十五 老人と海 五
十五
竜が頭を低くした。
倒れている氷生の体に触れる。すると、その瞬間、いきなり竜は姿を消した。倒れていた氷生が、動いた。ゆっくりと立ち上がり、長い髪が風に吹かれた。
瀬木根は氷生の凍えた目に、なにかを求める。
氷生が、片手を空に向けた。空中に巨大なつららが、何十本も現れた。
「やめろ」
瀬木根は叫ぶ。しかし、氷生はその手を振り降ろす。
同時に、つららが槍のように降り注いだ。吉光を強く抱きしめ、瀬木根は全力で地面を蹴った。
真横に、飛びすさる。
背中から、地面に叩きつけられた。
上体を起こす。吉光は、目を閉じたままだ。しかし、まだ息はある。
絶叫。数人の死神の体に、つららが刺さり、血を流して転げ回っている。倒れて、もう動かない者もいる。
空に、またつららが生じた。
瀬木根は、吉光をその場に横たえ、グレイと一体化した。
グレイの体と同じ大きさの、火の玉を飛ばす。すべてのつららを、撃ち落とすことはできない。数が多すぎる。また、何人かに突き刺さる。
「やめろ、氷生」
聞こえていないのか、氷生は瀬木根に顔を向けず、逃げていく死神たちの方へ歩いていく。また、つららが空に増えた。
瀬木根は空を飛び、死神たちのうしろへ回り込んだ。
炎の壁が現れる。つららはそれを突き抜けたが、そのまま消え去った。
氷。地を這って、迫ってくる。走っていた死神たちが、捕まった。空を飛ぼうとしている死神も、つららで突かれ、地面に叩きつけられた。瀬木根の能力では、他の死神たちを守ることができない。
「 」
思い浮かんだその言葉に、瀬木根は咄嗟に耳をふさいだ。
いや、言葉にすら、なっていないはずだ。
グレイも一体化しているが気づいていない。
自分のできること。
地面に降り立った。氷生が歩んでくる。正面にいるのに氷生はまるで、自分をいないもののようにしている。近づいてくる。
「ねえ、どいてよ。どかないと、あんたも殺すよ」
「吉光さんが死にかけてる。頼むから、もうやめてくれ、氷生。吉光さんは、いま死んだら二度と会えないんだよ」
「聞こえてねえよ、瀬木根。こいつ、氷生じゃないだろ」
初めて、はっきりと氷生が自分に目を合わせた。
「瀬木根さん?」
氷生が呟く。
「なにこれ。私、いまどこにいるの?」
目に、感情が戻っている。竜はまた、眠りにつ
いたのか。
氷生が怯えた表情で、数歩、さがった。
「駄目。こないで」
「氷生、おちつけ、大丈夫だ」
手のひらを、氷生は瀬木根に向ける。
目。また感情は失われている。明らかな殺意だった。
四方から、つららが襲ってきた。
瀬木根は体を、のけ反らせる。耳に熱を感じた。
そのままうしろに転がると、上からまたつららが降ってきた。みえない壁。それを蹴って、瀬木根はさらに転がる。手をついて、飛び起きる。口で音が鳴るような、呼吸をしている。
立ち上がってみると、氷生が自身の腕をつかんでいた。
氷生は、自分で竜を抑え込めるのか。
「瀬木根さん。吉光さんは、俺が」
加藤が、どこかから走ってきて、叫んだ。
「わかった。遠くへ連れていけ。氷生は、話ができるような状態じゃない」
加藤の水鳥が、大きく口を開けた。顔ごとふくらんだ。吉光を運ぶつもりだろう。
瀬木根は視線を戻す。氷生は腕をつかんだまま、膝を地面について、なにか言っている。
「なんで、外に出られないんだよ、おい。壊れねえ」
上空で一人が叫んでいる。空はまだ薄い氷の膜が張りついている。それを、壊そうとしている。
「吉光さんが」
加藤が走ってきた。うしろには、顔が巨大になった水鳥もいる。
水鳥が足を折って、口を開けた。すると、吉光の体が出てきた。背中というより、もう上半身がほとんど血で染まってしまっている。
「話を」
吉光が震えながら、手をついて、上体を起こす。瀬木根は駆け寄り、吉光を支えた。
「もう、私は駄目だと思います。私の体を喰らってください。氷生を」
いきなり、吉光が瀬木根の胸ぐらをつかんで、血を吐きながら言った。そのまま、体重をあずけてくる。瀬木根はしっかりと受け止めた。
「吉光さん」
返事はない。
「吉光さん」
吉光の首がだらりと下がる。
よられた糸。すでに、数本はちぎれている。
「吉光さん」
瀬木根は叫んだ。
最後の一本がいま、切れた。
空に、またつららが増える。
吉光が死んだ。触れた部分から、それがはっきりと伝わってくる。死神でも、人でもない、なにか。自分はいま、それを抱いている。
瀬木根の目には、涙が浮かんでいた。
しらない感情。だが、吉光に言われたこと、そしてやるべきことは、もうわかっている。
氷生の味方だと、吉光さんに言ったんだ。
「グレイ。吉光さんの体を食え。いますぐだ」
目を閉じた。
そして瀬木根は泣きながら、そう言った。
「俺の能力じゃ、どうにもできない。吉光さんの能力で、氷生をまた眠らせる」
「いいんだな、瀬木根。一体化したこの状態でも、もう食えるぞ」
「吉光さんはもう、死んだ。グレイ。いますぐ、吉光さんの体を食え」
「わかった」
自分がなぜ悲しいのか、自分がなぜ、泣いているのか、よくわからない。
吉光の体を抱いていた瀬木根の腕が、不意に交差した。
喧騒と、血の雨。槍のような、巨大なつらら。
瀬木根は目を開けた。
「食った。もう、あの能力を使える」
グレイが言う。
瀬木根の体の中に、またなにかが増えた。
頰をつたった涙が粒になり、流れ落ちる前に、瀬木根は覚悟を決めた。立ち上がり、氷生をみる。
赤羽のときと同じだった。吉光をなにも感じない。
「離れてろよ、加藤」
涙を拭い、前へ、瀬木根は出た。
氷生の竜の怒りは、むしろ増している。
「わかってるかあ、瀬木根。氷生に触れなきゃ、吉光の能力は使えないからな」
「ああ」
火。瀬木根はそれをまとう。空を飛んだ。
もう、泣いている場合ではない。
地面が、ほとんど氷で覆われてしまっている。
氷生の背中に、触れるだけでいい。
瀬木根は手を伸ばす。
かん高い音。なにかに阻まれて、届かない。
薄い、氷の壁だ。
氷生が振り返る。
同時に瀬木根は弾け飛んだ。勢いで、くの字に体が折れ曲がった。縦に回転し、空中だが、体勢を整えることができた。
低く、風が這った。
いきなり目の前に竜が現れ、頭を低くした。足と足の間にいた氷生を口にくわえる。
瀬木根はまとった火を強め、加速した。間に合わない。竜が氷生を飲み込んだ。
「氷生に触らせないつもりだ」
「この竜にも、吉光さんの能力は効くのか?」
「いや、やってみないとわからない。氷生に届くかもしれない」
「やろう。いくぞ」
竜はもう他の死神ではなく、瀬木根だけをみている。
瀬木根は、横に回り込んだ。やはり、竜の動き自体は遅い。
前がいきなり、白んだ。粉のようなものが舞っている。雪だ。
みえない。前から、なにか飛んできた。瀬木根は方向を変え、上に飛んで、距離をとった。弾丸のように、氷の塊が向かってくる。さらに竜の真上へ逃げる。それでも、つららや、氷の塊は止まない。
「近づくのも難しいな」
左右に体を振りながら、木が生えているところまで、さがった。それで、視界は晴れた。
つららが、竜に向かって飛んでいった。そして、そのまま胴に突き刺さる。
「なんだ?」
さらに、つららが生じる。
「氷生だ」
弾丸と雨が竜に集中した。首を反らせて、竜が叫ぶ。
「おい、大丈夫なのか、氷生は」
「わかんないよ」
「突っ込むぞ。このまま、氷生まで死んでしまうかもしれない。グレイ、全部の力を出せ」
炎。分厚く、周りに生じさせる。瀬木根は、被弾している竜に向かって、飛んだ。
腕を伸ばす。
届いた。かたいものに、確かに瀬木根は触れた。
「眠れ」
グレイが叫ぶ。
一瞬だけ、激しく目の前が光った。
なにかが自分の体から出ていく。力を制御できない。
体がどこかへ、沈み込んでいく。両足に、瀬木根は力を入れて、踏ん張った。なにかに触れているという認識は、確かにある。
手首の辺りを、誰かに強く握られた。体が、軽くなった。
子どもの声。
かすれている、女の子の悲鳴だ。
赤っぽい光。
いやむしろ、薄暗くて、よくみえない。瀬木根の視界は、水面のように激しく揺れている。
荒い息づかい。もう一人いる。男だ。
「グレイ、グレイ」
瀬木根は叫ぶ。しかし、グレイと一体化している感じはない。
なつかしい。ふと、そう思った。しらない誰かの家の匂いがする。
揺れていたものが、完全に停止した。
テレビ、ソファー。
二人の、裸。
薄暗い蛍光灯の下で、うしろから犯されている。
顔がみえた。氷生だった。目を閉じて、苦しそうな表情をしている。どうして、わかるのか。それが瀬木根にはわからない。
しかし、しっていることがある。
父親と、血はつながっていない。そして二階では弟が寝ていて、母親は仕事でいつも朝に帰ってくる。
男はソファーに半分、足を乗せた格好で腰を動かしている。そして笑っている。
殺してやる。
それだけを瀬木根は思った。この男を、いますぐ殺してやる。
二階で寝ているはずの弟が、ソファーの奥に立っていた。
「いますぐに、殺さなきゃ駄目だ」
弟の声がした。確かに、そう呟いた。
瀬木根の体は、なぜか動かない。かわりに、弟が動いている。そして、急に走り出した。手には包丁があった。両手で抱くように握りしめている。
「その男を、殺せ」
瀬木根は叫んだ。
そのままの姿勢で、弟はソファーの背を飛び越えて、父親にぶつかった。二人が激しく転がった。
「正太郎」
まちがいなく、氷生の声だった。父親が悲鳴を上げ、体を起こす。血が首から流れている。薄暗く、まだすべてがはっきりとはみえない。赤黒い。
氷生が、裸のまま、床に転がっていた包丁を拾い上げる。
そして父親の上に、馬乗りになった。包丁を、振りおろす。胸の辺りに、先端だけ刺さった。
父親が、片手で氷生を払いのけた。それでも氷生は包丁を放さない。鬼のような形相をしている。父親が、這って逃げようとしている。だが、自分の血で滑った。
首。
うつ伏せになった父親の上に乗り、氷生はまた刺した。
「てめえ」
血にまみれた父親がそう叫び、体を起こそうとする。
「死ね」
その氷生の声は、瀬木根の全身に響いた。
氷生が父親の足に絡みついた。しかし、父親は立ち上がり、氷生の髪の毛をわしづかみにした。机の角。そこへ、叩きつけた。
一瞬、氷生は体を硬直させた。
液体の音がした。
父親がもう一度、氷生の頭を床へ叩きつけた。
父親が荒い息づかいのまま、膝を折った。そして、手をついて肩を上下させている。
氷生は動かない。
それから父親もソファーに背中を預け、そのまま動かなくなった。
裸のまま、二人はやはり動かない。
立ち尽くした、正太郎と呼ばれた、弟。
いくつもの風景が、瀬木根の頭の中を駆け巡った。そして、また赤黒い部屋。もう、瀬木根にはそれしかみえない。
瀬木根は、部屋の隅で動けない。
氷生の弟が正太郎。
これが、お前の背負っていたものなんだな、春木。
目の前にいるのが、お前こそが正太郎。動かない二人を見下ろしている、少年。春木とは血がつながっていない。
いままで、自分が受け入れてきたこと。
それらをすべて、吐き戻してしまいそうだ。
自分が死んだときに、終わったと思っていたこと。死神になってから覚えたこと。どこかでまだ自分は、切り離して考えていたのだ。人を殺した、と思っていた。
でも、この世界でやったこと。どこかで、この世界は特別だと思っていた。
「瀬木根。瀬木根、てめえこら、起きろって」
正太郎。
春木の声。笑っているのか。
駅前のベンチ。カフェの中に入って、コーヒーの匂いを嗅ぐ。
自分が目を閉じたのだろうか。真っ暗だ。
なにかを、抱きしめている気がする。
それは、決して放してはいけないものだ。
「そうだよ。これ以上、氷生をいじめないでよ。お願いだから」
「俺は、吉光さんに約束した」
「じゃあ、私にも約束してよ」
「どんな?」
「氷生が死にそうなとき、あなたがかわりに死んで。氷生を大事にして、誰よりも。守って」
「わかった」
「氷生になにかあったら、本当に怒るから」
「わかった。わかったから、もう、眠ってくれ」
「私は氷生を守りたいだけ。氷生は、弟を守ろうとした。私は氷生を守る」
「ああ」
「それだけ」
泣いている。氷生と似た声だ。
瀬木根は、その子を強く抱きしめた。名前はしらない。だが確かに、瀬木根はその存在を強く抱きしめた。
弱すぎて、自分の弱さすらすべて把握できないような、心。
それでも、と瀬木根は誓った。
煙。白んでいて、目の前で揺れている。
瀬木根が目線を下げると、胸のところに氷生がいた。自分が抱いているのは、氷生だ。瀬木根の腕は、氷漬けになっていた。
「グレイ。グレイ、いるか。どうなった、竜は。眠ったか」
白煙の中で、瀬木根は言った。
「おう、ぶっ倒れて動かない。やったぞ」
頭の上あたりから、グレイの明るい声がした。瀬木根は氷生の鼓動を感じた。ちゃんと生きている。
腕を覆っていた氷が溶け始める。わずかに冷たいが、痛みはない。
足を放り出して、尻もちをつくような格好を、瀬木根はしている。自分の体の感覚が戻ってくる。
「竜はなんか、どんどん消えていくぞ」
「そうか。グレイ、氷生は無事だぞ」
右の胸に、氷生の鼓動をしっかりと感じる。
「目覚めさせるのか?」
「いや、まだだ。このまま、連れていこう」
「そうだな。空の氷の膜もさっき消えて、移動系統を持ったやつらが中心になって、みんな出ていった。加藤も、気がついたらいなくなってた」
「じゃあこの世界はもう、移動系統を持つ死神なら、誰でも入ってくるんだよな?」
「そうだよ、だから、さっさとここを離れるぞ。さっきの死神が戻ってくるかもしれないし」
「竜は、もう暴れることはないから、大丈夫だ」
「大丈夫じゃない、寝るな。瀬木根、外倉の国からもここは近いって言ってたろ、おい」
「わかってる。扉を出せ」
「グレイの中身はもう、空っぽなんだよ。お前がなんとかしろって。眠ったら、駄目だってば」
「わかってる」
いま、立ち上がるから、ちょっと待ってくれ。
瀬木根は、そう言ったつもりだった。