第2話 姉弟喧嘩(1)
「まったく、いつまで居るつもりなんだよ」
ボクはそう言うと、香が作った朝食を口一杯に詰め込んだ。
「うーん、気が済むまでかな」
香はご飯を飲み込むと、ボクの気持ちを逆撫でするかのように惚けて言いやがった。
「なんなんだよ。だいたい、一晩だけって約束で泊めてやったんだぞ、それがもう一週間にもなるじゃないか」
ボクは不機嫌な声で言うと、ジト目で思いっきり香を睨みつけてやった。でも、まるで効果がない。
「いいじゃない。美紀ちゃんのお許しも貰ってあるんだから、貴司が困ることなんて、何もないでしょ?」
香は可愛く見えるとでも思っているのか、少し拗ねて見せた。だけど、そんなのに惑わされるボクじゃない。間発入れずに反論した。
「困る! お前が居たら、美紀を泊められない。第一、美紀がいつお前の居候を許したんだよ」
「あらぁ、無理しなくていいのよぉ。美紀ちゃんは両親と一緒に住んでるから、外泊なんて、そんな簡単には出来ないんだからぁ。それに、寝る時の布団まで貸してくれたんだもん、あたしがここで生活すること、許してくれたに決まってるじゃない」
香は、ボクを小莫迦にしたように言うと、休めていた箸を動かし始めた。
ったく、調子に乗ってると、そのうち犯すぞ。
だいたい、一組しかない布団を香が占領してしまったから、ボクはしばらく座布団で寝る羽目になったんだ。一晩なら我慢も出来るけど、これが三日も続くといい加減頭に来る。身体だって全然休まらないから、疲れが溜まって仕方ない。そんなボクを見かねた美紀が、おばさんに言って、布団を貸してくれたんだ。
それを言うにことかいて、香は美紀が居候を許可したと言いやがる。
美紀はボクの身体の心配をしただけで、香の居候を許した訳じゃないんだ。
とにかく早いところ、香には出て行って欲しいんだよな。
ボクは食事を終えると、鞄を肩に掛けて部屋を飛び出した。
起こしてくれる人が居るとはいえ、やっぱりギリギリまで寝ていることに変わりはないんだよなぁ。
大学に着くと、いつものように退屈な一日が始まった。
勉学に勤しんでいると言えば聞こえはいいけど、結局のところモラトリアムでしかない訳で、高尚なことなんて何一つやってない。まあ、そう言った意味では、ボクは極々普通の大学生ってことかな。
一時限目の講義が終わると、次の講義を受けるため教室を移動した。すると、そこには既に岡村が居て、ボクの顔を見るなりニコニコしながら声を掛けてきた。
「よお、今夜空いてるか?」
「あん? バイトだよ、知ってるだろ?」
「いや、そのバイトが終わってからさ」
「なんだよ。バイトが終わるの、一二時過ぎだぞ」
「いや~あ、香ちゃんに会ってみたいんで、お前ん家にお邪魔しよおかな~と思って。お前は美紀ちゃん一筋なんだろ? だったら、香ちゃんを紹介してくれたっていいじゃないか。お前がいつまで経っても紹介してくれないから、わざわざ俺から出向いて行ってやろうって言ってるんだ」
夜中に時間が空いてるかだなんて聞くから、なんのことかと思えば、そんなことかよ。
「断わる。あいつに会いたいんなら、ボクがバイトで居ない時にアタックしてくれ」
ボクはそう言い放つと、机に突っ伏した。
岡村は、高校時代からの悪友で、お互い第一志望の大学に落ちたら、たまたま同じ大学に通うことになったんだ。もっとも、二人とも何か志があって大学を受験した訳じゃないから、今の大学が第一志望でないと言っても、たいした問題はない。岡村が言うには、女の子と仲よくなれれば、何処の大学でもよかったらしい。
そんな岡村が家に来たいと言うからおかしいとは思ったんだが、要は香と仲よくなりたいってことなんだ。
ったく、ボクは香のお蔭で迷惑していると言うのに、いい気なもんだよ。
どうも、今日は朝から気分がよくない。元はと言えば、香が押しかけて来てからだ。香さえ現われなければ、朝からこんな不愉快な思いをしなくて済んだんだ。
「あ、美紀ちゃん。ねえねえ、聞いて聞いてぇ。貴司ちゃん、アノ日なの? ツンケンしちゃって、凄く意地悪なのよぉ」
「なに、岡村君。今度はオカマに走ってるの?」
美紀が来たのか、岡村が妙にオカマっぽい声で、美紀に話し掛けてる。
まったく、いい加減にしてくれ。
ボクは顔を上げると、美紀と岡村に視線を向けた。
「…………」
二人は何か話しているようだけど、全然聞き取れない。なんか、不機嫌を通り越して、無気力になってる。何もかも、やる気がないって感じだ。
教授が来て講義が始まると、ボクはない気力をなんとか振り絞って講義に集中した。もっとも集中していたのは、講義よりも美紀の背中を見つめることだったけど。
退屈な講義が終わると、隣りの席に居た岡村が勢いよく立ち上がった。
「じゃあ美紀ちゃん、さっきのこと頼んだよ」
「うん、判った」
岡村はスキップでもしそうなほど浮かれた足取りで、ボクに声も掛けずに教室を出て行った。
「美紀。今日は、何処で昼飯食う?」
ボクが声を掛けると、美紀は両手を合わせて頭を下げた。
「ごめんなさい。今日はちょっと約束があって、午後は駄目なんだ」
「なんだよ。ただでさえ一緒に居られる時間が少ないのに、何も土曜に約束入れることないだろ」
「仕方ないじゃない。貴司に都合があるように、私にも都合があるのよ」
「ったくなぁ……」
「ホントにごめんなさい。その代わり、この埋め合わせは近いうちに、必ずするから。ねっ(ハァト)」
美紀はもう一度両手を合わせると、小首を傾げた。
「ちっ、仕方ないなぁ。この埋め合わせは、絶対してもらうからな。覚悟しとけよ」
「判ってるわよ。じゃあね」
美紀はそう言うと、教室を出て行った。
「はぁ……」
今日は、なんだか全然やる気が起きない。別にだるいとかって訳じゃないけど、気分が悪いせいか、何もする気にならない。
帰って、夕方まで寝るか? いや、あいつの顔を見るともっと気分が悪くなるから、どっか茶店にでも行って、夕方まで時間を潰すか。
ボクは大学を出ると、駅の近くの喫茶店に入った。ホントは、コーヒーなら何杯でもお替わり自由なファーストフード店って言う選択肢もあったんだけど、長時間座る椅子の座り心地を考えて、喫茶店にしたんだ。
コーヒー一杯で四時間も居座るのは気が引けたんで、途中で一回茶店を替える。あとは、置いてあるマンガ雑誌を読み耽けるだけの時間。
だけど、ちょっと気を抜くと、すぐに別のことを考えている。
今日、美紀がデートをキャンセルしたのは、やっぱりアパートにあいつが居るからなんだろうか? 土曜は大抵の場合、二人でボクのアパートで夕方まで時間を潰すのが習慣になっていたのに、変な居候が出来ちまったからな。それで二人っきりになれないから、美紀は約束があるなんて口実を創って、デートをキャンセルしたのかも……。
そうだよなぁ。ボクと美紀の付き合いって、ホントに清いもんなぁ。愛し合うのだって、月に一回ぐらいだし……。アパートじゃ、壁が薄いから隣りに声が聞こえて出来ないし、かと言ってホテルは高いからなぁ。苦学生には、厳しい世の中だよ。せめて、ボクの部屋がワンルームのマンションだったら、もう少しなんとかなったかも。でも、それは現実的じゃないよな。現実的に考えれば、今はやっぱり香を追い出すに限る。そうすれば、たとえ愛し合えなくても、二人っきりの時間をもっと作ることが出来る。
だいたい、よく一週間も我慢できたと思うよ。男の部屋に、女が無防備に一週間も寝てたんだぞ。間違いが起こらなかったのが、不思議なくらいだ。香には、感謝してもらわないとな。普通だったら、襲われても文句を言えない立場なんだぞ。それをのうのうと過ごしやがって、我慢にも限界ってもんがある。もっとも間違いを犯したら、美紀がなんて言うか想像できるから何も出来ないんだけど。美紀のことだから、絶対に別れるって言うに決まってる。そうさ、どうせボクが惚れたんだよ。先に惚れた方が負けだって、ボクだって判ってる。だから今日だって、美紀に強くは言えなかったんじゃないか。それを人の気も知らないで、美紀は誰と会ってるんだ? 他に男が出来たとか?
「…………」
いや、美紀は二股をかけれるほど器用じゃない。いや、器用だとは思いたくない。
いかんいかん。気を抜くと、すぐに碌でもないことを考えてしまう。どうもここんとこ、あいつが居候するようになってから、ナーバスになってるな。
コーヒーを飲み、マンガを読みながらも、すぐ美紀のことに思いを巡らせてしまう。
美紀と出会ったのは、去年の春。ボクの取った講義を美紀も取っていて、最初の講義で偶然席が隣り同士になったんだ。
そこで意気投合したボク達は、すぐに付き合い始めた。
そして九月。まだ秋と言うには早すぎて、夏と言うには遅すぎる頃、ボクと美紀は結ばれた。以来、何度も愛し合った仲なのに、何故今日は……。
ボクの脳裏では、美紀の笑顔が現われては消え現われては消えを繰り返す。
マンガなんて、ちっとも読んでない。ボクの視線は紙面の上をなぞるだけで、描かれていることは少しも理解できない。
夕方になって、ボクはそのままバイト先の居酒屋に行った。
土曜日と言うこともあって、今夜は特に忙しい。店員が四人居ても、人手が足りない。
ボクの目の前には、次から次へと汚れた皿が積み上げられていく。そんな皿を、ボクは一人で洗っていく。だけど、それよりも早く注文が入る。仕方なくベテランの店員が厨房に応援に行き、ボクは逆に厨房から店内に出て注文を聞いたり料理を運ぶことになった。
とは言っても、馴れない仕事は手際が悪い。傍目から見ても、料理を運ぶボクの姿は危なっかしいと思う。ましてや、今日は美紀のことで落ち込んでいたから、余計に手元が覚束ない。
そこに、ボクと歳恰好が変わらない大学生風の四人組のグループが、三人連れのサラリーマンと入れ違いに入ってきた。何処かで飲んで来たのか、既に酔っぱらっている。
「いらっしゃいませー!」
威勢よく声を上げる。
その大学生のグループはテーブルに着くなり、他のお客の迷惑も考えずにバカ騒ぎを始めた。
「おい、ホッケまだかよ!」
追加注文をしてまだ五分も経っていないのに、その大学生達の一人が催促してきた。
「すいませーん。すぐお持ちしまーす」
まったく、ホッケがそんなに早く焼ける訳がないだろ。
ボクは心の中でツッコミを入れながらも、他の客の料理を運ぶ。
その間も、大学生達はまるで店を借り切っているかのように、大声でバカ騒ぎをしてる。
そんな大学生達を横目に、入り口脇のテーブルで一人飲んでいる常連の老人は、あからさまに嫌な顔をしている。ボクだって嫌な顔の一つもしたいけど、客商売なのでそうもいかない。
ボクは老人の所に銚子を持って行くと、老人に声を掛けた。
「済みません、騒がしくて」
「いや、君のせいではないんだ、謝ることはないよ。もっとも、彼等の常識は疑うがね」
老人はそう言うと、蔑むような視線を大学生達に向けた。
ボクだってそうしたいけど、アルバイトとはいえ居酒屋の店員には違いない訳で、グッと堪えてもう一度老人に謝った。
「本当に、済みません」
空になった銚子を厨房に持って戻ると、またしても大学生達が大声を上げた。
「おーい、ホッケまだかぁ?」
「ついでに、ナマふたっつー」
目が回る忙しさとは、このことだ。
「はーい、ただいまぁ」
とは言ったものの、直後に出来上がってきた料理は、他のお客のだ。
ボクは急いで料理を運ぶ。次から次へと料理が出来上がってきて、冷めてしまってはせっかくの料理が不味くなってしまうからだ。
だけど、そんなこっちの都合なんかまったく考えない大学生が、また大声を上げた。
「ビールまだかよぉ?」
「おっせぇぞ! さっさと持って来いよぉ」
一瞬、店内に居た他のお客の視線が、一斉にその大学生に集中する。
みんな、コイツ等のバカ騒ぎを迷惑に思ってるんだ。
とにかく、ビールだけでも出して、彼等を黙らせてしまおう。
「はいっ、お待ちぃ」
生ビールのジョッキをテーブルに置くと、大学生の一人が嫌味を言ってきた。
「ったく、おせぇんだよ。このグズがっ」
そう言うと、そいつはタバコの煙りを吹きかけてきた。
「うっ……」
煙りが目に染みて、滅茶苦茶痛い。
なんとか空のジョッキと皿を手にしたけど、目を開けていられない。それでもこんな所に突っ立ってる訳にはいかないから、目が痛いのを我慢して瞬きをしながら厨房に戻ろうとした。
しかし、歩き出した途端、何もないはずの所でボクは何かに躓いた。
アッと思った瞬間には、もう遅かった。ジョッキや皿を放すと、転んでしまった。
ガシャーン!
店内が一瞬静まると、大学生達がドッと笑いだした。
「ギャハハハ……。ダッセェー」
「ホント。コイツ、トレェなぁ」
ボクは一瞬何が起きたのか判らなかったけど、すぐに判った。タバコの煙りを吹きかけてきた大学生が、わざと足を出してボクを躓かせたんだ。
幸いジョッキは空だったんで、お客にビールを掛けずに済んだし、ボクも転んだとはいえ怪我はしなかったようだけど、ジョッキは転がり、皿は割れて飛び散ってしまった。
そしてボクが冷静でいられたのも、ここまでだった。
「おい。人の足を蹴っ飛ばしといて、謝りもしねぇのかよ」
「なっ……」
いくらお客とはいえ、やっていい事と悪い事がある。今のは、どう考えたって悪戯の範疇を越えている。
ボクは立ち上がると、その大学生に詰め寄った。
「なにを! 足を出して転ばせたのは、お前の方だろが!」
美紀のことで、ただでさえ苛ついているのに、こんなことをされたらボクだってブチ切れちまう。怒りで、自分の手が震えているのが判る。
「なんだとぉ。それが客に対する態度か」
大学生は怒鳴られるとは思っていなかったらしく、逆ギレしやがった。
「どうした!?」
声の主は店長だ。皿の割れる音と客の怒声に、厨房から出てきたんだ。
「このお客が、わざと足を引っ掛けて、ボクを転ばせたんです。それで、お皿が割れて……」
ボクが説明すると、店長は床に散らばったガラスの破片を見渡した。けど、すぐ大学生に向き直ると、頭を下げた。
「誠に済みませんでした。お客様に、お怪我はございませんでしたか?」
「ああ、怪我はしてない」
大学生は、謝るのが当然だと言わんばかりに、フン反り返って答えた。
その態度が、ボクの心を逆撫でする。
ホントに、いけ好かない野郎だ。
「それは何よりです。ホラッ。お前も謝らないか!」
店長はそう言ってボクの腕を引っ張ると、大学生達の前に立たせて、その手で無理やり頭を下げさせた。
「ちょ、ちょっと店長」
頭を下げさせようとする店長の手に抵抗して、ボクは頭を上げようとする。
「いいから、謝らないか!」
「て、店長。なんでボクが謝らないといけないんですか?」
ボクはコイツの足を蹴ってもいないし、何も悪いことはしていない。なのに、なんでコイツに頭を下げなきゃならないんだ。
「バカ野郎! お客様にご迷惑をおかけしたんだ、謝るのが当然だ」
「でも……」
「でももヘチマもないっ。とにかく謝れ!」
クソォ……。
「……す、済みませんでした」
ボクは謝りたくなかったけど、渋々頭を下げると謝った。
まったく。誰が見たって悪いのはコイツで、ボクは被害者だって判るはずだ。それを、なんで店長はボクに謝らせるんだ? 謝らなきゃいけないのは、絶対コイツなのに。
ボクはホントに、涙が出そうなほど悔しかった。
と言うことで、ボクは苛々を積もらせたままアパートに帰ってきた。
いやー、こんなお客、居るもんなんですよねぇ。