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宴章狩魔編 血客・前編

【血に飢え血を好む最後の客】




 病院の屋上。

 この施設を包みこんでいた暗闇もだんだんと朝を迎えるかのように退き始めていた。

 それでも比率は未だ九対一程度。

 朝日が顔を出すのはまだ先だろう。

 コンクリート造りの建物は夜の風に冷やされてひんやりとしている。

 そんな寒々しい屋上には――


 湖と称するほどの規模で、血だまりができていた。

 一体……何人分の血を集めたらこれほどの規模になるだろう。


 屋上を埋め尽くさんとばかりに積まれた、エリート餓鬼達。中にはパラダイスロストの刃狼隊も混じっている。

 ぴくりとも動かない。


 常人が見たら吐き気を催すような空間で、真中に陣取って座る女が居た。

 彼女は杯を片手ににたりと笑う。

 酒の肴はこの惨たらしい景色。

 杯の中は酒かと思いきや、まだ温かい血であった。


 くいっと一杯口に運び、脇に倒れた男を見やる。


 その白髪を掴んで引き寄せ、着物を絞る。

 すると染み込んでいた男の血がじわりと滴り杯の中に零れた。


『こりゃあ珍しい血だねぇ、たまんないねぇ』

「――うぐ」

『魔力回路がちょん切れちまってるよぉ。膨大な魔力が血の中で複雑化しちまってるねぇ。こりゃあ珍しい』

「て……めえ」


 男は持てる力を精一杯引き出して女の肩を掴み、睨みつけた。

 女の着物はするりと滑り、簡単に脱げて肩が露わになる。


『てめえじゃないよぉ。あたしは狩魔衆。血客、《飛沫シブキ》さねぇ。あんたも閻魔って名前があるだろう?』

「血客……」

『そう。そんでもって、これでも女なんだよぉ。もっと雰囲気の良い時にこういうことしておくれ』


 飛沫は灰色と赤の混じった長く綺麗な髪をかき上げる。

 それから脱げた着物を引き上げ、整えた。

 ふう。と一息置いて……。


 片手で閻魔をぶん投げた。


 屋上に無造作に転がったエリート餓鬼の山に突っ込む。

 もはや彼に起き上がる力はない。一度苦悶の呻き声を出し、そのまま静かになった。

 それを見届けた飛沫は杯を置いて立ち上がり、背伸びする。

 血を出す男を放り投げてしまったので一献はここまでということだろう。


『血の匂いに誘われてぞろぞろと。だけど全員血が好きというわけでもなさそうだったぁね。これで全員かねぇ? 鈴女蜂も火羅繰も四夢香もやられちゃったからねぇ。どうせやられるならあたしに斬らせてくれれば良かったのに。最後の一滴までその血は大事にするさぁ』


 女はしゃがんで自分の得物を握った。

 刀――なのだろうか。

 ぎざぎざとした刃。形はノコギリそのものである。

 彼女の身体にしてはあまりにも大きいノコギリだ。

 それを軽々と持ち上げ、ぶんっと振った。


 大量に付着していた血が床に線を描く。


 こんなもので斬られたら傷口は酷い有様だ。

 必要以上に相手を傷つける為のまがまがしい形状。

 血客、飛沫の武器は彼女の性格に相応しいものであった。


『つまらないねぇ。肝心の夜叉兄ぃが来ないよぉ。困ったねぇ……』


 唇をぺろりと舐めて哀しそうな顔をする。


『四夢香の言ってた病室、忘れちゃったんだよぉ……。ここで血の匂いばら撒けばいつか現れると思ったんだけどねぇ……』


 まるで迷子になった子供のように泣きそうな声で呟く。

 どうしよう、どうしよう。とノコギリ刀をがりがり引き摺りながらその場をぐるぐると回る。

 朝は近い。

 標的はたったの一人だというのに一夜で仕留められないとあっては狩魔の名汚しだ。御頭の修羅に申し訳が立たない。


――修羅。


 その名を思い浮かべて飛沫は硬直した。

 非常なる狩魔の頭目に恐怖したのだろうか。


『修羅兄ぃの血も良い色をしてそうだねぇ』


 ……違った。ただ修羅の血に興味があるだけのようだ。

 この女、実はそんなに今の事態を危険視していないのではないか?

 いや。今にもべそをかきそうな顔は本当だろう。


『どうしようかねぇ。どう思う? 火羅繰』


 飛沫はゆらりと酔っぱらいのように後ろを振り向く。


『ああ駄目だこりゃぁ』


 そこにはバラバラに解体された爆客が無残に転がっているだけだった。

 もちろん返事なんて返しやしない。


 こうなったら病院中を走り回って手当たり次第に探すか。

 そう飛沫が考えた時だった。


 ビリビリとした殺気が彼女の背筋を撫でた。

 虚ろだった飛沫の目が若干大きくなる。


『はぁあ。嬉しいよぉ』


 来た。

 やはり来た。

 血の匂いに誘われて。

 飛沫は眉を寄せて恍惚の表情をした。

 肩や膝がビクンビクンと震え、握ったノコギリ刀の柄を滑らかな手つきで握り直す。


 殺気の持ち主である男は積み上げられたエリート餓鬼や人狼の群れを避けながら進み、飛沫と一定の距離を置いて立った。


「地獄旅館。鬼客、《夜叉》。参る」




 ◇ ◇ ◇




【血客――飛沫】




『会いたかったよぉ、斬りたかったよぉ、夜叉あああああああああああ!』


 飛沫はノコギリ刀を片手に握って夜叉へ突っ込んでいく。

 ……速い。

 走り方も身体の運び方も粗い。刀の握り方も粗い。剣術や体術の基本すら学んでいない動きをする飛沫。

 それでも速い。強い。

 それが血客、飛沫だった。


 迎え撃つのは狩魔の闇討。

 元狩魔衆ナンバー2の男。


「シブ。やはり最後はお前だったか」

『そうだよぉあたしだよ兄ぃ! さあ見せておくれよ赤い鮮血をさぁ!』


 がりがりとコンクリートの屋上を削り、飛沫のノコギリは下から切り上げる。

 夜叉は鞘に納めた魔斬刀鬼衣の柄をしっかりと握り、刹那の気合を込めた。


「三手鬼」


 みつでおに。

 居合い三連撃である。

 刃が鞘を擦り、目にも留まらぬ速さでノコギリを弾き、鞘に戻す。

 第二撃は飛沫を狙うも、ノコギリが意外に大きい。二撃目もノコギリをさらに弾いて刃を戻す。

 これで飛沫の身を守る物は無い。

 第三撃。

 そこに飛沫は居なかった。


「!」


 一体何が起こったのか。

 彼女は二撃目の時、確かにノコギリを振った体勢で目の前に居た。

 実はその二撃目が問題だった。

 一撃目でノコギリは弾かれ、夜叉とは逆方向に力が働いた。

 二撃目でもノコギリはさらに弾かれた。が、この時すでに飛沫は重心を変えていた。

 全身で攻撃の体勢を取っていた身体を一撃目の反発で瞬時に回避の体勢へ持って行ったのだ。

 彼女はノコギリをバネにして身体を委ね、第三撃の時には上へ跳んでいた。


 なんという柔軟性と反射神経。

 それだけではない。ノコギリ刀を自分の身体のように扱い、まるで神経が通っているかのように一体化させている。さらにはそんな大きな刀を操る怪力を完全にコントロールできている。


 天賦の才。


 この一言に尽きる。

 なんの術も用いていないというのに変幻自在、奇々怪々とした動き。総合身体能力は異界一と言っても過言ではなく、あの狩魔衆頭目の修羅までもが太鼓判を押している。

 黒き最強の忍である彼の口から《徒手空拳ならば、飛沫は我をも越えているだろう》という言葉が出た時は狩魔中がおおいに揺れた。

 実力こそが全ての闇世界。

 飛沫は着々とその実力を見せつけ、自然に地位を確立していった。

 そして夜叉の居ない今。

 彼女こそが狩魔衆のナンバー2なのである。

 補佐。参謀。そんな能力は要らない。

 純粋な強さと、それに連なる残虐性のみで修羅の次点についたのだ。

 ただ修羅の頭を悩ませているのは彼女の敵味方問わず切り刻むという斬殺魔の性格。それを抑えられるのも修羅の力量といったところか。

 彼女が極度の血液中毒であることは修羅も承知しているし、夜叉も知っていた。


『鮮やかな血が見たいからねぇ』


 ぐん、と身体を仰け反らせた飛沫はそのままノコギリを振り下ろす。

 刃は夜叉の首筋を狙っていた。

 怪力に加え、身体のバネと大太刀の重さを掛け合わせた威力。想像するだに恐ろしい。夜叉の首どころか頭自体が木端微塵に吹き飛びかねない。


「強くなったなシブ」


 飛沫の刀は夜叉を叩き斬った。

 そのままコンクリートの地面にまで突っ込み、穴を開ける。

 ゆらりと上体を起こしてノコギリを引き抜いた飛沫は首を左右に倒し、コキコキと鳴らした。


『そうそう忘れていたよぉ。夜叉兄ぃの特技は分身だったねぇ』


 斬られた夜叉は霧となって消え、代わりに三人の夜叉が現れた。

 さすがの飛沫でも夜叉ほどの男が作り出した分身は見破れなかった。

 三人の夜叉は六人に。六人は十二人。十二人は二十四。四十八……。

 飛沫を囲むように分身は増えていった。


『ねえぇ夜叉ぁ。あたしは分身が嫌いなのさぁ。あたしは斬れないものや血を流さないものが大嫌いなのさぁ』


 飛沫の脳裏に昔の記憶がフラッシュバックした。


――あいつは黒かった。

――あいつは斬れなかった。

――圧力を操り、ノコギリを受け付けなかった強いやつ。

――修羅以外に唯一負けたやつ。


 名前もわからない。昔、鈴女蜂に引っ張られてとある宿屋を襲った時の標的だ。

 結局仕留められないまま逃げ帰ってきた苦い思い出。

 ……思えば。あの時から自分は苦しい思いばかりしてきた。


 飛沫は最終戦争ラグナロク終結後の記憶に辿り着き、頭を振った。

 辛い記憶が蘇ってくる。


『あたしは辛かったよ。ねぇ? わかるだろう夜叉ぁ。魔監獄ジュデッカプリズンでの生活は本当に苦しかったよぉ。〈大人しく時を待て〉だなんて言う御頭を憎んだよぉ』


 ゆらん。ゆらん。

 右へ左へ大きく揺れる飛沫。

 顔を片手で覆う姿は頭痛に苦しんでいるかのようだ。


『血が欲しかったぁ。血はいいよぉ。あたしの食欲、性欲、睡眠欲を全部満たしてくれるんだぁ。それなのに……あの監獄ではそれを抑制された。あたしや御頭が送り込まれた最下層。そこの囚人は一日で切り刻んじまったのさぁ。そう。そうさ。もう血を流す奴は居なくなっちまった。だから最下層なんかぶち壊して上の層へ行こうと思ったんだよぉ。そしたら新しい血が見られるじゃないかぁ。でも御頭は許しちゃくれなかったぁよ』


 夜叉の分身による包囲網は完成した。

 なのに飛沫は気にもせずふらふらと千鳥足で語り続ける。


『だからあたしは御頭を斬ろうと襲ったのさぁ! 悔しかったねぇ。三日三晩あたしと御頭は戦い続けた。でも御頭は強くってさぁ。斬らせちゃくれなかった。ねぇ? あたしは狂っちゃいそうだったよぉ。もう狂っていたのかもしれないねぇ。見てよ兄ぃ……ほらぁ』


――するり。

 と飛沫は自分の着物を脱いだ。

 白い肩が覗き、さらに肌の露出は広がり……。

 飛沫が自分の全身を見せた時。

 夜叉は何を思ったのだろうか。何を感じただろうか。


「……シブ……お……前……」

『あははははぁははは』


 夜叉の分身がふっと消え去った。

 残った本体は、裸になった飛沫へ向かって走り、ふらつく彼女の両肩を掴んだ。

 力強く掴んだ。


(どうして……!)


――どうして。


「どうしてそんな馬鹿な真似をしたんだあああああああああ!」



 飛沫の身体は〈つぎはぎ〉だらけだった。

 胸も腹も背中もふと腿も。醜く荒々しい縫い目が全身を這っていた。

 縫い付けられた皮膚はどれも色に違いがある。彼女のものだけではないのだろう。


『……あははぁ。鬼の目にも涙ってやつかねぇ?』


 最下層の囚人を斬り尽くし、血を浴び尽くしてしまった飛沫。

 唯一の御頭は斬れなかった。

 最下層から外へ出して貰えなかった。

 斬る者が無くなってしまった。

 何も斬れなくなった飛沫は発狂しそうな環境で思考が虚ろになっていた。

 そんな彼女は、ふと思いついてしまったのだ。


――ああ、まだあるじゃないか。斬るモノ。


 そうして彼女は自分の身体をずたずたに斬り裂いたのだった……。


「馬鹿者だお前は……! 大馬鹿者だ!」


 掴んだ飛沫の肩を揺らしながら夜叉が吠えた。

 そんな彼の姿を、飛沫は呆けた眼差しで見つめていた。


『やっぱ兄弟だぁねえ。御頭……修羅兄ぃも、夜叉兄ぃとおんなじこと叫んでたよぉ』

「シブ……! お前は昔っから無茶を平気な顔でやる子だった。だから某と兄者はお前から目を離さずにいた! お前が鈴と仲良くなってからは……安心していたというのに!」

『ああぁ、そうだねぇ。主人とは無関係に自害するなんて、狩魔としては許されないからねぇ』

「違う!」

『うぅん?』

「何でわからんのだ! 掟は何の為にあると思っているのだ! 仲間を守る為だぞ! お前は何もわかっちゃいない!」


 無言で女は夜叉を突き飛ばした。

 ゆっくりとした動作で落ちた着物を持ち上げ、ゆったりとした動作で着直す。


『そりゃ修羅兄ぃは大事だよぉ。夜叉兄ぃだって本当は大事さぁ。うぅん、よくわかんないねぇ。よくわかんないけど……あたしには血も大事なのさぁ』

「どうやら身を以てわからせるしかないようだな」


 夜叉は再び分身を作り出した。

 その数――百。

 百人の夜叉が飛沫を取り囲む様はそうそうたる光景だった。


「百鬼夜行……」

『だから言ってるじゃないさぁ。あたしは分身が嫌いだってぇ』


 うんざりしたように眉間に皺を寄せた飛沫はノコギリを肩に乗せる。

 嫌いだろうが関係無い。

 百人の夜叉は一斉に飛び掛かった。


 飛沫はゆらゆらと揺れていた身体を少し大きめに揺らし、その反動で素早く横へ移動した。その先に居る夜叉を蹴り飛ばす。

 次の夜叉はノコギリで頭を叩き割る。そのままノコギリに体重を乗せて飛び越え、二人の夜叉に両踵落としを見舞う。そしてまた前に体重を乗せてジャンプ。連続した空中連撃で次々と夜叉の分身を消し去ってゆく。

 やっと飛沫が着地したとき、そこは群がる夜叉の中心だった。

 身体全体を使ってノコギリを横へぶん回し、周囲の夜叉を真っ二つにする。


 ノコギリでの大振りな攻撃の隙を狙った夜叉の一人が刀で飛沫の脚を払うも、それは跳躍して避けた。しかしその所為でますますバランスが崩れ、ついには顔に拳を浴びてしまう。

 飛沫は打撃を顔に受けて仰け反った力をそのまま反撃に利用した。

 バック転気味の蹴りを殴った夜叉へぶつける。

 勢いの止まない百鬼の猛攻。

 本体の夜叉は居合いの体勢で構えていた。

 この猛攻ではさすがの飛沫も体勢を保っていられはしない。

 必ず反撃はするものの確実に分身の攻撃をいくつか食らっているのがその証拠だ。

 だから本体は一撃必殺を狙っているのだ。


 その好機はすぐに現れた。


 バック転した飛沫の背中を分身が蹴り飛ばし、完全に宙で身動きが取れなくなったのだ。

 それを本体の夜叉が見逃す筈がない。


 なんと夜叉は刀を抜きもせず、鞘に片手を添えた上段の構えをしていた。

 見たことも無い構え。


「魔斬刀解放」


 刀の形状が変化する。

 居合い刀から斬馬刀になった。これが鬼衣の能力なのだろうか。

 ぐっと長い柄を握り締めた夜叉の両腕に筋肉や脈が浮き出た。


「狩魔・鬼斬剣」


 長い刀は振り下ろされ、縦一閃の剣圧が放たれた。

 分身ごと切り裂いて飛沫を狙う。


『あはぁ。やるねえぇ』


 ざくり。

 夜叉の剣圧は飛沫の横腹を斬った。

 斬られた方は回転しながらべしゃりと床に落下した。


 にたにたと笑いながらも息を荒くする飛沫。彼女が横腹に手を当てると、自分の血が滴っていた。


『はっ――はっ――。まずは一撃ってところかい』


 ふらりと立ち上がる。止血をする気はないらしい。

 しかしながらすぐに立ち上がるとは夜叉も思っていなかった。

 そもそも今の一撃は確実に再起不能を狙った斬撃だった筈なのだ。それを浅めで留められるとは。

 呆然とする夜叉の頬にぽたりと液体が触れた。

 頬に手を当てて見るとそれは血。


『ちょっと酔い過ぎたねぇ。もうちょい集中するよぉ』


 その反省の言葉は夜叉の真上からだった。

 飛沫は耳まで裂けるほど歯をむき出しにした笑い顔でノコギリを振りかぶっていた。

 斬馬刀では振りが大きくて間に合わない。

 刀を変化させるような時間も無い。


『ざっくりいこうねぇ兄ぃいいい!』

「うおおおおおおおお」


 緊急だから仕方ない……。

 夜叉は後ろ回し蹴りでノコギリを横から蹴った。無論あっさり軌道が変わるわけもない。なにせそのノコギリは飛沫の怪力で振られているのだ。


 ……直撃は避けられた。


 しかし片腕を一本犠牲にした。

 彼の二の腕にはぱっくりと、しかし簡単には塞がらない傷口が刻まれ、腕全体が血で赤く染まっていた。


『こ、れ、で、おあいこだぁねぇ』


 痙攣し、言う事を聞かなくなった夜叉の片腕。

 繋がっているだけマシだった。

 飛沫はふらふらと揺れながら夜叉に近づくとその腕を掴み上げる。

 苦痛に夜叉の顔が歪んだ。


『御頭がどうしてあたしを最後に送り込んだかわかっているだろう? 実力主義の狩魔だからさぁ』


 くすくす笑いながら、夜叉の腕を舌でなぞった。


『あたしそのものが御頭の伝言。亡き御頭のねぇ』

「……ちょっと……待て」


 夜叉は腕を掴まれ、激痛に耐えながら、自分の血を舐める飛沫の顔を見た。

 今この女はなんと言った?

 御頭が……なんだって?


「亡き御頭とは……どういうことだシブ。兄者は……」

『異界政府へ斬り込みに行ったよぉ。翁から聞いているだろう?』

「亡き御頭とはどういうことだ!」

『だって狩魔衆は捨てられたとはいえ異界政府の御庭番だよぉ。忘れちゃったのぉ? つまりは主人。主人に斬り込むってことだよぉ。これは忍にあるまじき行為なのさぁ。でもこれは復讐なのさぁね。御頭も、他の連中も、自害覚悟で攻め入ったのさぁ』


 こんな大事なことにどうして気付かなかったのか。

 その通りだ。

 異界政府は主人。狩魔は御庭番。

 その政府に斬り込むということは忍として最低の所業であるのだ。

 修羅という男が完璧な忍である為にそんなことをも忘れていた。


『夜叉兄ぃ。狩魔衆は今夜で終わるんだよぉ。亡き御頭って言ったのはそういうことさね。政府だって無防備じゃあない。少数精鋭のうちとは対照的に、あっちは重装の物量勝負。たとえ戦いに勝っても、その後に自害する。どちらにせよ生きては帰ってこないよぉ』

「そんな時に……」

『ようやく気付いたね兄ぃ。そんな時にこの飛沫や、鈴女蜂、火羅繰、四夢香、翁なんて上忍戦力を送り込んだ御頭――修羅兄ぃが、何を夜叉兄ぃに伝えたかったのか』



 ……十年前。異界政府に捨てられた際、狩魔衆は二つの派閥に分かれた。

 一つは忍としての誇りを最優先として戦い、掟のままに終焉を待つという修羅派。

 一つは命を最優先として生き残り、狩魔を抜けて生き延びようという夜叉派。


 修羅派は狩魔に留まり、いずれ訪れる復讐の時を待つ為に甘んじて魔監獄に収容された。

 夜叉派は狩魔を抜け、閻魔の援助を受けて地獄旅館で働くこととなった。


 だが掟に重きを置く修羅派が夜叉派の行動を良しとする筈もない。


「兄者は……」

『そう。御頭は夜叉兄ぃを許す機会を与えてくれたんだよぉ?』


 抜け忍は誅殺。それが忍の掟だ。

 そして狩魔は実力主義の基、成り立つ忍。

 抜け忍が掟から逃れる為には――実力で狩魔を勝ち取れば良いのだ。

 最も強い者が狩魔を名乗る。

 それもまた掟なのだから。


 だが修羅は地獄旅館を襲った際、ひどく失望した。

 弱い。

 逃げ場など無いというのに、現実から逃げ腰で居る弟の姿。

 古の忍集団。狩魔衆の恐ろしさを忘れてしまっていた。


『口を大きくしては言えない事だけどさぁ。政府を襲う前にこの病院を狩魔衆総力をあげて襲う事も出来たんだ。でもそうはしなかっただろぅ? 政府を襲うついでに見せかけて小数を送り込んだだけだった。修羅兄ぃは御頭だから忍としての掟を一番重んじなきゃいけない御人なんだぁよ。だから飽くまで掟に従った上で夜叉派を狩魔から解放してあげたいと考えた末の結果なんじゃないかって、あたしは思うんだよねぇ』


 彼女の言っていることは正しい。

 天然で呆けた性格をしているかと思いきや人の心を読み解くこともできるようだ。

 修羅の一番近くに居たとはいえ、彼の真意を見抜いてしまったのはおそらく彼女か翁くらいであろう。



 ◇ ◇ ◇




【十年阿修羅】




 修羅の真意。


 それは血気盛んな修羅派と、温厚な夜叉派の両方の願いを叶えてやること。

 双方の願いとは、前者は政府への報復。後者は狩魔から縁を切ることだ。

 前者は掟を破った後者を良しとせず、後者は他を巻き込む前者を避けたかった。

 無論修羅は前者である。

 だがしかし。彼には真っ二つに分かれた双派閥を冷静に見極める器量も持ち合わせていた。その結果、彼は双方の願いがどちらも最後は狩魔衆が滅びる道である事に気付いたのだ。

 彼は十年前既に狩魔が滅びゆく運命にあるとわかっていた。

 修羅は狩魔衆の頭目。いや、実は十年前にはもう頭目として……忍としてのプライドを捨てていたのかもしれない。

 修羅派は抜け忍である夜叉派を責め立ててはいるものの、彼らとて主人である政府を襲撃するという掟破りを行おうとしている。それを各々知りながら口に出さないだけだ。

 修羅はきっと絶望しただろう。失望しただろう。自分の御頭としての能力のなさを恥じただろう。


――結局、掟を破る者しか存在せず、狩魔は滅びるのだな。


 十年前。ジュデッカプリズンへ収容された彼は、暗い牢の中一人で自分をあざけ笑った。


 地底深く……最下層の闇の中で彼は十年後を思い描いていたことだろう。

 もはや狩魔は忍として地に堕ちた一派であると自覚した末に、修羅の頭の中には今回の計画が描かれたのだった。


 そんな時、最下層まで侵入してきた双子の幼い娘、双百合。

 二人は《惨劇のカタストロフ》という者の使いだと言った。

 名前は聞いたことがあった。

 その娘たちの衣服はぼろぼろだったが、ラグナロクが終わったばかりの当時は珍しいものではなかった。

 告げられたのは惨劇からの協力要請。

 日時の指定は無く、実行は時を待てとの事。


 修羅がその話に乗ったのは《地獄旅館を襲う》という言葉を聞いたからだ。

 夜叉派が保護された施設の名だ。


 ここで修羅の計画は完全に定まった。


 惨劇の宴に便乗して修羅派が夜叉派討伐の為に地獄旅館を襲えばよいのだ。驚異として目立つのは惨劇の名だけだ。それを機に、狩魔衆は惨劇の名声に隠れて政府へ奇襲をかける。異界は惨劇ばかりに目を向けて混乱するだろう。


 夜叉派に実力があるならば修羅派の襲撃を切り抜けてみせるだろうし、次に備えた政府襲撃という連戦に備えて修羅派は本気を出さない。

 そこで夜叉派が果てれば所詮その程度だということ。

 もし生き延びたならば彼らは狩魔の名を思い出し、身構えるだろう。地獄旅館襲撃は、夜叉派を生き延びさせる為の目覚ましに使うのだ。


 次に修羅派は本命の政府へ斬り込む。狩魔の総力はすべてこちらへ回す。

 夜叉派――もとい夜叉への追撃として送る面子も考えてあった。


 刺客《鈴女蜂》。

 修羅と夜叉の妹分であり、夜叉に付いていきたかったと密かに望んでいた子だ。修羅にはわかっていた。


 爆客《火羅繰》。

 狩魔の新入りだが、対多数戦闘のエキスパート。この男を相手にして犠牲者が出るようなら、夜叉派の仲間を守るという信念は軽いものなのだろう。


 幻客《四夢香》。

 偵察要員。鈴女蜂に夜叉だけを狙わせ、火羅繰にその他を狙わせる為に必要な男。夜叉と仲間を分断させる思惑がここにはあった。


 老客《翁》。

 一癖も二癖もあるこの者達を管理、統轄できるのは修羅の他にこの老人だけだ。忍としてではなく魔刀鍛冶として生きたこの老人は、修羅達と共に自害するべきではないと判断したからでもある。


 血客《飛沫》。

 修羅が送る夜叉への最終関門。

 この女に勝てたのならば、夜叉派は修羅派から実力で自由を勝ち取ったと認める。

 そしてこの女ならば、戦いの中で修羅の真意を夜叉へ伝える伝言係として、役目を果たしてくれるだろう。



 この五人に託そう。

 十年前の修羅は、そう心に決めたのだった。


 そしてひたすらその時を待つことにした……。




 ◇ ◇ ◇




『ま、あたしは血の雨が見られればそれでいいんだけどねぇ』


 ひたすら愛おしそうに夜叉の腕に付いた血を舐めていた飛沫は夜叉に突き放された。

 片腕の動かない男はそれでも片手だけで居合いの構えを見せている。

 そうでなきゃぁ。と、舌舐めずりをして再びノコギリを持ちあげた飛沫の顔はとても楽しそうで、とても兇気に満ち溢れていた。


「……そんなこと、某もわかっていたさ」

『へぇ?』

「兄者は某を嘗めすぎだ。一方的過ぎだ。いつもいつも、昔から。弟を見放したくせに、兄気取り」

『ふふふ。だけど御頭が行動を起こさなかったら、いつまでも夜叉兄ぃはのんべんだらりと狩魔から逃げ続けただろうねぇ』

「そうさシブ。某はいつでも兄者に引っ張られていた。しっかり者の兄者に叱られてばかりだったよ。この歳になってもまだ子供扱いされるのは癪だが……」


 すらりと鞘から刀を抜いた夜叉は居合いの構えから片手の構えになった。


「ここらで弟鬼の牙の鋭さを見せつけてやらんとなあ!」


 魔斬刀がぶるぶると振動し、夜叉から出る殺気が更に強くなる。

 殺気に恍惚を覚える飛沫にはこれ以上ない褒美。修羅の伝言役を担って正解だったと再認識した。


『ん? でもなんだか妙だねぇ……これは殺気……なのかいぃ?』


 ゾクゾクと背筋を撫でる感触を満喫しながらも、彼女が普段感じている殺気とはどこか違う。

 食べ物の味を吟味するかのように飛沫はニヤニヤと笑みを浮かべて夜叉の殺気を受け入れていた。

 だが彼女にはきっとわからない。それは殺気とは違う夜叉の多くを守ろうとする覚悟の気合だということが。

 身体ごと溶けてしまいそうな恍惚を与えてくれる夜叉。

 飛沫はそんな彼が愛おしくて愛おしくて仕方なく、斬りたくて斬りたくて仕方なかった。

 ずたずたにしよう。

 細切れにしよう。

 一度は大きく斬り裂きたい。

 それから至高の時を過ごそう。

 飛沫の頭には夜叉をどう解体しようかという妄想でいっぱいだ。

 考えただけで身体が反応し、高揚する。


 しかも彼女は珍しく自分に我慢を課していた。

 本気で挑まず、自分があまり好まない語りを行った。

 お腹を空かせてから食事した方が美味く感じるように、じっと我慢してからの方が楽しみが増すというものだ。


『でももう我慢できないよぉ。容赦できないよぉ。いくよおおおおおお!』


 がぱぁ、と口を大きく開けた女はノコギリを肩に乗せて駆けだした。

 勝てるかどうかの算段なんて彼女はしたことがない。本能の赴くままに斬りかかって、本能の赴くままに動く。それだけだ。


「来いシブ! お前にも教えてやらねばならん事がある!」

『知らないねぇ知ったこっちゃないねぇ! なんでもいいから斬らせておくれぇ!』


 力いっぱいノコギリを横に振った。

 夜叉の刀も真っ向から振られる。

 ただし飛沫の怪力で振られたのに対して夜叉は片手で振っている。力では競り負けるどころか弾き飛ばされてしまう。


 しかしそこは〈狩魔の闇討〉。

 豊富な技量と経験で力の差を埋める。


――ギャリン。

 夜叉の魔斬刀が飛沫のノコギリと絡み合った音だ。ノコギリが持つぎざぎざの刃は相手の刃を引っかけて力技に持ち込める。飛沫の土俵に持って行けるのだ。


「……」


 ところがどうしたことか。飛沫がどれだけ強い力で刃を押し通そうとしても夜叉の片手剣が想像以上に堅い。

 むしろぐいぐいと手首が捻じれてゆくのは飛沫の方だ。


『あ、あれぇ? おかしいよぉ?』


 必死で抵抗しても……どんなに踏ん張っても……ノコギリは彼女のイメージと違う方へ動かされる。

 夜叉兄ぃの技術は昔のままだ。

 飛沫は歯を食いしばった状態で唇を震わせた。


 とうとうノコギリは飛沫の手を離れてしまう。

 その直後、夜叉が見せた芸当に彼女はひどく驚いた。

 刀の刃先で絡め取ったノコギリを、そのぎざぎざを利用して宙で回転させ、魔斬刀を振ると同時に飛沫の足元へノコギリを突き刺したのだ。

 二刀流の修羅一刀流の夜叉。そう呼ばれるだけはあり彼の剣術は飛沫の敵うものではないと身を以て理解した。


 身を以て理解した時はもう遅い。

 素早く片手で刀を鞘へ戻すと、狩魔の闇討は居合いの構えに入っていた。


「三手鬼!」


 今度は外さない。

 飛沫はノコギリを手から弾かれた上、必要以上に踏ん張っていた為体勢が崩れている。


『あたしも忍なんだよぉ!』


 負け惜しみともとれる彼女の叫び。

 夜叉の斬撃三連は飛沫の肩と腕と脚を切断する勢いだった。

 狙いに狂いはなく、飛沫はその体躯を逆に解体されてしまった。

 ところが夜叉の目は未だ鋭さを保ったままで居る。

 彼女を仕留められなかったからだ。


 斬った飛沫はどろりと暗闇に溶けて消えてしまった。


「闇身一体……兄者の術か」


 呟き、夜叉も同じく闇に溶けた。

 闇身一体は、闇を味方につける修羅の得意な術。

 夜叉も彼に教えてもらい、飛沫もまた修羅に教えてもらった。

 互いに姿の見えない状況での戦闘。

 忍術の技量は夜叉の方が上であり、猪突猛進な斬殺魔の飛沫に忍術戦は不利だろう。


 それでも自信たっぷりな声は闇の中でも聞こえてきた。


『あたしを嘗めちゃあいけないよ兄ぃ。十年間もあたしは魔監獄で御頭と過ごしたんだ。叩きこまれた忍術は修羅兄ぃそのものだよぉ?』

「……上等。そちらこそ、闇討と呼ばれた恐ろしさをその目に焼き付けるが良い」


 忍術、剣術、体術。

 互いの全てを出し尽くす死合。

 狩魔の終わりを飾る闇中の決闘。

 血客と鬼客。


 いざ、決着へ。

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