六 世界
六
瀬木根は、グレイと一体化した。
熱さは感じないが体は炎をまとった。
死んだ死神の能力。つまり春木の能力だった。
先に、向こうが動いた。どんな能力があるのか。
そもそもこいつが本体ではない可能性もある。
瀬木根は春木がやっていたことと同じことをやった。
グレイの分身がいくつか現れて火の玉になって飛んでいった。春木は斧を持った男を出したが、真似をしてもなぜかグレイの形にしかならない。
訓練が必要なのかもしれないが、これでも十分な力だと瀬木根は思った。
神の姿をしたそれはそれなりの速さだった。
かわされた。
しかし、瀬木根はすでに回り込んでいる。
赤羽の能力。
それで上から斬った。感触はあるが、殺したとは思わなかった。
これを操っているやつがいると、瀬木根は思った。
斬ったそれは煙のように消えた。
瀬木根は能力を解き、暗い川辺を見回した。気配を消しているらしい。早熊と同じ能力か、それに近いものだろう。しかし、完全に消しきれてはいない。
「出てこい」
大きな声で、瀬木根は言った。
すると、また前から気配が近づいてきた。
女。
痩せていて、髪が長い、目の大きな女だった。
スーツを着ている。
身長はそれなりに高いが、子供なのか大人なのか、顔をみただけではわからない。だが、この女は死神だ。
瀬木根は面食らっていた。
死神は男。無意識にそう思い込んでいた。
「あんたのその能力、春木さんから奪ったものでしょ?」
思ったより、低い声でその女は言った。近寄ってくる。
「グレイ、こいつが本当に死神なのかどうか、わかるか?」
瀬木根の鼓動は、早くなっている。手には汗を握っていた。
「直接、聞けばいいじゃんか」
グレイはぶっきらぼうに、そう返してきた。
女は、こちらの様子を伺っている。
「そうだ、これはあの炎の男から奪った。戦って、俺があの男を殺した」
はっきりと、大きな声で瀬木根は返した。
「なんで?」
女には表情はなく感情が読めない。
瀬木根は返事に困った。
「なんでって」
「いや、いいよ。あんたも、死んだら終わりだもんね」
からす。
女の体から不意に現れた。
やっぱり、からすだ。
ごみ捨て場や電線の上にいる、黒いやつだ。
「死神って、なんのために存在するんだ?」
いきなり、瀬木根はそんなことを口走った。
自分でも瀬木根は驚いた。吐き出したかった言葉がそのまま出てしまった。
「あんた、死んだばっかりなの?」
女の声が、荒々しいものに変わった。
瀬木根はただ頷いた。
「神って、何人いるんだ」
「ねえ、質問に質問に返すの? わかってるの、意味」
「わかったよ。それで」
「何人かなんて、しらない。でもあんたのところの神は、死んだよ」
「お前がやったのか」
「そうだけど」
なにかを目の前の女から、瀬木根は感じた。
得体のしれないもの。そういうものに触れた。
多分、勝てない。いまになって理解した。
この女には、勝てない。
瀬木根は身構える気にはなぜかなれなかった。恐怖がないわけではない。
「あんたのこと、殺しにきたわけじゃない。交渉しにきただけ。こっちの傘下に入って働くか、ここで死ぬか。あんた、あと一回で終わりでしょ。春木さんから聞いて、わかってるよ」
春木、とこの女は言ったのか。
「やっちまえ、瀬木根。グレイが」
「黙ってろ、グレイ」
手のひらで、グレイの顔をおさえた。
「そっちの仲間になれば、俺は死なないのか」
「いまのところはね」
「俺の仲間は、どうなった」
「弱い死神はいらないから、しらない。逃げたんじゃないの。天子の世界で仲よくやっていくなら、それでいいでしょ」
「なあ、俺たちはいままで、変なビルに閉じ込められて、こっちにくるときは、天子の体を乗っ取ってた。あんたらもいまそうやって、ログインしてるのか」
女が眉間にしわを寄せる。
「ログイン? なにそれ」
女がちょっと、首をひねった。
「死んで二回目以降、天子の体を借りてることを、言ってるの? とりあえず、戻るから、移動しながらでいい?」
話そうとしたとき、女が先に言った。
そして、女は空に浮いた。
「それなりの移動系統の能力があるんでしょ。早く」
「いや、ちょっと」
女は待つこともせず、背中を向けて移動し始める。
瀬木根はグレイから、法則を無視する能力を引き出した。
しばらく、使っていない能力だったので、勝手を忘れている。当たり前に自分の足で歩いていた。
やっと、瀬木根は体を浮かせた。それから、女を追った。
すぐに追いついて、横に並ぶ。完全に空を飛ぶのは、本当に久しぶりだ。多分、走る速度より遅いが、これが限界だ。
「ねえ、あんたさ。私に殺されるかもしれないとか、考えないの?」
「春木さんの仲間だろ、お前。殺されてもしょうがない」
「殺さないよ、私は。これからうちの神さまのところに連れていくから、それまでにさっきのログインがどうとかいう話、全部説明して。まず、ログインってなに」
風の音がする。
その中で、ちょっと大きな声を出しながら、瀬木根は自分たちがなにをしてきたのかを、喋り続けた。
隣街を越えたのか。建物が少なくなる。
少なくとも、あのとき春木たちがいると思ったのは、隣街の煙草屋だった。
「多分それ、あんたらのところの神が持ってた、空間をねじ曲げる能力だよ」
女が、表情も変えずに言う。
「こっちにも昔、そういう能力持ってる死神いたもん、死んだけど。あとは複数の能力の組み合わせで、全部説明できるね。移動系統の能力。
ビルの中が極端に時間が遅くなるのも、能力。みえる景色も、もしかしたら、作られたものかもしれない。あんたの言うログインなんてのは存在しないよ。
私たちは、二回目以降は天子の体をもらって、その体をそのまま自分の体として使わせてもらうんだよ。で、そのログインっていうのは、ビルの中から、自分の分身みたいのを飛ばして動かしてたんでしょ」
「だから四回以上死んでるのに、俺は生きてるのか。でも少なくとも、どこかで三回は死んだのか。じゃあ、記憶をねじ曲げる能力は?」
「記憶? それは聞いたことない」
「どういう人間が、死んだあとで死神になるんだ?」
「さあ」
グレイは、瀬木根に頭をわしづかみにされた状態で、目を開けたまま眠っている。
二人とも、しばらく喋らなかった。
着いた、と女は言った。
それから、羽村と名乗った。
瀬木根も、そこでやっと名乗った。
隣り街のその向こう。それぐらいしか離れていない。
ただ、街並みは違う。建物が高い。
ビルとまではいかないが、四、五階はある建物がたくさん並んでいる。
そして、いろんな音が聞こえてくる。
天子で、あふれている。
それらすべてに、瀬木根は驚いた。
「二人喰った死神なんだから、それなりなんだね、瀬木根。話した感じだと、弱そうだけど。ごくまれに、喰らった死神の記憶がさ、残ったりするんだよね。なんか、覚えてる?」
地上に降りて街を歩く。なんでもない会話のように、羽村は言った。
「いや、なにも」
瀬木根は、抱いていたグレイの頭を小さく叩いて、起こした。
「グレイ、ついたぞ」
グレイは自分で浮き上がって、歓声をあげながら、飛びまわった。
「この街の死神の数は、多い方だと思う。あんたらのところ、いわゆる弱小チームだったから、そういう情報もなんにもないんでしょ?」
「そうだな。死神が天子の体を使う。それはなにも変わらないよな?」
「それは変わらない」
「俺は、あと一回で本当に死ぬんだな」
「本当に四回死んでたら、あんたはここにはいない」
本当はわけがわからなくなっていたが、瀬木根はなにも言い返せない。
なにしろ、何度も何度も死んだのに、死んでいないと、死神に言われているのだ。
「死んでから、長いのか、あんたは。俺より大分若くみえるけど」
「長いよ」
羽村は、突き放すような言い方をした。それから、歩き始めた。
大きな通りだった。
周りの天子たちは、遠巻きにこちらをみている。
警察みたいなもの。そういう扱いはこっちの街でも同じらしい。
「グレイ、いくぞ」
「おう」
「ていうか、あんたの相棒、なんで普通に喋るの。能力?」
羽村は、顔の近くまでやってきたグレイに触れた。
グレイは気にする様子はなく、周りの景色をみている。
「いや、こいつは最初からこんな感じで、俺の以外は、喋らない。能力かって言われたら、そうなのかもしれない」
「変なの。それ以外の、最初に持ってた能力ってなに?」
「全部が中途半端で、飛んだり、ちょっと早く動いたり、欲しい武器を作ったりとか。統一された能力じゃない」
「へえ、聞いたことないな。本当にそれが自分の能力?」
「全部が、中途半端な能力」
グレイが、からかうような目つきで羽村をみて、言った。
「そうなんだ」
羽村がグレイの方をみてそう答えたが、瀬木根にも正確な部分はわからなかった。
それでも、戦ってきた。
戦うのには、十分使える能力だった。
死神の能力を奪う。
それはどの死神でもできる。
相棒に、死んだ死神を喰らわせるだけだ。
羽村がどれだけの死神の能力を奪ってきたのか、具体的にはわからない。だが、いくつかの能力を持っているのはまちがいない。
「この天子たちの世界の成り立ちとかさ、多分、うちの神さまに聞いたって、完璧にはわからないと思うよ。これから、会ってもらうけど」
「俺らは、もう一つ別の世界があって、そこからログインしてると思ってたよ。それがまだ、体に感覚として残ってる」
「なるほどね、そんなふうに考えたほうが、殺し合うときも、現実じゃないから楽だもんね。でも、能力と口車で騙されてた。それだけだよ」
現実、という言葉に、瀬木根は不意に胸を打たれた。
「現実ね」
「まだ受け入れられないの、あんた。死んで死神になってこの世界で生きてる。新しい規則とか事情に縛られてね。それ以外には、なにもない」
言葉にすれば、羽村の言う通りだ。
ああ、そうかなのか。
まだ、逃げたいらしい。
瀬木根は下を向いた。さらに街を歩き進む。
「死神を殺したのって、春木さんが初めてなの?」
「そうだよ、瀬木根はいままで、戦ったことはあったけど、本当の殺しまではしなかったから。それで、元気がない」
「そうなんだ、グレイちゃん。それじゃあ、無理もないね」
グレイが答えた。
二人は、明るい声でそんな話を続けていた。
グレイは急に饒舌になって、いままで、どういう行動をしてきたかを羽村に語った。
グレイの言っていることは、大抵、誇張されていたが、面倒だったので訂正しなかった。わざわざ、口を挟むほどのことでもないと思った。
背の高い建物が続く。
影の中ばかりを歩くので、時々、横から強烈な日差しを食らった。
羽村がまた、ついたと言った。
他の建物と変わらない。見上げて数えたが、四階建てだった。
木造。中はみえない。
羽村が古い戸を横に動かすが、中は真っ暗だった。
先にどうぞ、と言われ、瀬木根は暗闇に踏み込んだ。違う場所だった。予想はしていたので驚きはしなかった。しかし、自分たちのものと勝手は違う。
目を覚まして、白い部屋。いままではそうだった。
いまは踏み込んだその先にまた別の場所があるだけだ。グレイもそこにいる。
茶色い。ものすごく広い、昔の家のようだ。そして家具の類が一つもなく、遠くに誰かがいた。背中を向けて横になって、唯一あるテレビをみている。
「これさ、ユーチューブなんだよね。スマホとつなげてる。すごくね?」
男の声だった。テレビを指差してそう言った。
瀬木根は自ら、歩み寄った。
寝そべっている男の前に瀬木根は立つ。
男が体を起こして、こちらを向いた。
「俺、神だから」
若い。二十代前半か、十代の痩せた男だった。目の彫りが少し深く、鼻が高い。
「よろしく」
男は胡座をかいた状態で、手を伸ばしてきた。瀬木根はその手を握った。
「今日から、この国で働いてくれるか」
男は続ける。瀬木根は、手を握ったまま男を見続ける。
「名前は?」
「瀬木根です」
「羽村が潰したところの死神だろ。恨んでるか、俺らのこと」
「いえ。俺も春木さんを」
「ああ、お前だったのか」
握られていた手が少し動いた。それでも、瀬木根は男の目をみたままでいた。
「別に、俺らも恨んでないよ。ていうかお前、あと一回か。失敗だったな。春木には先に神を殺せって、言ってたはずなんだけどな」
男は瀬木根の手を離して、立ったままでいた羽村をみた。
「俺、宮内って名前で通してるから、そう呼んで、瀬木根」
羽村から視線を戻して、宮内は言った。
「わかりました」
神にもいろんな神がいるんだな、と瀬木根は思った。
「質問とかあれば、どうぞ。俺でわかる範囲なら、なんでも答えるよ。まあ、歴も浅いらしいみたいだし、座りなよ。なんか食う?」
「バナナ」
グレイが少し前に出て、いきなりそう言った。
「え、お前の相棒、喋んの?」
「初めまして。グレイです。瀬木根の相棒こと、死神の鎌です。よろしくおねがいします、神さま」
グレイは瀬木根の足元にうずくまり、頭を下げるような仕草をした。
「どんな能力だよ、瀬木根。初めてみるんだけど」
「そうなんですか」
答えながら、瀬木根は後ろをみた。羽村はいなくなっていた。
「いや、気にしなくていいよ、で、バナナね」
宮内は手のひらを床に当てるようにした。
するとそこにバナナの房が現れた。
グレイが歓声をあげた。
匂いをかんでいる。もう一度、手をかざすと座蒲団が二つ出た。どうぞ、と宮内が言った。
グレイが座布団に飛び乗ったので、頭を掴んでバナナと一緒にどけてから、瀬木根は腰をおろした。
「こんな感じで俺はなんでも用意できる。好きな食べ物を言って。俺は勝手に食うから。カレーとかもおいしいよ?」
「いまは大丈夫なので、アイスコーヒーで」
「あ、そう。はい」
本当に、グラスに入ったアイスコーヒーが出てきた。しかも、膳みたいなものまである。グラスの横にはガムシロップと、ミルク、そして灰皿まで出てきた。
さすがに瀬木根も驚いた。
それでも落ちつこうとして、グラスに手を伸ばして、傾けた。
濃い。
喫茶店のものという感じだった。
コーヒーは、詳しくなかったが、うまいのはまちがいない。
「ちょっと前まで敵だったやつらの陣地に入って、よくそんなに落ちついてコーヒーなんて飲めるよな、お前」
急に、宮内は笑い出した。
どういう味なのかを考えていた自分が、急に瀬木根は恥ずかしくなった。
それから宮内の言葉の抑揚が、不自然なものだと気がついた。
どこかの地方の訛りという感じがある。少なくとも、西ではないと思う。
宮内の目の前にも膳が現れた。
そこにはパフェのようなものが、いくつかのっていた。
「しばらく、街に慣れろ、瀬木根。お前のいたところはちょっと環境がおかしかったんだ。本当の世界をしっておけ。あと、一回の命だけどな」
「死神とか天子って、なんなんですか」
「パソコンとか使ってた?」
「え、はい、人並みには」
「タブってわかるよな。インターネットを使うときに、もう一つ、見たいページを出すやつ」
「はい」
「あれだよ、あれ。昔、生きてた世界とここは、隣り合わせ。多分そんな感じ。俺も本当はしらない。そう思っとけ。そんだけ」
「そういうことだ、瀬木根。お前の思ってる理屈なんて、ここでは通用しないのだ」
グレイが、皮もむかずにバナナをかじりながら言った。しかも、横からかじっている。
「言葉は悪いけどな、俺もそんな感じで言おうと思ってた」
「あの、正太郎って、誰かわかりますか、宮内さん」
「いや、誰だそれ。しらないな」
「そうですか」
本当かどうかは、しらない。
だが、これ以上聞いても、無意味だと瀬木根は思った。
むしろ、春木を食ったグレイの方が、詳しくしっている可能性があった。
「てきとうにさ、羽村がここの仕組みを説明してくれるから、焦るな。仕事はまだないから、のんびりしろよ」
そう言われたが、瀬木根は落ちつかない。
「あ、戻ってきた。羽村、瀬木根を連れていけ。体が鈍ってるなら、鍛えてやれ。殺すなよ」
羽村がこっちに向かって、歩いてきていた。
「わかりました」
抑揚のない声で、羽村は答える。
グレイは、しらない間にバナナの房をすべてたいらげていた。茎のような部分だけが、そこに残されていた。
「よし」
そう言って、グレイは羽村の方に飛んでいく。
瀬木根は急いでコーヒーを飲み干し、宮内に頭を下げて、グレイを追いかけた。
広間を出るとまたすぐに街に戻っていた。急に、音が増えた気がする。
「一回、腕をみせてよ。戦う相手を用意してあげるから」
「久しぶりに、グレイの出番だなあ」
グレイが、楽しそうにそう言った。
さらに街の奥へ進む。
仕方なく、瀬木根はグレイを頭の上に乗せて歩いた。
腹が苦しくて、飛べないとグレイは言うのだった。
周りの天子たちはこっちをみて、口をおさえて笑っていた。
恥ずかしいから降りろと言っても、グレイは高い場所がいいと言い張り、動かなかった。
俺は、どうしたらいいのか。
一番それを聞きたい春木はもういない。
「あんたらって、あの街から出たことあるの」
「隣りの街までなら」
「へえ。ある意味、洗脳だね」
「そうかもしれない」
「多分、しらないことばっかりだと思うけど、いちいち驚かないでね」
「そういうことで、うるさいのは、こいつだよ」
見上げながら、瀬木根は言う。グレイはまた、目を閉じたまま、眠っている。
「ここの建物を通ると、ずっと遠くの街に移動できる。死神だけが使える、うちの死神の能力」
「そいつも含めて、他の死神たちはいつもどこにいるんだ?」
「ほとんどが自分たちの街で、生活してるかな。そもそも、この街にきたのも、最近。へき地だからね」
「この世界の、地図って存在するのか」
「あるんじゃないの、ここにはないけど」
どうでもいいことだと羽村に言われた気がして、瀬木根はそれ以上、聞かなかった。
現れたのは、また、普通の建物だった。
しかも、大きな通りに面していて、扉の前を平然と天子が通っていく。
羽村が扉を開けて闇の中に消えた。
グレイを連れて瀬木根も続いた。
また違う場所。せまい。地下鉄のホームのようだった。
「普通だよ、地下鉄なんて。ここはもう使われてない、古い駅だけど。スマートフォンだってあるんだよ」
「おんなじ世界だよな?」
「死神は移動できるけど、天子は移動できないから、おんなじ世界ではないんじゃないの」
少し、感覚がおかしい。いや、ここがおかしいだけだ。天井が高い。そして、階段や、すべてのものが大きいのだった。
羽村は、黙って階段の方へ向かう。止まったままのエスカレーターと階段。歩きにくい。階段一つが、三歩半ぐらいある。
「懐かしいな、ここ。昔いたな、こっちに」
「うそだろ」
「ああ、でもグレイじゃないかな。これ、春木の記憶だった。まちがえた」
「なんの話?」
瀬木根は、しくじったと思った。だがグレイが言ったのだから、どうしようもない。
「春木さんの記憶って?」
ふわふわと浮かんでいるグレイを、羽村は強い視線で見上げた。
グレイが喋っている。
もう手遅れと思いながら、瀬木根は見上げていた。
すべてが巨大だった。空はせまい。周りの建物は、高くても四か、五階だ。それでも、せまってくるような圧迫感がある。
ふざけた表情で、まだグレイは喋っている。
「なんで、言わなかったの?」
「言えないだろ。俺だって、全部をしってるわけじゃない。春木さんのことを、勝手に喋るのもおかしい」
瀬木根がそう言うと、羽村は目線をそらした。
「正太郎。春木さんの本当の子どもでは、ないんだね」
少し、間があった。
「血は繋がってないと思う」
二人の会話は、そこで途切れた。
羽村の表情はなにも変わらない。
「ここって、どういう場所なんだ」
「天子たちが、みんな大きいのが特徴かな」
「別世界だ」
「そういう感覚もしばらくしたら、なくなるよ」
地図はきっと売ってないだろうな、どこにも。
転がっている石が自分の頭より大きくて、それがいくつもある。
自分の目で確かめた方が、わかりやすいな、ここまで無茶苦茶なら。
無理に話を変えた。
だがそれ以上、羽村は春木の記憶についてなにも聞いてこなかった。
二人がどういう関係だったのかは、自分の想像でしかない。
しかし春木の記憶の中に、羽村に関する事柄は一つもなかったように思う。
そういうことに、自分はうとい。
「こっちには天子以外にも色々いるからそれと戦ってみて。もう一回、移動するけど」
一度、近くの建物の中に入った。それから、部屋の扉を開けると、また違う場所に出た。
「地獄まではいかないけど、大分、荒れてる場所かも」
暗い場所。湿った平地。そんなところに出た。
天子以外の色々というのは、なんだろう。
「一回、扉は閉めるから」
両手で、羽村は扉を押した。すると、扉は消えた。
気配が確かにあり、遠くから近づいてくる。
一つの気配。それが、目でわかるようになった。
名前はしらない。しかし、無性に腹が立った。
赤羽の姿をした、なにかが前から歩いてくる。
赤羽ではないことは、わかる。死神ではない。
ただ、これと戦えということなのだろう。
無垢な殺意。それが自分に向けられている。
「グレイ。燃やすから、火をよこせ」
グレイに触れて、瀬木根は炎をまとった。
火。
軽く、避けられた。
瀬木根と同じようにそれは空を駆けた。空中で舞うような動きをしている。こっちに向かってくる。
そいつの口が裂けるように、大きく広がった。
瀬木根は手のひらを向けた。
迎え撃つ。手を伸ばさずとも、触れられる距離。
「ぶっ放せ」
一体化しているにも関わらず、体の中で、グレイが叫んだ。
その距離で、炎を放つ。
「久しぶりだから、気持ちいいな、瀬木根」
「お前な、グレイ」
言いかけて、瀬木根はやめた。
グレイに、そういう感情は通用しない。
時々、ひどく残酷なことをこうやって平気で言ったり、したりする。
姿は赤羽そのものだった。なにも思わないわけがない。
立ち上がったそれは、春木になっていた。
思わず、羽村の方を見た。
「出たな、春木。もう一回グレイが、燃やし尽くしてやるぜ」
羽村はなにも言わず、瀬木根をみていた。
前を向き直る。春木の姿をしたそれは、炎をまとっていた。
あのとき、河原で戦った感覚がよぎった。
瀬木根は駆けた。羽村から離れたかった。
「グレイ、全部もらうぞ」
能力のすべてを引き出した。飛ぶ。うしろから、ついてきている。
空中で止まって、向き合う。
剣を瀬木根は出した。飛ぶ。馳せて、斬り上げた。
きれいに二つに割れて、それは落下した。
瀬木根も、地面に降り立った。
またくっつき始める。
自分の姿になった。
一番、戦いやすい。そう思った。弱点だらけの存在だ。
二つの炎と、剣。同じ姿勢で、走り出して、ぶつかった。
「押せ押せ、瀬木根」
体の中で叫んで暴れまわっているグレイを無視して、瀬木根は一瞬、体の力を抜いて、剣を凪いだ。押しても、同じ力だ。
聞いたことはあるが、まだ聞き慣れない音がした。
再び、剣同士がぶつかった。力の大きさが同じだけだ。
二回、三回。四回目で、瀬木根は横に回り込んだ。
左から来た剣を、払った。そのまま、斬り上げる。
それで終わった。春木の炎を使うこともなかった。斬られた塊は、土のように、色を変えた。崩れるような感じで、姿も変わった。
「終わったぞ」
「なんか、簡単すぎたかな?」
屈託なく、羽村は笑っている。
楽だとは思わないが、死ぬかもしれないとも思わなかった。初めて羽村に会ったときの方が、肌がひりついた。
「私自身が相手したら、殺しちゃうと思うし、宮内さんにも、止められてるからな」
「勝負だ、羽村」
グレイが瀬木根から離れて、そう言った。
「いまからやったら、もう死んでるよ、ほら」
小さなペン。それが瀬木根の喉元に当てられていた。
羽村の近くに、からすが現れた。
「それずるいじゃん」
「ずるくないよ、はい、私の勝ち」
刃を突きつけられながら、グレイと羽村のふざけたやり取りを、瀬木根は真顔で見ていた。
「殺すわけない」
笑って羽村は、腕を下ろした。
「合格って、宮内さんにもあとで言っておくから。じゃあ、別の場所にいく」
扉が出てきて、羽村はそれをくぐった。瀬木根も続く。さっきの街。
閉めて、と言われた。
扉に手をのばすと、遠くになにかを感じた。
自分が気づいているなら、羽村も気づいているはずだ。そう思い、瀬木根は扉を完全に閉めた。




