七 煙草
七
近くの公園。
そこを抜けて今度は路地だった。
建物を通って、また道に出た。そういうことを何回か繰り返し、たどりついたのは、青い空を壁一面に貼りつけたような丸い空間だった。
「渡部っていうおじいちゃんが、この能力を持ってる死神。で、ここにいつもいる」
その空間の一部が、くり抜かれたようになった。
老人が出てきた。
頭のうしろで縛られた髪、眉もひげも全部が白い。
鼻筋がきれいに通っていて、目の彫りは深い。
「初めまして」
瀬木根は頭を下げる。
「初めまして」
かすれて低い、落ちつきのある声で渡部は言い、頭をゆっくり下げた。
言葉は通じる。そもそも、そういう分類の仕方はこの世界にはない。
自分がどんな言語を話しているのかも、正直、定かではないのだ。しかし、その言葉の意味を理解している。
電話の着信音が急に鳴った。
すると渡部は、ポケットから真っ赤なスマートフォンを出して、返事をした。
この世界でこういうものが普通にあることが、いまでもおかしいと思う。
誰が金を払ってるんだとか、通信制限はかからないのかだとか、どう考えても不似合いな光景だ。
ただ、それでも色んな常識を数段飛ばして成り立っているのが、この世界だ。
スマートフォンを使う死神の老人がいる。
もう、そういうものとして受け入れるしかないとは思う。違和感があるのはまだ、自分が慣れていないからだろう。
「わかりました、はい。では、このまま二人を向かわせます」
渡部は画面を触って、電話を切った。
「お会いして早々ですが、仕事だそうです。お名前は宮内さんから聞いていますよ、瀬木根さん。私は渡部です」
「仕事、ですか」
「はい。ただ、心配はいりません。今回は初めてですし、しばらくは羽村さんと一緒に動いてもらいますから」
「私まだ、なんの報告も入れてないんですけど」
「その件は、もういいそうです。現に、瀬木根さんはここにいて、元気そうです」
渡部は、さっきの腕試しのことを言っているのだろう。
「ただの鎮圧作業です。あそこから、向かってください。輩が暴れているので、殺してください。それから奪えたら能力も奪ってください」
「相手が三回死んでいたらの場合、ですよね」
「はい。四回で、ほんとうに死にますから、その状態でないと死神の能力は通常、奪えません」
「それを俺がやるんですね」
「はい、なにか?」
「いえ、なんでもないです、大丈夫です」
ついさっきまで敵だった死神だ、俺は。
こんなにあっさり受け入れていいのか。
そう思ったのだが、瀬木根は言葉にはしなかった。
いまは言われた通りに動く方がいい。青い空間を、渡部が指差す。そこにまた扉が現れて、開いた。向こうの風景が、少しだけみえる。
「じゃあ、いきます」
「いやちょっと、勝手に動かないでよ」
扉をくぐろうとすると、羽村が小走りで追いかけてきた。
「すぐ戻りますけど、渡部さん、扉は開けたままにしてもらえるんですよね」
「ああ、通れるようにはしておく。終わったら戻ってきなさい」
「わかりました。ほら、どうぞ。いって」
羽村が、手で払うような仕草をした。
瀬木根は踏み入れた。
そのまま、前に体が倒れた。地面がない。風が吹いたように感じた。それは下から上。瀬木根は落下した。
街。その上空。
「まったく、グレイがそばにいなかったら、お前死んでたぞ、瀬木根」
「悪かったよ」
油断した。しかし、瀬木根は空中でしっかりととどまっている。
グレイがそばにいなかったら、能力を引き出せなくて、落ちて死んでいた。多分、グレイが気がついて飛んできても、間に合わなかった気がする。
「ここら辺で暴れるような馬鹿は、大したことないから、安心して」
羽村が横に並んだ。街を見下ろす。
今まできたことがないのは確かだが、特に変わった場所という印象は受けない。
「じゃあ、大したやつっていうのはどこにいるんだ」
「渡部さんの能力でも、すぐにはいけない場所」
「そういう勢力はいるんだな?」
「そりゃ、いるでしょ。あと、天子に迷惑をかける死神がいるから、連絡が入ってそこにいって、殺すこと、鎮圧業務とか鎮圧作業っていうから」
「それって、さっきみたいにスマートフォンで連絡がくるのか」
「そう」
「俺にも、スマートフォンって与えられるのか」
「いずれね」
羽村は腰のポケットからスマートフォンを抜き出して、耳に当てた。
「渡部さん以外は、世界をまたいで通話したりなんてできないから、気をつけて」
羽村が地上へ降り立ち、誰かと話し始める。
体が震えた。風がとても冷たいのだ。昼だと思う。それでも、肌に触れてくる風は、確かに冷えている。
「私がやるから、今度はみててよ」
「ああ。みてるだけか」
羽村に続いて、下に降りる。
「つまんないなあ」
「おとなしくしてろ。あと、俺から離れるな」
「はいはいはい」
建物の中を覗き込んでいたグレイが戻ってきて、瀬木根の頭の上に乗っかった。
「さがってて」
しばらく歩き、そこでなにかを感じたのか、羽村は前をみたまま、そう言った。
いつも羽村のそばにいるからすの姿は、すでにない。瀬木根はふわりと体を浮かせて、建物の屋根まで飛びあがった。
敵の姿はみえない。人数もわからない。死神の気配がないのだ。
進んでいく。家が並ぶが、天子の姿もない。
大きな通りに出た。そこで建物がなくなったので、瀬木根も地面に再び降りた。
公園。噴水のようなものがある。
そこに一人、腰掛けていた。そばにはなにか、黒くて丸い生き物がたくさんいて、地面をつついているようにみえる。
羽村が立ち止まった。
男。派手な柄物のシャツを羽織っている。
「おだやかじゃないな」
男がゆっくりと立ち上がって、笑いながら言う。あまり背は高くない。三十代かそこら。自分よりは年上だと思う。
周りにいる丸い生き物は、鳥なのかもしれない。微妙にくちばしのようなものがある。それらが急に地面を滑るようにして走り出し、きれいな列をなして、路地の奥へ消えていった。
「お前、こんなところまでなにをしにきたんだ、五稜」
羽村が身構えた。
グレイが静かだな、と思った。瀬木根はグレイを無意識に取り込んで、一体化していた。この男を、恐れた。
「欲しいものがあって」
「なに?」
「もう手に入れたから、いい。あとはついでにお前の死体も」
五稜と呼ばれた男が、立ち上がる。
「冗談。いま、宮内と刺し違えるつもりで戦うなんてこと、するつもりはないよ」
男が笑い声をあげた。
男のそばの空間が、四角くゆがんだ。自分たちが使っていたものと同じ。それは扉だった。
「じゃあ、俺は帰るから。宮内によろしく言っといて」
男はそう言い残して、扉の向こうに消えた。完全に気配は消えていて、そこからもういなくなったのだと、瀬木根は認識した。
羽村の体からからすが出てきた。グレイも、瀬木根の体から離れた。
「危ねえ、死ぬところだったなあ、瀬木根」
「耳元でいきなり叫ぶなよ、グレイ」
瀬木根は、グレイの顔を手のひらで押しのけた。
「さっきのは死神じゃないよな、なんだあれ」
グレイが続ける。
「五稜。ほんの少し前までは、死神だった。いまは宮内さんと同じ、神」
羽村は辺りを見回した。
「なるほどね、少し前まで死神ね」
グレイが、納得したという感じで頷いた。
「死神が、神になるのか」
答えるかわりに羽村は肩を動かして、小さく息を吐いた。それから、スマートフォンを出す。
「もしもし、いま、五稜がいた」
相手の声は大きく、瀬木根も聞き取ることができるほどだった。相手の声は、かなり驚いているようだった。
しかも、街の中で暴れていた死神は、五稜の仲間らしき別の死神が、すでに殺したと言う。
しばらく、やり取りは続いた。
結局、自分たちのやることはなく、戻ることになった。
黙ったまま羽村は体を浮かせて、上空を目指す。渡部の扉のあった方向。
「ちょっと」
「戻ってから、説明する。多分、長くなる」
神になりたての男。
自分はまだ、死神になったばかりだ。
瀬木根は、そんなことを考えた。
話しかけても、無駄だと思った。
落ちるのは一瞬だったが、空を登るのには時間がかかる。
どうでもいいようなことを考えていたら、また青くて丸い空間についていた。
羽村が宮内のところに戻ると言うので、ついていこうとしたが、ここで待てと言われてしまった。羽村が出ていって、渡部と二人にされた。しかし、居心地が悪いとは思わなかった。
「あの、渡部さん、聞いてもいいですか」
目を開けたまま眠っているグレイを、瀬木根は片手で抱えていた。
こっちに来てから、聞いてばかりだなと思った。
「私がしっていることなら。ここにいるのも退屈ですから、散歩でもしませんか、瀬木根さん」
なにかに触れるように、渡部が手を動かす。すると、そこに扉が現れた。
「ここは安全です。扉は開いたままにしますから、問題ないですよ」
自分の言いたいことを察したように、渡部は言葉を足して、それから扉の中に体を入れた。渡部に続いて、瀬木根も扉をくぐった。
雲のない青空と足の長い草原が、視界いっぱいに広がる。そして、一本の道。それがずっと続いている。上下にうねっていて、果てはみえない。
「散歩ですから、歩きましょう」
そう言うので、グレイを抱えたまま瀬木根は歩いた。渡部の歩幅は自分が歩く半分ぐらいのもので、足の運びもひどく遅かった。
「死神って、神になれるんですか。むしろ、死神が神になるんですか」
「さあ、わからないですね。そういう難しいことは」
「渡部さんは、死神になってから、長いですか」
「長い。長いこと死神をやっている。それはまちがいないですね」
なぜか渡部は笑っていた。特におもしろいことを言ったつもりはない。渡部が言ったことも、おもしろいとは思わなかった。
「いや、私も死神になったときはそんなふうでした。死んで、死神になって、この世界で生きて、何度も危ない目にあって、本当に死んで、逃げて、ときどきは戦ったりもして、それから宮内さんに出会いました。そのときはまだ宮内さんは死神で、しばらくして神になりましたよ。まだ、神になったばかりの宮内さんをしっているのは私ぐらいでしょう」
「神になったばかりの?」
「そうですね」
「宮内さんも、じゃあ、元々は死神だったんですよね」
「そういうことになりますね」
「さっき、難しいことはわからないって言ったじゃないですか」
「そうですね。ただ、私は嘘はつきたくないんです」
「どういう意味です」
「死神が神になれるのか。絶対にそうなのか、私にはわかりませんから。ですが、死神として生きていた宮内さんが、神になったのは確かだと思います」
「ほとんど、同じ意味だと思いますが」
「すいません、瀬木根さん。どうも私は細かいことが気になる、偏屈な男なのですよ」
「じゃあ、どうやったら死神は神になれるんですか」
「それは宮内さんに聞いてください。もしくは羽村さんに。申し訳ない」
わざわざ渡部は立ちどまって、頭を下げた。なんだか悪い気がして、瀬木根もその場で頭を下げた。
坂を登り始めていた。とてもゆるい長い坂だ。それがずっと続いていて、空まで届いているように見える。
「こちらの世界にきて、文字を読んだことはありますか」
「文字ですか。はい、あります」
「死神になるまで、その文字は読めなかったし、しらなかったはずです。しかし、私も含めてあなたもその文字が読めた。まったく不思議だと思います。それと似ています。死神から神になるということは」
渡部が一度見上げてから、振り返った。扉は小さくみえた。それなりに歩いたらしい。扉は開いていて、そこに羽村の姿があった。
「実はこの世界、経つ時間がとても早く感じるという、特殊な世界なのです」
渡部は笑っていた。
「私はのんびり歩いて帰りますから、かまわずに先にいってください」
「あ、じいさん。おはよう。じゃあ飛ぶか、瀬木根」
腹のあたりで、ぐるりとグレイが動いた。
「失礼なことを言うな、グレイ」
「もうずっと、私はじいさんですよ、瀬木根さん」
手を伸ばしてグレイの頭を撫で、渡部は笑っていた。
瀬木根はグレイから能力を引き出して、空をはねるように走った。
扉。
坂の真ん中あたりにあったらしい。一度くだって、また登ぼりになっている。道は、一度も曲がることなく、反対と同じように、空まで伸びていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからないが、腹が減ったのは間違いない。
しばらく、空腹も感じなかった。
緊張していたのか。
しかし、冷静だった。
いや、冷静でいようとつとめていた。所詮、この体は天子の体で、生身といえば生身だ。
扉の前で降り立つと、グレイが口を開いて宮内のところにいきたいと言った。
「宮内さんには会えない」
「じゃあ、しばらくなにも食べてないから、なにか食べるものをもらえないか?」
「はい、これ」
紙幣だった。かなり厚い束をポケットから出し、無造作に羽村は渡してきた。
「街の中で使えるから、自分の食事はこれでなんとかして」
「どこで、眠ったらいいんだ?」
「ああ、えっと。スマートフォンがあれば、この世界以外にいてもいいけど、いまはないから、街の中にいて。宿は任せるから」
「任せるって言ったって」
「私、やることがあるから。いまちょっと色々忙しくて、あんたにかまってる場合じゃないの」
ずいぶん急だな。そう思った。建物を一緒に出た。羽村は、空を飛んでどこかへいってしまった。
「せっかちだなあ」
ふわふわと空を漂いながら、グレイは見上げていた。そうだなあ、と思わず瀬木根も呟いた。
改めて、おかしなことになったなと感じた。
ただ一つだけ、変わらない部分もある。
自分は春木を殺したという自覚だ。
でも、この世界では自分は死神だ。
死神が死神を殺した。
それだけのこと。
長くここにいたら、自分もそれだけを思うようになってしまうのだろうか。
もしくは、それすら思わないのかもしれない。
少なくとも人を殺したという認識が消えないうちは、自分はまだ人だ。人としてここにいる。
重たいなにかが、自分の体の中にある。
「なあ、この街ってなんかこう、うまいものとかあんの?」
「しらないよ、まだ」
「グレイはこんなに堂々としても、大丈夫なのかなあ」
「そうだな、お前は大丈夫だ、グレイ。お前はどうせ、死なないんだろ」
まともに会話をするのが、面倒だった。
瀬木根は、街の中心を目指して歩いた。天子の数は多い。
みんな、抱えているグレイを横目でみて、通りすぎていく。しかし、話しかけてくる天子はいない。子どもの天子も近づいてきて、興味は示しているようだが、やはり声はかけてこない。
食欲を刺激する匂いが、漂っている。
前にいたあの街では、毛が真っ白な牛の肉がよく食べられてた。肉自体は赤く、油は少なかったが、しっかりとした味がした。山の近くにはたくさん牧場があった。
「グレイ、肉だぞ」
「肉か、久しぶりだな」
煙の向こうに、飯屋がみえる。
「そういえば瀬木根、煙草、吸わないな」
「煙草?」
「匂いが全然しない」
「そうだな」
グレイに言われて、瀬木根は気がついた。春木は吸わなかったんだろうな、と瀬木根は思った。




