第1話 朝、目が覚めたら姉が居た(1)
トントントントン……。
ん――。るさいなぁ。
ボチャボチャボチャ……。
「熱っ!」
ったくぅ、騒がしいなぁ。
「貴司、起きなさい。早くしないと、遅刻するわよ」
いい加減、ゆっくり寝かせてくれよぉ。昨夜はバイトで、遅かったんだぞぉ。
ボクは、寝惚け眼で枕元の目覚まし時計に手を伸ばした。
目覚まし時計を目の前に持ってきたけど、目蓋は鍵の掛かったシャッターのように開かず、全然見えない。
「何やってるの、もう七時半よ。早く起きなさい」
あー、まだ夢見てるのかな。聞こえるはずのない声が聞こえる。それにこの匂い、なんか懐かしいな。なんの匂いだろ。……そうか、味噌汁の匂いだ。高校までは、毎朝お袋の作る味噌汁の匂いで目が覚めたっけな。今は一人暮らしだから、起こしてくれる人も居ないし、味噌汁の匂いで目が覚めることもないんだよな。
「貴司。早く起きないと、お味噌汁が冷めちゃうわよ」
目を開けて身体を起こそうとするけど、睡魔には勝てない。目も開かなければ、身体も全く動かない。唯一動いたのは、習慣になってる目覚まし時計を取る腕だけ。
「ほら、起きなさい!」
声と共に、ボクがくるまっていた毛布がいきなりひっぺがされた。
「!」
ボクは無意識のうちに毛布へ手を伸ばすと、毛布を奪い返して抱え込む。
「いい加減にしなさい!」
ペシッ!
痛て!
声と同時に、お尻を思いっきりひっぱたかれたんだ。
て、美紀が来てるのか?
ボクは重い目蓋を必死に押し上げると、すぐ横で膝立ちしている人を見上げた。
霞んだ人影が、段々ハッキリしてくる。
チェックの赤いシャツブラウスに、ジーンズを穿いている女性だ。サラサラのロングヘアーで、年の頃はボクと同じぐらいかな。で、誰だ?
「!?」
ボクは思わず飛び起きると、後退った。
「だ、あ、あ……、誰だ!」
驚きの余り、舌が回らない。
そりゃそうだ。そこに居たのは、お袋でもなければ、美紀でもない。何処の誰だか、全然知らない女性なんだから。
「何寝惚けてるの。ご飯が冷めちゃうから、早く着替えて食べちゃいなさい」
彼女は何事もなかったかのように言うと、それが当然といった感じで布団を片しはじめた。
「ちょっと待てよ。君は一体誰なんだ。それに、どうやって部屋に入って来たんだ」
そう、ボクは彼女のことを全く知らない。大学のクラスメイトでもなければ、バイト先の居酒屋で一緒に働いてる娘でもないし、ましてやその居酒屋で知り合った娘でもない。
第一、どうやって部屋に入って来たんだ? 恋人の美紀にすら、部屋の鍵は渡してないんだぞ。まさか、居直り強盗。て、そんな訳ないか。こんな可愛い娘が、一人で強盗なんかする訳ないもんな。じゃあ、どうやって入ったんだ。昨夜は部屋の鍵、掛け忘れたのか?
ボクはそんなことを、ぼんやりと彼女の後ろ姿を眺めながら考えていた。
ボクの名前は月島貴司、二〇歳の大学生だ。実家は新潟で、今は都内のアパートに一人暮しをしてる。もっとも、親からの仕送りだけじゃ足りないんで、夜は駅前の居酒屋でバイトをしている。時給は余りよくないけど、店長がとってもいい人で晩飯を喰わせてくれるから、結構気に入ってるんだ。
「何ボーッとしてるの、さっさと着替えなさい!」
「はい!」
布団を片し終えた彼女が突然怒鳴るもんだから、つい条件反射で返事をしてしまった。
あー、驚いた。でもこの感じ、何処かで……。
ボクは彼女に急き立てられるようにして立ち上がると、服に着替えた。
着替えて一息ついたせいか、ボクはちゃぶ台の上に朝食が並んでいるのに気がついた。
ご飯に味噌汁、それに目玉焼。
そうか、さっきの味噌汁の匂いは、これだったのか。
て、こんな呑気なこと、考えてられないんだ。
「君は……」
「そんな所に突っ立ってないで、さっさと食べちゃいなさい」
「あ、ああ……」
彼女に言われて、思わずボクはちゃぶ台の前に座ってしまった。
なんだかな。何も悪い事してないのに、どうも彼女に怒られてるみたいで、つい彼女に従っちゃう。
それにしても、朝食なんて本当に久し振りだ。
彼女は勝手に食べはじめていたけど、ボクは食べるのをちょっと躊躇った。人の家に勝手に入って来た得体の知れない人の作った物なんて、怖いじゃないか。もしかしたら、毒が盛ってあるかもしれないもんな。
「どうして食べないの? せっかく作ったんだから、残さず食べてよね」
ボクは仕方なく、箸を手にした。
まあ、常識的に考えれば、毒が盛ってある訳がないし、ボクは殺されるようなこと、何もしてないもんな。
それでもボクは、少しでも変な味がしたらすぐ吐き出せるように、ご飯をゆっくりと口に運んだ。
ほんの少しのご飯を口に入れ、ゆっくりと噛み締める。
うまい! 美味しく炊きあがってる。
ボクが作ると、べちゃべちゃに水っぽくなったり、固くなったりして上手にできないんだけど、これはふっくらとしてホントに美味しい。お米が立つとは、このことを言うんだな。
ご飯が美味しいと判ると、味噌汁にも期待しちゃう。
ボクはお椀を手にすると、一口啜った。
これも美味しい。薄過ぎず濃過ぎず、丁度いい味加減だ。
結局、ボクはご飯のお替わりまでして、朝食を平らげてしまった。
「美味しかったでしょ?」
彼女はニッコリ頬笑んで聞いてきた。こうして見ると、結構可愛いじゃないか。でもボクは、わざとぶっきら棒に答えた。
「ああ、確かにね。で、君は一体何処の誰で、どうやって入って来て、何を企んでいるんだ?」
ボクが射抜くような視線で睨みつけると、彼女は少し悲しそうな顔をして言った。
「そうね。貴司はあたしのこと、知らなくて当然かもね。でも、あたしは貴司のこと、なんだって知ってるんだから」
「そんなことは、どうだっていいんだ。君は一体、誰なんだ」
「あたしは月島香、あなたのお姉さんよ」
「はあ?」
「あたしは月島香、弟の名前は貴司。つまり、あたしはあなたのお姉さんなの」
冗談じゃない!
ボクは頭に血が昇っていくのを自覚した。
「あんたなぁ。どういうつもりか知らないけど、ボクには姉貴なんか居ないんだ。どうせ嘘をつくんなら、もっとマシな嘘をついたらどうだ」
「嘘だなんて……。お父さんやお母さんから、あたしのこと聞いたことないの?」
「確かに、親父やお袋から聞いたことがあるさ。けど、墓参りにも行ってるんだぞ。これがどういうことか、判るだろうが!」
そう、確かに本当だったら、ボクには二つ歳上の姉貴が居るはずだった。けど、ボクが産まれる半年ほど前に、親父達が住んでいたアパートが火事になって、一人で留守番をしていた姉は焼け死んだんだ。お袋が、アパートの隣りの家に回覧番を持って行った、ほんの数分の出来事だったらしい。冬で空気が乾燥していて、アッと言う間に火はアパート全体に燃え広がったんだと親父から聞いたことがある。
その焼死した姉貴が、こんな所にのこのこ現われる訳がないだろ。
「判るわよ。だからあたしは幽霊だし、鍵の掛かった部屋にも入ってこれたんじゃない」
「…………」
コイツ、何ボケたこと言ってんだ。幽霊なんか、居る訳ないじゃないか。それに居たとしても、朝っぱらから出て来る幽霊なんて居やしないよ。
バンッ!
「冗談にもほどがあるぞ。なに企んでるのか知らないけど、出て行ってくれ!」
ボクはちゃぶ台を叩くと、大声で怒鳴った。
「嘘でも冗談でもないわよ。ホントにあたしは幽霊で、あなたの姉なの。お父さんやお母さんの名前だって知ってるし、お爺ちゃんやお婆ちゃんの名前だって知ってるわよ」
彼女は、キッと鋭い視線でボクのことを睨んできた。
「そんなもん、ちょっと調べりゃ判るだろ。そんなこと知ってたって、ボクの姉貴だって証明にはならないよ。第一、幽霊だって言うんなら、なんで一歳で死んだ赤ん坊が大人の幽霊になって出て来るんだよ」
あー、腹立ってきた。
人の家庭事情に立ち入ってきて、それも余り触れられたくないことをギャーギャー言うなんて、コイツ常識ってもんを知らないんじゃないか?
「死んでから成長したって、いいじゃない。あたしはもっと、人生を満喫したかっただけなんだから」
「そんな非常識な幽霊が居るか! 第一、幽霊なんか居る訳ないだろ」
「居るわよ」
「何処に居る?」
「あたしと言う、歴とした幽霊が、ここに居るじゃない」
「あー、判らんヤツだなぁ。そんなこと、信じられる訳ないだろって、さっきから言ってるじゃないか」
ホント、コイツと話をしてると、ムカムカしてくる。
いくら可愛くたって、こんな訳の判らない娘とは関わりたくない。こりゃ、さっさと出て行ってもらうに限るな。
「とにかく、ボクはこれから大学に行かなくっちゃならないんだ。だから、出て行ってくれ」
ボクは頑とした態度で言ったけど、彼女は全然意に介さず、ケロッとした顔で言った。
「やーよ。なんで弟を心配してきた姉のあたしが、追い出されなきゃいけないのよ」
もう八時も回ってるし、こんなこと、ちゃぶ台を挟んでいつまで口論してたって埒があかない。こうなったら、実力行使で追い出すしかないな。
ボクは立ち上がると部屋の隅に置いてあった鞄を肩に掛け、ちゃぶ台を回って彼女の腕を掴んだ。
「痛い! 何すんのよ」
彼女がボクを咎めるような視線を向けてきたんで、ボクはちょっとだけビビッたけど、意を決して彼女を強引に立ち上がらせた。
「幽霊ごっこは、もうおしまい。ボクは大学に行くから、出て行ってくれ」
ボクは、彼女を強引に玄関まで引き摺って行く。
「ちょっと待ってよ。ちゃぶ台だって片付けないといけないのよ」
「ちゃぶ台は、帰って来たらボクがやるからそのままでいいよ」
彼女が必死に抗議してくる。
それに応えてしまうボクも、結構お人好しかも知れない。
いつもだったら朝飯なんか食べないから、片付けなんか必要ないのに。結局、仕事が増えちまった。
部屋を出て鍵を掛けると、ボクは彼女にキッパリと言った。
「いいか、もうボクの前に現われるんじゃないぞ。判ったな」
彼女はプイッとそっぽを向くと、そのまま階段を降りてアパートを出て行った。
まだ八時過ぎだと言うのに、今年は空梅雨のせいかもう暑い。駅まで歩くのに、じっとり汗ばんでしまう。
もうすぐ夏休みだし、もう梅雨は明けたのかもしれないな。いや、まだ梅雨入りしていないのかも。