デリシャスにデンジャラスな。
自転車がない。
これではアパートまで歩いて帰るしかないじゃないか。
まあ実のところ自転車は今朝大学に来る途中でパンクしてしまっていたのでどのみち押して帰るしかなかったのだが、それにしてもパンクしたママチャリを盗んでどうしようというのだろう。パンク直すより買い直した方が安く済みそうなママチャリだった。それでも私がパンクを修理しようと思っていたのは、ママチャリとそれなりに長い付き合いだったからで、だからこそ思いのほか残念である。
思い出泥棒だったのだろうか。
盗まれたと言えば先日、道路を挟んで向こう側のアパートに下着泥棒が入ったことがあった。幸いにして泥棒はすぐに捕まったので事なきを得たが、二階という同じ高さに住んでいるというだけの理由で疑いをかけられたのは心外だった。ラグビー部の主将のボクサーブリーフなど盗んでどうしようというのだろう。
それにしても、目下徒歩で帰宅するしかない私だが、問題は今後にある。大学とアパートを往復するのにも決して遠い距離ではないが近くもない。よしんばそこを甘んじてもバイト先はさすがに遠すぎる。免許はあれど車も原チャリもない私にはもう足がない。それを買おうにも金がない。だからといって新規にママチャリを購入しようにもやはり金がない。もともと奨学金とバイト代で大学における全生活を賄っている私に一切仕送りをくれない実家を頼るという手段はない。ではしばらくは大学もバイトも徒歩で通い、何とか工面して自転車を買うより他に手立てはなかった。
工面して、で思い出したが今日のとある講義で、「今まで課題を出すのをすっかり忘れていた」とか言って講師がどっかりと課題を積み上げてくれた。前期ももう終わるというのに、その上他の講義でも少なくない課題が出ているというのに、時間をどれだけ工面しても首が回らない。
首が回らないで思い出したが、先週に首を寝違えてしまったせいで未だに首が回らない。寝違えというのはこんなに長引くものだったろうか。確かに我ながらとんでもない寝方をしていたらしく、目が覚めたときに煎餅布団の中心で三点倒立をキメていたのは驚きだった。一体どんな夢を見ればそんな寝起きになるのか甚だ疑問だがこればかりはどうしても思い出せない。だがそのせいでいついかなるときも向きを変えるときは全身で動かなくてはならなくなった。
「……ふう」
これではいけない。暗いことばかり考えていてはさらに暗くなっていくばかりだ。沈んだ気分のときには思い出さなくてもいいような赤裸々な過去ばかり思い出してしまう。もっと楽しいことを考えよう。
そうだ、今の私はこの上ない幸せ者なのだ。なにせ私には(本当に驚くべきことに)恋人がいるのである。まだ交際開始から一ヶ月で、そろそろ愛想を尽かされてもおかしくないのではないかと危惧する毎日だが、少なくとも交際の続いている今はこの青春を謳歌しようではないか。
彼女は料理の専門学校に通う料理人志望の女子で、私からは二歳下になる。料理の腕前はちょっとアレなのだがそこは伸びしろが多いというソレだ。詳細に説明しても冗長なので私と彼女との馴れ初めは合縁奇縁の一言で割愛するが、今のところ目に見えた不和はない、つもりだ。──アパートについた。おや鍵が開いている
すわ空き巣かと身構えたが靴脱ぎに丁寧に揃えられた靴には見覚えがあった。半ば警戒を解きつつ中へ入る。
「あ、お帰りなさい!」
キッチンに立っていたのは大方の予想通り彼女だった。……キッチンに立っている。
「来るのなら連絡くれれば、もっと急いで帰ってきたのに」
「いえ、驚かせてあげようと思って」
はにかんで笑う彼女の何と愛らしいことか。そもそも家族以外の人間にお帰りなさいと声をかけてもらえることに私は感涙せずにはいられない。……しかしひとつ気になることがある。
「……あの」
「ちょうどいいところでしたよ。ついさっき完成したばかりで!」
彼女は見るからにうきうきと私の手を引いて食卓へ誘う。さもありなん、食卓にはいくつかの食器が並べられている。……そして当然、その皿には料理が盛られている。
料理、が。
「……えと」
「出来立てなので、あったかいうちに、どうぞ召し上がれ!」
彼女はとても嬉しそうだ。その笑顔に水を差すようなことはしたくない。私はそれへ視線を向ける。
何というか……黒紫だった。漫画などにありそうなオーラすら纏っている。私の五感の全てが全力で警報を鳴らしている。少なくとも、一目見てその正体を看破できない。少なくとも液状で、やや泡立っていて、どろっとした、
「えっと……カレー、かな?」
「やだなあ先輩、ロールキャベツですよ」
ロールキャベツだった。
「同じクラスに水戸っていう人がいるんですけど、その水戸さんが凄い料理の上手な人なんですよ。で、今日水戸さんにロールキャベツのコツを教えてもらって! だから今日は凄く自信があるんです!」
彼女は凄く楽しそうだった。輝いていた。だからこそ、私は彼女の期待を裏切るわけにはいかない。私はそっと箸をとった。
恐る恐る、そのロールキャベツに箸を付ける。ぼこ、と泡立つ音を立ててそれが崩れ落ちた。同時に黒い煙が上がる。
「…………」
私は世界一の幸せ者だ。辛いことがあった日にも、恋人が食事を作ってくれている。私はそれを箸ですくい上げた。……糸を引いた。
「…………」
きっと。
宇宙で一番幸せな、世界の終わりのような味がするんだな──
「──せ、先輩!? どうしました!? そんな、し、白目向いちゃって泡まで吹いて!?」
時空モノガタリに応募したものの、元原稿です。