第1話 朝、目が覚めたら姉が居た(2)
大学に着くと、思った通り遅刻した。
教室の後ろから静かに入ると、いつものように学生は四分の一ほどしか居なく、大きな教室が余計広く感じられる。
ボクは指定席とも言える真ん中の席に着くと、テキストとノートを机に広げた。
この教授は、出席を取らないから余計出席率が悪いんだけど、ボクはこの教授の講義が好きだから遅刻しないようにしてるんだ。もっとも土曜の朝一番だから、前日のバイトがきつくてシンドイんだよな。それに、今日は朝から変な女が現われて、無駄な時間を取られたし、まったく朝から碌なことがない。
何事もなく講義が終わると、ボクは次の講義を受けるべく教室を出た。
次の講義は、何がなんでも受けないといけない。美紀と一緒に居られる、数少ない時間のひとつなんだ。
美紀と付き合いはじめて一年ちょっと。会えるのは同じ講義と、講義のない土曜の午後だけ。平日は、夕方の六時から一二時までバイトがあるから、殆ど会えない。会えたとしても、バイトが始まるまでの一、二時間ぐらい。それに美紀は自宅から通っているから、バイトが終わってから会う訳にもいかないし、結構辛い。
だから、美紀と同じ講義は貴重なんだ。
教室に入ると、悪友の岡村が居た。
「よっ、岡村。相変わらず早いな」
ボクは声を掛けると、岡村の隣りに腰を降ろした。
「別に……。次の講義は道楽だからな。土曜のメインは、クラブだから」
岡村はそう言うと、ニヤリと笑った。
そうなんだよな。岡村のヤツは、大学に勉強しに来てるのか、遊びに来てるのか、よく判らないんだ。
ボクはバイトで忙しいから、クラブやサークルには入ってないけど、岡村は数あるテニスサークルの一つに入ってるんだ。ただこのサークル、土曜の午後に、数少ないテニスコートの内の四面を押えているから、やたらと女子部員が多いんだ。もっとも、そのコートを押えるために、大分岡村が走り回ったようだけど。
「ところで、美紀ちゃんは?」
岡村は、教室内を見渡してからボクに聞いてきた。
「いつものことだ。もう少ししたら、来るだろ」
ボクも教室内を見回して、美紀が居ないのを確認すると答えた。
「いやー、今朝は参ったよ。目が覚めたら、知らない女がいつの間にか部屋に上がり込んでて、朝飯を作ってくれたのはいいとしても、ボクの姉貴だなんて言うんだ。まったく、嫌んなるよ」
ボクはボヤクと、グッタリと机に突っ伏した。
「なんだよ、そりゃ。知らない女が、朝部屋に居る訳ないだろ。どうせ昨夜は酔っ払って、何処かで引っ掛けた女とよろしくやったんだろ」
「ボクがそんなこと、やる訳ないだろ。昨夜は呑んでないし、バイトが終わってから真っ直ぐ帰ったんだぞ。第一、ボクには美紀が居るんだ。今更女を引っ掛ける必要なんてないよ」
それに、そんなことをやったなんてバレたら、美紀に絶交されちまう。
「でもなぁ。それって、結構美味しい話じゃないか? ある日、一人暮しの男のアパートに可愛い女の子が押し掛けて来て、そのまま一緒に暮らすとかさ。ある朝、目が覚めたら同じ布団の中に裸の女の子が寝ていたなんて、マンガや小説だったら、ドラマの始まりじゃないか。それから恋が芽生えて愛になり、最後は互いに愛を確かめ合ってハッピーエンドで終わる。これって、男にとっちゃ夢じゃないか。なんたって、女を口説く手間がかからないし、棚から牡丹餅だもんなぁ」
岡村は羨ましそうに言ったけど、ボクはそんな気になれない。
「確かに、恋人の居ないお前にとっては美味しい話かもしれないけど、ボクには美紀が居るんだ。トラブルの元になっても、美味しい話なんかじゃないよ」
それに、死んだはずの姉貴だなんて言うんだから、ホント頭に来る。
「でもその娘、可愛かったんだろ?」
「ああ、結構可愛かったよ。見た感じ、着痩せするタイプかな。脱がした訳じゃないから判らないけど、出るトコは出て、引っ込んでるトコロは引っ込んでる、なかなかのグラマーだと思うよ。タイプ的には、そうだなぁ……、雰囲気がちょっと美紀に似てるかな」
そうか、朝感じたあの感覚は、これだったのか。
ゴツン!
痛てぇ!
ボクは痛みと衝撃に、声にならない悲鳴を上げた。突然、頭の後ろから殴られたんだ。それも机に突っ伏していたから額を机にぶつけて、後頭部と額の両方が痛い。
「何すんだよ!」
ボクはムッとして顔を上げると、殴ったヤツを見上げた。
膝上までのデニムのタイトスカートに白のサマーセーター、それなりにボリュームのある胸、肩まであるストレートヘア、そして良く知った顔。
「み、美紀……」
ボクは思わず絶句した。そこには、美紀が腕組みをして立っていたんだ。
ヤバイこと、聞かれたな。
「美紀、いつからそこに居たんだ?」
「結構、可愛かったよってトコから」
美紀は、ムスッとした表情で言った。
ボクの目の錯覚か、肩までしかない美紀の髪が、逆立って見える。
ヤバイなぁ。美紀のヤツ、怒ってるよ。
「岡村。お前、美紀が居るの知ってて、可愛かったかって聞いたな」
ボクが岡村を睨みつけると、岡村は惚けた顔で答えた。
「いや、俺も知らなかった」
コイツ、やっぱり知ってて言いやがったな。
「で、何処の誰が可愛くて、グラマーだって?」
険のある声で、美紀がボクを睨みつけてくる。
「あ、いや、その……。朝、ボクの部屋に勝手に上がり込んで来た知らない娘のこと。でも、すぐに追い出したんだぞ」
「ふーん。で、なんて名前なの?」
「知らないよ。彼女は、月島香って名乗ってたけどな」
「同じ名字だなんて、まるで夫婦じゃない」
美紀は、相変わらず怖い顔でボクを睨んでいる。ボクの彼女とはいえ、怒った時の美紀はホントに苦手なんだ。
「だから、ボクはホントに彼女のことは知らないし、何もなかったんだよ。第一、ボクには美紀が居るんだから、そんなことする訳ないだろ」
「そんなことって、どんなことよ」
こういう時の美紀は、とことん意地悪になる。だからボクは、苦手なんだ。
「だからそんなことって言うのは、女の子を連れ込むことだよ」
ボクは、別に悪いことをした訳でもないのに、ちょっと口篭ってしまう。
「ふーん。貴司は、私に隠れてそんなことやってるんだ」
「だからそんなことはやってないって、さっきから言ってるじゃないか。なんで信じてくれないんだよ」
「話を逸らさないの。それでその娘とは、何処まで行ったの?」
「それは誤解だって。ボクは女の子を連れ込んでないし、何処にも行ってないよ」
ボクが懸命に弁解しても、美紀はまったく信じようとはしない。それに岡村は、黙ってニヤニヤしてるだけだし、まったく頭に来るなぁ。
「おい、岡村。黙ってないで、お前も何とか言ってくれよ」
「そんなこと言われても、俺はその娘に会ったことないし、なんとも言えんなぁ」
岡村はそう言うと、そっぽを向いた。
くそぉ、今に見てろよ。
だいたい、なんでボクが美紀に怒られなきゃいけないんだよ。怒られるようなことなんか何もしてないし、悪いことなんて何一つしてないんだぞ。
「だいたいボクは、悪いことは何もやってないんだ。なんで、美紀に怒られなきゃいけないんだよ」
「ふーん。そういうこと言うの? じゃあなんで、見ず知らずの女の子が、貴司に朝食を作ってくれるのよ」
美紀の視線が、グサリとボクの胸に突き刺さる。
ゲッ! 始めっから聞いてるんじゃないかよ。
「だから、彼女が勝手に上がり込んで、勝手に作ったんだよ。その証拠に、大学に来る前に彼女を追い出したんだから、食器とかはそのままになってるよ。嘘だと思うんなら、講義が終わったらアパートに来てみろよ」
「いいわよ。確かめに行って上げる」
「よーし、絶対だからな」
ボクは力を入れて、念を押した。
もっとも、土曜日は美紀がボクの部屋に来ることが多いんで、いつも通りと言ってもいいかもしれない。
そこへ、タイミングよく教授が入って来た。これでしばらくは、美紀の怖い視線から逃れられる。
美紀はボクの前の席に座ると、講義に専念した。と思う。後ろからじゃ、よく判らない。ただ、ノートは取っているみたいだから、ちゃんと講義を受けているんだと思う。もしノートに、『貴司のバカ、貴司のバカ』って永遠に書き続けていたら、ちょっと怖いぞ。なんとか機嫌を取らないと、ホント、マジでヤバイよ。
一度悪い方向に考えると、あとは止めどがない。悪い方へ悪い方へと考えが行って、もう止めることが出来なくなる。
もうこうなると、講義どころじゃない。どうやって美紀の機嫌を取るか、それしか考えられない。
何かいい方法はないかな。
多分、いくら本当のことを説明しても聞いてくれないだろうし、かと言って、本当のことを説明しなかったら却って話が拗れるだろうからな。まったく、どうしたらいいんだよ。
う――ん、う――ん。
講義なんかそっちのけで、ボクは唸ってばかりだ。
講義が終わったら、まずはゆっくり話せる所へ行こう。この際だから、学食とかはやめて、何処かの洒落た茶店がいいな。そこで美紀を落ち着かせて、それから説明すれば判ってくれるはずだ。
いや、でもな……。気の強い美紀のことだから、茶店に行くことを拒むかもしれない。そしたらどうしよう。
う――ん、どうしたらいいのか判らない。
だいたい、仮に話を聞いてもらえるとして、どうやって説明すればいいんだ? さっきの説明を信じてもらえなかったら、他に説明のしようがないんだよな。
ボクは、講義も上の空であれこれ考えたけど、結局なにもいい解決策が見つからないまま講義が終わった。
「は――あ」
「なに溜息なんかついてんだよ。悪いのはお前なんだから、美紀ちゃんにさっさと謝っちまえよ」
ボクがノートを鞄に入れてると、岡村がニヤケた顔で言ってきた。
まったく、好き勝手なことを言いやがって、少しはボクの立場も考えろよな。
「お前なぁ。ボクは何も悪いことはしてないし、美紀に謝らなければいけないようなこともしてないんだ。だから、誤解されるような、そういう言い方するなよな」
「誤解も何も、朝起きたら女の子が朝飯を作っていた。それは事実なんだから、美紀ちゃんに謝るべきだぞ」
「だから、それはボクが部屋に入れたんじゃなくて、彼女がいつの間にか入って来て、勝手にやったことなんだ。何度言ったら判るんだよ」
「いいじゃないかよ。どっちにしたって、両手に花なんだからさ。今度、俺にもその娘を紹介しろよな」
「あのなぁ。それが誤解だって、言ってるんだよ。第一、追い出しちゃったんだから、もう会うこともないんだよ」
「そりゃ残念。俺もその娘に、朝飯作って欲しかったんだけどな」
岡村は、本当に残念そうに言った。
岡村と一緒に居ると話が拗れるから、さっさと美紀を連れて何処かへ行こう。いや、岡村を追い払った方が早いか。
「お前が居ると、美紀が余計誤解するから、さっさとクラブに行っちまえ」
ボクはそう言うと、犬を追い払うように手を振った。
「判ったよ。美紀ちゃんも、あんまり月島を虐めるんじゃないぞ。じゃあな」
いつもなら講義が終わると振り向いてくるはずの美紀の背中に声を掛けると、岡村は軽い足取りで教室を出て行った。
はあ……。これで、やっと落ち着いて美紀の誤解が解ける。
まずはその前に、昼飯でも奢って、機嫌を取っておくか。
「美紀。昼飯奢るから、どっか食べに行こうぜ」
「ホント!?」
美紀は嬉しそうな声を上げると、勢いよく振り向いてきた。
「ああ」
「だったら私、美味しいお店知ってるから、そこに行きましょう」
美紀はニコニコしながら、声を弾ませて言った。
なんだか、填められたような気がしてきたなぁ。まあ、仕方ないか。






