夢章【beautiful dreamer】
第16部分と第17部分、二話同時更新となっております。
あれから三日が経っていた。
風の香りは夏の終わりを含んでおり、なんだか少し哀しげだ。
この夏は大変な夏だった。生きてきた中で、一番大変な夏だったかもしれない。
たくさんの事が起こって、たくさんの感情が飛び交った。
そして今、オレ達は日常を送っていた。
全然日常じゃないだろ、と思うくらいに楽しい日を過ごしていた。
冬音さんも彩花さんもバンプもウチに泊まり込み、一人の少女の笑顔を見るたびに喜んだ。
おかげで死神の部屋は客でいっぱいになってしまい、死神はオレの部屋で寝ていた。
奴はすごいぞ。
布団を奪うプロだ。天才だ。
あらゆる工夫を凝らして寝ても、次の日の朝には布団が死神の身体に巻き付いているのだ。
たまにナイトメアが布団を持ってきてくれたりした。〈わけてあげる〉そうだ。有り難いがハサミで破こうとしないでくれ。
朝食も6人分作らなくてはならないから大変といえば大変だ。
ちびメアはあまり食べず、最近はよく残すようになった。冬音さんが口に運んでやっても、食欲がないのか首を横に振る。
「んーん!」
「そうか。食べたくないのかー」
「ふぅ!」
「ん? 私が食べろってか。ありがとよ。さて、今日は何をして遊ぼうか」
「あーうー!」
「ほほう、また私に絵で挑もうと言うんだな?」
「ろーす、ばーん、ぼかーん!」
「なるほど。死神とバンプで遊ぶのか」
冬音さんの翻訳を聞いた死神とバンプは、ピタリと食事の手を止める。
真っ青な顔でナイトメアの方を振り向き、奇声を発した。
「えぇーーー!」
「えぇーーー!」
この二人は可哀相なくらい、ちびメアの玩具と化していた。
ある時はモグラ叩きのモグラ役をやらされ、またある時は乗り物に。とにかく絶好の遊び相手なのだ。
挙げ句、ナイトメアが疲れて眠る時には枕やベッド代わりになる。
万能だな……。
さっそく保護者役の冬音さんが見守る中、また大暴れの一日がスタートしたのだった。
「ろーす、ばーん、ぼかーん!」
「ギャーーーー!」
「ギャーーーー!」
……ナイトメアが中心となって居間が騒がしくなってきたタイミングを見計らい、キッチンに残った彩花さんはオレに小声で話し掛けてきた。
ずっと黙っていたので、きっと何かを言うつもりだろうとはオレも思っていた。
「……地獄のことなんだけど」
この人とバンプには、閻魔さん達への報告をお願いしていた。
三日間すべてを忘れて遊んだが、やはりこれは残り少ない時間なのだ。
「閻魔ちゃんにも、精神退行は想定外だったみたい。今、各支部の方達が徹夜で資料を探しているみたいだけど……」
魔導高炉の安全確保が最優先。だが、閻魔さんだけでなく、アジア支部だけでなく、他の支部も空いた時間を使って夢魔の資料を探してくれていた。
当たり前だ。
今はアジア支部に居るが、この子達は各支部に親を持ち、愛されているんだから。
寝る間も惜しんで積み上げられた本を読み漁るたくさんの姿が、鮮明に思い浮かんだ。
「アフリカ支部の、アヌビスって支部長さんの見解が出されたの……」
「ナイトメアについての、この現象に関しての見解……ですか」
「ええ。彼の見解は閻魔ちゃんの口から知らされたわ。 〈今回、夢魔ナイトメア・バッドドリームの身に起きている現象は過去に例を見ない。資料も何一つ見つかっていない。ここで私は一つの予想を立てた〉」
「………」
「〈夢魔という種族は、記録を残したがらない存在なのではないか。異界政府最高権力者である《最賢》曰く、夢とは醒めた時に殆ど忘れてしまうモノ。明確に覚えていることが不可能であるからこそ、夢は夢で在るのだ。だそうだ。私もその考えに行き着いた〉」
「資料が……一つもない……探すだけ無駄だという判断ですか……?」
「〈だが私は諦めるつもりなど毛頭ない!〉」
「――っ!」
「〈ナイトメアは私の娘だ。デーモンの娘だ。閻魔の娘だ。ヴァルキュリアの娘だ。皆の娘だ。指をくわえて時を待つなど最悪最低の業である。人間界の若者が死力を尽くしているというのに、ここで我々が動かない道理はない。あの子に消えてほしくないという想いだけを糧に、想いが有る限り、最後まで諦める気は……皆無!〉」
「……アヌビスさんが、そう言ったんですか」
「ええ。以上がアフリカ支部長アヌビスの見解・意志よ」
誰もが頑張っている。それだけナイトメアという少女が大切だから。無駄と言われようが無意味と言われようが、止まる気は無いと言ってくれた。
幸せな子だと思った。不幸なんかじゃない。すごく、幸せな子だ。
彩花さんは色鉛筆のケース片手に暴れ回るナイトメアの姿を、ただじっと見つめていた。
「見て里原くん。メアちゃん、あんなに楽しそう。あの笑顔が、あとどれくらい……見られるのかしら」
「そんなに長くはないと思います。礼儀正しかった頃のメアちゃんは、もう居ない。けど、あの子は本物です。表情も感情も」
「そうよね。あの姿もメアちゃん。私達の知らなかった一面。まだまだ知らないことがたくさんある筈なのに……」
「閻魔さんやアヌビスさん達に任せましょう。オレ達は楽しんで過ごしていればいいんです」
「間に合うと思ってるの……?」
力強く、声を押し殺して彼女は呟いた。組んだ手を強く握り締めて大きく溜め息を吐く。
見守るだけしかできない歯痒さはみんな同じだった。
「彩花さん……」
「もう時間はないのよ? 全然ないの。陽の光を浴びると辛いから部屋の中で過ごして、身体もまた幼くなって、眠る時間も多くなって、佐久間さんを通してでしか意思が伝わらない」
彩花さんの言う通りだった。
ナイトメアの変化は着々と進行している。
一日目では遊園地にでも行こうと予定を立て、いざ出発した途端にナイトメアはぶっ倒れた。日差しを浴びると体力を消耗するようになっていたのだ。
背も小さくなっていた。行動も思考も完全に幼い。話せないナイトメアの意思を理解するのに苦戦していたオレ達だったが、冬音さんだけはわかるようだ。
わかってはいても、変化を見ると胸が苦しくなった。
◆ ◆ ◆
私が帰ってきた時、メアは別人のように変わってしまっていた。
ろくに言葉を話せなくなり、行動も幼稚。私のことを〈ふぅ〉と呼んでいた。
私がこの子にどんな言葉を浴びせたのか忘れてしまっていた。でも、その心に刻まれた傷は健在の筈。私の声を聞き私の姿を見たとき、その傷は間違いなく痛んだはずだ。
だけどメアは、少しの迷いもなく胸に飛び込んできてくれた。
嬉しかった。
と同時に自分の愚かさが腹立たしかった。
逃げる道を選んだ弱い私に、戻るための手を差し伸べてくれた人達の姿が頭のなかにどっと溢れた。
過ちだらけの自分がどうしようもなく恥ずかしくなって、それでも腕の中に私を呼ぶ大好きな子がいてくれて、周りには私の居場所があった。
涙が零れた。
「ふぅー! ぼかーん!」
「おぉっ」
気付けばメアが背中に飛び付いていた。
死神と吸血鬼は……ダメだ、ノックアウトされてら。
しばらく馬になってメアを乗せたまま居間をウロウロしていたが、途中でいったん動きを止めた。
………。
私は向きを変えてキッチンへと向かう。
四つ足でメアを運ぶその先には、準と須藤が座っていた。
「今度は冬音さんが馬ですか」
「あらあら。いいわねメアちゃん」
………。
私はメアを背中から降ろし、抱き上げた。キッチンの椅子に座らせ、私も隣に座る。
向かい側の準と須藤は二人とも首を傾げていた。
「ふぅ?」
隣のメアも私の肩を叩いてくる。
………。
この三日間、とても楽しかった。
三笠も渡瀬も七崎も電話でメアと話をしてくれた。
高坂早苗先生も、忙しい中で会いにきてくれた。
里原宅でみんなに囲まれ、私もメアも嬉しくて楽しくて、まるで一番騒がしかったあの頃に戻ったみたいだったよ。
「準、須藤、お願いがあるんだけど……」
毎回毎回、メアと二人でこの部屋に来た。死神や準に会うために。須藤やバンプも顔を出してくれる。
明るくて騒がしくて、いつも誰かが騒動を起こして。
楽しくて仕方なかったよ。
「お願い…ですか?」
「なにかしら?」
最後に残された、一番大切な日常。
今はそれだけが足りないんだ。
だから――
「メアを、私の家へ連れて帰りたいんだ」
私とメアが、二人で過ごしてきた日常。
それをこの子に与えてあげたかった。私が奪ってしまったものだったから、私が返してあげなければいけないんだ。
「そっか。そうですね。冬音さんとメアちゃん、二人だけの生活を忘れてはいけませんよね」
「佐久間さんと一緒に過ごした空間を、メアちゃんに見てもらいましょう」
二人は快く頷いてくれた。ちびメアはよくわかっていないから、きょとんと目を丸くして三人の顔を見回すばかり。
そこへ――
「でも冬音姉さん、どうやって帰るの?」
「ロシュの言う通りだよ。メアは日差しに弱いんだよー?」
死神と吸血鬼が、近くに来て言った。キッチンの会話を聞いていたらしい。
多くの視線を浴びた私は、自分の意見を述べてみた。
「正直、車での移動は避けたい。歩いて帰りたいんだ。死神と吸血鬼の言う通り、メアは日差しを浴びると衰弱する。でも、今日は幸い曇り空だ。頑張れば、連れて帰れると私は思うの」
無茶を言っているのは承知だ。
メアを苦しめるという事もわかっている。
「二人で――私の家へ帰りたいの……」
全員が押し黙っていた。
当然だよ。わざわざ、メアの残された時間を削るような行動をお願いしているんだから。
はいどうぞと簡単に返事できるような事じゃあない。
「ふぅ」
そんな時――メアが私の腕を掴んだ。
「かーろー」
――帰ろう。
メアはそう言った。
他の面々も、ちゃんとそう聞き取っていた。
「ふぅ、かーろー」
メアの言葉に、最初に反応したのは準。里原準だった。
「……ぷ――ははははは!」
準を先駆けとして堰を切ったようにみんなが声を上げて笑いだした。
「はははは! 二人がそう望むんですから、オレも文句はないですよ」
「ええ、止める理由なんてないわ」
「冬音姉さんに任せるぜー!」
「僕も賛成だよー!」
――ありがとう。
私は何度もみんなにそう言った。
何度も感謝した。
これでもうメアに会えなくなるだろう、そう理解した上で。私の願いを受け入れてくれた。
私は幸せ者だよ。たくさんの協力者、仲間に囲まれ支えられているのだから。
◇ ◇ ◇
私とメアは手を繋いでいた。
二人並んで、準の部屋の玄関に立つ。目の前には仲間が並んでいた。
「じゃあ、行くよ」
私が言うと、死神はメアに駆け寄った。飛び付いて、頭を撫でて叩いて、全身を肌で感じた。
「メア、メア」
「ろーす!」
「うん。私とメアは姉妹みたいなものだよっ。ずっとずっと一緒だったもんね。私とメアとバンプ。私達三人は、いつも一緒だったよね。喧嘩ばっかりしてたけど、楽しかったよっ。また……遊ぼうね」
「うー!」
死神とメアにヴァンパイアを加え、三人は握手をした。
「僕は待ってるよ。みんなも待ってる。またメアが遊びにきてくれることを。次に会うときは、また元気いっぱい暴れようなっ」
「ばーん! うー!」
ニカッ、と笑う三人。
死神業者3人組。
私も、この三人がまた揃うことを願って止まないよ。
一緒に育ってきた仲間だものね。
「さて、オレの番だメアちゃん」
「じゅー!」
準は、コイツにしては珍しい満面の笑顔でメアを抱き上げた。
まるで父親のように、白い歯を覗かせながらメアにおでこをくっつける。
「ははは、オレはメアちゃんに感謝の気持ちでいっぱいだ。なかなかの料理の腕前、家事全般に長け、とっても礼儀正しいキミが大好きだ。いつでも帰ってこい! いつでも遊びにこい! 里原準は、とびきり豪華な食事を用意してキミを待ってるからよ!」
「じゅー! あーとー!」
準はメアのお気に入りだからね。コイツは約束を破らない男だ。だから、間違いなく豪華な食事は約束されたぞ。
私が保障する。
準はメアを降ろすと、須藤がすぐ前に立っていた。
彼女は何も言わず、ただポンポンと頭を叩き、頬を撫でる。
「あーや!」
「……あーやは、一生懸命な子が大好き。遊ぶことも、ご飯を作ることも、アナタは常に一生懸命だった。アナタは、みんなに敬語を使っていたわよね。それは――嫌われたくないって気持ちの表れだったのね。健気で一生懸命で思いやりのある優しい女の子。アナタに会えて、本当によかった……」
よかった、と言う須藤のその声には震えが混じり、彼女は顔を背けてしまった。
鼻をすする音に、近くに居た吸血鬼が背中を撫でた。 須藤とメアが会話する姿は、他の連中に比べて少なかったけれど。でもこの二人は互いに互いをよく見ていて、好意を持って過ごしていたんだ。
「メアー、また会おうぜー!」
「僕も待ってるからね!」
「メアちゃんの分の飯は冷めない。オレが冷めさせない。だから、また会おう」
「また……お話しましょうね。メアちゃん」
メア。お前には帰る場所がある。待ってくれる連中もいる。
こんな出会いはそうありはしないよ。
「うー! ばいばーい!」
メアは嬉々として手を振った。大きく手を振った。
私はもう片方の手を握り締めて、みんなに見送られながら里原準の部屋を出たのだった。
◇ ◇ ◇
【beautiful dreamer】
日差しはない。曇り空だ。私の予想どおり、これなら歩いて帰れそうだ。
「メア、大丈夫か?」
「うー!」
「よしよし。家に帰ろう」
マンションから歩きだす。何度も何度も二人で歩いた道を。
メアは覚えているだろうか? 忘れちゃったかな。
時に笑いながら、時に語りながら、時に言い争いながら。
追い駆けっこみたいに走った日もあったっけ。
夕焼けの空に包まれて、朝焼けの空に包まれて、涼しさに、蒸し暑さに、凍えるような寒さに、包まれて歩いたね。
「ほら、ここの曲がり角」
「?」
「お前は熱く語って歩くときはいつも、ここを直進してたんだぞ」
「ふぅ!」
「私じゃなくてお前だ」
「めー?」
「そ。めーはいっつもこの角を曲がらずに突き進んでた」
言われたメアは意味を理解せず、笑いながらやっぱり角を曲がらずに直進した。
笑っていた私も、そのまま直進していた。
歩きながらたくさんの思い出話をした。
どれもこれも私の心に刻み込まれたものばかりで、それをメアに話してあげるのがこの上なく切なかった。
「ん。どうしたメア」
「ふぅ……あ…ぅ……」
「そっか。疲れたか、よしよし」
はしゃぎすぎだよお前は。
疲れたと言うメアを背中に乗せ、私の足でまた歩きだす。
背負った子はとても軽かった。
首筋にかかる吐息のリズムの早さが、私の歩くスピードを上げさせる。
私は何度も背中に声を掛けた。
「もうちょっとだからねー、メア」
「うぅ……」
「話の続きしよっか? それとも少し休む?」
「つーき……」
「続きか、わかった。思い出話ばかりは飽きさせちゃうから、別の話でもいい?」
「ん」
別の話。というか、私にはこの子に言うべき事があったのだ。
たとえ言葉の意味があまり理解できない状態でも、言わなければいけない。
それはやはり、あの事。
私が、まだ普通だった時のメアにした仕打ち。
「……あのね。私は、メアにひどい事を言っちゃったんだ。もう覚えてないかもしれないけどさ、私はお前に〈嫌い〉って言っちゃったんだ」
「ふぅ……めー、きらい?」
「嫌いじゃない。大好きだよ。だからね、謝りたかったんだ」
「………」
この子はもう、許す許さないの判断ができない。
許されない事もなければ、許される事もない。
この上なく後悔し、自分を戒めてもキリのない状態。
でも言っておくべきであり、言っておきたかった。自分を背負っている女は、一度は拒絶した女なのだという事を。
「きっとお前は私の言っている意味がわからない。でも、聞いて欲しい」
「………?」
頭の中に、付いて回る自分の言動。
お前が嫌いだと言い、家に来るなと言い、勝手に準に預けて姿を消した。旅行へ行くと皆に嘘を吐いた。ファンタズマ卒業試験を半ば八つ当たりに利用した。ケルベロスを付き合わせた。怪我を負わせた。準にも喧嘩を付き合わせた。痛い思いをさせた。
全て、私の甘えによって起きた事。
最後の最後まで隠し続けていた本音は、ナイトメアの事だった。
一番、酷い事をした。
なのにお前は私に笑顔ばかりを見せてくれる。殴ってもいいのに。蹴り飛ばすべきなのに。
私は頭を下げて背中の子に謝った。
「ごめんなさい……。ナイトメア」
この一言が下手くそな私。
しばらく二人は黙り込んだ。歩く足音だけが耳に入る。
やっぱりメアにはわかるのだろうか。私の言った言葉の意味が。
だとしたら私の行った業のことを考えているのだと思う。いや、考える間もなくこの後この子は私の背中から飛び降りるだろう。
どんな顔で見られるのか怖かった。だが自業自得。そうなったら仕方のない事だ。
「メア……私の事、嫌いに――」
――ぱふっ。
………。
頭の上になにかが乗った。
ふかふかしていて、頭が温かさに包まれる。
香りは準の家で使っているシャンプーとかの香りだろうか。
片手で自分の頭を触ってみると、私は帽子を被っていた。
さきっぽに毛玉のくっついた、メアの帽子だ。初めて被ったかも。
「ふぅ……」
「このニット帽はお前のだろう? どうして私に被せるんだ」
「ゆーす……」
「許すって、言ったのか……?」
「うー」
じわりと浮かんだものを拭った。
許すだってさ。この子が。
きっとこの子なりに一生懸命考えてくれたんだ。私の言葉を、真摯に受け取ってくれた。
そして……ゆるしてくれた。
「有難う。メア……」
「ぽん……ぽーん」
メアは後ろから毛玉をつっついて遊びだす。
私はこの帽子を初めて被った。この子がいつも被っていた帽子。肌身離さず身につけていたもの。
柔らかい質の布で編んであり、温かく頭を包み込む。手作りなんだろうな、と思った。
こんなに大事にしていたんだもの。
私は似合わないかもね。
「ぽんぽん……」
「ああ、ぽんぽんやってればすぐ家に着くからな」
ゆっくりと帽子から垂れた玉が揺れる。
跳ねて、揺れて、止まって。それからまた跳ねて。そのゆったりとしたリズムを頭で感じていた。
ぽーん。ぽーん。
その揺れては止まる繰り返しの間隔が、懐かしく思えた。
似ている。
私と準の二人で作った曲のリズムに。
あれは興味本位でやってみた創作だった。曲は私、歌詞は準。アコースティックギターで奏でる、ゆったりとした曲だった。
当時の私達からはとても生まれそうにないような優しい曲調。でも歌詞はあまりマッチしていなかったり。出来上がってから二人で笑ってたっけ。
――ぽん、ぽん
「朝焼けの窓辺……」
私は、なんとなく口ずさんでいた。
「何を見つめているの……」
するとメアは玉を突く手を止めて、私の肩に顎を乗せた。聞こうとしてくれるらしい。
だからそのまま、口ずさみ続けた。
“朝焼けの窓辺 何を見つめているの”
“透明な境界に 何を求めているの”
“君の境界は そこだけじゃないのに”
“籠を無にして 外を夢見るの”
“uh... uhah... ahhah...”
“夜が明けるまで”
“過ごした 日々に あるモノは”
“いつも 光に 目を閉じた”
“目の前に 見える 丘の上”
“初めて 見る マゼンタの花”
“声をなくした カナリアは”
“強く目を閉じて 鳴いた”
“失う つらさを”
“誰かに伝えようとして”
“ah.ahh”
“声をなくした カナリアは”
“狭い籠の中 もがいた”
“花を 求めて”
“空を翔び続けた”
………。
最初はアコギだけだった。それからドラム叩いてくれる奴が現れ、ベース弾きも加わってくれた。
こんな風に、なにかをやる時には仲間が集まる。
なにかを縁として仲間が増える。
「私とメアの縁は、誰も得ることのできないような特別な縁だよね」
「ふぅ……めー……」
「そう、私とお前。こんな縁は滅多にないんだぞ? 大事にしないといけないよな」
「………」
「これからも、いっぱい楽しい思い出を作るんだ。お前は遊園地が好きだから、準とか死神とか、須藤もバンプも引っ張って行こうな。もっと賑やかな方がいいなら、地獄から大量に連れてきてやるよ!」
「………」
「なに? 私と二人がいいの? 仕方ない奴だなメアは。甘えん坊さんは直さないとっ」
「………」
「ねぇ……メア……」
「………」
背中に乗せた子が、だんだん軽くなっていた。
私の肩に添えられた手から力がなくなっていく。
――ぽん…ぽん……
私はまだ居るよ。と、そう知らせるかのように帽子の玉が揺れた。
私の部屋はもう見える位置にあるんだ。
この子にどうしても見てほしい場所だ。
――ぽん…ぽん……
今すぐメアを降ろして顔を見つめて抱き締めたかった。頭の中がぐるぐるして、頑張っているメアの為に足を早めた。
私達の暮らした場所に着けば、この子は最高の笑顔を見せてくれる。その笑顔は可愛くて仕方なく、運命さえも揺れ動く。
「一番辛いのはメアだよね。ずっと過去を隠して、ずっと一人で闘ってきたんだものね。すごいよ。強いよお前」
「めー……つよー」
「強い。私なんかよりずっと、ずっと強い」
「ふぅ……つよー」
佐久間冬音という女は、メアにとってどんな存在で居られたのかな。
この子を苦しめるモノに一度は屈したけれど。私は、それでも支えとして頼って貰えただろうか。
こんなに大切な宝物ができたのは初めてなんだ。ずっとずっとそばで笑い続けたいよ。
「ふ……ぅ…」
「ふぅはここに居るからな。メアの近くに、触れられる場所にちゃんと居るから……。お前も私から離れちゃダメだ……」
「………」
「ほら、着いたよ……」
――私は玄関に立っていた。
久しぶりに帰ってきた我が家は、まるで変わっていなかった。畳んだ衣類、開いたままテーブルに置かれた本。
私達の場所。
メアの居場所。
戻れたよメア、ほら。ここで私達は暮らしていたんだよ。
背中から降ろしたメアは、足腰がたたないようで玄関の上がり端に座り込んだ。
いや、正確には倒れこんだのを私が支えていた。
でもメアの目は部屋の中に向けられている。とても眠たそうな眼で私の腕に抱かれながら、日常を完全に取り戻した。
メアはにっこりと笑ってくれた。
「見てよメア……」
「………」
「帰ってきたよ……」
「………」
私は握り締めたニット帽をメアの手に握らせた。
その手はもう――霞みがかったように透けている。
虚ろで、今にも眠ってしまいそうな二色の瞳。部屋を見て、私を見ている。
「ほらメア……ニット帽だぞ。お気に入りなんだろ? 毛玉をつっついて遊ぼう」
「………ふ…………ぅ………」
なんて弱々しい声を出すんだ……。
部屋に帰って来て、大はしゃぎはもうできないのか。
もう、お前の作るご飯は食べられないの?
「消えないでよ……メア。ナイトメア・バッドドリーム……」
「た…………し……った…………です」
なんて優しくて温かい顔で笑うんだ……。
お前、身体が消えかかっているんだぞ?
束の間の日常を取り戻して、部屋に戻って、目の前に私が居て、それだけでお前は幸せなんだよな。
なら……もっともっと幸せにしたい。もっともっとメアを笑顔にしてみせる。
だから……だから……
「嫌だよ、消えないで。行かないでよメア……」
私はぽたぽたとメアの頬に涙をこぼしていた。
手を握り、背中に腕をまわして抱き寄せ、消えてしまわないように私の全身で包む。
消えると死ぬとは違うのか。
こんなにあったかい手をしているのに、消えるわけが……ないじゃないか……!
「こ………んな……に………、た………の……しく……生……きら………て」
「もっと楽しく生きよう! 私も頑張るから……! 私と準と死神と彩花とバンプと――」
「ふゆ………さん………と…………出会………て………しあ……わせ………で……した」
ニッコリと、最高に素敵な笑顔を浮かべて口を動かすメアに、私はもう見えていない。
こんなに大事なのに。
こんなに健気なのに。
こんなに強いのに。
どうして――私の手をすりぬけようとしちゃうんだ。
どうして――消えてしまおうとしちゃうんだ。
「まだ人生はこれからなんだぞ……! 私とメアだってこれからだ。私はお前に居てほしい……」
「―――、――」
「う……っ、メアぁ……」
「―――――」
ほとんど口が動かず、もう私にもこの子が何を言っているのか聞き取れなくなってしまった。こんなに綺麗な唇なのに……。
見てよほら。
会った頃となんにも変わってない。むしろ成長したんだよこの子。
この子のおかげで、とても楽しかった。私自身、大きく成長できた。
夢魔の娘。
一緒にご飯を食べた。一緒に寝た。一緒に歩いた。一緒に笑った。一緒に騒いだ。一緒に戦った。
こんな私だけど、一緒に居てくれて嬉しかった。
「有難うメア。大好きだよメア。私の大切な……ナイトメア……」
――そしてメアは
――ゆっくりと
――まぶたを閉じた……
「“だいすきです。ふゆねさん”」
――私の腕のなかにはもう……
――何もなかった。
ただ床にニット帽だけが転がり、大切なあの子の姿は――どこにも無い。
最後に消える時。
あの子の言葉だけは聞き逃さなかった。
“大好きです。冬音さん”
「……ぅ……あぁぁぁぁ」
ニット帽を抱き締め、私は床に伏した。
まわりの世界が何も聞こえなくなるくらい、何も考えられなくなるくらい、私は大声で泣いた。
「ぅう――っ、ああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」
悲しくて悲しくて。
辛くて辛くて。
どうしようもなく心が痛くて。
「うああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
大好きだったあの子を失った辛さに、心が負けてしまいそうだった。
最期まで笑顔でいてくれたメアは――もう
居なくなってしまった。