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「理沙はもう呪文を唱えるな」
夏樹くんがそんなことを突然言い出したのは、私たちが小学校高学年になった頃のことだった。
「代わりに俺が唱えるから」
サッカークラブの試合後、彼のチームが負けた度、彼がベンチに下げられた度、彼がボールを蹴り損ねてこけた度に、うなだれて私の前に現れるから。
呪文を唱えて私なりに元気づけていたのだけれど。
「アイン、ツヴァイ、ドライ?」
「そうだよ、それ」
「自分のために自分で唱えるの?」
「ばっか、そうじゃなくて」
勢いづいて、真正面から両手をぎゅっとつかまれた。
「これからは理沙が元気ない時に、俺が唱える番!」
―――はっ
気づけば、赤い屋根に薄橙色のレンガ造りの建物が私の周りを囲んでいた。
まだ馴染めていないドイツの学校、ギムナジウムの中庭にあるベンチで見ていた夢は、遠い異国のいつかの記憶。
そうだ……、夏樹くんってば、あの後、真っ赤になりながら急いで手を離してたなぁ。
ふふ……。
漏れた笑いと相反して流れる、一粒の涙。
夏樹くん……、今だよ。
唱えてよ。
あの、本当は意味も何もない呪文を。
視界が滲む青い目に、遠くから二人の人影が映る。
アイン
考えたの。まだ携帯を持たされていない私たちでも、手紙を送ったり、家に国際電話をかけたり、連絡を取る方法はあるんじゃないかって。
ツヴァイ
でも、思ったの。私は夏樹くんに何を伝えればいいの。
ドライ
もう一生会えないかもしれない好きな人に、何を伝えればいいの?
「リサー」
徐々に近づく人影の一人であるアニカが、私に手を振り呼びかける。
彼女の傍らには、背の高い少し年上のような男の子がいる。
潤む青い目をつぶり、再び大きく開けた時には、私の中で何かがはずれた。
心からはらりとはらりと剥がれ落ちるガラスの破片に、夏樹くんの笑顔が散らつく。
私はもう戻れない。
ここで出会った人たちと生きていくの。
さようなら。
私の大好きな、夏樹くん。




