第2話 姉弟喧嘩(3)
夜中なので、アパートの階段を静かに上がる。
扉のノブに手を掛けた時、部屋の中から美紀の声が聞こえたので、思わず扉に耳を押しつけて、聞き耳を立ててしまう。
「香さん、お茶にする? それともビールがいい?」
「お茶でいいわ。ビールは、美紀ちゃんが貴司と飲むんで買ってきたんでしょ?」
「え? いいわよ。三人で飲もうと思って買ってきたんだから。それに、香さんが見つからなくて、すぐに貴司も帰って来るわよ」
「でも……」
っく。んなこと言われたら、すぐに捜すのを諦めたみたいで、部屋に入れないじゃないか。
そもそも、香が帰ってきたことを携帯に電話するって考え、ないのかよ。
ボクはそう思いながら、ジーンズのポケットに手をやった。
ない……。携帯電話がない。走り回ったんで、何処かに落としたのか?
自分でも、サーッと音を立てて血の気が失せていくのが判る。
ボクは浮き足立つと、携帯電話を探しに行こうとした。
落としたとすれば、駅に行く途中の公園か、小学校のどちらかだろう。公園の土管を捜す時に這い蹲ったから、その時落としたのかも。
扉の前から離れようとした瞬間、不意に重大なことを思い出した。
そうか、急いで飛び出したから、充電器の上に置いたまま、持って出るのを忘れたんだ。クソー。
なにか安心したら、急に力が抜けてしまった。
仕方なく、ボクは扉に寄り掛かって中の様子を窺うことにした。
「じゃあ、決まり。ビールね」
どうやら、家主を放っておいて、酒盛りを始めるらしい。まったく、いい気なもんだよ。
カシュ……。
缶ビールのプルトップを開ける音が、かすかに聞こえた。なんか、腹立ってきたな。
「ごめんね、美紀ちゃん。あたしのせいで……」
「気にしなくていいよ」
「でも……」
「貴司も、バイト先でよっぽど虫の居所が悪くなるようなことがあったのよ。でなければ、貴司が女の子に手を上げるなんてこと、絶対ないもん」
「そうかな。あたし、貴司には嫌われてるから……」
「…………」
こうもしおらしいことを言われると、ツッコミようがない。言葉を失っちゃうよ。
「そんなことないわよ。いくら人のいい貴司だって、嫌いだったら一緒に住んだりしないもの」
「そうかな? あたしが鍵の掛かった部屋に上がり込むから、仕方なく一緒に住んでるんじゃないかな。それにあたし、幽霊だし……」
まだ言ってやがる。幽霊が、飯食ったり布団で寝るか? 米を研いだり味噌汁作ったりする幽霊が、何処の世界に居るって言うんだよ。
「…………」
ほら見ろ。美紀だって、呆れて言葉が出てこないじゃないか。
「あたしね、一歳の時に、火事で死んじゃったの。ホントはそのまま成仏してればよかったんだろうけど、もっと生きて色々なことがしたかったし……。あたしが死んだ時、お母さんのお腹には貴司が居たのよね。それで、一人暮しを始めた貴司が心配で、こうして幽霊になって出てきたの。だからね、貴司と姉弟喧嘩ができて、凄く嬉しかったんだ」
「?」
ボクと喧嘩ができて嬉しかったって、どう言うことだ?
「香さん……」
扉越しに聞いているから、二人の表情は判らない。でも、声の感じからすると、美紀は香の話に戸惑っているようだ。そりゃそうだろう。美紀だって、香が幽霊だなんて信じてないからな。
「あたし、今までは独りぼっちだったけど、喧嘩が出来るってことは、独りぼっちじゃないってことなんだよね。それが嬉しくて……」
「…………」
香……。
ちょっと、胸が詰ってしまう。
確かに香が幽霊だなんて言うのは、信じてない。けど、独りぼっちだったって言うのは、なんとなく想像できてしまう。香の妙に人懐っこい陽気な明るさは、寂しさの裏返しだったのかもしれない。それを思うと……。香のこと、ちょっと邪険にしすぎたかもしれない。
「香さん、これからどうするの?」
美紀は情にほだされたのか、それとも香がいつまでも居座るのではないかと不安に思ったのか、鋭いことを聞いた。
うん、これはボクも聞きたい。さっきの話とは別に、香にいつまでも居座られるのは、ボクとしても困るんだ。やっぱり、今日みたいに美紀が泊まりに来た時は、二人だけで一夜を過ごしたいもんな。
「心配しないで、美紀ちゃん。長居はしないから。貴司の様子を見届けたら、あたし帰るから」
「帰るって、何処へ?」
「勿論、天国」
「…………」
まだ、そんなこと言ってるのかよ。いい加減、嘘をつくのはやめたらどうだ。誰もお前が幽霊だなんて、信じちゃいないんだ。
「信じてもらえないかもしれないけど、これでもあたし、幽霊なのよ。だから、帰る所は天国なの。貴司が居たら、地獄だろって言ってたかもね。……うぐ。はー、美味しい。天国にはビールなんてないから初めて飲んだけど、こんなに美味しかったなんて、ホント、死んで損したなぁ」
香のヤツ、旨そうにビール飲みやがって……。本当に、初めてビールを飲んだのか?
「ねえ、美紀ちゃん。もう一本、飲んでいいかな?」
「あ、うん。いいよ」
カシュ……。
「はぁ――、美味しいぃ。美紀ちゃん、この緑の缶のビール、飲みやすくて美味しいわねぇ」
「!」
香のヤツ、ボクのお気に入りのビールを飲んでるのか!
ボクは扉を開けると、部屋の中に飛び込んだ。
「香! ボクのビールを飲むな!」
「!」
突然入ってきたボクに驚いて、二人は茫然とボクを見上げた。
「美紀ぃ。ビール、何本買って来たんだ?」
「五本。貴司の分もあるから、焦らなくても大丈夫よ」
よかったぁ。ボクの飲む分まで、香に飲まれちまったんじゃないかと、心配したよ。
安心したら、ちょっと腹が立ってきた。
「香! 今まで何処に居たんだよ。心配して、捜し回ってたんだぞ」
「…………」
香は俯くと、黙り込んでしまった。
そりゃそうだ。何処に居たかは知らないけど、いつの間にか帰ってきて、のほほんとビールなんか飲んでたんだから、答えられる訳がないんだ。
「美紀。香、何時頃帰ってきたんだ?」
「えっと、二、三〇分ぐらい前かな」
「すると、一時間近く一人で何処かへ行っていたってことだな? ボクも美紀も、ホントに心配したんだぞ」
そうさ、本当に心配したんだぞ。それなのに帰ってきてみれば、のほほんとビールなんか飲んでいやがって。ボクがどれだけ心配して走り回ったか、知ってんのか?
「ごめんなさい……」
香は謝ったものの、その謝り方には心が篭ってない。それを指摘しようとした時、美紀が割り込んできた。
「香さんが謝ったんだから、今度は貴司が謝る番よ」
「なんでボクが、謝んなくちゃいけないんだよ」
ボクは、鋭い視線を美紀に向けた。
「だって、先に手を上げたのは貴司なんだから、謝るのは当然でしょ」
「手を上げたって……。あれは香が……」
「つべこべ言わずに、謝るの。第一、女の子をひっぱたくだなんて、貴司らしくないわよ。バイト先で何があったか知らないけど、いつもの貴司なら八つ当たりなんてしないわよ」
「…………」
はぁ……。美紀はなんでもお見通しか。
やっぱり、香をひっぱたいたのは、八つ当たりだったのかな。そんなつもりはなかったんだけど、やっぱり女の子に手を上げるのは、良くないよな。
ボクは香に向かうと、頭を下げた。
「ごめん、さっきは悪かった」
ボクが謝ると、香はニコッと笑顔になった。
「いいわよ、気にしてないから。それより、なんであたしがビール飲んでること知ってたのかなぁ?」
そう言うと、香の笑顔は瞬く間に人の悪い笑みに変わった。
「そう言えばそうね。貴司、もしかして、外で立ち聞きしてたんじゃないでしょうね」
美紀までもが詰め寄ってくる。
「え、あ……。そのぉ……。ごめん、聞いてた」
ボクは思わず、俯いてしまう。
なんでだ。なんで、美紀に勝てない。いや、先に惚れたボクに、勝てる訳ないんだけどさ。でも、どうしても勝てないって言うのは、不公平だと思うぞ。
「で、どこから聞いてたの?」
「ビールを飲み始めた辺りから……」
「…………」
視線を足元から二人に向けると、美紀は怒っているし、何故か香は顔を真っ赤にしてた。あ、いや。ビール飲んでるんだから、酔って顔を赤くしててもおかしくないか。
でも、瞳を潤ませている姿は、どう見ても酔っているようには見えないな。
「貴司ねぇ。女の子の会話を盗み聞きするなんて、男らしくないわよ」
「んなこと言ったって、入るに入れなかったんだから、仕方ないじゃないか」
そうさ、美紀がボクのプライドを傷つけるようなことを言うから、すぐ部屋に入れなかったんだぞ。
内心では美紀を責めつつも、言葉には出さない。いや、出せない。やっぱり、ボクは美紀が好きで、こんな些細なことで喧嘩したくないんだ。
バンッ!
突然大きな音がして、驚いて音のした方を見た。すると香が、ちゃぶ台に両手をついて顔を上げると、ニカッと笑った。
「貴司。いいから飲もう。ビール、美味しいよ」
香はそう言うと、ゴクゴクと喉を鳴らして美味しそうにビールを飲んだ。
「そうそう、貴司の好きな銘柄のビール買ってきたから、一緒に飲みましょ」
美紀も、嬉しそうに冷蔵庫から缶ビールを出すと、ボクに手渡した。
まったく……。何処に行ってたのか香を問い詰めようと思っていたのに、うやむやにされてしまった。
まっ、今回はボクも悪かった訳だし、許してやるか。
ボクは美紀の隣りに腰を降ろすと、缶ビールを開けた。
カシュッ!
これで第2話は、完結です。
どうやら仲直りが出来たようで、良かったです。
しかしこの後、布団の割り振りはどうなったのかな?
凄く、興味あります!




