(閑話)叶わぬ思いと歩き巫女、そして頼み事(後)
永禄五年(1562年)六月、美濃、長良川中流の街道にて
一女
海野幸稜の人なりを調べる内に、海野家の忍びだという御月衆の存在を知った。
噂では、海野家が東信濃を所領していた頃から仕えていた忍び衆で、二十年前、海野平合戦に敗れ海野一族が離散した後も、海野家嫡男を守ってきたと言う。
今まで、落ちぶれた主家を見放さずに仕えてきた御月衆は、今の世では珍しい考えの忍び衆と思われており、余程の大恩があったのだろうとの噂だった。
ところが、海野家に仕えたという御月衆の事を、海野一族に連なる望月や根津の年寄りに尋ねても、皆が知らないと首を振る。
御月衆とは、単なる噂話かとも思われた。しかし、海野家が村上義清に仕える以前、海野屋という商家を営んでいた頃、御月衆によって成敗された盗賊がいたとの話もあった。
実態のよく分からない話であったが、海野幸稜を調べていれば、いずれ手がかりが得られると思った。
深志城近くの浅間の温泉。
信府から春日山、根知、青海の道すがら。
青海屋敷の周囲。
海野幸稜は、忍びらしき者との接触はないが、明らかに忍びからの知らせを受けている様子に思えた。
例えば、浅間の温泉の時。
海野幸稜は温泉を銭で貸し切り、その湯を一人きりで楽しむなどと馬鹿げた真似をする男だと思ったのだが、周りを遠ざけ噂の御月衆と合うつもりだろうと目立たぬよう近づいてみた。
歩き巫女とはいえ、これまで周囲に溶け込み目立たぬようにする技に自信があったのに、それが打ち砕かれることになった。
近づく途中までは、全く無警戒で気がつかれた様子もなかったのに、突然、誰かに私の存在を知らされたのか、それ以上近づくなと言わんばかりに石を投げられた。
海野幸稜に私の位置が分かっているとは思えなかった。しかし、潜んだ近くに幾度も石が落ちた。
私は、石という警告に従って素直に下がった。
正体が割れる危険も犯せないし、戦いとなっても戦うすべもない。それに、もし、戦うすべがあったとしても刃を交える争いで武家に敵うとも思えないから。
海野幸稜の他には気配を全く感じることはできなかったが、確かに、他の誰かがいたのだと思われた。
恐らく、その者こそが御月衆。
その後も、同じようなことが幾度か起きたが御月衆の手がかりを見つけることができなかった。これ以上は危険と思い、近づくのを止め遠巻きに見守ることにした。
日が過ぎ、梅雨も終わろうとする季節に海野勢は、昌幸様をともなって越中へと後詰めに出ることになった。
昌幸様に物見役を命じられた私は、軍勢とは離れて越中へと入った。
海野勢が越中松倉城に入城した後、少数の敵軍が現れた。そして、敵に釣られるように城から海野勢が打って出た。
ところが、それは、海野勢を包囲せんとした敵の策略。包囲せんとして迫り来る敵を察知して昌幸様に報告した。
そして、驚いた。
海野幸稜は、すべて捨てて逃げろと昌幸様に命じたと言う。
確かに逃げるに足る一握りの食糧だけを携え、重い武器具足食糧を捨てたならば、敵軍に追い付かれることなく逃げられると思った。
しかし、高価な物を捨てるなどと信じられない。
さらに、海野幸稜が足に自信のない者たちを率いて飛騨経由で逃げると言ったらしい。
それには、昌幸様も釈然としない様子だった。
昌幸様は、私に海野幸稜がどのように切り抜けるか見届けてくれと命じた。
五十人ほどを率いた海野幸稜は、途中、敵方の物見につけられていたが、何事もなく越中から飛騨へ、そして、美濃へと抜けた。
敵方が現れたこともなく、飛騨の国人勢と争うこともなく、猪や兎を狩ったり、毛皮を村の産物と交換したりと、それは逃走とは思えないものだった。
それで、油断したのかも知れない。気がつくと、海野勢の包囲を受けていた。
私が移動すると、包囲の輪も合わせたように動く。となれば狙いは私。
それが、今の状況。
今まで、見逃していたと言うことなのだろうか?
私は、どうしたらよいのだろう。
いざと言う時は、舌を噛みきれば死ねるのだろうか?
昌幸様の配下と知られることだけは、なんとしても避けねばならない。たとえ、私の存在が知られていたとしても。
包囲の輪の穴を探りながら、茂みから茂みに移動していると、目の前の茂みから一人の男が現れて言った。
「やっと、会えたな」
気配に気がつかなかった。待ち伏せられた。
現れた男は、不気味な笑顔の海野幸稜。
どうする?
「歩き巫女か、なるほど」
逃げる、それとも、…
「あれっ、違った?」
と言って海野幸稜は顔を上げた。まるで空を見上げるように。
一瞬、男の顔に気まずさが浮かんだのを見逃さなかった。
表情を変えない私を見て、人違いと考えたのだろうか?
喜怒哀楽の表情を面に出さない歩き巫女の訓練が役にたった。
冷静に、冷静に。
「お武家様、私に何かご用でしょうか」
空を見上げる海野幸稜に尋ねた。
「…」
男の返事はない。
「ご用がなければ、私はこれで」
頭を下げて立ち去ろうとする。
山中で熊に出会った時と同じ。
ゆっくりと、焦らずに、静かに、この場を離れるだけ。
「待ってくれ。やっぱりお前だ。お前、昌幸の配下だろ」
慌てるな。ゆっくり、ゆっくりと振り返れ。気取られるな、私は、昌幸などと言う名は知らない。
振り向くと、私を見る海野幸稜は笑っている。
獲物を見つけたような得意気な顔をしている。
騒ぐ心を押さえつける。
「昌幸様と言うお方ですか? はて、どなたでしょう。私の親方はすでに亡くなりました。人違いではないでしょうか」
「まあ、まあ、それは、いいから。実は、頼みがあるんだよ」
「いいも何も、人違いではないかと」
「まあまあ、話を聞いてから判断してくれていいからさ」
「ですから」
「実は、根知に織田の忍びが入っていてさ」
「私の話を聞いてください。先ほどから言っている通り、人違い「殿、うまくいきましたか」」
私の言葉を遮るように野太い声が、山中に響き渡った。
薄汚れて髭が伸びた汚らしい男たちが、私たちの方へと四方から集まってくる。
「おうっ、うまくいったぞ」と海野幸稜は男たちに手を振り、負けないぐらいの大声で応えた。
もう、逃げられない。
いくら足に自信があるとはいえ、瞬発的な力で全ての男たちを振り切れるとは思えない。
ここは、腹を括らないと。
「殿、この巫女様が目当てで?」
「まあな」
「殿様も好きですな。巫女様は美人だし、それに若い。こんな山中で昼間からとは、殿様は精が有り余っていますな。よしっ、分かりました、奧方様たちには秘密にします」
「おいっ」
「段蔵っ」
「兄貴、戯れ言だよ、戯れ言。殿様だったら許してくれるって」
「そうだな、段蔵だから、許して…やらん」
「そんなぁ」
「情けない声を出しても無駄だ。その手の戯れ言は許さん。その手の話は独り歩きするんだぞ。家の者たちに伝わってみろ、洒落にならん。段蔵、拝んでも無駄だ、無駄、無駄。罰金は覚悟しておけ」
「そんな殺生な」
「自業自得だ。うけけ」と海野幸稜は、品性の欠片もない笑い声を出す。
情けない声と品のない笑いを聞いた男たちも、大声を出して笑う。
すっかり周りを汚い男たちに囲まれた。
気分が悪くなる。
「殿、巫女様の様子が」
「ん、どうした。おいっ、大丈夫か、顔が青いぞ。病気なのか?」
私に、近寄るなっ!
私の心からの思いは通じず、海野幸稜や笑っていた男たちの輪が縮まる。
私に近づき、いたわる声を出すのは迷惑だった。ますます、具合が悪くなる。
「くっ」
吐き気を催し、頭がくらくらする。
思わず屈み込む。
「おいっ」
海野幸稜が、屈んだ私の肩に手をかけた。
その手を払い除ける気力も湧かない。
「く」
「く? く? くとは何だ。薬か、薬だな。どこにある」
違う!
「くさい!」
「くさい?」
「…」
「…」
私の肩から手が離れ、海野幸稜は立ち上がった。
「皆、巫女さんから、離れろ、下がれ。もっと下がれ。ほらほら、下がれ。お前ら臭うんだよ。角雄、段蔵、お前たちもだ」
囲んでいた男たちも、ばつが悪そうに海野幸稜の命令に従って私から離れていく。
「俺たち、そんなに臭うのか?」
情けない声を出し男たちに笑われていた段蔵という男が、腕を持ち上げて自分の匂いを嗅いでいる。
「段蔵、俺たち、何日水浴びしてないと思う。ほら、殿の言う通り下がるぞ。こいっ」
兄らしき男が、断蔵の肩を掴んで私から離れる。
悪臭ともいえる匂いが、息が吸えるぐらいに和らぐ。
「これでどうだ、立てるか」
「あなた様も」
「なっ、俺も臭いのか?」
「はい」
「…」
「殿様、ひょっとしたら殿様が一番臭いんじゃないですかね」
海野幸稜が、私から距離を取り、段蔵に笑い顔を向ける。しかし、その目は笑っていなかった。
「段蔵、罰金追加な」
「そんな殺生な」
再び笑う男たち。
「皆、川で水浴びするぞ。よく体と着物を洗え。これから美濃で竹中殿にも会わねばならぬのに、俺たちが臭くては嫌がらせになる。どうせ、この陽気だ、すぐ乾くさ。髪も忘れずに洗うんだぞ」
「「おうっ」」
「さあ、行け」
「「おうっ」」
男たちは、我先にと川へと走っていく。
「立てるか、お前には井ノ口までは同行してもらう。まだ、頼み事も話していないからな。角雄、段蔵、巫女さんを頼む」
「はっ」
「ですから、人ちが…」
海野幸稜は、私の言葉を聞くこともなく、男たちを追いかけて行った。
「巫女様、立てますか。ゆっくりでもよいので我らも川原に移りましょう」
そう言った角雄が、段蔵とともに私の左右から見守っている。
川原の大石に座り、男たちが水浴びする様を遠くから眺める。男たちは子供に返ったように大はしゃぎだ。
「角雄、段蔵、待たせた。お前たちも水浴びしてこい。段蔵、水浴びが終わったら竹中殿への先触れを頼む。それが罰金だ」
「はい」
角雄と段蔵が川に行き、水を滴らせた海野幸稜が私の隣に座った。
二人並んで、男たちの水浴びを眺める。
「どうだ、まだ臭うか」
「いいえ、大丈夫でございます」
「そうか。悪気はなかったんだ、許してくれ。男所帯で匂いまで気が回らなかった」
「いえ…」
「具合は?」
「かなり、よくなりました」
「それは、良かった」
「…」
「俺たちは、どう見える?」
「どう、と申しますと」
「見た目でなく、俺と家来たちの関係かな」
「関係…仲がとてもよろしく見えます」
「仲か…」
「悪いのですか」
「いや、見ての通りだ。だが…」
「…」
「表面上、仲は良い。だが、俺は奴らを信用していない。何せ俺の首を寄越せと言ってきた奴らだからな。もちろん、それに関わっていない者は別だ」
「首を、でございますか?」
「ああ、助かるために自軍の武将の首を敵に渡す。奴らは俺に遠慮したんだろうな。いきなり襲うことはせず、頼んできたよ。首をくれないかって」
「…」
「今、危険は去って俺の首は、この通り繋がっている。だが、俺の奴らへの信用は切られた。顔は笑っていても、今後、信用することはない」
「…」
「こんな俺は、小心者か」
「私には、わかりません」
「そうか、分からないか」
「…」
「頼みがある」
「ですから、人違いだと何度も」
「まあ、いいから、聞いてくれ」
「…」
「昌幸は、俺の家臣にはもったいない奴だ。兵への指示も的確だし、頭も回る。そして、政の数にも強い。大した奴だ」
「…」
「だが、昌幸は、これから苦労するだろう。俺からの期待、真田一族の期待、相当の重荷となっているはずだ」
「…」
「そんな状況では、昌幸とて二心を抱く者を信用はしない。それに、そんな事で頑張る昌幸を悲しませたくない」
「…」
「だから、昌幸を裏切らず、助けてやって欲しい。昌幸の目となって、昌幸の耳となって、助けてやって欲しい。俺からも頼む」
「…言われるまでも」
「そうか、良かった。昌幸は、真面目ないい奴だ。俺も昌幸の期待に応えられるよう頑張るさ。これから、よろしくな」
「…」
海野幸稜。不気味な笑いをする男。
その男の、口車に乗ってしまった。
当たり前のように平然としている海野幸稜の横顔が、気にいらない。
「俺は、海野幸稜だ。名は何と言う」
「…一女」
「ひとめ。うん、良い名だ」
「…」
海野幸稜は、はしゃぐ男たちから目を離さない。
「…仕方ありません。海野様の頼み事とやらを聞きましょう」
うんうん、と海野幸稜は、私に顔を向けもせず、気持ち悪い笑顔を何度も縦に振った。
次回、半手と奇策、奇策
前作の伏線回収。
深志城近くの浅間の温泉で、幸稜に近づいたのは、一女でした。
次話は、関東のおなじみの場所。