夏の思い出
「海に行きたい」
そう言い出したのは、わたしだった。
「盆を過ぎるとクラゲが出るぞ」
暑がりで寒がりの彼は、ぼそりとそう言って背中を向けたきり、こちらを見ようともしない。
せっかくの夏休み。社会人の彼を持っているため、毎日どこに出かけるでもなくぼんやりと過ごす事が多いけれど、ようやく彼が連休に入ってゆっくり一緒にいられるようになったというのに。無粋にも持ち帰って来たという仕事を片付けるため、彼は書類片手にノートパソコンにかじりつき状態なのだ。
「じゃあ、せめてプール」
「日焼けすると、後が大変だ」
にべもないその答えにむっとしてしまったわたしは悪くない、と思う。
温水プールと大浴場が一緒になったアミューズメント施設に誘ってくれた友人達を断ってここに来たのに。こんな事なら断るんじゃなかった。
けれどそう思うのは今だからこそで、あの時は彼に会える嬉しさでわくわくしていたのだから、仕方がない。
せめて時間潰しができるように、雑誌でも持ってくればよかった。手持ち無沙汰だし、今からコンビニに買いに行こうか。ソファのそばに転がしていたバッグを拾い上げ、よっこらしょと立ち上がる。
「帰るのか」
声の主を見たけれど、パソコンに向けた顔を上げもしていない。
「コンビニ。雑誌でも買って来ようと思って。何かいっしょに買って来る物、ある?」
「いや」
簡潔なその応えに、噛み殺しそこなった溜息が零れた。
「あの、ねえ」
「ん?」
「お仕事、大変そうだし。お邪魔だったら、このまま帰る、けど」
いっしょにいるだけで幸せなはずなのに、それだけでは満足できないのはわたしの我侭。だから、その我侭をぶつけて迷惑がられてしまう前に退散してしまおうか。本気でそう思う。
彼はようやく、ゆっくりと顔を上げた。正面から顔を見るのは久しぶりかもしれない。
「邪魔、ではない」
「や。でも、たぶん、これから邪魔すると思うから。だから、やっぱり帰る」
バッグを握る手に力が入る。うん。やっぱり帰ろう。そうしよう。
そう思い、彼に背を向けて玄関に向かって歩き出そうとした。
「まあ、待て。あと少しで終わるから」
てっきり、じゃあはいさようならだと思ったのに、背後からの声に引き止められる。
「さっきからずっと待ってますけど」
「あと十分で片付ける」
「五分。それ以上は待てない」
「分かった。五分だ」
かたかたとキーボードを叩く音が、小気味よく静かな室内に響く。わたしは一人掛けのソファに座る彼の隣まで移動して、足元に腰を下ろした。
五分になるかならないかのタイミングで、彼がパソコンの蓋を閉じた。
「終わったぞ。海でもプールでも連れて行ってやるから、用意しろ」
いきなりそうは言われても、予定になかったから水着なんて持って来ているはずはなく。
「泳ぎたい、なんて言ってない」
「は?」
「二人で夏の思い出を作りたかっただけ、なんだけど」
彼の目が眇められる。どうやら呆れられているらしい。
「思い出、か」
今度は何事かを考えている仕草。
「分かった」
膝の上に置いた手が、彼に拾い上げられた。そのまま引かれるに任せて腰を上げ、落ち着いた先は、あろうことか彼の膝の上だった。
どきどきと騒がしくなった鼓動を隠そうとして、すぐにあきらめた。どうせわたしの顔はもう、隠しようもないくらいに真っ赤になっているだろう。
「こ、れは、どういう状況、なの?」
声が震えているのが、自分でも分かる。
「とりあえず二人の時間を持ってみる、というのはどうだ?」
なんとか逃れようと思うけれど、背中に回された腕がそれを許してくれそうにない。
胸の位置に彼の顔が近付き、わたしの体が強張った。
「な、に?」
「動くなよ。今必死に理性と戦っているところだ」
「げ」
思わず出た奇妙な声に、彼の肩が震える。胸元がくすぐったくて、わたしは少しだけ身を捩った。
「動くなと言っただろう」
「だって、くすぐったい」
「忠告はしたぞ」
彼の顔が近付いて来るのを、不思議な思いで見つめていると。これ以上は無理だというくらい近くに彼の目が迫り、思わず瞼を固く閉じてしまう。
唇に温かい感触と、すぐ後に生ぬるい感触。ぞくりと肌が粟立つ。どうやらキスされた上に唇を舐められたらしい。
「出かけるぞ」
呆然としているわたしを膝から下ろした彼が、立ち上がって体を思い切り伸ばした。
「え? どこ、に?」
「どこでもいい。ただ、これ以上ここにいたら、本気でまずい」
その言葉の意味を理解して、わたしの腰から力が抜けた。
「夏の思い出がこれじゃあ、あんまりだろう」
へなへなと床に座り込んだわたしを見下ろした彼の目は、かなり真剣で。わたしはこくこくと、何度も首を縦に振って頷いた。