新章 【違ってしまった唯一の彼女 堕】
くるくるくるくる。
廻る巡る。
彼女だけが廻る。
彼女だけに廻る。
彼女だけが巡る。
彼女だけに巡る。
彼女だけが――押し付けられる。
彼女だけに――見せつけられる。
絶望の底。
絶望の根。
一番深く。
一番下で。
最も……不幸な彼女は。
絶望の運命を這う。
そうして終わりの刻は訪れてしまう。
その刻。
その瞬間。
何もかもが滅び、無に還ってゆく瞬間。
唯一人。
彼女だけが笑っていた。
なにもかもを奪われた彼女の嫉妬。
無限の嫉妬だった。
理不尽は許せない。
許せないのだ。
彼女は――崩壊と滅亡のワルツを踊りながらひたすら泣き叫んでいた。
“消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ”
星々が砕け、節理が意味を失い、光は失われ。
彼女は世界から全てを奪った。
彼女は、己に降りかかった不幸が理不尽だと気付いてしまったのだ。知ってしまったのだ。
それは世界にとって致命的だった。
最害、最悪、最賢、最凶の居ない世界には、彼女を止める術がなかった。
障害と悪意と知識と凶気を欠いた脆弱な世界は、彼女を受け入れるしかなかった。
それは償いだったのかもしれない。
総ての犠牲となった彼女に対しての。
当時、死神と名乗っていた女性への。
【統界執行員記録:ID928‐ブレイク・ザ・ワールド】
◆ ◆ ◆
旧魔導社の崩壊。
基底空間から隔離された裏側の空間に存在した今回の元凶の一つとも言える場所は、空間を捻じ曲げ引き千切るが如き惨劇と準の攻防の末、混沌の渦に呑まれていった。
惨劇のカタストロフ。彼女達が起源への扉を開き、無事にその中へ入って行ったのかは知ることができない。
ただ、旧魔導社から生還した里原準と、死神ロシュと、ケット・シーは、元の空間へと戻ってくることができた。
つまり、世界は変わらなかった。壊れなかった。
惨劇は言葉通り、世界を壊し創りかえることをしなかったのだろう。
かくして異界を震撼させた大事件、惨劇の宴は終わりを迎えた。
ただ……。
宴の終わりと同時に、新たな物語は既に始まっていた。
はたしてそれはどんな物語なのか。
日常へと戻り、幸せを描く物語なのか。それとも――。
運命は大きく分岐する。
分岐し続ける世界に於いてですら、その分岐はとても大きな分岐。
天高く伸びる枝と、地へ頭を垂らす枝。
この分岐は、極限を分かつ分岐であった。
惨劇と別れ、旧魔導社から脱出すべく飛び込んだ亜空間の中。
ケット・シーも準も、激闘の反動で気を失っていた。
その中で、死神ロシュだけが見て、聞いたもの。
そう。
そこで〈それら〉はロシュにのみ、語り掛けてきた。
声は二つ。
二つは全く別のモノ。
一つ目は、確かに生きている者の声。
二つ目は、生死の概念をも超えた声。
一つ目の声は――自分を〈ソロモン〉と名乗った。
◇ ◇
【クリエイター・ソロモン】
『初めまして。に、なるのかな?』
その優しい口調に、ロシュは敵意を感じなかった。
「誰なの?」
『僕の名はソロモン。クリエイター・ソロモンと呼ばれている』
「何者なの?」
『君達の世界に縁を結んでしまった者さ。結んだからには、君たちの世界にも一層気を向けなければならない。と言っても君にはよくわかんないか』
「私の名前は君じゃなくて、ロシュケンプライメーダ!」
笑い声が響いた。
『おっと、すまない。そうだったね、ロシュケンプライメーダ。そうそう、この頃の君の名前はそれだ』
「へ?」
『いや気にしないでくれ。それはそうと――惨劇のカタストロフ撃退、おめでとう』
「……それを言う為に?」
『ふふ、本当の目的はちょっと違うかな。惨劇のカタストロフが居なくなり、そして彼女が世界の創りかえを諦めた事で、ひとまずこの世界の運命は崩壊を免れた。それでも僕はまだ安心できない。まだ……この世界の運命は、揺らいでいる。その原因は、残念だけど僕程度の存在では知ることができないんだ』
「え……!? 惨劇の他にも、この世界を壊そうとする奴が居るってこと!?」
『いや……。惨劇ほどの力を持った強大な存在を超える者は、他の世界を巡ってもそうは居ない。そして、彼女は完全破壊ではなくあくまで世界の創りかえを望んでいた。故に僕も静観していた。君達にとっては不都合かもしれないが、僕にとっては世界の根底が変わらなければ不変と同義だからね』
ロシュはじっと、声に耳を傾け、重く口を開いた。
「でも、惨劇の宴すら見守るだけだった、そんなアナタが干渉してきたということは……」
『そういう事だロシュケンプライメーダ』
「どうして私に……!?」
『君が、大きく関わってくる事までは解ったからだよ』
「わ、私が?」
『うん。だから僕は、君に警告をしに来た。〈ここ〉が、大きな運命の分岐点となるからだ。いいかい、これから言う事をよく聞くんだ。いいね!?』
口調を強めたソロモンの声に、ロシュは臆しながらも頷く。
『運命に抗え。抗うんだ。一手一手が未来を大きく変える。だから、絶対に運命の言うとおりになってはいけない。君は、他の君達とは違ってしまったんだ』
「な、なにを言って――」
『君だけが与えられなかったんだ……! でも、抗えば、抗えばなんとかなるかもしれない! 君は君の心に従うんだ! いいかい――愛す――が――んで――も――』
ソロモンの声にノイズが混じり、聞き取りづらくなってきた。
『く――っ! 起源に――見つ――った――!』
「え? え!?」
『――れ! 頑――れ――! が――んば――れ! ロシュ――メ――ダ――! ん――に――、さ――には――なるな!!』
ここでソロモンと名乗った男の声は途切れてしまった。
ロシュには、彼の言っている事がさっぱり理解できずにいた。
彼が本当に何者なのかもわからないままだ。
それでも、ソロモンは自分と世界の安否を気遣って、現れたのだという事だけはわかった。
しかし……ソロモンの想いも、全ては徒労に終わる。
その直後に聞こえてくる二つ目の声は、彼よりもずっとロシュの内側へと入り込み、彼の言葉の一切をロシュの中から消し去るほどの衝撃を与えるのだから。
運命は誰も望まぬ方向へと進みだす。
高みを目指した枝はその先を地へと向け始める。
◇ ◇
亜空間から出た死神と里原準、ケット・シーは海上に落ちた。
ロシュはともかく傷だらけの彼らが潮水に浸るのはかなりまずいと危惧したが、共に亜空間から落ちた無限回廊の柱の欠片によって心配は解消された。
電気も通し、水に浮く素材でできた柱の欠片。硬度もかなりある。
無限の空間で無限に伸びていたという本来なら存在しえない柱は、砕かれて長さを手に入れたことでその特異な材質を筏の代わりに用いられることとなった。
ぷかぷかと波に揺れる。
その上で、ケット・シーと準は眠る。
死神ロシュは――青ざめた顔で目の色を失っていた。
(………)
恐怖と失意。それを一気に浴びたかのような表情。
悪寒が走り続けているのか、準の手を握ったまま全身が震えていた。
(こ、このまま……準くんと二人で……)
その時だった。
『おおーーーい!』
『デストロおーーーイ!』
ふと見上げれば、遠くに砂浜が見えた。
そこで手を大きく振る二つの人影。
ベルゼルガと神楽の姿があった。
(……ぐ……私、今……なにを……)
(でも……準くんの傍に居ないと……ずっと居ないと……!)
不安定で捻じれた亜空間の影響で、元の空間は三日経っていた。
(離れちゃダメ……絶対に……準くんと私は離れちゃダメ……!)
◆ ◆ ◆
【救助後。魔導社管理下医療施設】
――誰も……。
――誰にも……。
「ロシュ! そこを退くんだ!」
――何人たりとも……。
「死神様! 里原様をこちらに!」
「ラビット、里原君の吐血が激しい……。力づくで死神ちゃんを抑えるしか」
「くそ、なんたってこんな……。デストロイわけがわかんねえ」
「……く。お願いしますジャッカル……ベルゼルガ!」
――渡さない。
――わたさない。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だあああああ! 放して! 放してよおおおおおおおお!」
「お願いだからじっとして下さい! ベルゼルガ、鎮静剤を!」
「里原は大丈夫だ! 大丈夫だから、な? てめえどうしちまったんだよ、一体〈何を見た〉!?」
「何をしたってもう駄目なの! なんでわかってくれないの! 私と準くんが離れちゃ駄目なの! うああああああああ!」
「ベルゼルガ早く!」
「畜生……!」
「返して! 返せえええええ! 重力結界テラ・グラビ――」
◇ ◇ ◇
里原準の収容された医療施設。此処も魔導社が管理・運営するものだ。
その院長室では、院長ではなく、別の二人が向かい合わせのソファに座っていた。
片方――地獄旅館こと、地獄アジア支部長の閻魔は、眉間を抑えて唸った。
「……で、里原はどうだ?」
問われたもう片方――魔導社社長のラビット・ジョーカーもまた、腕を組み、斜め下に視線を落としていた。
「なんとか。しかし絶対安静です。臓器が弱り切っています。急激な細胞の劣化。魔導光の汚染……なのでしょう」
里原準は、ベルゼルガと神楽に保護された後……搬送中に昏倒した。
見た目ケット・シーよりも怪我のなさそうであった準が、その実最も深刻な容態であった。
惨劇のカタストロフより絶え間なく供給されていた生命力。それを絶たれた途端に意識を失った。魔導光の浸食は、十年経った今でも続いていたということだ。
死神ロシュの様子も、その時点でおかしかった。
倒れた準を、真っ青な顔で見つめたまま言葉を失い、搬送中は異常なまでに震えていた。静かな搬送船の中で、彼女の歯がカチカチと鳴る音だけが響き続けた。
まるでこうなる事を、明確に予期していたかのように。
「ロシュの方は?」
「手のつけられない錯乱状態でしたので……鎮静剤を打ちました。今は別の病室で神楽様監視の下、横になっておられます」
「搬送船に立て篭もり、しきりに里原を渡そうとしなかったそうだな」
「ええ。目の焦点が定まっていませんでした。同乗し、ジャッカルと共に抑えてくれたベルゼルガが、気になる事を……」
「なんだ?」
「……〈何を見た?〉と」
「どういう意味だ」
「彼曰く、戦場でリアルな〈死〉をイメージした兵士も、そのイメージに似た現象に遭遇した時、突然あのような状態になるのだそうです」
「ロシュもリアルな何かをイメージしたということか。そしてその何かは、里原の昏倒に関係していると」
「………」
「どうした、ラビット」
ラビットは何かを思い描いてしまったのか、肩をわななかせた。
その怯え方が彼らしくなく、閻魔は片眉を上げる。
「わ、私の……お、憶測ですが。聞いて頂けますか……閻魔」
「ああ」
「ケット・シーの話を伺いました。亜空間の先――旧魔導社本社で行われた決闘。里原様と死神様が惨劇と死闘を繰り広げたのは……起源への扉の前だったそうです」
「ゼブラ・ジョーカーとやらが作ったやつか」
「はい。私もそれが完成しているとは思っていませんでした。しかし、確かに、ケット・シーは見たと言っていました。起源への扉は、時間と運命を逆行するというにわかに信じ難い代物。しかしそれが真実だとすると、閉じた亜空間が再び開いて二人と一匹の脱出を可能にしたという話も納得できます。運命も時間も、扉の干渉を受けて開いたのです」
「……続けろ」
「私が思うに、死神様は……その脱出時、亜空間の中で……里原様が昏倒するビジョンを見たのではないでしょうか。扉の干渉を受けて開いたゲートですから、その中で未来まで見てしまっても不思議ではない。そして……死神様は、その先を知っている。昏倒した里原様がどうなるのか、彼女はその時に見てしまい、知っていたから――」
「馬鹿馬鹿しい!」
閻魔の拳がテーブルを強く叩いた。
「馬鹿馬鹿しい……」
いつも通り。今回も大変だったねと。騒ぎながら振り返り、そうしてまた元通り。
全てはハッピーエンドで締め括られ、全ては大団円で完結する。
そうであって欲しかった。
「何故、運命はあの二人に冷たく当たる……。何故、運命は最後に絶望を見せる……」
「閻魔……」
「あの二人は俺様の子供同然だぞ……。俺様達の、大切な……」
「今、一番辛いのは間違いなく死神様でしょう。彼女の中で、里原様という存在はとてもとても大きなもの。そう、今や彼女の全てが彼と共にあるといっても過言ではない程に。私は――奇跡などという言葉に頼りたくはありません。ですが、これを必然とも思いたくはない。認めたくない。私達に打つ手がないなんてこと」
「当たり前だ。里原は助かる。助かる。あいつは強い男だ。あの惨劇が慕う程に、な」
多くの心。多くの命。その犠牲と助けの恩恵を受けて、里原準は生きている。
今ここで、彼の未来を運命が奪ったならば、それは多くの願いが無駄になるという事。幸せになってほしいという惨劇の願い。幸せに生きようという死神の願い。勝ち取った未来に満足してほしいというチェシャ猫の願い。大きく立派に育てというクローの、ベルゼブブの、地獄特殊部隊の、高坂早百合の願い。また笑顔の日常を過ごしたいという閻魔やラビットを始めとする仲間たちの願い。
その大きくたくさんの想いを、たった一握りで消し去ろうとする運命。
非情なる仕打ちは、誰にも理解ができなかった。
◆ ◆ ◆
【二つ目の声】
“総ての罪はお前一人にある”
ロシュには、ソレが何を言っているのかわからなかった。
“原因と結果の逆転。結果を先に見せたとて、運命は変わりはしない”
それでもソレの語る事は、真実なのだと確信する。
何故なら、ソレが見せる映像の一つ一つはロシュの想像できる域を凌駕し、ひどく現実味を帯びていたからである。
そして見せられる未来の光景。結果の光景と、過程の光景。
結果から始まり、過程を逆走し、原因に至る鮮明な逆走シナリオ。
時を経れば経るほどに己は逆走映像の逆を、原因から結果への道を辿ることになるというメッセージ。
全部、死神ロシュケンプライメーダの脳に焼き込まれてしまった。
それは『抗えるものなら抗ってみよ』という嘲りにも思えるメッセージだった。
準の死から始まり、
死神の葛藤を経て、
惨劇との別れで終わる映像。
彼女は悲鳴をあげた。
“もう一度言う。罪を背負うのは――お前、一人、だ”
ロシュは必死で目を耳を塞いでいた。
見たくない。聞きたくない。
そんな光景ばかり。
次に見せられた映像はなんだったのか。
それは……準と、幸せな日々を送る自分の姿。
そこには笑顔が溢れ、夢見た生活があった。渇望した世界があった。
“だが、お前の未来ではない”
一瞬にして、映像がネガのように燃やされ、灰になる。
幸せな未来は灰塵に帰す。あっという間に。
“そう。お前だけなのだ”
“お前だけ”
“他のお前は幸せな未来を手にする”
“無数ある枝別れの運命”
“その中の、お、ま、え、だ、け”
“絶望と贖罪と破滅と残酷と崩壊と災厄と……不幸”
“総てを背負う”
“ここから先は、お前だけ、違う運命を歩むのだ”
“これは仕組みなのだから”
“お前の悲劇は、起きるべくして起こる悲劇”
“お前の場合は、他のお前達が幸せになる為の――犠牲だ”
“どうして、と問うか?”
“……教えてやろう、お前の罪を”
“お前の罪は――――”
◆ ◆ ◆
「あ゛あ゛あああああああああああああああ!」
ロシュケンプライメーダは、病室のベッドから飛び起きた。
駆け込んできたナース達。一人は錯乱状態が再発したとどこかへ連絡し、他の者達は数人がかりでロシュを抑えつけた。
「イヤ! イヤアアアアアアアア!」
泣き喚くロシュはひたすら暴れた。
準はどこかと、しきりにその名を呼んだ。
けれども誰一人として答えてはくれない。
しきりに彼に助けを求めた。
彼を求めた。
誰も――彼女に味方してくれなかった。
ただ暴れる身体を抑えるだけで。彼女の気持ちなど知らず。
味方になる者が居ないなら、味方になる物を呼んだ。
「助けてブラッドデスサイズ!!」
主人の言葉に呼応し、病室の隅に立て掛けてあった赤き大鎌が震えた。
「こいつらを蹴散らせブラッドデスサイズ!!」
最強の魔導武器は、その命令に従った。
ナース達は、背後の空中で巨大な鎌が高速で回転していることに気付いていない。
――そして主人を束縛する者達全てに、赤の斬撃を見舞った。
「……っ」
「あ……」
「ぐ……ぅ」
ばたばたと血に染まった身体が病室の床に倒れる。
その中心で、ベッドの上に立つ一人の少女。
その手には大きな鎌が握られ、虚ろな目で荒い呼吸を繰り返していた。
「準くんは……どこ?」
ロシュは痙攣するナースの一人の首を掴み、問う。
ナースは準の収容されている病室を弱々しく指差し、そこで息絶えた。
少女は構わず屍を投げ捨て、病室を出る。
投与された鎮静剤と極度のショック状態。更に半ば無理矢理な覚醒と直後の急な肉体負荷が積み重なった今の彼女は、ほぼ完全に自我を失いつつあった。
ぶつぶつと準の名を呟きながら廊下を歩く彼女の姿は亡者のそれを思わせる。
しかし己の往く道を阻み、邪魔となる者は容赦なく斬り捨てた。
「許さない……私だけなんて……」
白かった廊下は赤に染まる。
「二人で……。そうだよ。二人で乗り越えるんだよ……準くん」
ぺたぺたと裸足で歩く彼女の通った廊下には、赤い足跡が残った。
「待ってて。待っててね。私と、準くんの……二人だけで……」
あんなわけのわからないモノに見せられた光景が、いくら真実を主張し、現実味を帯びていたとしても。
それはどこまで行こうと現実味に過ぎず、現実ではない。
ならば未来を描いた映像と、一つでも違う事があれば、即否定できる。
結果さえ違えばなんでもいい。結果だけ違えば全てはどうでもいい。
幸せを目の前にして不幸のどん底へたたき落とされるなんて、いくらなんでも有り得ない。そんな事が――あってたまるか。
「えへへ。そうだよ。準くんさえ居れば、全ては変わるんだ。だから今は、全てどうでもいいんだよ」
――バチッ、バチッ。
彼女の両腕は、重力波に覆われていた。
もはやロシュには他者の区別がついていない。
いつ廊下に倒れたのか、閻魔や夜叉、ラビットも。それが自分にとってどんな者達だったのかを認識する余裕すら失っていた。有象無象。それで片付けてしまう。
ひとつだけ。
ひとつだけが今の彼女の全て。
いつの間にか打ち込まれていた無数の麻酔。針や注射器から注ぎ込まれた液体は、一層彼女から自我を奪うだけだった。
「すぐに私が行くからね……」
青き瞳。その瞳に濁りはない。
おそらく、自分のしていることがわかっていないのだろう。抗う意思は邪に働き、自ずと絶望の一途を辿る。
彼女はわかっていない。もうわかることができない。自分が、あの時に見せられた未来の映像を、寸分の狂いなく再現してしまっている事を。
では彼女の目には何が映っているのだろうか。
……虚無。
……幻像。
それとも混乱に混乱が重なり自我のパズルが崩壊した彼女が、無我夢中で組み立て直した
末に狂った自我が描く正しき風景か。
善悪真偽表裏。それらの判断が混沌としてしまっていた。
里原準は愛すべき者。
そのたった一つの不変を中心として、それ以外の何もかもを不要とした為に組み上がった絶望の自我パズル。
結果を先に見せたところで何も変わりはしない。抗えるものなら抗って見せよ。
運命は彼女にそうメッセージを残した。
そして彼女はただ転がるだけの者と成り果てた。
最愛と最幸を手に入れる寸前で、最たる不幸を押しつけられた一人の少女。
抗うことは不可能だった。
だが、彼女はそれでも望んだ。あまりにも望んだ。
故に選び、辿った。
自我の崩壊と、現実を否定し、一番大事な人と永劫共にあろうとする道を。
◆ ◆
「よう死神、どうした浮かない顔して?」
「準くん! 大丈夫なの!?」
「おうよ、この通りピンピンしてるぜ」
「よかったぁ……!」
「さ、早いとこ家に帰ろうぜ」
「うん!」
「そういえば、帰ったら味噌汁を作るって約束してたよな」
「覚えててくれたんだ!」
「当たり前だろ。さ、行こうぜ」
「行こう行こう!」
◆ ◆ ◆
死神ロシュケンプライメーダ・ヘルツェモナイーグルスペカタマラス七世。
彼女のこの後を知る者は誰も居ない。
最初の鎮静剤を打たれて眠った彼女は、その一週間後に突如覚醒。
入院棟に於いて、極度の混乱状態により大量虐殺を行ってしまう。
彼女が目指したのは、同病棟にて収容されていた里原準の病室。
しかし。
彼女は彼に会うことはなかった。
里原準は、
死神ロシュケンプライメーダが目を覚ます五日も前に、
既に死亡していたのだから。
◆ ◆ ◆
新章【違ってしまった唯一の彼女】 了
宴章【運命繋索~最凶と最悪の再会~】へ続く