三十 猫 四
三十
葎は、とにかく早足にならないこと、そして、早口にならないことだけを考えた。ただ時々、氷生と目が合うと、それも頭からどこかへいってしまう。
工場は、加工もすべて終わった状態の品物を、袋に詰める作業と、それをもう少し大きな箱に詰める作業の二つだけが行われている。
品物は、電気を使う機械の部品であることまではわかる。
葎がなにかを説明するたび、氷生は目を輝かせてきく。それがたまらなく嬉しいのだが、葎はそれがあたりまえの、なにも面白みのない話だという態度をとった。それでも氷生は笑ってその不自然な無表情を、笑ってみていた。
葎は、市場をみせようかと思った。だが、氷生だってここに住んでいて、毎日買い物をしているのだから、そんなものは見慣れてしまっているだろうと思いなおし、引き返した。
部屋に戻ると、父は自分が部屋を出ていく前と、同じ姿をしていた。ソファーに寝転んで、目を閉じているのである。
「お父さんね、なんか、熱が出ちゃって」
机の方の椅子に座って、パソコンの画面をみていた町谷が笑った。
「これがパソコンか、葎。お父さんは、そのパソコンの中に、地獄をみたぞ」
父は目を閉じたまま、そう呟く。
「地獄じゃなくて、エクセルだよ。なにを大げさなこと、言ってるの。こんなの、そこまで難しくないでしょ」
「じゃあ、お前は悪魔だ、葎」
「天子だよ、めんどくさいこと言ってないで、早く覚えなよ」
葎は、入口でぼんやり立っていた氷生の前に、折りたたみ式の椅子を広げた。
遠慮がちに、氷生は腰をおろす。座ると、なおさら氷生は小さくみえた。
「毎日、こつこつとやっていけば、問題ないですよ」
「そうですか」
「まあ、お父さんはなんだかんだ言って、しっかりノートも用意して、吸収しようとしてますから、大丈夫ですよ、葎くん」
葎は、父の手の小指側が、青黒くくすんでいることに気がついた。文字を書いたとき、乾ききっていないインクの上をこすった証拠だ。
「じゃあ、また明日。お父さん」
町谷が立ち上がる。
「はい」
力なく、父は体を起こして、頭を下げた。
氷生が、葎に手を振った。一瞬だけ、手が動きかけたが、葎は頭をただ下げた。見送りに出ようかとも思った。だが、普段はそんなことはしない。閉まる扉の向こうに、二人は消えた。
葎は父の横に座って、背もたれに体重をあずけた。
「あの氷生って子は、お前と同い年なんじゃないか?」
「さあね。死神なんだから、そういう年みたいな概念なんて、あるのかな」
「概念なんて、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ?」
「本だよ」
「本か」
父も、葎と同じように体をうしろに倒して、足を伸ばした。
「そういえば、言ってなかったかもしれないけど、町谷さんたちは、あの建物の最上階に住んでるからな。氷生ちゃんとはお前、初対面だったみたいだけど」
「嘘だ」
思わず、葎は声を大きくして、体を起こした。
「嘘だって言われても。お父さんも氷生ちゃんをみたのは初めてだったけど、町谷さんと一緒に住んでるって、さっき聞いたぞ」
「どうしよう」
「どうもしないよ、毎日会おうと思えば、会えるんだから、よかっただろ」
父は天井を見上げ、半分眠っているのか、独り言のような感じで喋っている。
「そうだね」
しばらくして、父と同じような格好で、放心しながら葎は呟いた。




