夢章【phantasm dreamer】6
最近、夢を見ていない気がする。
それだけ身体に疲れが溜まっているということだろうか。自分ではよくわからなかった。
ただ、今日も夢を見なかったと自覚するだけで、すぐに頭は外界へと意識を向ける。
目覚ましの音がなかった。
寝坊した。朝飯の支度も忘れていた。
と、いつもと違った目の覚め方に青ざめつつ――ああ、これは二度寝だったということを思い出した。
既に着替えが済んでいる身体を起こして、居間へ向かう。
廊下を一歩一歩進むにつれて、明るい声が大きくなった。
賑やかな空気の中に、寝呆けまなこのままオレは入っていった。
「おはよう」
オレが挨拶した後、こちらを振り向いたのはバンプと彩花さんだった。
「準くんおはよー」
「よく眠れたかしら里原くん?」
「ええ、まぁ」
そうだ。バンプと彩花さんが朝飯の支度を代わってくれたんだった。
死神が気を遣って頼みに行ってくれたのだそうな。
だんだんと頭がスッキリしてきたオレに、真っ先に突っ込んでくる影があった。
まるで父親を見つけて大喜びな子供のように。
「じゅーーーーっ!」
「朝っぱらから元気いいなメアちゃん! そらぁ!」
突っ込んできた身体を、その勢いのまま抱き上げた。
これをやると大喜びになるのは昨日学んだことだ。
ナイトメアは幼児退行している。
心だけでなく、身体も少し小さくなっているように思う。
抱き上げた身体があまりにも軽く、小さく感じたからだ。
実際、いつも着ている服も袖が垂れているし、ニット帽も頭からずり落ちそう。
でもやはり、この子はナイトメアなのだ。
キャッキャとはしゃぐ姿からは、以前の礼儀正しい様は感じ取れないけれど。
でも間違いなくこの子はナイトメア。オレを覚えていて、部屋の中を覚えていて、彩花さんを覚えていて、バンプを覚えていて、死神を覚えている。
冬音さんの事も覚えているはずだ。
「じゅー、あーう」
「んー? どうした」
ナイトメアの指差す先には……床に倒れた黒ローブ。
近くにはピコピコハンマーやハリセンなど。
ナ、ナイトメアにやられたのか……。
「ふえーん」
「大丈夫か死神」
「ちびメア強いよー」
起き上がりながらハリセンをぶんぶんと振っている。
ナイトメアはオレの腕を引き、バンプと彩花さんの座るテーブルまで連れていった。
「準くん、メア上手なんだよっ」
「見てあげて里原くん」
テーブルの上には紙やクレヨン、色鉛筆が散らばっていた。
「おお……」
虹の世界があった。
そこには、たくさんの夢が散らばっていた。
ナイトメアの描いた、純粋な夢が。
おもわず笑みが零れるようなタッチ。ありあまる元気を紙にぶつけたような。
たくさんの色を使って描いた、温かい絵がいっぱい。
いっぱい……あった。
「すごいじゃないか、みんなで描いたのか?」
ナイトメアは元気よく頷いた。
死神も加わって、全員で絵の鑑賞会が始まる。
「んお。これは集合絵かな。左に居るのはメアちゃんだなー? じゃあその隣、この子は?」
「ろーす!」
……言っておくが肉の事ではない。
死神の事である。
黒いクレヨンでローブ、赤いクレヨンで鎌が描かれていた。
「お、その隣はもしかしてオレか?」
「じゅー!」
当たりー。
手を腰に当てて仁王立ちしたオレが、そこには居た。
どうやらナイトメアの中で、オレはこういうイメージらしい。
で、その隣。
少年を追いかける女性の絵が描かれていた。
この構図はどう見ても……。
「これ…僕と彩花さんなんだよ準くん」
バンプが苦々しく笑う。
ま、バンプと彩花さんのイメージはみんなそんな感じだろう。
「あーや! ばーん!」
ナイトメアが彩花さんとバンプの絵をそれぞれ指差し、本人達にも指差した。
彩花さんはニコニコと色鉛筆を転がし、小さな夢魔の娘を撫でた。
「ええ、上手に描けたわねメアちゃん。お姉さん嬉しいわ」
そしてオレ達は全員、絵の中である一点だけを見つめていた。
全員が、嬉しそうで寂しそうな、そんな目をナイトメアの描いた絵に落とす。
紙の世界。
そこに描いたナイトメアの大好きな日常。
その中に――
ちゃんと、冬音さんが居た。
彼女はナイトメアの後ろで、皆に負けない満面の笑顔で立っていた。
彩花さんとバンプはとても嬉しそうに目を絵からナイトメアへ移動させた。
「メアちゃん」
「メア」
オレと死神も顔を見合せて笑う。
何も言わず、ただ喜びを目線で交わし合った。
何も言わず、ナイトメアの世界を歓迎した。
良かった。
本当に良かった。
ナイトメアは、まだ――冬音さんを覚えている。
彼女の一番近くに居る。
「ふぅ! ふぅー!」
「あらあら」
「みんな一緒だよねー」
ふぅと呼ばれた最後の1ピース。
この夢の完成図を叶える為に必要不可欠な欠片。
コキ、とオレは首を鳴らした。
うし。いっちょ行ってくるか。
「あらあら、メアちゃん。この人が好きなのかしら?」
「ふぅー!」
「ふふっ、大丈夫。〈ふぅ〉ちゃんは、〈じゅー〉君が連れて来てくれるから。ね」
「じゅー! ふぅー!」
紅と蒼の瞳いっぱいにオレの姿が映った。
その目に曇りはなく、期待に満ち溢れ――
その頬に冷色はなく、高揚に満ち溢れ――
この子の澄みきった心を、今――オレは背負った。
「メアちゃん、行ってくるからな」
「じゅー!」
「はは、任せろ。じゅーは期待を裏切らない男だ。〈ろーす〉と一緒にお留守番、できるよな?」
「うー!」
「OK、いい子だ」
ぽん、と両手を死神とナイトメアの頭にそれぞれ乗せた。
彩花さんとバンプにもやってもらう事がある。
「お願い、できますか彩花さん、バンプ」
「ええ……。閻魔ちゃんに、報告するのよね」
「メアの退行化と……もう殆ど時間がないってことを」
「……二人とも、辛いと思うけど……頼む」
バンプの目が潤む。が、ここは男の子。すぐに袖で目元を拭った。
僕はやるよ、と。力強くオレに目を向けた。
「たとえ数分でも、数秒でも、楽しく過ごす時間を取り戻しましょう」
「冬音さんの事、頼んだよ準くん」
「ああ。根は回してある。居場所も絞った」
「ファンタズマ、里原君を慕う子達に感謝しないといけないわね」
そう。
オッサンだけじゃない。
オレはたくさんの人と連絡を取っていた。
向こうから連絡をくれた奴もいた。
冬音さんの異常を危惧した連中だ。
彼女の情報をたくさんもらった。
重複ばかりだったが、オレも、そして死神も、心を籠めて情報の一つ一つに感謝した。
どうせあの人の事だ。
もはや何かを考えて行動する状態ではないだろう。
彼女はきっと、気付いていた。
ナイトメアの事。
はっきりとではないが、きっとあの子が遠くに行ってしまう事を感じていた。
十中八九、いや……確実にオレに牙をむく。
ならオレは。
真っ向から受けて立つ。
覚悟は完了。
引き摺ってでも連れ帰ってこよう。
それがオレの役目だから。
「準くん! 頑張ってね!」
死神が、全力の笑顔でオレの手を握った。
わはは、今日だけは自意識過剰になってやる。
モチベーションとテンションをフルに上げてやる。
「オレを誰だと思ってやがる!」
「ファンタズマ最強だぜー!」
「その通りだ! 無敗の猟犬、その名も――」
「じゅー! じゅー!」
「そうだね、じゅーだね……」
カッコよく名前を叫んで決めようと思ったのに。
見事にナイトメアがぶち壊してくれたのだった。
◆ ◆ ◆
【宴の主役は其の冷酷たる掌を以て総てを限り無く握り潰す】
ヤベェ……。
クフ、ヤベ……ェ……。
疼きが……止まらない……。
これじゃあ拷問だ。
あぐ……っ。
俺の、俺の身体を……返してくれ。
もう少しの辛抱だ。
ギ…くそったれ。
少しでも力を入れたら準の身体が壊れちまう。
見てろよこんな世界。俺にかかりゃあイチコロだからよ。
準がアキュムを使ってくれれば少しは楽になるかな。
なんだって人間の体はこんなにも窮屈で制限されて不足に満ち溢れているんだ。
……くそったれがぁ!
ァア゛ァァァァァァァアアアアアアアアア!!
苛々するぜ。畜生め。
くそぅ、忌々しいモノが見えてきた。
こりゃあ……。
『死』か?
近いうちにどこかで死が起こるか。
俺がたった一つの命ごときに反応するとはな。
あっという間に年月は経っていたんだな。
見てろよ『世界』。
最凶が君臨したその時、お前は後悔する。
微塵の時、刹那を嘗めていた事を。
だから世界は駄目なんだ。
腑抜けばかりが跋扈する結果に満足しているのか?
この大馬鹿モノめ。
抗うモノ達を駆逐しただけで満足か?
抗うモノは抗うに足り得る力を有するが資格は必要ない。
ゼブラも、クローも、このカタストロフも。
お前を蝕む脅威だと気付いているだろう?
怯えて一点に留まるお前など目じゃない。
クハハハハハハハァァァァ!!
待っているがいいさ。後悔と恐怖の念に駆られながら。
俺は辿りついて見せるぞ。
辿りついてお前を○○して○○して○○して○○して○○して○○して!
泣き叫び鳴き叫び亡き叫ぶお前を嘲りながら潰してやる!
潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して……!
そんで――シアワセの完成。
オマエノ刺客デハ、俺ヲ殺セナインダヨバァカ。
世界で一番弱い世界。
最も弱い者。
世界。
〈最弱〉の称号を隠し続けているお前にホンモノを教えてやるよ。
なぁ――
〈最強〉よ。
手向けの花を摘みに行ってやろうぜ、準。
◆ ◆ ◆
ちくしょー、曇ってきやがったな。
空の灰色を見て舌を打つ。
このままだと降り出すだろう。となれば冬音さんは屋根のある場所に移動していると予想できる。
繋ぎ合せた情報。やっぱり、絞った結果は予想通りの場所だった。
大きな橋の下。
あそこは身を潜めるにはもってこいだ。橋の下には隙間があり、何人か入っても余裕がある。
オレがあの橋を渡っていた時、オレが橋の下を歩いた時、もしかしたら冬音さんは居たのかもしれない。あの空間のことを失念していた。
空が見えない位置にやってきた。つまり、橋の下へ到着したということだ。
探すまでもない。
あれだけ探しに探したというのに。
オレの求めた人は、至極あっさりと、目の前に立っていた。
久々の再会だ。
「冬音さん」
川の流れる音に混じったが、オレの声は彼女に届いただろう。
腕を組み、堂々とオレの前に仁王立ちした冬音さんはピク、と眉を動かした。
あれから一、二週間が経ったかな。
廃工場で一度冬音さんを見つけた時。
悪びれる様子もなく当たり前のようにナイトメアが嫌いだと言い捨てた。
とても腹が立った。
お互いに激怒し、拒絶し、背を向け合い、喧嘩別れをした。
あれからたくさんの事が起こった。
オレの身の周りも。冬音さんの身の回りも。
本来は共有し、協力すべき問題であるのに。
「早急に、戻ってください」
要求だけを述べた。
それが最も重要だからだ。
「メアちゃんが、大変なんです」
貴女は何も知らない。
頼むから、ナイトメアを想う気持ちがあるのなら、全てを無にして戻ってきてほしい。
日常の欠片であって欲しい。
「お願いします冬音さん」
相手は何も言わない。
ファンタズマが追われている状況であるため、少しやつれているか。
食事は摂っている筈。服装も綺麗だ。
そして放つ気迫も……変わっていない。
「消えろ」
彼女の第一声はそれだった。
おそらくは――オレの手元を見ていたのだと思う。
ここに現れた時、オレは既にあるモノを握り締めていた。
三つの破れた布だ。
三色の破れた布だ。
ケルベロス3の、パーカーの一部だ。
冬音さんはコレを見た途端に殺気を強めていた。
オレの言葉なんて聞いていなかった。
「あの三人はどうした」
冷たい眼でオレを見てくる。
そんな目で見られたくなかった。見られたことがなかった。
昔のオレなら、ショックを受けるだろう目だ。
「病院です。警察に感づかれないよう、袖の旗は破り取らせてもらいました」
説明をしている途中で口の中に血が溜まったので、ペッと吐きだした。
やっぱりあの三人は強かった。
そして必死だった。
だから攻撃を五回も喰らってしまった。
ケルベロスは忠実だ。冬音さんに害が及ぶと判断すればもうなにも聞こえなくなる。
完全に耳を閉ざし襲いかかってくる。
相手がオレなら、もはや躊躇も思考判断も必要ない。
だから止むを得なかった。
オレも必死だから。
「これで残るファンタズマは、冬音さんだけですか?」
「残る?」
「ええ。まだ猪突猛進するファンタズマの人間は、あなただけでしょう。他の連中は補導されるか活動を自重しました」
「あっそ」
特に気にもしない様子で、軽く流す。
「話を聞いてくれませんか冬音さん」
「どうせメアの事だろう?」
「はい。メアちゃん、もうすぐ消えちゃいます」
「………」
「本当です。細かい説明をしている暇はありません。時間がもうないんです。喋ることができなくなり、心が退行してしまいました。でもオレは全部を聞いて来ました。閻魔さんが話してくれたんです」
「あのさぁ、私言わなかったっけ?」
「え」
「異界とか、もう関係ないって」
「そうなったのはメアちゃんに怒りを抱いたからでしょう。でもちゃんとした理由があるんですよ」
「ハァ……。もうどうでもいいよ、メアとか。本来関わることのない世界の人間なんだ。消えようがどうなろうが、最初から違う世界の会う筈もなかった奴だ。私は知らんよ。あと長々と無駄話なんかしたくないぞ」
――消えようがどうなろうが。
――無駄話。
返ってくる言葉はどれも、オレの予想とは違うものばかりだ。
期待していたのに。
ナイトメアが消えると聞けば、時間が残り少ないと聞けば、すぐに帰って来てくれると思っていた。
楽観的すぎたのか?
いや、違う。
悲観とか楽観とか、そういう問題じゃない。
ズレがある。
冬音さんが口にするとは思えないズレだ。
「アナタは、今。自分の意思で言ったのか?」
「ん?」
「ナイトメアが消えても何も感じず、あの子に関する話はアナタにとって無駄話なのか?」
「うん」
「冬音さん!」
「理由とかはどうでもいいんだよ。アイツが私に嘘をついたってことは、どういうことかわかるだろう? 所詮私はそれだけの存在に過ぎなかったってこと。どれだけ間隔を狭めようとしても、アイツが同じくらい離れればお互いの移動は無駄に終わる。理由があるなら言えばいい。だけど言わなかった。ああ、この人は言える人間じゃ無いや。と、私を判断したからだろう。私に戻ってきてほしいとお前は頼んできた。日常を復活させたいとか、そんな考えだろ」
「そうですよ!」
「ね、それって都合良すぎないか? 私の意思はどうなるよ。身体と行動を以前のようにやったら良いのか? そんな事をしたってそこに私は居ないぞ? メアは居心地が良いかもしれんがな」
冬音さんの意思。
ナイトメアの意思。
二つは同じではなかった。望みは相反していたというのか。
冬音さんの意思を無視して日常を取り戻したって、それは嘘だ。偽りだ。
確かにそう思うよ。
そう思うけど……。
「な? 嘘つきは嫌いなんだよ私。お前もう帰れ。メアが大事なら一緒に居ればいい」
「冬音さんは……」
「私は……そうだな、お前の言うとおりファンタズマ最後の一人になったわけだし。状況が落ち着くまでまたどこかに隠れるさ」
「冬音さんは……今の自分、どう思っていますか」
「なに?」
「嘘ついてんじゃねぇの? アンタ」
眉間に皺を寄せて冬音さんを見据えた。
相手も頬をピクリと動かし、苛立ちを露わにする。
冬音さんは組んでいた腕をほどき、指の関節をパキパキと鳴らした。
「なんだと?」
「本音が聞けなきゃオレも帰れねえよ」
「本音を言っているんだがな」
「嘘だろ。それ」
「いい加減にしろよ準……」
「いい加減にするのはアンタだろ冬音さん」
「そっか。そっかそっか。フフ、ワハハハハ」
ざっ、と冬音さんが一歩踏み出す。
そのまま歩みを進めてオレに近づいてきた。
「準。なら本音を吐かせて見せなよ。コイツでね」
拳を突き出し、構えをとる。
突き出し方は特殊で、ファンタズマに居たオレならすぐに意図が読めた。
「ラピッド・デュエルか」
互いに拳の甲と甲を合わせた体勢でする喧嘩。
ファンタズマのルールだ。
相手の間合い(エリア)に入った状態から始まる為、比較的早く決着がつく。
故に名前がラピッド・デュエル(瞬速決闘)。
「私はこういう機会を待ってたのかもしれないね。本気で準と殴り合いだなんて、わくわくするわよ。お前はいつも女は殴れないだとか言って逃げてたから」
「本音を吐かせたいなら、無理矢理吐かせてみろってか」
「フン。お前の望む本音を私が言うとは思えないけどね。これなら互いに望みが叶うだろう?」
「今度ばかりはオレも本気で行くぞ」
「そうこなくっちゃ」
「容赦なく殴るぞ」
「構わないよ。私が誘ったんだ」
「みっともない姿でナイトメアに会うことになるぞ」
「すごい自信ね。そんなお前も好きだよ、準。やっぱりあの死神には勿体ないよ。そうだ! 私が勝ったら準は私がもらっちゃおうかなー」
「………」
こうなった以上、もうやるしかない。
なにがなんでも連れ帰ると決めたんだ。
ナイトメアと約束したんだ。
覚悟を決めてきたんだ。
ゆっくりと、肩を前に出し、間合いを詰める。
危険領域に入った状態。
そこまで接近して拳を出す。
冬音さんの出した拳の甲に、自分の拳の甲を当てた。
ピク、と相手の拳が動いた。少し震えている。
合図はナシ。
気持ちが一致した瞬間に始まる。
「………」
「………」
―――。
―――。
――サァ……。
雨が……降り出した。
オレと冬音さんは……拳を振っていた。