PHASE.2
弁護士の達崎が敷地内の建物について、説明する。用意された資料によると、この敷地内には目の前の邸宅部分を含めて、三棟ほどの建物が散見できるそうだ。
何れも、小淵沢にあった旧華族の邸宅を移築したものだと言う。邸宅は西洋建築である。外壁構造など、飾り気の少ないシンプルなデザインだが、やはり昔の職人仕事で基礎はしっかりしている。そう言えば谷底の水流に合わせて造られたシンプルなデザインの外観は、日本庭園の静けさの趣すらある。
「まるで落水荘だな」
香村がさかしらげに口を挟んだが、確かにあのフランク・ロイド・ライト(戦前、東京駅をデザインしたアメリカの建築家)の流れを汲む、昭和の西洋建築だ。事実、設計はライトの流れを汲む建築家の手になるものだと、達崎は補足する。
「これに、書斎兼茶室の離れが一軒、倉庫が一棟あります」
歩きながら達崎は説明を続けたが、主邸を回って裏庭に出ると、建物は一望できる位置にあった。奥の草むらに陽炎を孕んで佇んでいる丈夫そうな鉄骨造りの倉庫と、川沿いの林の中にある平家建の日本家屋の二棟だ。
「登記上の敷地面積はかなり広いですが、建物はこの二棟だけですか」
九王沢さんが添付された敷地の地図を見て、疑問を口にする。
「この土地自体は明治期から未整理の、山林原野なんですよ」
七叡の妻が持っていた地所を、そのままにしてあったものらしい。現代では宅地転用したらそれなりに画地整理もした方が税制上有利なのだが、七叡の時代はおおらかで、特に構うことはなかったようだ。
「この山の見渡せる一帯が相良家から受け継いだ財団の地所ですが、あまり奥に行かないで下さい。迷っても、責任は持てませんので」
苦笑気味に達崎が言うと、香村は煙草をくわえながら露骨に鼻を鳴らした。
「まさかお宝を、山に埋めたってことじゃないだろうからね?」
この男は慇懃だが、僕たちに最初から含みがあるらしい。煙を吐きながら、なぜか折に触れて意味ありげな流し目を投げかけてくる。
「必要なものは母屋か、書斎のどちらかだろう。外の説明はいいから早く、中へ移らないか」
こうして富田は鍵束を取り出していそいそと、主邸の玄関扉を開けた。いきなり出迎えたのは吹き抜けのあるエントランスロビーだ。外の陽が、ほどよく落ちていた。
「なんだ、あながち開かずの間でもなさそうだな」
実に香村の言う通りだった。
何十年も開けていない場所なので、さぞや埃臭い空気を吸うかと警戒していたが、思ったよりも中の空気は滞っておらず、アールデコ調のライトやテーブルなどの調度もしっかりと管理されているのだ。
「財団の管理下に入ってから、ここも一応、何度か人の手が入っているんですよ。資料館として運営しようと考えたり、建物を解体して売り渡そうと言う計画もあったりしたので人の手はそれなりに入っていまして」
だがその都度、話が流れてここまで手つかずで来てしまったと言う。例えば何か不吉ないわく因縁があってのことかと勘繰ってしまうほどの奇跡的な話だが、やはり原因はただ単にこの意外な立地の悪さにあるようだ。
一見してまず、インフラの問題があるのが分かる。この邸は八ヶ岳の高原リゾートが開発される以前からあったもので当然アクセスは悪く、地震によって荒れ放題の旧道なども整備される目途はなく放置されていると言う。
「まあ避暑地だから、夏の間しか使わないけど真冬には完全閉鎖ですよ」
まるで本格推理小説の舞台のような立地だ。別荘地以外に土地利用するとしたらもちろん、このアクセスの悪さの問題を解決しないことには土地の買い手もつかない。そこで長らく、財団では放置された財産だった、と言うことだ。
「で?七叡自身はここに、どれくらい棲んだの?」
「晩年の十年ほどはここに、隠棲したそうです」
香村が何気なく聞くと、九王沢さんが即答した。がさがさ関係資料を探る富田が、何か答える前にだ。
「もう処分してしまいましたが、甲府市内に日本家屋の本宅があって、夏だけはここへ来て書き物をしていた、と記録にはあります。晩年は東京の学会や出版社との交渉もすっかり絶えてしまったので、来客に特に配慮する必要はなかったんだと思います」
九王沢さんの言っていることは、ほぼ間違いのない事実だろう。妻も幼い時、二、三度、大金持ちの甲府の祖父に、八ヶ岳の山奥に連れて行ってもらった記憶があるらしい。時代の流れは無情だ。七叡の子供たちは死後、そう言った不動産をほとんど私有できなかったのだ。
「なるほどね。だから電気や警報システムの類なんかも新しいわけだ」
僕も入るとき目についた。香村は、玄関に貼られた警備会社のステッカーのことを言っているのだ。
「確か、七叡の著作や蒐集品は財団管理か、地元美術館に寄付したことになっているはずだけど。ここはそう言った調査は一度も行われなかったんですかね?」
部屋位置を図面と照合しているのか、弁護士の達崎がロビーから二階を眺めながら尋ねた。
「何度か、手は入ってますよ。でもまあ、持っているだけで税金のかかるようなものは処分したし、蔵書の類も目ぼしいものは、県立図書館などに寄付してしまいましたし。ここにあるのは行き場のないものばかりだと思いますけどね」
「要は物置代わりってわけだ」
香村はうんざりしたように、ため息をついた。
「一日がらくた漁り、ってオチもあり得るな」
「かも、知れませんね」
即答で和す富田もそうだが、彼らはここに『初震姫』の実在を立証するような品は、到底発見できないと考えているようだ。
「書斎と書庫は表の離れを含めて、四か所ほどあると考えていいでしょうか?」
しかし、僕が連れて来たお姫様の方は、果敢だった。
「あ、客間も今は物置にしています」
「物置は一回手が入った場所だろ。貴重品があったとしたらそのとき、リストにするなり、管理の手を経たんじゃないのか?」
「そうした品物はすべて、亡くなった前理事長が管理されていましたので」
実は他の価値のある品々や資産もまだ、把握しなければいけない段階にあるらしい。
「前理事長はほとんど人任せにしない方でしたから」
と富田は、狼狽えたように言い添える。僕の記憶が確かなら、澄子の大叔父である七叡の長男は、県議会議員まで務めた人物だ。財団経営にも、さぞ辣腕を振るったことだろう。
「とにかくまずは目ぼしいところを探しましょう」
九王沢さんは、どこか嬉しそうな面持ちで僕に言った。
とは言え、そこからはかなり不毛な作業の連続だった。何しろ、手がかりなどまるでないのだ。
「ご苦労なことだ」
香村が皮肉気にこぼしたのは、九王沢さんが一番大きな書庫に姿を消したその瞬間だった。
「あんたも大変だったでしょ?お嬢様の気まぐれも、困ったもんだ」
僕は一瞥しただけで応えず、黙って聞いていた。
「金にもならん学問やって遊んでられるんだ。気楽なもんだ。同じ文学芸術でも、こっちはあくせく商売しなきゃ食ってけないってのに」
香村もそれと察したのか今度は遠慮がちにそれに和した達崎と話し始めた。
「ったく、どこで嗅ぎつけたのかは分からんが、私たちの調査に横槍を入れた挙句、こんな山奥でひと騒動だ。都内から諏訪まで来る手間だって、意外に馬鹿にならないんだぞ」
香村は、露骨に鼻を鳴らしてみせた。いかにも金持ちの我がままに無理やり付き合わされている、と言う体たらくだった。
「例の信長の断簡だって、うちで鑑定中だったんだ。九州で同時期の初震姫の記録が発見されたからと言ったって、俗話だろ?無理やりこっちに嘴突っ込んで来なくたって、良さそうなものだがね」
本人がいないならいいと思ってか、無神経に毒を吐くものだ。
「でさあここ、物置代わりだったんだろ?まあこんな山奥に、入る空き巣もいないだろうが、警備会社にわざわざ金を払うようなこともないと思うがね。一応、八ヶ岳だし、思い切って更地にしちまった方が、案外買い手がつくんじゃないかね?」
香村は無遠慮に煙草を取り出すと、ターボライターで火をつけてぶかぶかと吸い出した。言わなかったが、富田が嫌な顔をしていた。僕は気づいたがここは、火災報知器があるのだ。
「先生も甲陽大学の方だっけ?ここに本当に八雲の原稿なんかあるのかねえ」
「七叡は八雲の話を参考にした、とは言っています。さらに七叡は生涯をかけて恩師の遺稿を集めていました。ゆえに、ないとは言えません。しかし、七叡がある、と明言していない以上、あるとも言えない」
「ですよねえ。根拠はないわけだ」
と言う香村の前に僕はつかつかと歩いて行き、奴の口から煙草をもぎとってやった。
「しかし、古い紙の本はある。そこらじゅうにね。おたくでも扱っているはずだが、あなたみたいに紫煙を吐いてぶらつく連中を、あなたたちは黙って迎えますか?」
香村の顔がみるみる渋くなった。
「ふん、お雇い外人が」
去る背から、香村がそう口走るのが聞こえたが、僕は黙っていた。
それから僕たちは表の倉庫も、離れの書斎も開けてもらったが結果は同じだった。
「ありませんね…」
ぽつりと言うと、九王沢さんは豊かな胸の前で腕を組んだ。希望的観測を持ったはいいが、根拠のないことだ。彼女には悪いが、予想の範疇ではあった。
「さすがに財団の手が、何度も入っているでしょうからね」
しかし、九王沢さんの答えは予想外のことだった。
「机が」
「机?」
「机がないんです。七叡は著書の中で何度も書いています。自分に本当に迷ったときは、何もない書斎で机に向かってただ、原稿を書きつけることがある、と」
言われてようやくはっとした。確かに相良七叡が書いたもので、そのような記述を見かけた気がするが。
「『諸君が困難に遭い、どうしていいかまったく分からないときは、いつでも机に向かって何か書きつけるといい』。小泉八雲の言葉です。その八雲の教えを、七叡はずっと心の支えにしてきたそうです。そのため七叡が棲んできた場所には、可能な限り簡素な書き物机と、何もない部屋を設けたと言います。甲府の本宅にもそれがありました」
書斎がそうなのではないか、と思ったのだが、九王沢さんはそこは本宅にあったスペースとは趣が違う、と言うのだ。
「施工の際、七叡は細かく注文をつけたと言います。備え付けの書き物机が主で、しかもサイズは指定のものと決まっているんです。書斎の机の寸法を測ってみましたが、やはりそれとは違いますね」
と、言うとそれきり九王沢さんは思索の世界に入ってしまった。
僕は一足早く庭へ出た。彼女はしばらくそっとしておくべきだと思ったからだ。科学者に多いが、学者の中にはこうしたタイプの人がいる。想像の方向へ思考が機能すると完全に、日常世界の機能が停止してしまうのだ。そう言うときは無理に話しかけずに、一人にさせてあげた方がいい。僕は、誰あろう妻からそれを学んだ。
りん、と鈴の音が鳴ったような気がして、僕は背後を振り返った。当然のようにそこには誰もいない。未整地の雑木林が静まり返っているだけだ。
(まさかな)
僕は木立の向こうの、色素の薄い夏の空を見た。
九王沢さんのお蔭で、ついつい妻を思い出してしまった。不思議だ。妻と同じだな、と思った、そのこと以外はまるで違うのに。僕の頭の中では近年、引き出すことのなかった妻の記憶の隅々までがフローしていく。
と、かさりと音を立てて草むらから顔を出したそれと、僕は目が合ってしまった。
白無垢の子猫なのだ。
こんな山奥に。野良猫とは思えないほどに、ふわふわとした白い毛をまとった猫が、まるで自分の人格を主張するかのように、こっちをじっと見ていた。僕は思わず、どきっとした。そのまま、猫が人語を喋り出す、とでも言うかのような、何とも形容しがたい奇妙な錯覚に陥ったのだ。
(そんなはずはない)
思い直そうとして、僕は、はたと思い当った。意識下に圧縮されていた記憶が、急速に解凍されていく。その瞬間、ある予感が一気に僕の脳を駆け巡ったのだ。妻は言っていた。確かに、言っていたのだ。
幼い頃、七叡の別荘で巫女の霊を一度だけ、視たことがあるのだ、と。
妻は四歳で、猫を追っていて森に迷ったことをおぼろげながら憶えていた。その巫女は、黒く濡れて流れる潤いある髪を振り乱し、目の前にいる白無垢の子猫のような、純白の衣装をまとっていたと言う。
もう一度彼方で、鈴の音が鳴った。と、同時に猫が駈け出した。あっ、と反射的に出そうになった悲鳴を呑み込んで、僕は猫を追いかけてしまった。藪の中へ。獣道を転がって、走り去る白い影を追って走った。この瞬間の僕を、僕はいまだに自分で上手く説明できない。
走りながら思い出したのは中東でPMSCの仕事をしていたときの、まったく関係ない記憶だ。バックフィーバーと言うハンターたちの用語があるが、ある緊張感を与えられ過ぎると、人は突発的に論理上にない行動を取ってしまうことがあるのだ。今がまさにそれだった。追え、と言う根拠のない指令を受けて忠実な下士官と化した僕の身体は一目散に動き始めてしまったのだ。
気がつくと、僕は見知らぬ場所にいた。子猫の姿はない。思わず、はっとした。いつの間にか僕は、命令を無視して部隊をかけ離れた新兵のように、ぽつんと森の中に取り残されていたのだ。僕が追っていたのは確かに、猫だった。だが、違う気もした。いざいなくなって見ると、あの白い無垢の子猫は、まるで場違いだった。こんな山奥にいるはずがないのだ。
神隠しにあった子供のように僕は、狼狽えて辺りを今さら見回した。なんてことだ。猫を追いかけていて道に迷った、などと正常な大人がする言い訳ではない。それに僕が探しているのは、書物なのだ。決して、猫ではない。
途方に暮れて顔を上げた時だ。僕はそこで確かに見た。林の影に、背の高い、若い女が佇んでいるのを。
年齢は近いが、九王沢さんではない。一目見て分かった。女は白い巫女の衣装をしどけなく、まとっていたからだ。毛先を切り揃えた長い髪は、椿の葉のように潤いを帯びて輝いて、切れ長の瞳が薄く開いてじっとこちらをうかがっているようにも思えた。
僕は声を上げようとした。しかし、声にならなかった。巫女の女性は袖を翻すと、音もなくその場を立ち去ったのだ。
今度の僕は、一歩も動くことが出来なかった。ちょうど猫を追いかけたときの狂おしいときの衝動がまだ居残っているにも関わらず、足が一歩も動かなかったのだ。疲労ではない。僕と彼女の間に引かれた、厳然としたラインを本能的に僕は、認識してしまっていたからだ。根拠はない。しかしその先を追えば、そこが幽世だったかも知れない、と言う言い知れぬ恐怖感が、危うく僕の足を停めたのだ。
動けなかった。
スナイパーから遮蔽物がぎりぎり守ってくれる生と死のラインを意識した兵士のように。反射的に生物としての危機を感じて、僕は寸でで立ち止まった。やっと気づいた。猫が、いなくなった、と言うのは、そう言う意味だったのだ。
巫女の姿が林の中へ消えるまで、僕はそれをじっと見守っていた。ほとんどその表情が見て取れる距離に僕がいたが、彼女の唇は綻んで、その表情はかすかな笑みをすら湛えていたような気がした。
その足元に、ひょいとあの白い子猫が寄り添ったとき、今度こそ僕は、我を忘れそうになった。まさか、と足を踏み出しそうになる僕を、彼女はやんわりと目線だけで抑えていた。子猫はじろりと僕をねめつけた。これ以上は来るな、そう僕に警告しているように。
そうしているうちに、巫女も子猫も消えた。僕はもう言葉もなかった。呆れたことに、いざいなくなってみると、そのどちらも場違いだった。
結局、八雲の原稿は発見されなかった。あの香村たちが付き合ったのは、ほぼ初日だけで後は悪態をついて東京まで帰り、九王沢さんは滞在期限ぎりぎりまであの七叡の別邸を探したが、目的のものはやはり、出てくる気配がなかったのだ。最終日、僕は九王沢さんを甲府駅まで送った。ベストを尽くしたせいか、意外に淡々としていた。ただ一日多くいたらしく、彼氏に平謝りしていた。
「楽しかったよ」
僕は何の衒いもなくそう言った。九王沢さんは無邪気に表情を綻ばせ、何度も頷いていた。
「わたしもです。この数日、ウィンズロウ先生とは色々と興味深いお話が出来ましたから」
確かに僕たちは、十分に語り合った。邪魔ものがいなくなった別邸で、資料を探しながら。話し出したら止まらない、近代明治の男たちを語る、そんな九王沢さんを見て僕はより妻に関する色々なことを思い出せた。
真夏の盛りだ。あまり大きな声では言えないが大学生たちはこの時期、勉強よりも、することが多い。退屈を持て余した生徒たちの騒ぎ声が上がると、あれから数日はまた不意にあの九王沢さんが現れたのかと、淡い期待を抱いてしまうところだが、そんなこともなく、日々は当たり前に過ぎていった。
事件が持ち上がったのは、それから程なくのことだ。
甲府市内の五十歳代の無職の男が、別荘荒らしで逮捕された。この男は春先から暖かくなる前に、八ヶ岳周辺の別荘地に空き巣をしたり、戸締りの甘い農家に侵入して金目のものを漁ったりする、いわゆる『盗難旅行』を繰り返していたのだが、その男が僕たちが調査をしていた七叡の別邸にも入り込んだ、と言うのだ。
犯行は僕たちが別荘を去ってから、数日のうちに行われたと言うことだったが、警報が作動し、男はろくなものも盗むことが出来ず、手近にあったものをひっつかんで去ったらしい。慣れない骨董品を横流ししようとした男はあっという間に居所を突き詰められ、警察に逮捕された。
問題はその骨董品が、物議を醸しだしている、と言うことだった。古い小物入れに薄い布をかけて安置されていたのが、見たこともないほどに年代の経った英文の原稿だったと言う。
専門家の鑑定では、使われた紙もインクも百年近く前のもの、内容からして一九〇一年に書かれた『日本雑記』(A Japanese Miscellany)の一部らしい。原稿のタイトルを聞いて仰天した。なんと、冒頭にはこう書かれていたのだ。
『初震姫とむせび泣く亡霊の話(The Story of Hatsufuri Hime and Keening ghoust)』
間髪入れず九王沢さんから連絡があり、僕は都内へ向かった。
「真筆だったね」
銀座玉隴堂に行くと、美術誌や歴史雑誌の記者たちを集めて、得々と語る香村がいた。
「やっぱり私が睨んだ通り、相良七叡の元に八雲の原稿はあったわけだ」
あれだけやる気がなかった人間が言うことではないが、まず僕は原稿の内容の方へ気持ちが行ってしまい、それどころではなかった。
九王沢さんも情報を聞きつけて、そこへ駆けつけたばかりらしい。警察が返却してきたその原稿が、専門家の間でやり取りされるのを興味深そうに眺めていた。
彼女が話すところでは、まだ本格的な鑑定には回ってはいないが、文章の癖や字体からすると、八雲のものの可能性が高いと言う。
「この原稿には、熊本で七叡が八雲に聞いたであろう、初震姫に関する各地の伝説が、物語として一本化されて網羅されています」
八雲の調べによると、初震姫は富家の間を出入りし、名物に取り憑いた悪縁を取り祓う巫女であったようだ。星震郷と言う深山の隠れ里から現れ、その活動範囲は場所も時代も離れて、多岐に渡る。恐らくは、初震姫はその巫女の一人であり、星震郷からは似たような巫女たちが、長年輩出されていたのだろう。
「今回の八雲の原稿で初震姫の足取りが、明らかになりました。当社が発見した断簡の通り、初震姫は天正六年六月、織田信長に自領内での振る舞い、通行を自由にする、と言う許可状をその場で与えています。それは初震姫が信長の命を受け、足利将軍家秘蔵の名物を追って九州まで渡った、と言う事情とともに語られています」
そうなると、これで初震姫が信長のいる京都に現れ、その年の秋に九州で耳川合戦に従軍した経緯のつながりが着いたことになる。
「その足利家の名物については、正体が分かっていません。しかし、自分が滅ぼした足利将軍家の秘蔵の品です。信長自身、かなり不吉なものを感じていたのではないでしょうかね」
足利将軍家の悪縁は、信長に相応の懸念を与えたのではないか、と八雲は書く。
この原稿では信長が宗三左文字、いわゆる義元左文字を預けていたふしもうかがえる。これは桶狭間合戦において、今川義元の遺骸から奪った刀だ。信長は長刀だったこれを短刀に磨りあげて佩用し、生涯、肌身から離さなかったと言う。
足利家の悪縁、今川義元の呪い。初震姫は信長の宿縁を祓う依頼を受けたと言うことだが、結局は彼自身は、天正十年(一五八二年)の本能寺の変で果ててしまう。では初震姫の仕事は、失敗したことになるのか。
しかし八雲の物語は、もう一つの意外な逸話を含んでいたのだ。
「その太刀、呉れぬか」
『廻国勝手差許』を差し下したときだ。ふと、信長が所望したそうだ。初震姫が神事に使う、あの星震の太刀である。いわば商売道具を分捕られそうになり、初震姫は窮したかに見えたが、
「どうぞ」
と、太刀を手渡している。信長はその物珍しい太刀を取ったがみるみる顔をしかめた。
「ご不興ごもっとも」
初震姫は信長が感じ取った不吉な感覚をこう表現したと言う。
「これぞ諸物悪縁の根底でありますゆえ」
信長は所持を諦め、すぐに返した。初震姫が言うには、重代、名物の因果を祓ってきた太刀だ。普通の人間に到底取り扱うことは出来ないまさに『奇名物』だと称した。
「『奇名物』か」
信長は所持を諦めたが、その言葉で星震の太刀に未練を残したらしい。
そのためか、悪縁は離れず、信長は本能寺にて四十九年の生涯を終えた。
「ちなみにこの星震の刀ですが、こちらも消息が分かっていません。伝聞では死蔵されたとも、旧華族家に伝わって個人蔵になっているとも聞きますが、信長が所持を諦めた刀ですからね。見つかったらまた、大発見でしょうが」
と、そこで香村は僕と九王沢さんに気づいた。
「ああ、これは先日はどうも」
と、素っ気なく繕ってはいたが、折角の手柄にけちをつけられたとでも言うような苦々しさが、ありありと出ていた。
「大発見ですな。まさか初震姫が信長の命を受けて、九州まで渡った、とは思いもよりませんでした。それに八雲の原稿を、七叡が保管していたとは。我々も香村さんが帰ってから、あの家を何日か探したんですが」
「いや、まあ怪我の功名ってところでね」
香村は、露骨に鼻でも鳴らしそうな顔になった。お前たちの探し方が悪いんだと、言わんばかりだった。
「文書は今、うちの専門家と大学の先生でチームを組んで鑑定中です」
お前たちの入る隙など、全く無いぞと、香村の目は言っていた。
しかし、九王沢さんはどこ吹く風だった。
「実物を拝見してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。見るのは、タダですからね」
「行きましょう」
九王沢さんは、目を輝かせて僕に頷いて見せるのだった。
こうして僕たち二人は、人の輪の中へ案内された。なるほど、書類の古び具合といい、古いインクがにじんだ書体と言い、初見では何とも言えないが、百年以上前に書かれた八雲の原稿と思われる。
「初震姫の名前が出てきていますね」
「そうでしょう。私も古文書の専門家とは言えないが、自信を持ってるんだ」
「香村先生は、確か日本刀の鑑定家でしたよね?」
九王沢さんが聞くと、香村は顔を引き攣らせた。
「ええ、九王沢家の方たちには、大分お世話になっていますがね」
香村が弱みを言わされたので、次の九王沢さんの原稿に触れてもいいか、と言う要望は苦も無く通った。僕たちはラテックスのゴム手袋を渡された。
「扱いにはくれぐれも気をつけて下さいよ」
香村の声と視線が突き刺さる。たぶん、愉快ではないだろう。九王沢さんは業界に顔を知られつつあるから、尚更だ。取材陣たちは美しすぎる研究者の登場に一瞬、香村の存在を忘れた。
だが事態は、僕の予想を超えてさらにとんでもない方向に転がったのだ。九王沢さんの爆弾発言が、その火蓋を切った。
「贋作ですね」
満座がざわめいた。たった一言である。だが九王沢さんはばっさりと切って棄てたのだ。堂々と言っていい。
「まだ鑑定中なんですよ」
香村は片頬にしわを浮かべて抗弁した。ふつふつとその声に怒りがわだかまっているのが分かった。取材陣の手前抑えているが、今にも僕たちをつまみ出しそうな勢いだった。
「九州の記録、そして今回事前に発見された信長の『廻国勝手差許』。確かに、文章内容ともに発見された文献を汲んでいます。全国に散見する初震姫を網羅するのには、非常に解りやすい、いわば入門書的な役割を果たす内容になっています」
「それのどこが悪いんですか。八雲の文筆の目的は、明治近代化で散逸してしまいそうになった古い日本の言い伝えを、まとめることにありました。七叡ばかりじゃない、八雲は熊本五高に集まる生徒たちから、様々な逸話を集めたんですよ」
「確かに、八雲は古い日本を集め紹介することに、情熱を捧げました。しかしこれは、広範囲に渉ってまとまり過ぎているとは思いませんか」
「そうは思わんね。八雲は熊本に滞在期間中も、各地を巡った。隠岐、長崎、愛したのは特にその二か所だったが、他の土地にも行ってるんだ。それにこれが『日本雑記』の一部だとするならば、織田信長を紹介するになんの不自然さもない。桃山末期の雑話集『義残後覚』や、江戸期の随筆に登場するばかりだった果心居士の逸話を、近代に遺したのは八雲の功績が大きい。初震姫の事績だって、八雲が調べた可能性は否定できないはずだ」
「八雲の事績は否定しません。問題はその、原稿そのもののことです」
と、九王沢さんは言うと僕に、まだ目を通していない原稿の一枚を手渡した。
「文章を目で追ってください」
九王沢さんは目をつむると、次の瞬間、とんでもないことをした。
暗誦したのだ。読んでもいない英文を、いちから。
僕は英文をあわてて目で追ったが、一言一句、あらゆる部分において間違いはなかった。まるでコピー機でスキャンしたかのように、正確無比な暗誦だった。
「どういうことだ…?」
辺りは騒然だ。九王沢さんを除く誰もが皆、理解不能の事態にぶち当たって当惑の声を上げている。
「わたし、一度目を通した文章は忘れないんです」
「しかし、これはまだ見たこともない文章じゃないのか?」
そんなものを暗誦することなど、到底不可能だ。
「いえ、見ていないとは一言も言っていません」
しかし九王沢さんはにべもなくかぶりを振ると、さらに衝撃の発言を重ねた。
「だってそれは、わたしが書いたものですから」
ここへ来て、一同の当惑は最高潮に達した。
まさかだ。相良七叡の別荘から発見されたこの古い原稿が、九王沢さんが書いたものだって?わけが分からなかった。しかし九王沢さんは天使のような微笑みを湛えたまま、そこに佇んでいるだけだ。
「いい加減にしてくださいよ。そんな理屈が通ると思いますか」
香村が、嵩にかかって反論の口火を切った。
「この原稿は百年前のインクと紙を使って書かれている。内容の鑑定についてはまだだが、すでにそれは証明されたんだ」
「材質については、きちんと結果が出ると思います。だってそのように、年代の経ったものを使って、再現したのですから」
あっさりと九王沢さんは、答えを返す。確かに古い材料を使えば、再現は可能だ。例えば絵画の世界でも、何百年も経った絵画を修復するのに同年代の別の絵から絵の具を拝借して補うと言うことが、普通に行われている。
「それにしても、そっくりだ」
と言う僕に、九王沢さんはこともなげに頷く。
「はい、そっくりに書きましたから」
僕も八雲の生原稿は見たことがあるが、一見して見分けがつかない。
「そんな馬鹿な。そもそも八雲の原稿のレプリカを作るなんて。あなたが、なんでそんな手間を取らなきゃならないんです!?」
「今、ロンドンのある出版社で小泉八雲の特集を組む企画が持ち上がっています。伝説の八雲の原稿を再現すると言う趣旨で、わたしが、レプリカを作ることになったんです」
今回それが、盗難にあったのだ、と九王沢さんは言う。
「あんた、その原稿とこれが、同じだとでも言うのか」
香村の声は震えている。突然降って湧いたスキャンダルは、収拾がつかない事態になりつつあったからだ。
「わたしの原稿です。だから暗誦できたんです」
九王沢さんは他の未読の原稿についても、すらすらと内容を暗誦した。由緒正しいキングス・イングリッシュだ。あまりにそれが淀みなく、見事過ぎたので誰も異論を差し挟む余地がなかった。
「なんのつもりだ…?そんなはったりでだまされると思うか!」
追い詰められたのは香村だ。彼はもはや恥も外聞もなく、窒息しそうな顔色で九王沢さんに詰め寄った。
「ただの出鱈目だ!ただの偶然だ!たまたま似たような原稿が出ただけだ!この女は、出鱈目を言ってるんだ!」
「出鱈目ではありません。きちんと証拠があります」
しかし、九王沢さんは全く動じなかった。決定打があるのだ。彼女はこう言うと、驚くべきことをした。
「原稿は当然レプリカですので、盗難防止に仕掛けがしてあるんです」
取り出したのはなんと、消しゴムだ。あっ、という間もなく、九王沢さんは原稿の題字の上にそれを滑らせた。香村が悲鳴を上げた。しかしその悲鳴は、一同の大きな驚愕の声に、呑み込まれてしまった。
「最近は消しゴムで消える特殊なインクがあるんですよ」
題字の文字がすっかり消えていく。『初震姫とむせび泣く亡霊の話(The Story of Hatsufuri Hime and Keening ghoust)』のスペルが煙のように掻き消え、最後にこの四文字ばかりが残った。
faKe(偽物)だ。
もはやこの場にいる誰もが、九王沢さんの主張を信じざるを得なかった。
止めを刺されたのは、香村だ。
「くそっ、なんてことしやがるんだこの女ッ!」
僕の身体が自然に動いたのは、そのときだった。九王沢さんに殴りかかろうとするその腕を捉えて背後にねじり上げ、背に膝を落としたのだ。こんなことをしたのは、中東以来だ。香村は、僕の下で喚き散らした。
「この野郎ッ、何するんだっ!訴えてやる!絶対訴えてやるからな!」
しかし傷害の訴状は来ることがなかった。
香村はその後、警察に逮捕されたのだ。甲府市内で逮捕された、空き巣の男の自白があったのだ。家宅侵入を手引きしたのは、香村だと言うことだった。さらにこの話には裏があった。
「香村は、日本刀の贋作を市場に流通させようと考えていたんです」
初震姫が所持したと言われる星震刀だ。息のかかった刀工を抱き込んで、香村はその贋作を大量に流通させようと、図っていたらしい。工房が摘発されると、香村の身辺が調べられ、彼が会社の買付金を使いこんで金融取引で大きな穴を開けていたことも発覚してしまった。
窮した香村は、息のかかった人間を半ば脅迫してことを進めていたらしい。七叡の財団の資産を横領しようとした弁護士の達崎、富田も相次いで逮捕された。
ここまで来てようやく僕も絵図が読めた。織田信長直筆の『廻国勝手差許』も、そのための布石だったと言うわけだ。そう言うことだったのか。九王沢さんが彼を、古文書の専門家ではなく、日本刀の専門家だと言った意味が、やっと分かった。
ほどなくして僕は、例の七叡の別荘に呼ばれた。もちろん、相手は九王沢さんだ。
「面倒事に、巻き込んでしまってすみません」
会うなり、九王沢さんは小さく頭を下げた。あのレプリカの件だ。
「企画の発表までは慎重を期していたのですが、わたしが作ったものを無断で公表してしまった人がいまして」
本物と勘違いをして噂を聞きつけ方々から、いくつか買取の話があったと言う。拒否した直後に、盗難に遭ったのだと言う。依頼があった時点で、危険を感じて彼女は盗難防止の措置を施したのだ。
「調べてみると、銀座玉隴堂の香村さんが何かしようとしている、と言う評判が出ていて困りました」
信長の直筆が出て、初震姫の名が明らかになったとき、彼女はぴんと来たと言う。
「そこで試してみることにしたんです」
「つまりあなたは、香村があの七叡の別荘に、贋作を仕掛けに来るのを事前に察していたわけだ」
九王沢さんはまた、黙って頷いたが、むしろ彼女の方から仕掛けにいったのだ、と、僕は思った。
出来のいい贋作を盗んだはいいが、骨董品はどうしても来歴が尊重される事情がある以上、香村もそれが『発見される場所』に気を遣ったはずだ。九王沢さんはそれを逆手にとったとも言える。
八雲の研究家である七叡の別荘で知られざる原稿が発見される、と言うのはそれだけでセンセーショナルな経緯だ。九王沢さんが仕掛けた罠に、香村はまんまとはまったのだ。
八雲の原稿は幻だった。
実はあの後、贋作を承知で僕はその原稿に改めて目を通させてもらったが、幻の初震姫の姿をあれほどにはっきりと捉えている文章は他になかった。まさか、あれがすべて、虚構だったとは思えないほどに。
果たして七叡は本当に、八雲の原稿を持っていなかったのだろうか。それがにわかんいは信じられないほどだ。
「七叡が八雲から、初震姫の話を聞いていたのは事実でしょう。そして晩年、彼は初震姫の面影に憑かれていました」
と、九王沢さんは一葉の旧い地図のコピーを取り出した。
「ですからここに、彼の本当の書斎がないと言うのはおかしいんです。七叡が八雲に倣って、洋式の書き物机を備えた本当の書斎が」
しかしだ。実際、九王沢さんの言うような建物はなかった。書斎と言われた建物から、僕は九王沢さんが森のあらぬ方向へ踏み出そうとしているのを、あわてて留めた。
「どこへ行く気ですか?」
「財団の方が話していたと思います。この土地は、明治時代以来、人の手が入っていない土地だと」
それに、と言うと、九王沢さんは意味ありげに僕を見た。
「ウィンズロウ先生がヒントをくれましたし」
九王沢さんは全く普通の格好で森に入り、どんどん獣道を進んでいく。僕は面喰ったが、放置しておくわけにもいかない。仕方なくついていくと、驚くべきものを発見した。
沢の谷底近くに一軒、猟師小屋のような小さな建物が建てられていたのだ。
建物には確かに、書き物机があった。八雲の教えを受けた七叡が、企図したサイズにぴったり当てはまった。書物は一冊も置かれておらず、古びた文房具ととっくに風化した老眼鏡だけが、時間の経過を物語っていた。
そして驚くべきは、小屋から発見された一枚の日本画だ。
そこに星震の剣舞を踊る巫女が描かれている。
それを見たとき、僕はあっと声を上げた。
あの日、森で猫を追っていて見た、巫女そのものだったのだ。
「星震の太刀が、『奇名物』と言われたのは、それが不吉だから、と言う意味合いではありません。『鎮魂』の意味合いがあるからです」
日本画の修復が終わって僕は再び九王沢さんに呼び出された。今度は都内某所。場所は、明かせない。ある財団の建物の地下だ。そこで僕は個人蔵とされる秘宝の公開に立ち会った。
「どうぞ、ご覧になって下さい。これが真作の伝・星震の太刀です」
それを目の当たりにしたとき、僕はかつて妻と眺めた中東の星空を想った。砂混じりの風に滲んで曇った月が朱かった。紫がかった光芒を孕んだ星が、空一面を彩っていた。
その鮮やかなイメージは、今もって忘れがたい。漆黒の太刀は濡れ濡れと、信濃の石清水に浴してまだ息づいているかのように、艶めいて光っていたのだ。
「刀身に使われているのは、まさしく隕石です。太刀が黒いのは、錆び止めに酸化した鉄を含んでいるためです。フライパンが黒いのと、原理はほぼ同じです」
それから僕は九王沢さんと、口伝で密かに伝わっていると言う星震舞を見た。謡いに合わせて踊る、武士の儀式剣舞ともまた違ったものでその動きは直線的でなく、どこか砂漠の民が踊るしなやかな身体のふりを思わせた。
僕はかの国で、火の妖精を見た。湾岸戦争の頃だ。スコープに、見えるはずのない焔が巻き起こったことがあった。銃撃戦に緊張して、幻覚を見たのだと思った。
清かに星を含んだ剣が揺れる。その背後で七叡が所持した初震姫の絵が同じ意匠をまとって佇んでいた。土地の古老が僕に、それが火の妖精なのだと、話してくれた。妻はその逸話を喜んでくれた。僕が視力を損なった事件のことだ。お蔭で僕は、中東の戦乱から免れることが出来たのだ。しかし今、この国の奇縁を慰めてきた星震舞を見て思い出す。当時からあの戦場に散っていった、鎮めるべき魂の群れのことを。
そのとき僕は、はっとして息を呑んだ。九王沢さんと僕が初震姫にたどり着くのに、あのとき目撃した、白い猫。あれは妻だったのではないか。
「わたしが死んだら、わたしをどこかで見つけて。必ずどこかにいるから。ちゃんとあなたに合図するから。忘れないで」
僕は今度こそ、喩えるべき言葉を喪った。
紛れもない妻の声が今、はっきりと蘇ったのだ。彼女はまだ、この世界にいたのだ。そして僕をずっと、待っていてくれた。僕は確信した。小泉八雲がかつて描いたように、この世にない者の想いだって、こうしてきちんと繋がるのだ、と。
いや、繋がっていくのだ。まだ肉体あるものが、この世に形を持てないまま、漂っている想いを拾うことで。
「物語はまだ、完成していません」
星震舞が終わって、九王沢さんは言った。
「初震姫の鎮魂の逸話は、ここから明らかになっていくはずです。恐らくそれは死者と生者が交わす、最後の会話の物語になるはずです」
それがやってきたとき、僕の中の魂たちは真に葬られることとなるだろう。
僕は今、じっとそのときを待っている。