十八 兄弟 三
十八
なにか特別なものがあるというわけではなかった。千石はエレベーターの前で立ち止まり、下を向いた矢印が描かれたボタンを押した。
「お前の服は、あとで新しいものを用意する。穴だらけのうえに、血がこびりついていたので処分した」
「そうですか、色々ご面倒をかけてしまってすいません」
音が鳴って、扉が開いた。上をみると、数字は十五を表示していた。乗り込むと、千石は二十と書かれたボタンを押した。
「ここに五稜さんがいるわけではないが、お前も氷生も特別なはからいをしろと言われているから、この建物の中にいることができると頭に入れておけ。おかしなことは考えるな」
「そうだぞ、瀬木根。おとなしくしてろよ」
グレイが相槌を打ったが、瀬木根は黙っていた。
血がこびりついていた、と千石は言った。死んだ死神の血は、そこに残らない。つまり、服についていたのは自分の血ということだ。
グレイは氷生に、どう説明をしたのだろうか。まだ、なにも話していないのか。
「氷生、だったな。あの子どもの親がわりをしていた死神が亡くなったそうだな?」
前をみたまま、千石は言う。
「そうです。吉光さんといいます。死ぬ直前に自分の体を食えと言われたので、グレイが吉光さんを喰らいました」
「ほう。食えと言われたから、喰らったか」
「はい」
千石の顔はみえない。しかし、口元だけで笑ったように思えた。
目的の階につき、エレベーターから出ると、同じように左手の窓に沿って通路があり、それがずっと向こうまで続いている。
右手の壁には、扉の類が一つもない。ビルの作りとしては不自然だ。巨大なマンション、もしくはホテルのような感じがする。
前を歩く千石についていくが、やはり右側に扉は現れない。もしかすると部屋はあるが、扉だけがないのではないかと瀬木根が思ったとき、千石が止まり、ここだと言った。
そして断りもせず、移動系統の能力を使い、壁を抜けた。瀬木根もグレイと一体化して、壁に手を伸ばす。なにも触れてこない。
先ほどと同じように、一歩で壁を抜ける。
小さな部屋。同じように白くて、窓が一つもなく、蛍光灯だけが部屋を照らしている状態だ。
簡素な木製の机と椅子が、それぞれ一つだけある。煙草の匂いは、特にしない。
「服より食事だろう、瀬木根。ここに座って、少し待て。いま、食事を運ばせているところだ」
千石が椅子をひき、瀬木根は言われたまま、腰を下ろした。グレイは机の上に体を乗せた。千石は、少し離れた場所で壁に体重を預け、腕を組み、動かなくなった。
音がまったくしないので、自分の呼吸がよくわかる。
瀬木根は食事なんかより、いつ氷生の無事を確かめることができるのかと思った。
壁が不意に動いて、扉の形に浮き上がり、消えた。氷生と、しらない男がそこにいた。
「お連れしました」
男が言う。
「瀬木根さん、なにその服。変なの。パジャマ?」
氷生はそう言って笑いながら、瀬木根に向かって走り寄ってきた。
「氷生」
声と、それ以外のなにか。瀬木根の胸の奥から、こみ上げた。無意識に立ち上がり、瀬木根は氷生を抱きしめていた。氷生も腕を伸ばしてきた。
「千石さんとグレイちゃんから、聞いたよ。おじいちゃんが、死んだんでしょ?」
抱きついたままで、氷生が言った。優しい口調だったが、自分に心配をかけまいという氷生の気持ちも、瀬木根には伝わった。残酷だったが、もう事実を変えることはできない。
嘘をつくつもりはなかったが、瀬木根は返事をできなかった。ただ、抱きしめていた。
しばらくしてから瀬木根は体を離し、氷生をみた。氷生は目尻に細かなしわを作って、笑っていた。そして、大丈夫、と一言だけ続けた。
「あのな。あのな、瀬木根。氷生には一応、グレイが死神の相棒として吉光の体を喰らったことまでは、説明したからな」
グレイが、ぼそぼそと小さな声でこぼした。
「うん。瀬木根さんの中にいるんでしょ、おじいちゃん」
氷生の声は、明るい。
氷生は、きっとある程度のことを覚えている。いま、氷生がこうして笑っているのは、助けた自分に気を使っているからだ。吐き出したいことをすべて胸の奥に抑え込んで、きっと氷生はここにいる。
瀬木根は、言葉を探した。
「千石さん、食事が届きました」
部屋の外に立っていた男が、廊下の方をみていた。
「瀬木根さんはまず、食事でしょ。二日も寝てたんだから、ちゃんと食べて」
氷生が瀬木根を立ち上がらせ、それから背中を押して、椅子に座らせようとする。
「一応、水や食事は、口から流し込んではいたぞ。出るものの処理もな」
「え?」
「いや、待て。私がやっていたわけではないぞ。お前の世話は、係りの死神がやったからな」
焦った表情で千石は続ける。
「いや、出るものって」
「二日も眠っていたら、出るものは出るだろ? そのまま垂れ流しておくわけにもいかないだろ」
「ちょっと千石さん、いまから瀬木根さんはご飯なんだよ」
氷生が歯をみせて笑う。
一瞬、羽村かと、瀬木根は思った。
黒いスーツを着た背の高い女が、台車のようなものを押しながら部屋に入ってきた。体の線が細い。童顔で唇が厚く、長い前髪を左右の耳にしっかりとかけている。
「こいつは町谷だ。五稜さんに言われて、お前の世話をしていた死神だ」
壁に背中をつけたまま、千石は指をさす。
「町谷といいます。一応、はじめましてですね、瀬木根さん」
輪郭のはっきりした声でそう言い、町谷は深く頭を下げた。
「こいつは元々そういう仕事をやっていたから、お前の裸をみてもなにも思わない。気にするな」
「そうです、そうです。色々見慣れているので、気にしないでください」
「そう言われても」
「瀬木根、耳が赤くなってるぞ」
グレイが顔の近くに飛んできて、からかう。
「お前な、そりゃ恥ずかしいに決まってるだろう」
机の上で、グレイはふざけてくるりと回った。
町谷が、台から皿を机に移しはじめる。パンと肉や野菜などで、机はみえなくなった。
瀬木根は、入り口のところに動くものをみつけた。顔だった。
「町谷の相棒だ」
千石が言うと、それがゆっくりと部屋の中へ入ってきた。どうみても虎だった。四つ足で歩いてくる。死神の相棒にしては大きい。いや、氷生の竜と比べたら、かわいい方か。
虎はゆっくりと歩いてきて、町谷の足の辺りに顔をこすりつけた。
「これ、急に襲ってきたりしないですよね」
「大丈夫ですよ」
竜や巨大な海牛をみても怖いとは思わなかったが、虎はなにかが違う。いきなり噛みついてくるのではないかと、不安になるのだ。
氷生は慣れた感じで、虎に触りはじめる。瀬木根はそれをみながら、口に並べられた料理を運んだ。
いまになって若干の空腹を感じはじめた。うまいのかよくわからないが、とにかく口に入れて飲み下した。
五人が入るには、部屋は少しせまい。しかも、机をはさんで虎がこちらを見上げているからか、どうも食べにくい。さらに言えば、自分の下の世話をした女がすぐそばにいるのも、気にかかる。
「どうした瀬木根、グレイが手伝ってやろうか?」
虎がグレイを頭に乗せて近寄り、机に前足をかけて体を起こす。低い声で鳴いている。
「あの」
瀬木根は千石の方をみた。
「それは気がつかなかった、すまない」
千石はそう言って、男と二人で部屋を出た。壁も、瞬間的に元に戻した。部屋には自分と氷生、そして町村と頭にグレイを乗せたままの虎が残された。
虎が、皿に顔を近づけて匂いを嗅いでいる。
「ほら、食ってみろ」
グレイが短い手を使って、虎の口に薄い肉を放り込んだ。虎は顎を大きく動かして飲み込んだ。町谷と氷生は、笑顔でその様子をみている。
瀬木根は片手で机を抑えながら、自分も食事を進めた。相変らず、虎の眼光はこちらに向けられている。