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宴章狩魔編 血客・後編

【Another Story】




 焦げ臭く、黒い灰や砕けた瓦礫が散乱している。

 つい先程までこの廊下(壁が崩壊した今、もはや廊下や病室の区切りがわからなくなってしまったが)は猛火に包まれる激戦が行われていた。

 建物の被害規模は大きく、天井をも破壊して二階、三階も焼け落ちた。

 そんな戦闘を行い、敗北した者……。

 巨漢の敗者が床に崩れ落ちていた。


 爆客、火羅繰である。


 体中に鉄骨を突き立てたそいつはゆっくりとだが起き上がった。なにせ勝者に自分の仕掛け籠手を譲り渡した際、己が両腕を切り離してしまったのだ。立ち上がるのは難儀だった。

 それでも火羅繰は起き上がらなければならない。


――何者かが近づいてくる。


 視界を確保するための三つのレンズは潰されてしまった。

 気配で解る。この殺気の色はよく知った色だ。

 血なまぐさい臭気の混じった殺気。

 こんな嫌悪するものを身に纏っているような奴は一人しか知らない。


 殺気の持ち主は、ゆらーりゆらーり近づいてくる。


 視界を確保できないのは危険だ。

 火羅繰は失った腕の断面から、〈生身の腕〉を出した。

 それからレンズに刺さった鉄骨の一本を掴む。


『ぐおおおおお』


 ずるずると一気に引き抜いた。

 他のニ本も同様だ。

 さすがに身体に刺さった鉄骨を抜いている暇はない。

 割れたレンズの奥でかろうじて失わなかった目が一つ覗いた。これも〈生身の目〉。

 なんとか外の状況を目視できるようになり、暗闇の殺気を待ち構えた。

 まったく不気味で厭な殺気だ。


『あはぁあ火羅繰ぃ。やられちゃったねぇ』


 血客、飛沫という女の殺気は。


『ぐ……飛沫』


 最後の客であるこいつが動いたという事は、四夢香も落ちたという事か。火羅繰はそう把握した。

 飛沫はゆらゆらと揺れている。

 が、その揺れ方がどこかおかしい。

 その理由は彼女が片手になにかを引き摺っているからだ。

 火羅繰は片目を細めてソレを見極めた。


 ソレは一人の男の死体だった。


 絶句する爆客。


『なんの真似だ……飛沫』


 問う。

 なんの真似だと問う。


 何故、幻客《四夢香》の本体を引き摺っているのか。


 褐色の肌は血に塗られ、白い歯を覗かせる口は大きく開いて動かない。

 見慣れない剣がその胸に刺さっていた。


 さらに飛沫は四夢香の首を愛刀のノコギリで引っ掛けている。氷の塊をアイスピックで刺して引き摺るのと同じ要領だ。

 火羅繰の〈中身〉は冷や汗を垂らす。そしてあまりの戦慄に動くことすらままならない。苦痛まで忘れてしまいそうだ。

 何故なら飛沫の気迫は一歩踏み出すだけでべこりと床をへこませる程なのだから。


『ねぇ火羅繰ぃ。あたしの目を欺けると思ったぁ?』

『な……なんのことだ』

『とぼけるのはナシさねぇ。四夢香とアンタが以前から奇妙な行動をとっていたことくらい、全部お見通しだよぉ』


 ぞぶ。と四夢香の胸から妙な剣を引き抜く。


『四夢香はさぁ、こんな剣持ってないよねぇ。でもさっき、外の広場でコレを扱っていたのを見たのよぉ』


 正面玄関前広場にてタイタンを攻撃しようとしていた四夢香。

 それを見ていた飛沫は横から乱入したのだ。


『珍しく四夢香も抵抗してきたけど、まぁ結果はこんなもんさねぇ』


 ぶん、とノコギリを振って四夢香を火羅繰の前に投げ飛ばす。

 その身体は損傷が激しかった。

 手足の筋肉を断ち切られ、動けなくした痕跡が見られる。

 それに加えて各部には言葉にし難い傷が無数に付いていた。拷問の類だろうか。


『いくらやっても口を割らなかったさぁ。結局殺しちゃったぁよ』


 火羅繰の背筋に怖気が走った。

 この女を甘く見過ぎていた。

 まったくの図星。火羅繰と四夢香の二人は狩魔衆に潜伏していた。

 飛沫もそれに気付いているということは、此処へ自分達を送り込んだ御頭――修羅も気付いているということだろう。


(やられた……!)


 修羅のシナリオ通りだ。

 スパイも同時に始末してしまおうという魂胆だったのか。

 だが四夢香を拷問にかけたという事はまだ自分達二人の目的までは把握していないという事だろう。だから四夢香も口を割らなかった。


『う……うおおおおおおおおおお!』


 火羅繰は吠えながら飛沫へ突進。

 がぱりと口を開き、現れたノズルから炎を吐きだした。


『ついに本性を現したねぇ』


 トン。

 飛沫は火羅繰の頭の上に軽々と乗っかり、炎を放つノズルを斬り落とした。

 やはり狩魔ナンバー2の名は伊達じゃない。

 手負いの爆客では相手にもならないということか。否、万全の状態でも相手にならなかっただろう。ヴェズノブレードを扱う四夢香をも一蹴したのだ。


 強固な火羅繰の装甲――喉にノコギリが引っかかる。

 そして巨体はあっさりと床へ仰向けに倒された。


『がっ』


 そのまま床を引き摺られてゆく。


『さぁて。ゆっくりと話を聞こうかねぇ』


 そう。四夢香の次は火羅繰の番。

 幻客のなれの果てを見ている火羅繰は恐怖に悲鳴を上げた。

 その悲鳴。

 ボイスチェンジャーがノコギリに壊れされた今、火羅繰が〈男を装うことはできなくなっていた〉。

 女の恐怖する悲鳴がこだました。


『いやだあああああああああ!』


 じたばたと暴れるも、引き摺られるスピードは変わらない。

 火羅繰の中身は最終手段を慣行することにした。

 バックパックから鎖が無数に射出され、飛沫の身にぐるぐると巻きつく。

 相手の身動きをとれなくした隙に、火羅繰はその全装甲をパージ――破棄した。

 胸のハッチからふらふらと一人の女が這い出て来る。

 黒い髪から覗く目は片方が潰れていた。これこそが火羅繰の正体。

 火羅繰とは、重火器搭載の大型アーマースーツを纏った女だったのだ。


 火羅繰は指や腕、脚に付いたアーマー操作用のケーブルを焦りながら取り外し、廊下の暗闇の中へ足を引きずりながら駆けて行く。そうして鎖に巻かれた飛沫から逃げ去った。


 無論、逃げた火羅繰はアーマーを貫通した鉄骨によって体中に傷を負っている。

 血の匂いで飛沫には易々と居場所がわかる。逃げ切れはしない。


 鎖が粉々に断ち切られた。


『ふぅん』


 ぼーっと突っ立っているだけで血客は動こうとしない。


『血の匂いが濃すぎるねぇ。ちょっと斬ったらポックリ逝っちまいそうだぁ。つまんないねぇ』


 暢気にそう呟くと、飛沫は鎖の束を掴んで歩きだした。火羅繰の逃げた方角とは逆にである。

 興味を失くした。ということだろうか。

 ずるずると火羅繰の抜け殻を連れていく。


『あぁ……四夢香といえば……。夜叉兄ぃの病室はどこだったかねぇ。忘れちゃったよぉ。うぅん、とりあえずニ、三人斬って屋上にでも登ろうかぁ。馬鹿は高い場所が好きなのさねぇ。あっははははぁ』




 ◇ ◇




(お、追ってこない……!? 逃げ切れたってこと!?)


 息を荒げ、地面にへたりこんだ火羅繰。

 極度の緊張から解き放たれて気が緩み、額の汗で張り付いた髪をかき上げた。

 ぼたりと失った片目から赤い涙が垂れる。

 唐突に疲労と苦痛が彼女を襲った。

 冗談ではない。自分には荷の重すぎる仕事だったというのか。

 満身創痍の身体を休め、胸の谷間から通信機と思われる端末を取り出す。


『ほ、本部……本部……』

〈こちら本部〉


 非常なまでに平坦な声が返ってきた。


『《彼》を出して』

〈申し訳ございませんが社員名称、もしくは部署、役職を正しくお願い致します〉

『統界査察課だ! 強制執行部でも監視管理部でもなんでもいい!』

〈許可できません〉

『いいから出せ!』

〈許可できません。緊急時の場合は通信者本人の登録社員番号を三回、正確に音声入力して下さい〉


 ギリ、と歯ぎしりする。


『2783500829! 2783500829! 2783500829!』

〈……確認しました。社員番号2783500829。火羅繰。現在派遣中の為、規定により本名は伏せております。緊急連絡用受付に繋げます〉


 火羅繰は通信機を叩き割ってやろうかと思った。


〈……こちら本部緊急連絡用回線〉

『《ソロモン》を出して!』

〈本部了解。繋げます〉


 少しして、明朗な声が聞こえてきた。

 今までが平坦な声だっただけにギャップが大きい。


〈はいはーい。緊急連絡だそうで〉

『ソ、ソロモン。助けて』


 火羅繰はほっとした表情で通信機を持ち直す。


〈うん? えっと……この声は……ああ、火羅繰君だね?〉

『そう』

〈ごめんね何千人も顔と名前と声を覚えないといけないからさ、勘弁しておくれ。それでどうしたのかな?〉

『回収をお願いしたいの。負傷した』

〈ええと、ちょっと待ってね。あ、あったあった。君が居るのはID928の世界だね、ふむふむ……ちょっと監視管理部からの報告に目を通して見たけど面白い状況になってるみたいだね〉

『面白くなんてない。支給されたアーマースーツでは力不足だった。早く……回収を』


 つらそうに息を吐く。

 通信機から緑色の光が飛び出し、火羅繰の全身を照らす。どうやら身体の状況を検査する為の光らしい。

 彼女の身体検査を終えたソロモンは、深刻な状況を理解したのだろう。声の調子を落とした。


〈すぐに転送準備にかかるよ。出血がひどいね。急がせるけど、時間はかかるから報告がてら僕と話をして気を紛らわせると良い〉

『ありがとう……』

〈今、最新報告が届いた。四夢香が殉職したか……残念だ。ヴェズノブレードの転送履歴が残っている。その時点で君達には重荷だと予想すべきだったかな。社員保護執行員を派遣すればこうはならなかったろうに……。この件は監視部と要打ち合わせだ〉

『……ええ』

〈そっちでは今、最凶で揺れているね。惨劇のカタストロフ。興味深いが、その者に関して文明のテクノロジーが追い付いていないようだ。無敵……ねえ。運命繋索精製物質は確かに珍しいから無敵と称されても不思議ではないか。ローテクノロジーに合わせるのは難しい。その所為で君に支給されたアーマースーツも壊されてしまったわけだし〉

『私の居るこの世界は今、その惨劇によって滅びかけている』

〈うん。こちらとしても様子を窺っているところさ〉


 案外転送の準備は長い。

 火羅繰は暗い廊下でソロモンという男の言葉に集中して精神を保っていた。


『まだ様子見の段階なの?』

〈うん。危なっかしい世界が幾つもあってね。うちの社員の一人が僕の技術を持ちだして世界を消しかけた〉

『馬鹿なことを……そっちも……大変ね』

〈大変さ。ミシェルって男なんだけどね。劣化技術でクラウンという疑似世界空間を作った。もしかしたらこの技術が他に漏れている可能性も否めなくてね〉

『根幹を目指した者がどうなるか……ちょっと考えればわかる……でしょうに。そうだ……報告が行っているかもしれないけど。こっちの世界で……他の世界から来たという者を……確認したわ』


 ほう?

 ソロモンから興味を示す言葉が漏れた。


〈独自に界間干渉が行われているのか。我々の技術とは異なる手段……もっと自然なものかな〉

『ええ……そう……思う……』

〈そちらの世界がどうなるか現段階ではわからない。ただ監視部としても惨劇という存在の危険性を重く見ている〉

『なるべくなら……手を加えたくない……それが……方針……』

〈その通り。故に僕らはいつも見守るばかりさ〉

『ソロモン……ちょっと……つかれ……ちゃっ…た……』

〈うん……。御苦労さま、火羅繰〉

『………』


 ころりと通信機が床に落ちた。


〈……出血多量。ごめんよ火羅繰……転送の準備はしていなかった。君はもう、助からなかった。君と会話したこと。それが僕の餞別と受け取って欲しい。君が僕の名を呼んでしまった時点で、僕はこの世界と《縁》ができてしまった。これはあまりに危険なことだ。本来ならば大罪。だけど君はよくやってくれた。だからこの縁は僕が背負う事にする。なるべく危険を回避するために君の遺体は此処に残したままにするが許しておくれ。それから君と四夢香の正体に気付いた存在もなんとか記憶の操作に成功し、ヴェズノブレードも回収した。さようなら……僕の愛しい部下よ……〉


 火羅繰の亡骸へ彼の声は届かない。

 通信機の奥で彼とは別の誰かの声が聞こえた。男の同僚だろうか。


〈――は―――です〉

〈うん、わかった。成程オーディンは壊れたか。ゼブラも厄介なものを残して行ったものだ。これで封印したレメゲトン72柱の悪神が脅かされる心配はなくなったね〉

〈――ゼブラを捕らえなくて良いのでしょうか〉

〈不可能だよ。ミシェルと一緒に本社から逃げ出し、どこへ消えたのかと思えば……ついに僕の手の届かない所まで行ってしまった。困った女性だよまったく〉

〈――ではID928世界を随時要監視レベルから下げます〉

〈……逆だよ〉

〈――は?〉

〈このままならID928世界は消失し、惨劇とやらの思考次第では別の世界に作り変えられる。それならそれでまた一から観測を始めればいい。世界の根源は変わらないからね。ただしそうならなかった場合……。ゼブラが逃げ込み、惨劇という女の計画が崩されるような世界だったならば、随時要監視レベルから統界執行員干渉レベルまで引き上げなくてはならない〉

〈――!? 我が社の直接干渉……!? 本社でカテゴリーA+に属される要注意観測対象《惨劇のカタストロフ》を止めたのならそれはそうでしょうけど……〉

〈うん、まずあり得ないよね。僕もあり得ないと思う。惨劇は計画を完遂するだろうよ〉



 彼らの存在は

 また、別の物語。




 ◆ ◆ ◆




 光あらば闇あり


 幸あらば不幸あり


 喜あらば悲あり


 表あらば裏あり


 光の為に闇となり


 幸の為に不幸となり


 笑の為に悲を背負わん


 表の為に裏とならん


 魔の跋扈せしこの世に於いて


 影となり裏となりて


 誰にも感謝されず認識されず生命を賭して戦う


 誰に知られることも無く生命を散らし


 誰に知られることも無く生を終える


 闇に蠢く忍一派


 是、狩魔衆也



【いにしえのしのび】





 ◆ ◆ ◆





 闇の中、冷気によって刀の混じり合う音が幾つもよく響く。

 ところどころで火花が散る。

 闇に溶けた二人は見えない。

 そして刹那の銀光を見るに相当な速さで戦っているのがわかった。


 ざくりと、屋上で気絶して倒れるエリート餓鬼の背中に斬り傷が走る。

 直後、打撃の鈍い音。次に女の呻き声。


 それまで術によって闇に溶けていた夜叉が姿を現した。

 斬られたエリート餓鬼に駆け寄り、容態を診る。

 ほっと息を吐いたことから、おそらく大事に至っていないということだろう。

 立ち上がった男が振り向きざまに見たモノ。


 それは目の前でにたりと嗤う血客の口だった。

 

 夜叉の顔に拳がめり込む。

 回転を加えられた打撃を喰らった男の身体は、仰け反りながら床を二転三転した。

 硬いコンクリートでできている筈だというのに、踏み込んだ足跡だらけの地面は脆く見えた。

 そこへ更に足跡が増え、一瞬遅れてベコリという踏み込んだ音が聞こえた。

 受け身を取った夜叉へ追い打ちが来る。


『けえぇぇぇぇりゃぁぁぁぁあ!』


 ぎざぎざの刃が光り、夜叉へ振り下ろされる。


「らあああああ!」


 夜叉は片手で握った刀を顔の前に出して防御。

 刃物と刃物のぶつかり合いで火花が散った。

 ノコギリの斬撃は重く鍔迫り合いで支えきれるものではない。ぐんと一気に顔の前まで押され、夜叉は自分の刀の峰を噛んだ。

 彼は片腕が使えない。なんとかもう片方の腕と首の力だけで相手のノコギリを止めて見せた。

 斬撃を止めたはいいがその威力は夜叉の身体全体にのしかかり、彼は硬い地面に大きな窪みを作って沈んだ。

 傷が開いたのか内臓が圧迫されたのか、口から血があふれる。


『しつこいんだよぉ』

「ぎ……シブ……ギ……!」


 飛沫は夜叉の顔面直前で押し止められているノコギリ刀の峰に足を乗せて体重をかけた。

 更なる負荷が掛かり、自分の刀を噛んでいる夜叉の歯が軋む。

 上から見下ろす彼女の表情。それは早く斬りたいという願望と夜叉への愛おしさとが相俟って、なんともサディスティックな嗤いだ。


『やだねぇ。兄ぃの顔が峰で潰れちゃうよぉ。あまり美しくない殺り方だけど仕方ないかねぇ』

「ぎぎ……!」

『狩魔の闇討もこの程度さねぇ。今のあたしと夜叉兄ぃじゃあ戦力差が大きいよぉ』


 冷たく眠そうな半開きの眼。その奥に鈍く潜む好奇の感情。

 かっと見開けばそれは表面に押し出され、ノコギリを踏む足にトドメの力を加えた。

 夜叉の顔面を押しつぶして終わる筈だった。


『……兄ぃ。やっと見せたね』


 どろり溶けた夜叉の魔斬刀。

 銀色の溶液は彼の顔を包みこみ、身体全体をも浸食。

 刀は夜叉の鎧と化した。

 ノコギリは彼の硬い顔面に阻まれ、弾かれる。


「魔斬刀、鬼衣」


 夜叉は仰向けの状態で下から飛沫の腹部へ掌低を打ち込んだ。

 打撃の音には思えなかった。

 ズバン。

 肉が裂け、一本の線状の傷が女の腹に生まれた。


『……くぅ!』


 呻く女は急いで夜叉から距離を取った。

 腹に手を当て、傷の様子を確かめる。


――切傷。


 掌低で腹を斬った?

 夜叉の手に刃物は無い筈だ。

 奴の刀は鎧になったのだ。

 なのに切傷?


『一体どういうことだいこれはぁ……!』


 飛沫は自分の血で濡れた手を勢いよく振った。

 血飛沫は宙を舞い、彼女の目の前で文字を描いた。


 《血界》。


 直後、夜叉の身体に引き寄せられるかのように飛沫の流した血液が付着してゆく。ずるずると床を這う様は、まるで血液が生きているかのようだ。


『血遁、凝固ぉ!』


 パキパキと音を出して夜叉にへばりついた血が凝固を始めた。

 彼女の術で身体を固め、動きを封じようというのだ。

 ところがその血液達は油と水のように彼の身体から拒絶され、付着することができない。挙句、再び床に飛ばされてしまった。

 得体のしれない夜叉の鎧。

 飛沫はゆらりと一回揺れてから、とりあえず斬りかかってみた。


 狙いは首。

 反発する力を受けずに一方的に衝撃を与えられる。


「反斬」


 ノコギリは弾かれた。

 弾かれたということは力が働いたという事。


「魔斬刀〈鬼衣〉は数多の刃物に変化することのできる魔斬刀。居合い刀から斬馬刀。忍者刀。片手剣。手裏剣。その変化する物すべてが刃物だ。つまりこの鎧もまた刃物なのだよシブ」

『全身が刃物ってことかぁい……。道理で打撃が斬撃化し、あたしのノコギリを斬り返しちまうわけだよぉ。血界まで斬っちまうたぁ驚きだねぇ』


 ずしりと重々しく鎧を纏う夜叉。彼そのものが刃物であり、彼が触れるものは斬られる。

 人の形をしながら刃物と成る。

 斬撃の極致ともいえる一つの完成形である。

 これこそ生涯を魔斬刀に捧げた魔刀鍛冶、老客《翁》の傑作。

 鬼の纏いし究極の衣。


 彼が一歩踏みだすと、地面に斬り傷が生まれた。


 叩き斬り、殴り斬り、蹴り斬る。

 飛沫は口元を緩めて身震いした。

 斬殺魔たる自分が今、目の前に、敵として対峙しているのは、斬撃なのだ。


 敵は斬撃そのものなのだ。


 血液中毒。

 斬殺狂。

 そんな飛沫にしてこの相手。なんという幸福か。


『斬撃の体現に斬り勝つ……そんなの想像したら……あたしは感じ過ぎて死んでしまうよぉ』

「シブ。お前には無理だ」

『無理なものかい』

「某には勝てん」

『その自信ごと斬り裂いて、血煙にしてあげるよぉ!』


 ノコギリを肩に乗せて飛沫は突進。

 ただの突進ではなく飛沫の突進だ。速いのはわかりきった事。

 身構える夜叉。

 飛沫は疾走しながら片手の指を二本立てて印を結んだ。


『血鏡――』


 夜叉の目の前から突進していた女がふっと消えた。

 しかし彼女は相変わらず突進している。

 夜叉の背後から。


 夜叉を鏡――境界としてまったく逆の位置に移動したのだ。

 しかも夜叉はまだそれに気付いていない。

 足音を消して突進できる飛沫の天才肌も相俟って、夜叉はノコギリが振り下ろされるまで反応ができなかった。


「――!」


 火花が散る。

 夜叉は片手でノコギリを受け止めた。

 無論、手は刃物。受け止めたというより、刃を打ち合ったという状態だろう。


『ははぁぁ! さすがは斬撃の身体、まるで刀と打ち合っている感触だよぉ! でもねぇ、いくら全身刃の夜叉兄ぃでも……あたしと刃を絡め合うのは危険なんだよぉぉぉぉぉ!』

「……むぅ」


 飛沫は初めてノコギリの柄を両手で握った。

 そしてノコギリという刀の形状よろしく、木を切断する時のように力いっぱい引き斬った。

 すると、斬撃の体現である夜叉の手が競り負け始めたではないか。


『あたしの血刀、鋸戯璃ノコギリはその名の通りさぁ。このギザギザと連なった刃。これを形として捉えるから駄目なのさぁ。いいかい、これは〈刃の連鎖〉。一つ一つが刀なんだよぉ? つまりこのノコギリ一振りで無数の刀が振り下ろされたのと同じ事ぉ。夜叉兄ぃは全身が刃物と言ったねぇ? でも一撃で繰り出す斬撃はどう足掻いても一撃。あたしの斬撃は一撃で無数。一振りの刀で無数の刀を相手にするのは……無謀ってもんさぁ!』


 飛沫がノコギリを引き終える頃には、夜叉の身体が仰け反っていた。

 なまじ全身が刃物であるだけに飛沫の斬撃と否応なしに競り合わなければならない。

 そう。

 修羅が飛沫を最後に送った決定的なものは、《鬼衣殺し》を可能とする彼女の戦闘スタイルにあった。


(成程。シブはやはり天才だ。感覚で適切な戦略を導き出してくる。だが……力いっぱい引かなければいけない事。踏み込みを深くしなければならない事。体重を目一杯かけなければならない事。これらの点でシブの戦法は諸刃の剣と言える。兄者もさすがに奥儀《双旋回螺》のノウハウはシブに教えなかったか)



 ――奥儀《双旋回螺》。


 それは地獄旅館襲撃に於いて、修羅が弟の夜叉へ放った驚異の一撃。

 身体を竜巻の如く一回転させるだけで六つの斬撃を生み出し、夜叉を瀕死の重傷に追いやった技である。

 その枢要は修羅の持つ魔斬双刀《闇鎬》の能力にある。夜叉自身、闇鎬の能力を全て把握しているわけではないが、双旋回螺に残像の能力が用いられていることは知っていた。

 闇鎬という名の双刀は、片方が残像を生みだし、もう片方がそれを実体化させることができる。

 つまりそれぞれ三つの残像斬撃を生みだし、一度の回転で同時に六つの斬撃を繰り出す事が出来るのだ。

 これは飛沫と同様、夜叉の魔斬刀《鬼衣》に対抗すべく生み出されたのかどうかは明らかではない。が、飛沫の斬撃と修羅のそれとでは大きく異なる。

 修羅の双旋回螺は鬼衣で防げないからだ。

 理屈は飛沫のノコギリと同じ。全身刃物の鬼衣では、一度で六つの斬撃を受け切ることができない。

 飛沫の場合、多重斬撃を繰り出すために体勢や間合いをかなぐり捨て、犠牲にしなければならない。それが欠点である。

 だが修羅の双旋回螺には隙がない。体勢や間合いを保ちながら放つ。

 修羅の同時多重斬撃に比べれば飛沫の同時多重斬撃は面白いアプローチではあるが未完全だという事だ。


(猪突猛進なシブに兄者は同時多重斬撃のノウハウを教えなかった。食えない御方だ……某に損な役回りを押し付けるとは……)



『――!?』


 ノコギリに体重を深く掛けた飛沫の脚に、夜叉は蹴りを入れた。

 踏ん張っている為に引くことも叶わず簡単に夜叉の蹴りを食らってしまう。

 そして夜叉の蹴りは斬撃である。


『うああぁ!』


 太ももに大きな亀裂が走り、飛沫が痛みに悲鳴をあげた。


「忍が大声で喚くな」


 続いてもう片方の太ももに膝蹴り。

 無論これも斬撃。


『ぎゃああああ!』


 信じられないという飛沫の驚愕した表情。

 いきなりノコギリが当たらなくなった。

 踏み込みの大きさが災いした。


 内股で膝を震わせ、痛みに耐えて尚も向かってくる血客。

 踏み込めば激痛が走り、彼女はただノコギリを振り回すばかり。


 そんな乱雑な動きで夜叉を退けることができるわけもなく……。


『ぅうぎゃああああ!』


 太ももの裏側に斬撃をもらい、ついに飛沫は地面に倒れた。

 それでも腕を止めない。

 ぶんぶんと、子供のようにノコギリを上下左右に振って抵抗した。

 夜叉の兜。その奥から見下ろしてくる眼は生まれて初めて飛沫を恐怖させた。いつもは歓喜するのに。自分が通用しない状況となった今、初めてその殺気が怖くなった。


『斬る……! あたしは兄ぃを斬りたい……! 斬らせておくれよぉ!』

「……どう斬りたい? こうか?」


――ズバン。


 飛沫の脇腹が派手に血飛沫を散らし、同時に女は悲鳴をあげた。

 夜叉が狙うのは、斬られて最も痛みを感じる部分ばかり。

 致命的ではない傷を幾つも加え、鬼畜じみた嬲りを敢行していた。


「この程度でわあわあと喧しく泣き叫んで……。いつものへらへらとした嗤いはどこへ行った? どうせ自分の身体を刻んだ時も喚いていたのだろう。痛みに耐えきれずに兄者へ――御頭へ助けを求めたのだろう?」


 ずたずたに破かれた着物の隙間から、飛沫のツギハギのような皮膚の縫い目が見えた。

 誰も斬れなくなった事に耐えられず自分を斬り刻んだ過去の証。


「みっともない女め。斬りたい? 斬らせておくれ? よくもそんな事が言えたものだ」

『あぁああああ兄ぃ……! もう、やめ―――』

「やめるわけがないだろう。お前は相手が命乞いをして斬り刻むのをやめたか? やめなかったろう? 嗤いながら血飛沫をあげる様を愉しんでいただろう。某も同じだ。お前が悲鳴をあげながら血を吐き散らす様をこうして愉しんでいる」

『そんな……! あ……がぁ……! あにい゛……やめ……で……痛……!』


 使い手自身の血で塗れたノコギリは無造作に転がっていた。

 腕を振る力もない。

 どこかで甘えていたのだろう。夜叉兄ぃは優しいから自分を殺せるわけがないと。

 この光景を信じたくなかった。

 ただ泣き叫びながら血を吐き、大好きな兄ぃに蹴り斬られ続けるだなんて。

 あの修羅兄ぃでさえ、自分で自分の身体を解体しようとして苦しんでいた時に必死で助けてくれたというのに。

 鬼だ。


 でも、自分はこうやって他人を斬殺してきたのだ。


 今の夜叉と自分が重なる。

 自分は苦しむ相手を助けたか?

 否。愉しんでいた。


 ならばもう諦めよう。


 痛み。悲しみ。絶望。そして撒き散る己が血飛沫。

 それらを全身に浴びながら、飛沫は涙で曇った視界に夜叉の姿を捉え続けた……。


 そして笑った。

 狂ったように笑い転げた。


『ごふっ――無駄だよ兄ぃぃぃぃぃ! どんなにあたしを斬っても……がは……あだしの……斬殺魔的欲求は――改善ざれな゛いよぉぉぉぉ!』

「まだ言うか」

『だっで仕方がないじゃないざぁね。そりゃあ゛兄ぃに斬られ゛……ごぽっ。兄ぃに斬ら゛れてあたしだって痛いよぉ。悲しいよぉ。でもどうやっだっで、自分を自分で傷つけたっで、あたしはやめられながったのさぁ! 染み付いちゃってるんだぁ!』

「どうしてお前は諦める。努力もせずに欲求に流され続けているだけじゃないか。どうして兄者が、修羅がお前を助けたのかわかるだろう。お前が仲間だからだ。某だってそうだ。お前が大切だからこそ、お前の身体を見てとても悲しかった」

『は……あははぁははぁ――ごほッ』


 もはや飛沫の焦点は定まっていない。

 目玉がぐるんと上を向いて白目を剥きかけいる。

 好き放題に、天賦の才に頼りきり、欲求に流されるまま生きてきた血客。

 自分の事は自分が一番よく分かっているのさぁ。あたしはこの身朽ち果てるまで、誰かを斬り続けないといけない。

 斬殺魔の思考はいつしか自己を中心に置いてでしか物事を考えられなくなっていた。誰がどう思おうと関係無い。第三者は客観的にしか興味をもてない。


 他人の気持ちを……理解できない。


「シブ。お前の境遇は兄者も某も知っている。無理矢理に人を斬らされ、それが残酷であればある程、腹いっぱい食べ物を貰える。そんな悪鬼共に育てら――」

『やめ゛ろぉ!』


 血を吐きながら吠えた。

 初めて見せる、あからさまな怒りの感情だった。


『あたしは生まれついての斬殺魔だ! 誰にも育ててもらった事なんてない! あたしは斬るのが好きなだけだ斬った感触が好きな゛――ごほっ!』

「生まれついての斬殺魔と自分に思い込ませることで過去を消そうとするのはわかる。だがそれでは未来までも消すことになるぞ」

『構わな゛いね! あたしはそれでいいんだ!』

「……兄者に助けてもらった時、嬉しいと思わなかったのか?」

『思わ……な゛い。お゛も゛わながった!』

「狩魔衆へ入り、仲間ができて嬉しくはなかったのか?」


 夜叉はビクビクと身体を痙攣させる飛沫の顔へ自分の顔を近づけ、問うた。

 彼女の声は怒りに満ち、目からは涙が滴り、口はにたりと笑いながら血を垂れ流している。

 喜怒哀楽が混沌としてしまっている。


 ゆっくりと口が動き、唇の動きで夜叉は声にならない言葉を読んだ。


――《う れ し く な か っ た》




「シブ……」


 夜叉は目を閉じ、腕を振り上げた。

 手刀の構え。


 トドメの斬撃を、血塗れの血客へ振り下ろした――。




 ◆ ◆ ◆





――なななななにをするでありんすか!


 えぇ?


――いきなりビックリしたでありんすなーもう!


 んぅ?


――〈んぅ?〉じゃねーでありんす! すっとぼけた顔すんなー!


 なんで怒ってるのさぁ?


――オメーがいきなり斬りかかってきたからじゃー!


 んぅ?


――もういいでありんす……。みんなが近寄らない理由がわかった気がするでありんす。


 じゃあ斬っていいのかねぇ?


――いいわけねーだろ天然ボケ!


 あたた。そう頭から煙出して怒ることないさねぇ。


――御頭も変な女を引き入れたもんでありんすなー。放っておいたらみんな斬られて狩魔は内部崩壊でありんすよ。


 よりどりみどりぃ。


――駄目でありんす。


 へぇ?


――仲間や、仕事以外で人を斬るのは金輪際禁止するでありんす。あちきが許さんでありんす。


 ええええええぇ。


――だから、今後はあちきと一緒に行動するでありんす。そうすれば個人忍務だけじゃなく、集団忍務にも出させてもらえるでありんしょ?


 むむむむむ。


――魔を斬るのだから誰も文句は言わない。好きなだけ斬ればいい。斬り放題でありんす。仲間を斬って御頭の逆鱗に触れるよりはずっとマシでありんすよ。


 うむむぅ。それも一興かねぇ。

 あい承知したよぉ。


――あちきの名は鈴女蜂。夜叉兄ぃと修羅兄ぃに稽古付けてもらってるから結構強いのでありんすぜ。


 スルメバチ?


――誰が酒のツマミでありんすかコラ。


 あたしは飛沫さねぇ。

 稽古……。勢い余って斬っちゃっても怒られなさそうだねぇ……。


――アハハハハ、兄ぃ達に勝とうだなんてとんだ自信でありんすな! じゃあ飛沫もあちきと一緒に稽古付けてもらうといいでありんす。


 なんだか陽気な娘だぁねぇ。

 そんなに力いっぱい笑って、顔の筋肉が疲れないのかねぇ。


――飛沫みたいに脱力しきった顔も相当なもんでありんすよ……。




 ◆ ◆ ◆





『な゛……なんで……』


 振り下ろされた夜叉の手刀。

 飛沫の顔に赤い滴が跳ねた。


「……!」


 夜叉も言葉を失い、腕を振り下ろしたまま硬直した。

 彼が斬ったのは飛沫ではなく――


 彼女に覆いかぶさるようにかばった、鈴女蜂の背中だったからだ。

 夜叉も飛沫も「何故」という言葉を脳内で反芻し、突如として現れた刺客《鈴女蜂》にひたすら驚くばかり。

 飛沫に至っては虚ろだった眼が焦点を取り戻し、自分に覆いかぶさった鈴女蜂の顔を映し出していた。


 顔の筋肉が疲れないのか。初対面でそんな感想を抱いたその表情が、十年以上経った今も――そこにあった。


『なんで……鈴女蜂……』


 自然と紡ぎ出された疑問の言葉。

 夜叉の斬撃を背中に受けた若き刺客はずるりと飛沫の上に倒れ込んだ。

――チリン。

 と落ちた鈴一つ。


『ど……うして……!』

『お前はあちきの仲間。友達でありんすからね……』


 すぐさま夜叉が鬼衣を解いて鈴女蜂を抱え上げる。


「鈴! しっかりしろ!」

『兄ぃ……飛沫は、頑固者だから……』

「くそっ、槍で威力を緩和したつもりだろうが一歩間違えれば切断していたぞ!」

『飛沫は……頑張ってるでありんす。こいつが斬殺してきたのは人に害を成す魔物ばかりなんでありんす。ずっと一緒に居たあちきが……よく知っている……』


 人は極力殺さない。

 斬殺するのは魔。

 飛沫の隠れた努力。

 それを知るのは常に行動を共にしていたこの友人だけだった。


『夜叉兄ぃの勝ちでありんす。飛沫はもう動けない。御頭の伝言通り、狩魔の名は修羅兄ぃから夜叉兄ぃへ渡ったでありんす。抜け忍は掟から解放された。だからもう……飛沫を痛めつけるのはやめてください。おねがいします……兄ぃ』


 鈴女蜂は自力で立ち上がると夜叉の腕を離れ、ふらつきながら飛沫へ寄って行く。

 完敗した血客はひゅうひゅうと掠れた呼吸を連続させながら鈴女蜂の腕に抱かれた。


 夜叉はもう手を出さない。

 修羅よりも夜叉よりも、飛沫を理解している者が居る。

 それが信頼を寄せる者であるなら、もはや語る必要はあるまい。


 頑固者。


 鈴女蜂は飛沫をそう表現した。

 隠れた努力を知られたくない飛沫は最後まで頑固だった。


 修羅は何故、最後の客に飛沫を選んだのか。

 伝言係として。狩魔ナンバー2の実力者として。

 そしてもう一つ。

 仲間の尊さと斬殺魔の非正当性を、夜叉から飛沫へ教育させる為という三つ目の目的があったのだ。


 だがそれももう必要ない。


 鈴女蜂と飛沫の二人を視界に捉えた夜叉は、ゆっくりと刀を鞘へ戻した。


「某は救護班を呼びに行く。屋上のエリート餓鬼や刃狼隊、閻魔殿の手当てをせねばならん」


 そう言って足早に屋上を去る。


「狩魔衆は今この時をもって終わりとする。生き残りはその命を捨てることなく維持させよ」


 それが、頭首となった夜叉の最初で最後の命令だった。

 満身創痍の鈴女蜂と飛沫は小さく「はい……」と呟いた。


「鈴とシブ。お前達がこれからどうするかはお前達自身の判断に任せる。もしも他に行き場がないのなら……某の元へ来ても良い。閻魔殿に取り計らってやろう」




 ◇ ◇ ◇




「長い夜もようやく終わるわね、夜叉」


 屋上から降りてくる夜叉に白狐は階段の下から声を掛けた。

 彼女はそっぽを向き、腕を組んで壁にもたれかかっている。


「白狐殿。なにをそんなにふてくされているのですか?」

「別に。貴方も大変な生き方してきたんだなーって、そう思っただけよ」


 鬼は笑い、狐は仮面の下で頬を膨らませる。

 だらりと垂れた夜叉の片腕が痛々しい。


「御迷惑をお掛けしました」

「……」

「白狐殿や閻魔殿をも巻き込んでしまって」

「なんでそんな事言うのよ……」


 ツカツカと早足で階段を上がり、白狐は夜叉の脇に肩を入れた。

 正直立っているのも辛かったのだろう。夜叉の膝は今にも崩れそうだった。

 白狐の肩に腕を回した男は少しだけ小さな息を吐くと、彼女の仮面へ頭をくっつけた。


「有難うございます」

「貴方と私は、仲間じゃないの」

「なんだか照れくさいですな」

「馬鹿言ってないで救護班を呼びに行くわよ。さっさと回復してもらわないと。これから忙しくなるんだから。貴方や閻魔、エリート餓鬼が動けなかったら地獄旅館の再建が進まないじゃない」

「ははっ。手厳しいですな白狐殿は」


 ぽん、と白狐は夜叉の背中を叩き、叩かれた方は洒落にならない痛みで「ほがぁ!」と呻いた。


「……暇ができたら」

「?」

「暇ができたら、昔話でも聞かせて頂戴」

「昔話……ですか? そんなに面白いものでは――」

「いいの。夜叉の事、もっと知りたい」

「……わかりました。いずれ某の故郷へ連れて行ってあげましょう」

「ホント?」

「ええ。まだ祭はやっているのでしょうか……とても賑やかなのですよ」

「それは楽しみね」




 鬼。


 闇から光へ。

 そして光から闇へ連れ戻され。

 再び光へ戻ってきた。


 暁を迎える。


 鬼の隣には狐。



――夜は終わり。


――陽は出ずる。




 ◇ ◇ ◇




『ぐぶ……』

『飛沫、戦いは終わったでありんす。動くなでありんす』

『ご……』


 飛沫は鈴女蜂の腕を掴んだ。


『ごめ゛……ん……ね』

『え?』

『嘘……だ……がら……』


 喉を詰まらせながら血客は声を出す。

 鈴女蜂に抱かれた飛沫の目には、明るみを帯びた空が映っている。


『仲間が……で……きて嬉しくなかったな゛んて……! 嘘だがら……!』



――『そんなの、わかってるでありんすよ』



 やっぱり鈴女蜂の笑顔は、昔のままだ。

 昔のままだけど。

 ツギハギだらけの自分の身体を撫でるその手の感触が、とても悲しみを帯びているのがわかった。

 飛沫はやっと後悔した。

 やっと後悔することができた。


 血客《飛沫》は声にならない泣き声をあげた。

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