わせを。どうぞ」
「しからば。某は考えました。このほどの神保一向衆勢に対する上杉方の勝利とは何か。もちろん、我ら上杉方が合戦で勝利し、敵を越中から駆逐することが一番望ましいです」
うん、俺も、勝つつもりで越中に行った。
「ですが、今の上杉方にできることは寡兵を越中に派遣することのみ。神保一向衆勢を越中から一掃できるほどの兵は送れません。寡兵よく大軍を破るとは言うものの、それは一刻の話。寡兵でいくつもの城を落とし、合戦に続けて勝つことは難しい」
確かに。
「敵を越中から一掃できないとなれば、上杉方としての勝ちとは何になりましょう」
何だ?
「それは、敵が越後を攻めようと思わなくなることです。策は、いろいろ考えられます。敵内部での争いを発生させる。他の敵に目を向けさせる。いずれにしても敵が越後侵攻を止めれば、上杉方の勝ちとなります」
城に籠る手は。
「一方、椎名勢とともに松倉城に籠城することも考えられます。しかし、これは、あまり良い手とは思えません。松倉城は堅城、神保一向衆勢とはいえ簡単には城は落とせない。城が落ちないとなれば、加賀の一向衆を呼び込むことにもなりかねません」
籠城しなくて正解だったってこと?
「上杉方としては、ほどよく敗けて、神保一向衆を侮らせて内部分裂や目先を変えさせることこそが、真の狙い」
なるほど、そうだったのか。
「さらには、幸稜殿には失礼な話ですが、村上様や宇佐美様と言った名のある方では難しい話です」
なんで?
「たとえ、村上様や宇佐美様が敗けたとしても敵は上杉勢を侮ることなどしないでしょう。むしろ、反攻を企てるはずだと警戒します。それでは目的を達することはできません。上杉勢と名のある武将が、越中戦線に張り付くことになります」
だから、俺かよ。
名もなき武将で、ほどよく敗けそうで、しかも敗けることで侮られ易い。
そうなのですね、村上様。
今日は、それほど暑くはない日和ですよ。
そんなに汗をかかなくとも、よいではありませんか。
「しかし、わからないことがありました」
おや、なんでしょう。
「これは、敗け戦、しかも、仕組まれたとはいえ合戦に敗けたと家中でも謗りを受けましょう。また、それが仕掛けだと敵に悟られる訳にもいかず責も負います。知行さえ返上せずには済まないそのような役目、誰が受けましょう」
普通、誰も受けんわな。
ねえ、村上様。
「受けるとしたら、その者は余程の忠義者か、もしくは」
もしくは?
「余程の愚か者」
くー、愚か者のほうだったよ。
「しかし、この深志に来て知りました。来てわかりましたよ、海野幸稜という男が何者か」
な、何!?
「幸稜殿は、根知城代の話を若輩では越後の民が困ると一度は辞退したと聞きました。もし、いまだに越後の民を思い辞退を考えているとしたら」
そ、そんなに見詰めないでくれ。
俺は、そっちの気はないぞ。
それに、そんな話は知らないぞ。
「若いのに出来たお人だ。越後の民のため、上杉への忠義のため、汚名を被ったのですね」
ヤバイ、目が離せん。
男とはいえ美形の潤んだ目に見詰められたら、惚れてしまうやろ。
「うほん、長親どの」
う、声がひっくり返った。
「ここでの話、口外せぬようにお願いいたします。長親殿が考えたような話はありません。某は、椎名殿の後詰めにもかかわらず、敵に翻弄され、不名誉な撤退をして、城代を返上したまで。そうでごさいますね、村上様」
俺は、なんとか長親から目を離し村上様を睨んだ。
「う、うむ」
村上様が、後ろめたそうに頷いた。
くー、この爺様、どうしてくれようか。
次回、愚か者と師(前)
今回の越中攻めが、海野勢だけだった理由です。
幸稜は、はめられました。あなたは大丈夫?
次回は、週明け月曜日の投稿予定。