十一 老人と海 一
十一
次第に建物は少なくなり、道らしい道もなくなって、瀬木根は草原のような場所を進んでいた。
「なあ、瀬木根。もう、歩くの飽きたぞ。みてみろ、ずっと向こうまで草しかない。違う世界にいこう」
瀬木根の前を飛んでいたグレイが、戻ってきて、不機嫌そうに言った。
「なに言ってるんだ。もう、渡部さんはいないんだぞ」
「残念ながら、あのじいさんはもう用済みなんだよ」
「じいさんって言うな」
「グレイは、なんと移動系統の能力を、使えるのだ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないもん。これをみろ」
グレイは近づいて、勝手に一体化した。
「まったくお前は、いまだににグレイを使いこなせていないな。まったくなやつだ。あのじいさんの能力をちょっともらったんだよ。試しに、やってみろ。ちょっと劣化してるけど。でも、ちょっとだから」
瀬木根は一度、自分の中の感覚に集中してみた。確かに、自分のしらないなにかがあるのがわかる。
「これ、なんだ、能力か?」
「だから、渡部のじいさんの能力の、劣化版だって」
「どうやったんだ」
「欲しいと思ったから、グレイが真似して作ったんだよ。もう、草も土も飽きたから、早く別の世界にいこうぜ」
瀬木根はなにもない宙に手を伸ばし、指でなぞった。虚空に、切れ目が入った。そこから、やわらかいものがくり抜かれるような動きが始まる。自分がなにかをしているという感覚はある。
瀬木根は自分がしたことを、みていた。扉はないが、渡部や羽村たちがやっていたような感じで、そこには新しい景色が広がっていた。砂浜があり、その向こうは白波。風が吹いて、独特な匂いを感じる。
海だった。
これが、グレイの本当の能力なのだろうか。
瀬木根は、その風景が本物かどうか確かめるため、踏み出した。
砂のやわらかな感触と、ぬくみがあった。瀬木根はもうスーツをやめて、サンダルのようなものを履いていたので、足の指に砂がついた。
完全に体を入れる。するといま自分たちがくぐった穴は、消えてしまった。
グレイは波打ち際まで勝手に飛んでいって、はしゃいでいる。
瀬木根は辺りをみた。湾のように、砂浜は丸く続いている。陸の方は、高い岩壁だった。自分たちが、その下にいるという格好だ。見上げても、それ以上のものはなにもわからない。
瀬木根も、グレイの方へ向かった。履いていたものを手に持ち、足首まで、水につけた。水は冷たくて、心地いい。なめってみると塩辛かった。やはり、海なのだ。
少し、暑い。日がかなり高くなっている。ここも夏だと思う。
グレイがどんどん進んでいくので、砂浜に沿って、瀬木根も歩いた。
遠くに、川のようなものがある。その上。滝だ。巨大な岩壁の頂上から、流れ出ている。
瀬木根はグレイの頭をつかんで、一緒に体を浮かせ、近寄った。
「上には、なにがあるんだ」
「さあな」
岩壁の上に出た。水しぶきが飛んできて、肌を冷やす。
空まで、瀬木根はのぼった。
湖。
そして、それを囲む山々。
それにしても、水の広がりは巨大だ。さらに高くのぼる。
海は反対側にあるから、こっちが海なわけはない。そう思うほどの大きさだ。
水の青い円に沿って、転々と港があり、その外側には街がある。
「しばらく、魚でも釣って暮らすか、瀬木根」
「でも俺は、魚釣りはしたことがないんだ」
きれいな眺めだった。しばらくグレイも黙ってしまっていて、一緒になって、景色をみていた。
線が、水に走る。船だった。
少なくとも、外倉の統治する場所ではないらしい。聞いていたような喧騒は皆無だ。
「旅をするって言ってたのに、なんかもう、ついちゃったよな」
「お前が、能力を使えって言ったんだろ」
念のため、グレイと一体化した状態で、瀬木根は地上に降りた。襲われるという可能性よりも、天子たちが自分をみて、おかしなことになるのを、避けたかった。誰かが襲いかかってくるという感じはやはりないのだが、天子たちの街という印象でもない。
水と土の匂いがする。道は舗装されていない。踏みかためられ、平らになったのだろう。
入り口というより、街の終わり。建物が左右にある。
小さな波の音がする。湖の水は、多少なりとも、揺れているのだろう。
誰もいない。
水辺の方の建物がなくなり、山側の建物も少なくなる。使われていない倉庫のようだ。
波の音が、大きくなった。みていると、水が盛り上がった。
なにかが出てきた。巨体から、水がしたたる。形はあざらしだ。大きな目で、こっちを見下ろしている。這って、水からあがってこようとしている。しかし、瀬木根は身構えなかった。能力で呼び出されたものなのかはわからないが、敵意を一切感じないのだ。
「グレイ。なにもするなよ。大丈夫だ」
「ああ、全然びびってないからな。問題ない。でかいのは、もう見慣れた。変な顔だな、こいつ」
「あざらしか、お前」
水から出てくると、余計に大きくみえる。その巨体は頭を低くして、瀬木根に顔を近づけてきた。首や胸の辺りの匂いをかいでいる。動かずに、好きにさせてやった。瀬木根は静かに手をのばし、頭を撫でてやった。特に嫌がりもせず、鼻息を立てて、まだ匂いをかいでいる。
体を起こし、巨体がふわりと浮き上がる。完全に宙に浮いた。満足したのか、ゆっくりと移動し始め、瀬木根が見上げていると、そのまま岸壁の下に消えた。
「なんだったんだろう」
「よくわかんない」
「あんなのがこの湖にたくさんいたら、たまったもんじゃないよな、魚も」
瀬木根は体を浮かせ、低く飛んで街の中に入っていく。
建物は、半分、崩れているものが多い。
広場のようなところを抜ける。すると少しだけ、みためのきれいな建物が現れた。そこでもう一度、歩き始める。
遠くに人影がみえた。瀬木根は手を上げて、大きく左右に振ってみた。人影はこっちをみているが、動かない。
「どうする、瀬木根」
「外倉や五稜の国ではないと思うし、たとえそうだったとしても、逃げない」
「お前、外倉の手を斬り飛ばしたことを、忘れたのか」
「とりあえず、俺はここがどういう場所なのか、しりたいんだよ」
「うわ、急に開きなおった」
歩いた。近づくと、男だとまずわかった。優しそうな表情をしている。
「あの、こんにちは」
「初めまして。こんなところで、どうしたんですか」
「あなたは、この街の住人ですか」
「そうです。街というより、村ですが」
男は、恥ずかしそうに笑った。自分よりも若い気がするが、落ちついた表情をしている。
「僕は瀬木根という死神です」
「私は加藤です」
「ここはどこです?」
瀬木根は見回しながら、尋ねる。
いきなり目の上辺りに、なにかが走った。
瀬木根の体は衝撃で浮き上がり、倒れた。打たれたのか、撃たれたのか。
「ほらな、グレイと一体化してなかったら、お前はいま、間違いなく死んだぞ、瀬木根」
「笑いながら、言うことじゃないだろ」
倒れ、瀬木根は空を仰いだ。それから手をついて、ゆっくりと体を起こした。
さっきまでとは、似ても似つかない表情で、加藤は見下ろしている。
「頭を、撃ったのに」
「能力ですよ」
瀬木根は腿の辺りについた土を、軽く払って立った。
加藤の相棒の姿がない。すでに一体化しているのか。
「お前、外から来たんだな?」
加藤の表情は、緊張そのものだった。
「ああ、そうだよ。ここへは移動系統の能力を使ってきた」
「ここは、みつけることのできない場所だ」
「そう言われても」
自分を撃ったのは、この加藤の能力だろう。でも、グレイと一体化していれば、春木の能力で、ものを使った攻撃は無効化できる。
瀬木根は転がっている、丸くて黒い石をみつけた。石は、濡れている。湖の中から、飛んできたのだろうか。
「俺は、ただ旅をしているだけだ。迷惑なら出ていく」
瀬木根は言葉を強める。しかし、諭そうとも思った。
「やめなさい、加藤」
誰かの大きな声がした。
左の湖から、またなにかが飛んでくる。さっきと同じだ。さすがに、死なないとは言っても、当たれば多少は痛い。避けられる速度ではあったので、瀬木根は頭を下げてかわした。黒い石だ。それが転がった。
「その能力じゃ、俺は死なない。俺は、あんたらに危害を加えるつもりはないんだ」
瀬木根は、奥の方からこっちへ向かってくる老人をみていた。
加藤も振り向いて、それを認めた。
近づいてくる、車椅子。金属のしっかりとした枠組とゴムのタイヤ。老人だが、目つきはまだ鋭いものが残っている。
死神だ。
「加藤。この人は、外からきたんだな?」
「そうだと言ってます」
「移動系統の能力を使ったら、この岩壁の下の砂浜に出ました。特に、ここへきたかったというわけでもないんです」
「そうですか」
「いま、ここで殺すべきです、吉光さん」
「馬鹿を言うな、加藤」
低く、よく通る声だった。
「じじいの声は、みんなでかいな」
グレイが、勝手に体から離れた。
吉光は目を大きくして、グレイを見上げている。
「すいません、失礼なことを言ってしまって」
「この生き物は、外の生き物ですか?」
「いえ、一応は私の相棒です」
「死神の?」
「はい」
グレイが喋ることをしると、いつもみんな驚く。もう、慣れてはいた。グレイもいちいちそれに対して、反応しない。
「一度、村の方へお越しいただけませんか。いくつか、お伺いしたいことがありますので」
加藤がなにか言おうとしたが、それを制するように、吉光は言葉を続けた。
「加藤。お前は村の者たちに伝え、なにか異常が起きていないか、調べろ」
「でも、こいつはどこの誰かもわからないんですよ?」
「自分の身は、自分で守れる。お前がいても、意味はない。わしはそう言っているつもりだ。何度も言わせるな」
加藤が、怯えたような表情をみせる。それから、湖の方へ走っていった。船があるのかもしれない。
「私は、いや俺は、瀬木根と言います。こっちは相棒のグレイです」
「私は吉光。ここでは年長なので、村長と呼ばれたりもしています」
グレイがふわふわと漂いはじめる。大きなあくびをした。吉光はなにも言わない。
「坂ですから、押します」
「助かります」
微妙な距離感だった。だが、瀬木根は躊躇せず、吉光の車椅子を押した。通りを進む。
「ここにいるのは、みんな死神です。死神しかいない世界です。数人の能力を使い、他の世界とのつながりを完全に遮断して、ずっと平穏を守り続けてきました」
「能力で」
「ただもちろん、それがずっと続くものだとは、私は考えてはいない。こんなふうに、外から誰かがやってくることは、いつか起こりえると、思っていた」
「すいません、いきなり移動系統の能力を使ったら、ここに出てしまって」
「謝ることはなにもない。そういう時期がきてもいいんだ。だが、もう他の者にはみつかるまいよ。いままでよりも、さらに能力を強める」
前の方から、ぞろぞろと死神たちが現れた。
グレイがなにも言わずに、一体化した。全員が男だった。表情はかたい。
吉光が振り返り、瀬木根に手を離すように、目だけで言った。手を離すと、吉光は自分で車椅子を進めて、男たちに寄った。
「瀬木根さんと、わしは話をするんだ。お前たちは、なにをしにきた」
「待ってください、吉光さん。そんなどこのだれかもわからないやつ」
男が叫ぶ。それぞれの足が動いた。
吉光が腕を振り上げると、薄い羽織の袖がめくれた。蛇。腕に細い蛇が絡みついている。それが消えた。
「これでいいか、お前ら。わしの能力は毒だ。わしを殺せばこの男も、即座に死ぬ。巻き込まれたくなければ、おとなしくしとれ、馬鹿どもが」
吉光の迫力に、思わず瀬木根は後退りしそうになった。
「かまう必要はない。どうぞ瀬木根さん、こちらです」
吉光は笑って、自分で車椅子を回し始める。
「ついてきなさい」
「はい」
言われるまま、瀬木根は吉光のうしろについた。二人が近づくと、死神たちは道を開けた。
「なんか捕まった感じになったな、瀬木根。逃げたら、毒で殺されるんじゃないの。この能力なんか、苦手だ」
一体化した状態で、グレイがぶつぶつと言っている。
「いいよ、もう。離れてろグレイ」
「わかったよ。お前とくっついてたら、グレイまで毒でやられそうだもん」
グレイは頭の上から飛び出して、離れたところから、ついてくる。
「私がこうして席を設けたのは、外の世界の状態を、瀬木根さんから聞きたいからなんですよ」
少しだけ、吉光は口調をゆるめた。また登り坂だったので、瀬木根がうしろを押していた。木で作られた平屋の前まできた。庭も、見渡せるほどだが、草の足はきれいに刈られている。
「氷生。お客様だ」
吉光は、誰かの名前を呼んだ。
戸が開く。出てきたのは、小さな女の子だった。
「この子も死神です」
「子どもの死神?」
「そうです。氷生も死神です」
驚かないよう、瀬木根はよそおったつもりだった。グレイは、氷生と呼ばれた女の子に興味を示し、そばへ飛んでいった。
「珍しいでしょうな」
「そうですね、はい」
諦めたように、瀬木根はそう返す。
「グレイ、少し落ちつけ」
その女の子は笑いながら、グレイを抱いていた。
吉光が庭の方へ進んでいく。瀬木根も続いた。女の子は、ふわふわ漂うグレイを見上げている。
「瀬木根さんは座ってください。私はこのままで大丈夫ですから」
多分、縁側というのだろう。家の中がみえている。座布団が二つあって、瀬木根は腰を下ろした。
「瀬木根さん、外から死神がここへ入ってきたのは、本当に久しい。ずいぶん昔のことになるが、海牛が砂浜で倒れていた氷生を、拾ってきた。それ以来になりますな」
「海牛っていうのは、あざらしみたいなやつですか。あの大きな」
「そうですね。あれは、ここらに住みついていますが、死神に危害を加えたりはしない。海に潜っていることもあるから、そこで食べ物をとっているんだと思います」
「他の生き物も大きいんですか、天子も」
「この世界に、天子はいない」
「死んだあと、どうするんですか。死んだ死神が、ここへ戻ってくるには」
「追放です。ここは、どこにもつながっていない。命は一つ、一回きりだ。一度外へ出た者は、二度とこの世界へは戻れない」
「どうして、そんなふうに」
「それぞれがこの世界で、安らかな生活を営むためです。五稜という死神と、外倉という死神が、様々な世界を巻き込んで、戦争をした。私たちはどちらの味方もせず、とにかく逃げた。
しかし逃げても逃げても、戦争の火の粉は降りかかってきた。臆病、と笑ってくれてもかまいません。私たちは閉じた世界で、小さくてもいいから、平穏な生活をしたい」
吉光が、ひどく小さく、瀬木根にはみえた。
死神も可能性は低いが、戦闘以外で死ぬことはある。病気の類ではないが、事故なども起こり得るだろう。
「いま、外の世界はどういう状況です、瀬木根さん」
「吉光さんがおっしゃった、外倉、そして五稜という死神は、いまはもう神です。国を作ったということになっています。ただ、僕も詳しくはわかりません。ここにくるまで、宮内という神のもとにいましたので」
「宮内か」
「知っているんですか」
「ええ。しかし、宮内の国では生きたくなかった」
「どうしてです?」
「死神の感情や生き方を、支配したがる」
「宮内さんが、ということですか」
「心の奥に、なにか危ないものを持っている男だと思う」
「俺はあまり、宮内さんと長く一緒にいなかったので、そういう部分についてはよくわかりません」
瀬木根は、木の周りを走っている氷生とグレイに目を向けた。吉光の言ってい出会った死神たちは、宮内に心酔しているような感じの言動を、よくとっていた。宗教のようだなと思った。宮内に近づきすぎるのは、危ないと、無意識に体が理解していた。
「なるほど。この辺りだと、神はその三人ということですね。もっと、遠くのことはわかりませんか」
「そうですね、すいません。役に立てなくて」
「いや、いいんだ。あなたが謝ることではない」
宮内の国にくるまでのことは、言いたくなかった。
春木に赤羽を殺されたこと、自分が春木を殺したこと、赤羽と春木の能力を、自分が奪ったこと。罪から逃げるつもりはなかったが、可能であれば、話すべきではないと思う。力は必要だが、無駄に恐れられる必要はない。複数の能力を持っているということは、すでに他の死神から、なんらかの形で奪ったことを意味する。
羽村の言っていた通りだ。
他の死神が、いまの自分をどうみるか。どう扱うのか。考えて行動しなければならない。
「私から一つ、お願いしたいことがあります」
ゆっくり、そして噛みしめるように、吉光はそう言った。