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赤鬼  作者: 堀切 修二
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僕たちの青春哀歌

幻の岩魚『赤鬼』を見つけるため7人の少年少女が繰り広げるひと夏の冒険。

やがてそれぞれが大人になっていく中で『赤鬼』は特別な存在となり人生を共にしていく。

岩魚と友情と青春の物語。杉村 真

【修二との出会い】

仄暗い森の中、僕は林道を歩いていた。

今日は会社をサボって林道を歩いている。

最近ふと昔を懐かしく思い、その頃に戻りたいと思う事がある。

勤めて二十数年、働く場所もあり、恋愛をして結婚をして子供にも恵まれ、温かい風呂に浸かり羽毛布団で眠る。

幸せな毎日なのに、違和感と満たされない気持ちに強く襲われる事が最近増えてきた。

愚痴をこぼし始めれば、今日眠る場所、今日食べる物に困っている人の事を考え、自分の思いは飲み込んでしまう。

でも、現実と心の間の溝に違和感は確かに存在している。

気がつくと、その要因を探るのにエネルギーを費やしている自分がいる。

若いとき社会に適応するのが嫌で、数年間を寝たり起きたりのみで過ごした事がある。

やりたい事もなく、ありあまる時間を苦しみながら過ごしていたのを良く覚えている。

僕は何かに縛られていなければ自由なひと時の喜びは感じられない。

そのために自分を律しながら生きてきた。そうしなければ落ちるところまで落ちていくのが僕の性分だ。

今日は車に乗って会社に向かっていたのだが、春の土の匂いを嗅いでいたら、日常から逃げ出したくなって引き返して来てしまった。

何だか今日だけは自分を律するのを止めて、風になってしまいたい気分だった。

僕は少年時代を過ごした森の奥深くにある思い出の小さな沢に来ていた。

空の明かりは木々に阻まれ、僕のところまで届いてこない。

薄暗い林道の上空を見上げると、聳え立つ高い木々のてっぺんの隙間から、真っ青な明るい春の空が遠く彼方に見える。

僕のいる場所はひんやりとした小暗がり、上空の青空は写真を貼り付けたようにまったく別の世界に見えた。

現実と心の間の溝にできた違和感ように。

スーツを着たまま、僕は林道から小さな沢に降りた。

革靴のまま沢の水に入り、上流に向かって歩き始めた。

大事な革靴を濡らす事で、最近僕を襲う社会との違和感が薄らいでいくのを感じた。

汗ばんできたのでネクタイを緩めると、ひんやりした風が上流から胸元に差し込んできた。

少し先の上流に少年らしき人物がいるのが見えた。

少年のいる場所には上空の木の隙間から日光がちょうど差し込み、その辺りだけ明るくなっている。

少年らしき人物は、中腰になって石の下に両手を入れている。岩魚を捕っているのだろう。

少年は「よしっ」と言って石の下から手を抜いた。

岩魚の口に入れた人差し指をエラから出して岩魚をぶら下げているのが見えた。

生きのいい黒い岩魚が日の光に照らされ輝いている。

僕はメガネを掛けて少年を良くみた。

小学生高学年くらい、ひょろりとした色白のおかっぱ頭みたいな少年の後姿がはっきりと見えた。

僕の後ろの方で林道を猪が瓜坊達を引き連れて走り出した。その鳴き声で少年は僕の方に振り向いた。

僕は少年の顔を見て唖然とした。「僕だ・・・・・・」

少年は子供の頃の僕だ。

今の僕は47歳、三十数年前の僕が目の前にいる。

僕は少年に声をかけた、「岩魚かい?」

少年は恥ずかしそうに下を向いて小さな声で僕に答えた「うん、そうだよ」

「名前はなんていうんだい?」僕は、少年に聞いた。

少年は下を向いたまま「堀切 修二」と弱々しく答えた。

「修二君、いい岩魚だね。良くがんばって捕ったね。上手いじゃないか」

僕は、目の前の小さな頃の僕をいっぱい褒めてあげたい衝動に駆られた。

少年の頭を撫で、肩を抱き、優しい目で見つめて何度も褒めてあげた。

さっきまで、もじもじしていた少年は僕に岩魚の捕り方を夢中になって説明してくれた。

少年はここで友達と待ち合わせをしていると言った。

僕は気になって、少年に誰と待ち合わせなのか聞くと、

「いっぱい来るよ」と少年が答えた。

「おじちゃんに君の友達の名前を教えてくれないか」

「んー、マッスンでしょ、どんぐり君でしょ、ジンサにキッチョム、アケミとシゲコがくるんだよ」と少年が答えた。

僕はびっくりした、少年の友達はみんな僕の小学校の同級生だ。

目の前の少年は間違いなく僕だと確信した。

少年時代の僕が友達と遊ぶ貴重な時間を邪魔してはいけないと思い、もっと彼と一緒にいたかったが僕は帰る事にした。

最後に「おじちゃんも修二って言うんだよ」と少年に言って林道を下った。

振り向くと少年は緑色に輝く自転車に手を掛けて、恥ずかしそうに僕に手を振ってくれた。

怒らないように、笑わないように、泣かないように、感情を押し殺す事で現実と心の間の溝の違和感を広げないよう日々過ごしている今の自分。

そんな自分に少年は恥ずかしそうに手を振ってくれた。

運動も勉強もいまいちで、控えめな自分に自身のない少年修二が、僕に心を開いて岩魚の話しを楽しそうにたくさんしてくれた。

僕は、少年時代の僕を泣きたいほどに愛おしく思った。

濡れた革靴の紐にぶら下がる泥団子を見て、僕は大きな声を出して泣き出していていた。

涙を流しながら林道を歩いていた。

またここに来て少年修二に会おう、今度は修二の好きな蜂の子のおにぎりとジュースを買ってきてあげよう。

聳え立つ高い木々のてっぺんの隙間から覗く青空から、ぴーんよろとトンビの声が落ちてきた。


【七人の冒険】

隣の家のおじさんがラジオを聴きなが畑仕事を始めたようだ。

夏休み中の朝は、ラジオか草刈り機の音で目が覚める。

だから目覚まし時計はセットしないんだ。

僕はベットに寝転んだまま、遠い街からここに引っ越してきた頃の事を思い出していた。

保育園を卒園した春、お父さんの転勤でこの里山に来た。

そういえば小学校入学式の前の日に、お母さんと学校に行く練習といって学校まで歩いて行った事があった。

その日は雨が降っていたこともあり、三キロの道のりはとても長く感じた。

満開の桜に囲まれた雨の奈良井小学校は、とても古い木造校舎で、それを見た時とても不安だったのを良く憶えている。

街場で育った僕は田舎暮らしに戸惑いがあった。

でも今ではすっかりみんなと仲良くなって、毎日が楽しい。

「修二、そろそろ起きなさい朝ごはんよ」

お母さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。

僕は蜂蜜をたっぷり塗ったトーストを食べてから自転車を磨いた。

この前の日曜日にお父さんが買ってくれた自転車だ。

ずっとおねえちゃんのお下がりの女物の自転車だったからうれしくて仕方ない。

タイヤがごつごつしたマウンテンバイクってやつで、フレームの色はメタリックグリーン。

太陽の光にあたるときらきらと輝く。

車のワックスをお父さんに貸してもらい、それを使って毎日自転車を磨いているんだ。


 今年の夏休みは特別だ。

六年二組の仲間七人で幻の大岩魚『赤鬼』を探す事になっている。

今日は夏休みの初日、同級生のドクターキッチョムの家で赤鬼を捕まえる作戦会議の日。

僕は新しいマウンテンバイクをみんなに見られるのがちょっと恥ずかしくて、今日は乗っていくのはやめようと思った。


僕は歩いてキッチョムの家に向かった。

周りの山々から聴こえてくるあぶら蝉の鳴き声で、夏休みの始まりを実感した。

キッチョムの家に着いて門で呼び鈴を鳴らした。

キッチョムのお母さんが返事をするとカシャリと機械の音がして門の鍵が開いた。

キッチョムの家は大金持ちなんだ。

お父さんはお医者さんでピカピカの外車に乗っている。

門から玄関までの長い通路を緊張しながら歩いて行くと、キッチョムのお母さんがうれしそうに大きな玄関の扉を開けて迎えてくれた。


 キッチョムはクーラーで涼しくなった奥の部屋で待っていて「やあ、修二君おはよう」と大きな革のソファーに埋もれた小さな体でホワイトボードを自慢げに指差した。


ホワイトボードには難しい漢字混じりでこう書かれていた。


「赤鬼」捕獲作戦会議

時、昭和五十六年七月二十七日

議事進行 橘川 武

議事録  須藤 あけみ


議題一、「赤鬼」情報の再確認

議題二、「赤鬼」情報にもとづき捜索範囲の特定

議題三、捜索に伴う役割分担


 これ何?と僕が聞くとキッチョムは「今日の議題さ」と言って分厚いレンズのメガネを外しテーブルの上にそっと置いて目を閉じた。

「議題ってなんだろう?」僕には読めない漢字もたくさんあるが、聞くのが面倒くさいからやめておいた。

キッチョムは頭が良くて、漢字をいっぱい知っている。

しゃべり方はまるで大人のようだ。

そんな事で、橘川君にはドクターキッチョムというあだ名が付いている。


 部屋の出入り口の壁に設置されている内線電話が鳴った。

小さなキッチョムはソファーから立ち上がると、ひょこひょこ部屋の出口の方へ歩いて行き受話器を取った。

キッチョムは甘えた声で「チョコ」と言って電話を切った。

僕は電話の内容が想像できた。キッチョムのお母さんがケーキはイチゴとチョコのどっちがいいか聞いてきたのだろう。


キッチョムのお母さんは友達が来ると、とても優しくもてなしてくれる。

キッチョムは体が弱く学校を良く休む、学校からの宿題と給食のコッペパンをキッチョムに届ける係りはいつもじゃんけんで決めている。

届けに行くとお礼にお母さんからお菓子がもらえるからみんな行きたがる。

せっかくじゃんけんで勝っても、結局はガキ大将のマッスンに届ける係を横取りされてしまう事が多い。

マッスンはもうすぐここに来るだろ。

僕は今日ここでチョコレートケーキが食べれる事がうれしくてそわそわしていた。


 赤鬼捕獲メンバーが集まってきた。

まず来たのは、日に焼けた背高のっぽのどんぐり君。

無口で優しい、けれど怒ると怖い。

小さな声で「オスッ」と言って入ってきた。

どんぐり君は髪が長くてよく先生に切って来いと怒られている。

見た目がハワイのサーファーみたいだ。

床屋が嫌いと言っているが、床屋に行く金が無いんだとマッスンが言っていたのを僕は思い出した。

どんぐり君はスガレ蜂をお父さんと良く捕りに行くそうで、遠足で持ってくるおにぎりには甘辛く煮付けたスガレの子がたっぷり入っている。

お母さんのいないどんぐり君の弁当は、お父さんがつくってくれるらしい。

僕はどんぐり君にスガレのおにぎりを一口もらった事があるが、忘れられない美味しさで僕は大好物になった。

僕はどんぐり君の威張らないところが好きだ。

友達は仲良くなりすぎると怒鳴られたりする事があるので、僕はみんなと仲良くなりすぎないようにするところがある。

でもどんぐり君は仲良くなりすぎても僕を怒鳴ったりはしないと思う。


 次に「オッス!どんぐり」と言いながらドカドカとマッスンが入って来た。

マッスンは真っ黒に日焼けした坊主頭のガキ大将だ。

がっしりとした体つきでリトルリーグでキャッチャーをしている。

マッスンは、どんぐり君の家の三軒隣に住んでいる。

マッスンの家にどんぐり君が遊びにくる時は、間の二軒の屋根を伝いながら忍者のようにどんぐり君は遊びに来るらしい。

間の家の人に屋根に登るなと怒られた事が何度もあるとマッスンは言っていた。

どんぐり君に何度も止めろと言っているが、どんぐり君は止めようとしないそうだ。

その事でマッスンはいつも怒っていた。

どんぐり君は真面目なのか不真面目なのか分からないところがある。

マッスンはどんぐり君といつも川で遊んでいる。

マッスンは岩魚突きの名人。岩魚突きはどんぐり君のお父さんから教わったそうだ。


 続いて男勝りのアケミ、そのすぐ後ろにシゲコがくっていて入って来た。

更にその少し後ろから天然パーマのジンサが、ニヤニヤしながら忍び足でアケミとシゲコの背後に近寄って来た。

ジンサがシゲコのスカートをめくり「イエーイ!」と叫んだ。

すかさずアケミが振り向いて「殺すぞエロジン!」と言ってジンサの頭を内線電話の受話器を手に取りカツンと殴りつけた。

すると小さなキッチョムが背伸びしながら、アケミの手からそっと受話器を取り上げ、電話機に戻した。

しばらくすると、電話のスピーカーからキッチョムのお母さんの声がした。

「誰か呼んだかしら」

すかさずエロのジンサが答えた。

「お母様、なんでもありませんわ」とおどけて返答すると、一同に笑いが起こった。

スカートをめくられて泣きそうになっていたシゲコも吹き出して笑っていた。


 さっきジンサを殴ったアケミは男みたいで、アケミはマッスンと同じリトルリーグのメンバーだ。

剛速球を投げる、村でも有名な女ピッチャーだ。

足が速くドジョウを捕るのがうまい。

勉強もすごくできる。もしかするとキッチョムよりできるかもしれない。

アケミはヌルヌルした物を手で掴むのが得意で、岩魚を手で掴む(通称 ニガミ)事に関しては、ガキ大将のマッスンや長髪のどんぐり君より上手だ。

アケミはそっと岩の下に手を入れ、エラを上手い事つかんで岩魚を引きずり出すらしい。しかも両手で何匹も同時にだっていうじゃないか。

僕は何年やってもニガミのコツが分からず岩魚を捕まえた事が無い。

アケミに「修二、下手くそだな」と言われるのがいやだから、アケミとは川に行かないようにいている。

アケミの特技は立ちションだ。

僕はアケミが立ちションをするところを、三年生のころ見たことがある。

アケミは足を広げつま先で立ち、膝を少し曲げた状態で後ろに仰け反って田んぼのあぜ道で立ちションをしていた。

その時、田舎にはすごい女の子がいるものだと僕は思った。

最近は人前では立ちションをしなくなったらしい。

アケミは背が高く小麦色に日焼けして、さらさらの髪の毛が腰まである。

黒目が茶色くて外人みたいな顔をしているから、立ちションミゼラブルというあだ名がある。

最近はあだ名で呼ぶとアケミが怒るので、みんなアケミと呼んでいる。


 アケミの後ろにくっ付いて部屋に入って来たシゲコは、おとなしく無口だ。

太っていて泣き虫で良くいじめられている。

一年生のころ学校帰りに上級生の男子が、リンゴ畑からリンゴを盗んでシゲコのランドセルに押し込んだ事があった。

いじめっ子は「リンゴ泥棒!」と大声を出してシゲコの周りをぐるぐる走り回った。

シゲコがポロポロ涙をこぼしていると、一緒にいた男勝りのアケミがシゲコのランドセルからリンゴを掴み出して、いじめっ子の頭でリンゴを叩いて潰した。

いじめっ子は泣いて逃げて行った。

僕はその様子を見てアケミが怖くなったのを思い出した。


 さっきシゲコのスカートをめくったジンサは、いじめっ子ではなくエロだ。

いつもふざけていてクラス一番の人気者。

ジンサは床を滑るように後ろに進んで歩く、マイケルジャクソンのムーンウォークが得意だ。

とにかくふざけるのが大好きな友達だ。

ジンサは子供なのに大人のロックを聴いているらしい。

若いころバンドマンをしていたおじいさんの影響だと思う。


 こうして、僕【修二】

理屈っぽいメガネ博士の小柄な【ドクターキッチョム】

坊主頭のガキ大将キャッチャー【マッスン】

マッスンの相棒でスガレ採りのサーファー【どんぐり】

男勝りの剛速球ピッチャー【アケミ】

アケミについて歩くおとなしい太った【シゲコ】

クラス一番の人気者ムーンウォーク名人エロの【ジンサ】

僕ら七人の夏休みが始まった。


 キッチョム家のお手伝いさんらしき人が、長机を持って入って来た。初めて見るその人はとても美人で僕らはシーンとした。

ジンサだけがにやにやしながらスカートをめくる素振をして喜んでいると、アケミが呆れた顔でその様子を見ていた。

長机を二列に並べ、机に椅子を三脚ずつ付けるとお手伝いさんはお辞儀をして出て行った。

部屋の中央奥に議題の書かれたホワイトボード、その横でソファーに埋もれた小さなキッチョムが分厚いレンズのメガネをかけ、こちらを向いて座っている。

ホワイトボードの方を向いて置かれた長机にみんなが座った。

一列目にガキ大将マッスンが座り、その横にマッスンの相棒どんぐり君、さらにその横に僕が座った。

二列目にはアケミとシゲコ、その横にジンサが座ろうとしたらアケミが「座るなエロ」と言った。

どんぐり君が日に焼けた顔から白い歯を覗かせて、振り向いてぼそりと言った。

「ジンサこっちに座りなよ」そう言ってジンサに席をゆずると、自分はシゲコの横に黙って座った。

シゲコはエロのジンサが横に座らなくてホッとしているように見えた。

どんぐり君が横に座ると、シゲコは恥ずかしそうに下を向いていた。

もし僕が横に座ったら、シゲコは恥ずかしそうにしただろうかとふと思った。


 キッチョムが「議事進行の橘川です」と大人みたいな口調で立ち上がり頭を下げた。

その気取ったキッチョムの様子を見たマッスンが「お前、アホか」と笑った。

キッチョムはそれを無視して「議事録は須藤あけみに命ずる」と言って真新しい大学ノートとえんぴつをアケミに渡した。

アケミは「いいノートじゃん。あたし返さないよ」と言ってそれを受け取った。

アケミは字が上手だ。書道もやっている。

議事録ってメモを執る人の事なんだと、僕はやっと解った。


キッチョムが手元のリモコンボタンを押すと、カーテンが電動でゆっくり閉まり部屋が暗くなった。

続いて壁のスイッチをぱちんと押して、ホワイトボードに書かれた文字にライトを当てた。

僕は少し恥ずかしくなり「僕たち大人みたいだね」とみんなを見回して言った。

みんなも恥ずかしそうにしていたので僕はほっとした。


キッチョムが早速、議題一を指で差して言った。

「まずは幻の大岩魚、通称『赤鬼』を見たとの証言を再確認します。

それではまず、シゲコさん答弁をお願いします」

まるでテレビでやってる国会の話し合いみたいで、僕はもっと恥ずかしくなった。

でもキッチョムの使う難しい言葉と大人みたいな態度に、キッチョムってすごいなあと僕は思った。


シゲコが立ち上がってキッチョムに答えた。

「川で冷やしていたスイカを、ばあちゃんと取りに行った時にあたし赤鬼を見たんだよ」


キッチョムが「シゲコさん、その時の状況をもっと詳しく説明してください」と言いながら、シゲコの隣でぼんやりしているアケミに、議事録をちゃんと取るよう鉛筆を動かす真似で合図した。


シゲコが続きを話し始めた。

蜩川ひぐらしがわに流れ込むカブ沢で、水が流れ落ちている深さ一メートルくらいの落ち込みがあるんだよ」

そう話し始めたシゲコの隣で、どんぐり君が腕を組んで頷いていた。

どんぐり君はその場所を知っているようだった。

シゲコが続きを話し始めた。

「そのどんよりした落ち込みに、青黒い大きな岩魚が何匹も見えたもんだから、わたしとばあちゃんが近づいて行くと白い泡の中にゆっくりと消えて行ったんだ。

どれも尾ビレの縁が真っ赤で「シゲコ! 赤鬼だ!」とばあちゃんが大きな声でそ叫んだんだ。

岩魚が消えて行った場所の水の上に、半分頭を出している大きな岩があって、あたしはその岩にスイカくらいある石を上からまっすぐ落としたのよ」

どんぐり君は腕を組んだまま、また大きく頷いた。

どんぐり君は、その大きな岩の事も良く知っている様子だった。

シゲコは興奮気味で、耳を赤くしながら続きを話し始めた。

「真上から落とした石が岩にごつりと鈍い音でぶつかると、水面に細かい波が立った。

そしたら一匹の岩魚がスーッと気絶して浮いてきたんだよ。

その岩魚も尾ビレの縁は真っ赤だった。

岩魚は意識が戻ると直ぐに反転し、白泡の中にまた消えて行っちゃったんだよ。

帰り道、ばあちゃんは怖い顔であたしに言ってた「じいちゃんには言わなんどいてな」

多分じいちゃんに話したら、毎日のように赤鬼を探しに行ってしまい仕事をしなくなってしまうからだとあたしは思ったのよ」

シゲコはそこまで早口で話すとドスンと座った。

シゲコは年々太っていく。


僕は唖然とした。

こんなにスラスラと大きな声でしゃべるシゲコを初めて見た。

シゲコはおじいちゃんの影響で岩魚が大好きだと、どんぐり君が言ってたのを僕は思い出した。

アケミだけは驚いていない様子だった。

アケミはシゲコといっぱいおしゃべりをするからだろう。


キッチョムが言った。

「シゲコ君、ありがとう。」

「続いてマッスン、答弁をお願いします。」


マッスンがきょとんとしてキッチョムに言った。

「弁当ってなんだよ・・・・・・」

キッチョムがマッスンに答えた。

「弁当じゃなくて、答弁だよ、マッスンの話しを聞かせて欲しいんだけど・・・・・・」

マッスンは緊張しているように見えた。

シゲコの堂々たる態度のせいかもしれない。

マッスンは立ち上がって話し始めた。

「去年の夏どんぐりとスガレ沢で岩魚突きに行った時の話しだけど、川岸の土手の上からどんぐりの親父がビニル袋に入ったジンギスを放り投げてくれた。

おれっちは、流れ着いた流木の中から自動車のホイルカバーを見つけて、それを鉄板にして肉を並べていたんだ。

火のついたタバコをどんぐりの親父に土手の上から放り投げてもらって、枯れ枝に火を着け肉を焼き始めた。

そん時だ、土手の上からどんぐりの親父が上流の落ち込みを指差して「赤鬼だ!」って叫んだんだよ。

おれっちはどんぐりとそっちの方にしのび足で行くと、でかい岩魚が上流を向いて口をパクパクしていた。

横いっぱいに広げた胸鰭で上流から来る流れを受け止め岩魚が静止していた。

岩魚は尾びれの縁が真っ赤だった。

俺たちは、そん時始めて赤鬼を見たんだ。

赤鬼はすぐに消えちまって、その後は見る事ができなかった。

その日の夜おれっちは昼間見た赤鬼の事が気になって眠れなかった。

どんぐりを誘って夜十時頃スガレ沢に行ってきたんだ。

どんぐりの親父が俺も行くと言って、木刀で作った七本歯のヤスを持って着いてきた。

親父さんは酒を飲んでいたようでジグザグに歩きながら着いて来た。

昼間、赤鬼を見た場所の水面におれ達は白樺の皮に火をつけて浮かべた。

炎の灯りが水の中を照らした。

数匹の岩魚が灯りにゆらゆらと寄って来たんだ。

そしたら、どんぐりの親父がおれっちにヤスを渡し「おいマス、行け」と言ったもんだから、いちばんでかそうな岩魚の肩口めがけておれっちはヤスを放った。

手で握る木刀に岩魚のもがく振動がぶるんぶるんと伝わってきたよ。

突いた岩魚は尾びれの縁が白くて、赤鬼じゃあなかったんだけど四十センチはあったかなぁ。

帰り道どんぐりの親父が寝てしまい歩けなくなったので二人で担いで帰って来たんだ。

親父さんはうわ言で「あの沢に赤鬼は絶対いるぞ」と言ってたよ」

マッスンは少し声が震えていた。

怒ったように口を尖らせて「寒い」といってクーラーを切ってから椅子に強く座った。


キッチョムが言った。

「マッスンありがとう。他に何か情報がありますか、みなさん」

キッチョムは一呼吸おいて続けて話した。

「無いようなので、今のシゲコとマッスンの情報から赤鬼の捜索範囲を特定しよう」

キッチョムが頭をフル回転させてみんなに説明を始めた。

「マッスンの話から赤鬼がいたスガレ沢は、本流の蜩川の出合いから約一〇〇メートル上流だね、それほど奥深く上がった場所ではない」

キッチョムは自慢げに話しを続けた。

「そこのすぐ上流には高さ一〇メートルの魚止滝があり、魚道も作られていない事から赤鬼の行動範囲は、スガレ沢の魚止滝より下流と考えていいね」

僕はキッチョムの話に夢中になって頷いていた。

キッチョムはずり落ちたメガネをくいと持ち上げながら言った。

「シゲコがばあちゃんと別の支流カブ沢でも赤鬼を見た事を考えると、赤鬼は本流の蜩川と蜩川に流れ込む支流を行き来していると思われるね」

僕は手を上げて立ち上がって言った。

「つまり、蜩川に流れ込むスガレ沢とカブ沢、この二つの沢以外で赤鬼が上る可能性がある沢も捜索範囲って事だね」

僕は岩魚を捕った事もないし、最初はこの会議が気恥ずかしかった。

でもすっかり夢中になっていた。

石を落とした振動で岩魚が気絶して浮いてくる話や、燃やした木の皮の灯りに岩魚達が寄ってくる話とか、シゲコとマッスンの話はとってもわくわくした。

みんなの体験談を聞いて、僕は自分に自身が無くなってしまった。

僕もそんな体験をしてみたいなと思っていた。


アケミが座ったまま言った。

「スガレ沢とカブ沢の赤鬼を見た場所はどんな感じの雰囲気だったの?」

まず、シゲコが答えた。

「んー、木が生い茂り、薄暗くて風が冷たい淵だったかな」

マッスンがシゲコに続いて答えた。

「シゲコと同じ感じの薄暗い所だったかなぁ」

マッスンと一緒にスガレ沢に行ったどんぐり君も頷いていた。

アケミの独り言が聞こえてきた。

「本流蜩川に流れ込む支流で、薄暗くてひんやりした場所、スガレ沢とカブ沢以外の沢かぁ・・・・・・」

ジンサが手を上げて言った。

「そりゃあおめえ、どんびき沢よ」

そういうとジンサは椅子の背もたれにのけぞって、アケミから取り上げた鉛筆でタバコをふかす真似をして見せた。

キッチョムが慌てて地図を見ながら、みんなにどんびき沢の説明を始めた。

「えーと、えーと、どんびき沢はスガレ沢とカブ沢と同じように本流である蜩川に流れ込んでいる沢だね。

この沢は本流との出合いから上流に一〇キロメートル上がると、そこに更に流れ込む別の支流があり地図で見る限り堰堤もダムも無く上流まで一五キロもある沢だね」

どんぐり君がぼそりと言った。

「自転車じゃ無理だな。道も狭くて細いって聞いたし。おやじの軽トラに乗せていってもらおうか?」

ジンサが笑いながらどんぐり君に聞いた。

「おやじさん飲酒運転じゃないよね?」

どんぐり君がにやにやしながら答えた「多分そうだ・・・・・・」

しばらくして、ジンサが自慢げに言った。

「おいらに任せろ、どんびき沢はおいらの家の近くだ。

大雨が降るとでかい蛙が湧き出てくる場所なんだ。

あそこは、おいらがジジとどんびきガエルをバケツにいっぱい取ってくる秘密の場所なんだぜ。

どんびきは目に良いもんだから、ジジは良く食べているんだ。

そういえば、あそこにも薄暗くてひんやりしていて岩魚がいそうな淵があったな・・・・・・」


キッチョムが捜索範囲となる沢を、ホワイトボードに書き込んだ。


一、スガレ沢の本流出合いから上流百メートルの魚止め滝まで。

二、カブ沢の本流出合いから上流百メートルのスイカを冷やした場所まで。

三、どんびき沢は奥が深い沢なので場所の特定は調査が終わってから。


それでは早速、議題三の「捜索に伴う役割分担」に入ろう。

キッチョムがそう言うとマッスンが「おい、キッチョム休憩しようぜ」と内線電話の方をずうずうしく顎で指した。

キッチョムは慌てて内線でお母さんに電話して「いいよ」と小さい声で伝えた。


さっき見た美人のお手伝いさんが、手押し車の上にたくさんの食べ物を乗せて入ってきた。

僕はチョコレートケーキを見つけると、人数分ある事を目で確認していた。

お手伝いさんはチョコレートケーキを、ひとつずつ全員に配ってくれた。

ずっと無表情だったお手伝いさんは、とっても優しい笑顔で最後にシゲコにどうぞと言ってケーキを配ると、クーラーのスイッチを入れて出て行った。

マッスンが口を尖らせてクーラーのスイッチをすかさず切った。


 作戦会議の翌日、僕たち七人はどんびき沢にいた。

この沢は本流に流れ込むまで十五キロメートル以上ある長い沢なので、赤鬼のいそうな場所の特定が難しい。だから今日はみんなで調査に来たんだ。

今僕たちのいる場所は、本流蜩川から上流十キロメートル


僕は新しい自転車でここまで来た。五段変速のギアを変えながら二時間ほどの楽しいサイクリングだった。田んぼのあぜ道では、川底のチョコレートブロックみたいなごつごつしたタイヤが威力を発揮した。

自転車をみんなに見られるのが恥ずかしいから草むらに隠すように置いた。

しばらくすると、他のみんながジンサのおじいちゃんのトラックの荷台に乗せてもらい到着した。

右手からもう一本の沢が、ここどんびき沢に流れ込んでいる。名前は熊笹沢だ。

熊笹沢が流れ込んでいるどんびき沢の少し上流には、永久禁漁区の大きな看板が掲げられていた。

そこには川の右岸から左岸に鉄の鎖が張られているのが見える。

それで僕たちはどんびき沢の上流に行くのはあきらめて、右手から流れ込んでいる熊笹沢を捜索する事にした。

キッチョムが魚を採る時の許可証になる遊漁証を僕らに配ってくれた。

お金持ちのキッチョムが全員分買ってくれたんだ。

遊漁証はマッチ箱くらいの大きさの薄い木の板で、紐が付いていてペンダントみたいな感じになっている。

蜩川漁業協同組合 昭和五十六年 遊漁証と焼印が押されている。

みんながそれを首から提げてうれしそうに笑った。

僕もとってもうれしかった。

夏休みの始まりを実感した。


ジンサがみんなに言った。

「少し上流まで行くと例の岩魚がいそうな淵があるからそこまで行こうぜ」

マッスンが帽子をかぶり直しながら言った。

「よし、とにかく早く行こうぜ」

川岸に沿って上流へと続く道を僕らは歩き始めた。僕は暑さで靴の中が汗でびしょびしょになり、歩きにくかったのでみんなについて行くのが精一杯だ。

しばらくすると左側を流れる熊笹沢の流れがぐにゃっと曲がっていて、そこに大きな淵ができていた。水の色は黒く深そうな淵だ。

ジンサが隣を歩くマッスンに言った。

「着いたよどんぐり、あそこはどうかなぁ?」

マッスンとどんぐり君が口をそろえて言った。

「おぉ! いいねぇ!」

僕らは道から川岸に降りて黒い淵を眺めた。

マッスンがどんぐり君に言った。

「おいどんぐり、見るからに赤鬼がいそうだぞ。でも、あそこまでどうやって行く?」

黒い淵までは川岸から二メートルくらいの距離があり、その部分は流れがとても速くて歩いて渡るのは無理そうだった。

短い距離だけど、淵にたどり付くまでに流されてしまいそうな急流だ。

キッチョムが言った。

「絶対にいい方法があるはずだよ。みんなで考えようよ」

どんぐり君がみんなの方を向いて言った。

「いい作戦がある。上流から誰かが川に入って、ここまで流されて来るんだ。

そしてこの場所に流れて来た奴を、木の棒で淵の方へ押し込むってのはどうだ?」

どんぐり君は、そう話しながら笑っていた。

自分でもバカ馬鹿しくて笑ってしまったみたいだ。

マッスンが言った。

「誰が、流される役をやるんだよ・・・・・・」

どんぐり君がニヤニヤしながら答えた。

「そりゃあマスしかできないだろう」

ジンサが「それじゃマンガの世界じゃん」とうれしそうに笑った。

アケミも笑いながら言った。

「マッスンなら絶対できるって!」

僕らは拾ってきた三メートルくらいの長い丸太の棒を、運動会の綱引きをしているみたいな格好で縦一列に並んで抱えた。

先頭にどんぐり君、その後ろにアケミ、その後ろにシゲコ、キッチョム、ジンサ、そして僕が続いて丸太の棒を抱えた。

棒の先二メートル位を向こう岸に向かって突き出し、棒が川を横切る格好で僕らは立っていた。

長い棒の先がちょうど淵に届く感じになっている。

あとは上流から流れて来たマッスンが目の前に来たら、この棒でぐいっとマッスンを淵の方へ押せばマッスンは目的の淵にたどり着ける事になる。

僕は作戦に無理があるような気がして不安だった。

ジンサが言ってたようにまるでマンガだ。

十メートルくらい上流の川岸にマッスンがこちらを向いて立っている。

先頭で丸太を持ったどんぐり君が僕らの方に振り向いて「よし作戦開始だ」と言った。

どんぐり君に続いて一列に並び丸太を抱えた僕らは両足を大きく広げて地面に踏ん張った。

どんぐり君が上流のマッスンに向かって手を上げて叫んだ。

「マス! OKだ!」

どんぐり君はおかしくて吹き出して声にならず、何度か言い直していた。

合図を聞いたマッスンが急流に飛び込んだ、想像以上に流れが速いようでマッスンは水面を転がるよう僕らの方に下って来た。

時々水面にマッスンの手足が飛び出すのが見えた。関節が外れた人形が転がってくるようだった。

その様子を僕は笑ってはいけないと我慢していると、ジンサがこらえきれずゲラゲラ笑い出した。

先頭のどんぐり君も僕たちの方に振り向いて大笑いした。

僕は真面目で無口などんぐり君は、やっぱりふざけた事が大好きで不真面目なんだと思っていた。

マッスンが目の前の急流に流れ落ちて来ると、どんぐり君が「よし押せっ!」とすごいうれしそうに笑いながら叫んだ。

僕らは一斉にマッスンめがけて丸太の棒をぐいと押した。

水面からマッスンの手が飛び出し丸太の先あたりを掴んだ。

僕は抱えた丸太の棒にマッスンがしがみ付いた重さが伝わってくるのを感じた。

作戦は成功した。

マッスンは向こう岸の深そうな淵で満足そうにプカプカ浮かんでいた。

丸太か何かで怪我をしたようで、額からたくさん血を流していた。

それを見たシゲコがアケミにしがみついて笑っていた。

僕は、おとなしいシゲコも不真面目だなあと思っていた。

マッスンが淵の底に向かってさっそく潜った。しばらくして目を丸くして浮かんで来た。

「すごいぞ、川底に大きな岩があってその下のえぐれた奥にでかい岩魚がぐしゃぐしゃいるぞ」

マッスンがそういうとアケミが「ずるい、私も見たい」と言った。

岩魚好きのシゲコも「見たい、見たいよ」と言い出した。

僕も見たかったが、潜水が苦手な僕は潜れる気がしなかったので黙っていた。

キッチョムが「いい方法があるよ」と言ってみんなに長くて丈夫そうなツルを探してくるように言った。

アケミが大きなアケビの木から垂れ下がる長くて丈夫そうなツルを発見した。

マッスンが浮かんでいる淵の真上四メートルくらいのとこに、対岸から生えている太い木の枝が川に向かって迫り出ている。

その枝にツルを放り投げるようにキッチョムが言うと、どんぐり君が長いツルをカーボーイみたいにブルンブルンと振り回し、マッスンが浮かんでいる淵の真上の枝にツル先を放り投げた。

上手い事ツルの先が淵の真上の木の枝を飛び越えた。

どんぐり君は、マッスンの手に届くところまでツル先を送り、それを立ち泳ぎしながらマッスンが手繰り寄せた。

急流を挟んで向かい合ったどんぐり君とマッスンが、頭上四メートルあたりの木の枝を支点に、くの字になったアケビの長いツルをお互いに強く引っ張りあい切れない事を確認していた。

キッチョムが対岸の淵に浮かんだマッスンに、ツルの先をこっちに放り投げるように頼んだ。

マッスンが振り子時計の振り子のようにツルの先をこちらにぶらんと投げた。

アケミがそれを受け取った。

するとキッチョムがアケミに説明をした。

「さあアケミ、それにぶら下がってターザンみたいにあっちに飛んで行けばいいだよ」

アケミは感心している様子で言った。

「すんっげ、さすがキッチョム! ナイスアイディアじゃん」

どんぐり君がもう片方のツルをしっかり握って地面に踏ん張って言った。

「よしアケミ! OK!」

アケミは「アーアアッー!」とターザンみたいに叫びながら地面を蹴ってマッスンの居る方へ飛んで行って淵にドボンと着水した。

鼻の頭に汗をかいた太ったシゲコが、あたしも行きたいと言い出した。

アケミと同じようにシゲコが地面を蹴って川岸から淵へ向かって飛んだ。

するとシゲコの重さで、ツルを持って地面に踏ん張っていたどんぐり君ふわりと宙に浮いた。

どんぐり君が支点となっていた高い木の枝までスルスルッと引っ張り上げられてしまった。

淵の真上の木の枝に、背高のっぽの痩せたどんぐり君がそら豆のようにぶら下がっている。

シゲコは無事に淵に着水したんだけど、どんぐり君は高い木の上に取り残されてしまった。

ジンサとキッチョムは大笑いした。僕もおかしくて笑いが止まらなくなっていた。

どんぐり君が高い木の上でぼそぼそしゃべっている。

「どうしよう、ほんとどうしようか、ツルも流されちまったし、これじゃ帰れないよ」

その真下の淵ではマッスンとアケミ、シゲコが立ち泳ぎをしている。

しばらくすると、淵に浮かんだ三人は体が冷えてきたようで唇が紫色になり無口になってしまった。

その様子を見ると、僕はまた笑ってしまいそうで見ないようにしていた。

ずっとこうしている訳にはいかない。しばらくみんなで考えた。

その時上流からかなり大きな鹿の死体が浮かんでゆっくりと流れて来た。

木の上からどんぐり君が言った。

「あれにつかっまって川を下ろう」

アケミが上流から流れてくる鹿を見て言った。

「絶対ヤダ、気持ち悪いじゃん」

シゲコが言った。

「アケミこのままじゃ寒くて死んじゃうよ! 頑張ってやってみようよ!」

頭上の木の上からどんぐり君が叫んだ。

「よし、今だ! 鹿にしがみつくんだ!」

シゲコ、アケミ、マッスンがとってもいやそうに流れてくる鹿の死体にしがみ付いた。

頭上のどんぐり君も川に飛び込んでしがみ付く。

鹿にしがみ付いた四人が流れに乗った。

目の前の激流でマッスンが額から血を流しながら鹿の角の先に掴まっているのが見えた。

その鹿の角が頭の肉と一緒に引っこ抜けるのが見えた。

僕とジンサとキッチョムは死にそうになるほど笑い転げた。

キッチョムは調子に乗り、落ちていた枝を使って鹿の角が抜ける真似を何度もしている。

下流の流れが穏やかになったところで、四人が無事に陸に上がるのが見えた。

肉の付いた鹿の角を持ったマッスンが、アケミとシゲコを追い回しているのが見えた。

その向こうでどんぐり君がとてもうれしそうに笑っていた。

僕らは赤鬼の事など完全に忘れていた。

「ねえ、ご飯にしない?」とアケミが言った。

キッチョムの分厚いレンズのメガネと太陽の光で火を起こし、焼いた石の上でジンサが持ってきてくれたジンギスを焼きみんなで食べた。

僕も出番が欲しかったので、火は僕が起こした。

お腹いっぱいになった僕らは川原で少し眠った。

地面に棒を差した日時計で夕方六時半になるのが分かった。

ジンサのおじいちゃんが迎えに来る時間なので僕らは来た道を戻った。

くたくたになった僕らの体に、ヒグラシの鳴き声が降り注いでいた。

熊笹沢がどんびき沢に流れ込む開けた場所が遠くの方に見えてきた。

雑木林の隙間から差し込むオレンジ色の西日に照らされて、どんびき蛙を捕まえているジンサのおじいちゃんが見えた。

そのすぐ近くの草むらで、緑色の自転車がちらりと光ったのを見て、僕はちょっぴり恥ずかしくなった。


 8月に入りますます暑くなってきた。

僕は朝のラジオ体操で奈良井小学校に来ていた。

ラジオ体操には、マッスン、どんぐり君、キッチョム、ジンサ、アケミが来ていた。

ラジオ体操が終わるとみんなでカブ沢に赤鬼探しに行く事にした。

カブ沢は森の中の薄暗い小さな渓流だ。

ラジオ体操に来なかったシゲコを誘って行こうとアケミが言った。

行く途中クヌギ林に寄って、のこぎりクワガタを捕った。

マッスンがクヌギの木の幹を足の裏で力強く蹴ると、根元の草むらにかすかに何か落ちる音がした。

どんぐり君が、二時、六時、八時と早口でぼそぼそ言った。

クヌギの木を中心に時計の針の二時の方向を見ると、赤茶けたのこぎりクワガタが一匹、六時と八時の辺りにも黒いクワガタが数匹落ちていた。

今度はアケミが落ちていたビニール傘を広げて、風の力で傘をお椀のように裏返して隣のクヌギの木の下に立った。

マッスンが幹をどんと蹴ると、アケミのさした傘のお椀にぽとぽと数匹のクワガタが落ちて入った。

白いビニール傘の内側をクワガタが登ってはすべり落ちる様子が透けて見えた。

クワガタを捕るみんながかっこよく見えた。今度妹とここに来て、こっそり木を蹴る練習をしようと僕は考えていた。

本流蜩川に流れ込むカブ沢沿いを少し入ったところにシゲコの家がある。

青いトタン屋根の家の前にはたくさんの角材が積んであり、その横でシゲコのおじいちゃんが、飼っている犬に何か話しかけているのが見えた。

シゲコのおじいちゃんが僕らに気づいて、家の中に向かってシゲコを呼んでくれた。

「しげこぉー! アケミちゃんたちが来たぞ」

家の中からシゲコがおばあちゃんと出て来てた。

「もしかして川?」シゲコがうれしそうに聞いてきた。

僕らが頷くと、シゲコはおじいちゃんに言った。

「じいちゃん、岩魚行ってくる、足袋借りるよ」

おじいちゃんは「おぉ」と返事をしながら犬を撫でていた。

シゲコはおじいちゃんとおばあちゃんと三人で暮らしているようだ。

シゲコが身支度をして家から出てきた。

上下青い運動着と足袋を履き、手に紙袋を持って出てきた。

シゲコは「ありがと、最高に面白かったよ」と言いながらキッチョムに紙袋を渡した。

僕がキッチョムに「それ何?」と聞くと「マンガだよ」と答えた。

次はジンサの番だねと言ってキッチョムはマンガをジンサに渡した。

シゲコとキッチョムとジンサはマンガが好きで、学校でよく三人でマンガを描いている。

 僕らは、シゲコがおばあちゃんと赤鬼を見たカブ沢の上流に向かった。

「水の深さが調度いいから、ニガミながら行こうぜ」とマッスンが言った。

水深は足の脛ほど、少し大きめの石がところどころにあって岩魚を掴むには良い場所らしい。

アケミは「ニガもう! ニガもう!」と言ってシゲコと二人で上流の方へ先に行ってしまった。

その下流に、僕、どんぐり君、マッスンの三人。

ジンサとキッチョムは川沿いの道で棒を振り回し遊んでいる。

僕はニガミが下手だ。岩魚を一度も捕まえた事がない。

このままでは、アケミに馬鹿にされてしまう。

僕はアケミがいない今がチャンスだと思い、勇気を出してどんぐり君に言った。

「ねぇどんぐり君、ニガミを教えて欲しいんだけど・・・・・・」

どんぐり君が言った。

「ああ、いいよ」

それを聞いていたマッスンが僕に言った。

「じゃあ修二、こっちに来いよ」

マッスンの目の前には大人の頭くらいの石が水面から出ていて、その石の手前がえぐれて水がそこだけ深くなっていた。

マッスンは腰を曲げてかがみ、そおっと両手を水の中に入れて石の底に手のひらを上に向けて差し込んだ。

マッスンがにやりとするのを見て、どんぐり君が言った。

「マス、修二に見せてやってくれ」

マッスンが水から手を抜いて、大きな水中メガネを頭から外して僕に貸してくれた。

僕は水中メガネを付けると、マッスンが石の下のえぐれを覗くよう僕に言った。

僕は腰を曲げてかがみ顔を水の中に入れそこを覗いた。

「・・・・・・」

「ねぇマッスン、石の下は真っ暗で何も見えないよ・・・・・・」

「いいか修二、目ん玉を動かさないで水の中をじっと見るんだ。白い物が動くのが見えるからもう一度見てみろ、水中の全体の景色をぼんやり眺める感じで、白いのが見えるまでは目ん玉を動かすなよ。分かったな」

僕はもう一度水中に顔を入れてマッスンに言われたとおり、じーっと暗い石の下を眼球を動かさないよう眺めていた。

しばらく眺めていると暗闇の中に白い線が見えた。

僕はそちらの方に眼球を動かし凝視した。

良く見るとそれは岩魚の尾ビレの縁で、細かく動いている。

更によく見ると白い線がいくつも見えてきた。

それはどうやら一匹の岩魚の胸ビレや背ビレ、腹ビレ、尻ビレの縁の色のようだ。

それぞれのヒレの位置で、その岩魚が三十センチくらいのサイズである事が僕は想像できた。

僕は感動した。ゆらゆら動く白いヒレの縁をずっと見ていた。

目が慣れてきたせいか、岩魚の白いヒレ先だけではなく、魚体がくっきり浮かび上がるように見えてきた。

岩魚は右を向いて口をぱくぱくしている。

それを見た瞬間、僕は心臓がドキンとした。

「岩魚だ・・・・・・ 岩魚がいる」

初めはなんにも見えなかったのに、今は岩魚がくっきりと見える。

よく見るとその岩魚の向こう側の奥の暗い隙間に、岩魚がもう一匹見えた。

こっちを向いて口をぱくぱくしている顔だけが見える。

しばらくして川底の水の中にマッスンの手が入ってくるのが見えた。

手の甲は川底に、開いた手のひらは上に向けている状態でマッスンの両手がゆっくり入ってきた。

マッスンは、顔を水の中に入れないで、両手だけを水の中に入れてきている。

マッスンの上に向いた左右両方の手のひらの十本の指が、ピアノを弾くようにゆっくり動き始めた。

マッスンの指が岩魚の下に入った。ピアノの鍵盤を裏側から弾くような感じで、そおっと指先で岩魚の腹部あたりを触っている。

僕はびっくりした。岩魚はマッスンの指で触られても逃げない事に。

後ろの方で立っているどんぐり君がこの状況を僕に説明してくれた。

「修二、岩魚はちょっとぐらい触っても逃げないんだよ。マスは今、両手の指を使って岩魚の頭と尻尾の位置を確認しているところだ」

どんぐり君は今、岩魚を触っても見てもいないのにマッスンの様子ですべてが分かっているようだ。

岩魚は右の方を向いている。マッスンが右手の指先で岩魚の顎あたりをやさしく触り、左手の指先で尻尾の方を触って岩魚の位置を確認している。ピアノを弾く指のように何度も触っていた。

僕は水中のその様子を食い入るように見ていた。

次の瞬間すごい事が起きた。

マッスンが右手で岩魚の頭をぐっと掴んだ。

素早くもう片方の左手の親指を、右手で掴んだ岩魚のエラブタに差し込み口の方に向かって押し込んだ。

岩魚を右手で掴んだ状態のまま、左手の親指がエラブタに差し込まれている。

今度は左手の人差し指を口に差し込みエラの方に向かって押し込んだ。

この瞬間、マッスンの親指と人差し指の二本の指でつくられた輪に、岩魚が逃げないようにがっちりと固定されるのが見えた。

実に早業だった。僕は何がなんだか良く分からなかった。

頭の中で、今見たマッスンの行動手順を整理した。


その一、まずマッスンは両手の指先でピアノを弾くように、岩魚を下から触り岩魚の位置を確認した。


その二、右手で岩魚の頭の位置を、左手で尻の位置が確認できたら、右手で岩魚の頭をがっちりと掴む。


その三、右手で掴んだ岩魚のエラブタに、左手の親指を岩魚の口の方に向かって押し込む。


その四、親指はエラに差し込んだままの状態で、左手の人差し指を口からエラの方に向かって押し込む。

口の中で親指の先と人差し指の先がくっ付き、二本の指で一つの輪ができて、その輪に岩魚の口が通されて逃げないように固定された格好になる。


こんな感じの手順だった。僕はそんな事を考えながら、マッスンの左手の指の輪に捕らえられて暴れる岩魚を水の中に見ていた。

今度は、マッスンの空いた右手が奥の方へ入って行くのが見えた。

マッスンの右手は、奥の方にいるもう一匹の岩魚の頭を掴んで引きずり出してきた。

さっきと同じように親指はエラブタに、人差し指は口に入って岩魚を完全に捕えていた。

左手がさっき捕らえた岩魚でふさがっているので、今度は右手で岩魚の頭をつかみながら、輪をつくって岩魚をロックしたのだろう。

マッスンの手には、指の輪に捕えられた岩魚が、左手に一匹、右手に一匹とぶら下がっていた。

マッスンはそれをどんぐり君に渡すと僕に言った。

「今度は修二も顔を水に入れないで、岩魚を手探りで捕ってみるぞ」

マッスンは僕の右手の指を掴んで、さっきの石のもっと奥に誘導してくれた。

マッスンが「いるだろ? 触ってるか?」と僕に聞いてきた。

僕の右手の指先に岩魚の尻尾が触れたのが伝わってきた。

「マッスン、岩魚がいるよ! 今しっぽの先を摘んでいるよ」

岩魚は頭を左に向けているようだ。

僕は左手も水の中に入れて、左手で岩魚の頭を掴み、右手で尻尾の先を摘んでいた。

「マッスン! ぬるぬるしていて無理だ。とても引き出せないよ」

マッスンとどんぐり君が笑いながら言った。

「エラだ、エラ、修二。エラと口に指を入れろ!」

そういいながら親指と人差し指で輪をつくって、中指と薬指、小指をぴんと立てて「OKのポーズだ!」と言いながら笑っている。

僕はさっきのマッスンの手順を思い出しながら落ち着いて行動した。

岩魚の頭を掴んでいる左手の親指を、エラブタの方へ滑らせてエラの隙間から口の方へ向かって親指を差し込んだ。

僕は「よし」と言って一呼吸してから人差し指を口に入れようとした。

しかし口がしっかりと閉じていて指を入れる事ができない。

もう無理だ、やっぱり僕には岩魚は捕れないんだと思い始めていた。

「マッスン! 口が閉じていて指を入れられないよ」

マッスンは笑いながら、爪の先でクリクリして開けるんだよと言った。

僕は人差し指の爪の先で、岩魚の上唇と下唇をはじくように小刻みに上下に動かした。

すると岩魚の口が一瞬開いた。

その瞬間に人差し指を口の中に押し込みエラの方へ向かって指を滑らせた。

口から押し込んだ人差し指が、エラブタから差し込んだ親指にくっ付いた。

僕は、指でつくった輪で、岩魚を完全にロックした。

僕は岩魚を水中から引きずり出して叫んでいた。

「やった! 岩魚だ! 岩魚だ!」

大きな岩魚が元気良く輪にぶら下がって暴れている。

僕は始めて岩魚を捕まえた。人生最高の気分になった。

この方法はOK打法と言うらしい。マッスンがあみ出した方法で親指と人差し指で輪をつくったポーズがOKのサインみたいだからだ。

今日のマッスンみたいに左手と右手両方のOKサインに岩魚がぶら下がると、ツーランOKと言うんだそうだ。

僕はうれしくて何度もマッスンとどんぐり君にありがとうを言った。

マッスンもどんぐり君も自分の事のように喜んでいたのが僕はとってもうれしかった。


僕ら三人は上流に向かった。両岸の森が川に迫って川幅はどんどん狭くなり日光をさえぎり一段と暗くひんやりとしてきた。

頭上遠くのわずかな隙間から覗く真っ青な空が不自然に見えた。

腰を曲げて水に頭を突っ込んでいるアケミとシゲコの後姿が見えてきた。

シゲコの腰に結わえ付けられた熊笹には、たくさんの岩魚がぶら下がっているのが見えた。

シゲコが水中から岩魚を引きずり出した。両手のOKサインに岩魚が一匹ずつぶら下がっている。

どんぐり君が「シゲコ! ナイスツーランOK!」と声をかけた。

シゲコは岩魚のぶら下がった両手を耳のあたりまで上げ、まん丸の顔で笑っていた。

岩魚のイヤリングをした大仏みたいだと僕が言うと、マッスンとどんぐり君が大笑いした。

あんまり冗談を言わない僕は、岩魚を捕らえた興奮で口数が多くなっていた。

僕のジョークでマッスンとどんぐり君が笑ってくれて、僕は更に興奮してきた。

アケミが深みに潜り始めた。

数十秒もすると、水面に海苔を貼り付けたような長い髪のアケミが浮かんできた。

左手には、OKサインの指の輪に、岩魚が一匹ぶら下がり、中指と薬指そして小指にも岩魚が一匹ずつぶら下がっている。

右手OKサインの輪には、岩魚が二匹重なって通され暴れていた。

アケミは深みに潜って七匹を捕えて水面に上がって来たようだ。

マッスンが唖然として「おまえ、満塁ホームランじゃん」と言った。

シゲコが自分の事のように「女ピッチャーアケミには勝てないよ!」と自慢げにこちらに向かって言った。

その様子を、川岸の土手の上でシゲコのおじいちゃんが犬を連れてうれしそうに見ていた。

その横では、ジンサとキッチョムが木の棒を振り回してまだ遊んでるのが見える。

二人は木の棒を振り回しながらブーン、ブーンと声を出している。

スターウォーズのライトセーバーごっこだろうか。

気持ちが高ぶっている僕には、二人の振り回す棒が根元から先に向かって青い光を放ったように見えた。

ジンサはダースベイダーみたいなお面を被り、お面の隙間からシーシー音を出して息を吐き出している。木の皮で作ったお面のようだ。

キッチョムは鼻に紫色したアケビの皮をメガネで押さえるように付けて、ロボットのような動きをしていた。

おじいちゃんが連れている犬が、ふたりに向かって吠えていた。

僕たちは今回も赤鬼の事などすっかり忘れていた。

帰りにシゲコの家の庭で岩魚を焼いて食べた。

僕ら七人と、シゲコのおじいちゃんとおばあちゃん、犬も一緒に焚き火を囲んだ。

シゲコのおじいちゃんが岩魚の話を一生懸命僕らにしていたが、あぶら蝉の声がうるさくて良く聞こえなかった。


一日中遊んで夕方家に帰った。

僕の左手の親指と人差し指は、岩魚の鋭い歯で傷だらけになっていた。

家に帰って妹とおねえちゃんとお母さんにそれを見せて今日の自慢話をした。

お父さんにも指の傷を見せたい。僕はベットに横になってお父さんの帰りを待つ事にした。

僕は今まで自分に自信がなかった。みんなの事がうらやましかった。

マッスンやどんぐり君はクワガタと岩魚捕りの名人。アケミに関しては岩魚に加え、野球や勉強もすごい。シゲコとジンサとキッチョムはマンガを描くのがとても上手だ。

僕は運動も勉強もいまいちで、これといった特技も無い。

でも、今日僕は岩魚を捕まえた。

やっとみんなに追いついて、仲間になれたような気分がした。

指の傷を眺めながら、網戸越しに聞こえる田んぼの蛙の声で深い眠りに落ちた。


【卒業式】

 今日は奈良井小学校の卒業式だ。

体育館での式を終え、僕らは教室に戻りおしろいの匂いが充満する中で担任の先生の話を聞いていた。

教室の後ろには母親達に雑じってどんぐり君のお父さんが赤い鼻をして立っていた。

僕はキッチョムの事を考えていた。病弱なキッチョムは今日も来れなかったようだ。

先生の話が終わるとキッチョムが母親に連れられ入って来た。

キッチョムはみんなとは違う紺の学生服を小さな体に着て、七三分けの髪を油で整えていた。

なぜかあのお手伝いさんも一緒に来ていた。

先生がにこやかにキッチョムを迎えた。

先生からキッチョムは隣町の私立城山大学付属中学校に行くとの話があった。

キッチョムは僕らとは同じ中学には行かいという事だ。

キッチョムが突然黒板に駆け寄り白いチョークで力いっぱい書いた。


みんなありがとう

さよなら


キッチョムの体の何倍もある大きな字だった。

みんな涙を流して泣いた。キッチョムは黒板に向かったまま肩を震わせて泣いていた。

しばらくして事件が起こった。

キッチョムのお母さんが教壇に立ち、深々と僕らに頭を下げて言った。

「みなさんにお知らせがあります。たけしは、付属中学へは行かせません。

みなさんと同じ奈良井中学校に行かせます。」

キッチョムが驚いた顔で振り向き母親を見た。

キッチョムのお母さんは、笑顔でキッチョムを見つめて大きく頷いた。

教室に割れんばかりの歓声と拍手が沸きあがった。

キッチョムは興奮状態になり、両手でみんなを制した。

静かになったところで、ずれ落ちたメガネをくいと直し、拳を振り上げ大声で叫んだ。

「みんなと同じ中学に行ってもいいかな?」

直後みんなが叫んだ。

「いいともぉ!」

どんぐりのお父さんが後ろから走ってきて僕の横を通って教壇に上がった。

横を通った時、酒の匂いがプンプンした。

壇上でうれしそうに「いいとも! いいとも!」と何度も叫んでジャンプして転んだ。

その姿を見て僕らも、親達も、先生も大声で笑った。

春の土の匂いが窓の外から入ってきて、真新しい学生服の生地の匂いと入り混じった。


【猿芝居】

 雪がちらつく一月下旬、僕は新宿にいた。

新たに取引が決まった会社の社長を新大久保の料亭に招いて、僕と上司の高山部長の二人で接待だ。

この取引で次年度の収入が二億円確約された。

接待場所の料亭に行く前に、新宿駅近くの喫茶店で僕は部長と待ち合わせをしていた。

僕は約束の時間三十分前に喫茶店に着いた。

でっぷりと太った小柄な部長が既に座ってコーヒーを飲んでいるのが通りから見えた。

僕に気づいて、やさしい笑顔で手招きしながら言った。

「堀切君ご苦労様、僕は落ち着かなくてだいぶ早く来てしまったよ」

部長は早口で話し始めた。

「堀切君、今日は大事な席だからね。明日は社長にいい報告ができるよう私に協力して欲しい」

高山部長は会食の礼儀にはじまり、お酌の仕方から最後の締めまでの流れを細かく僕に指導してくれた。

最後の締めの部分は特に細かく僕に説明してくれた。

今の僕は上司に恵まれている。

僕には入社当時、同じ営業部に三つ年上の先輩がいた。

数年前お客さんを怒らしてしまった事がきっかけで、家にこもるようになり、その後先輩は入院した。

僕はその時、先輩のお見舞いに行った。先輩は優れない表情をしていたよう記憶がある。しばらくして先輩は会社を辞めてしまった。

高山部長の推薦で、辞めた先輩の後釜にすわらせてもらったのが僕だ。

部長は僕と同郷という事もあり、僕を特にかわいがってくれている。


 会食は順調に進んでいた。新たに取引する事になった社長もご機嫌だった。

ここに来て社長に会った時は、高そうなノリの効いた濃紺のスーツ、大きなハキハキした声に圧倒され、僕は何となく憂鬱だなあと思っていた。

でも、時間の経過とともに社長に対して人柄の良い感じを受け、僕の気分はだいぶ晴れていた。

部長が僕にそろそろ締めだ、と目で合図した。

僕は今日喫茶店で部長に言われたとおりのシナリオで事を運び、社長に言った。

「それでは社長、名残惜しいですがこのあたりで手締めをお願いいたします」

つきましては一本締めでいかがでございましょうか」

社長が急に眉をしかめ鋭い眼つきで僕を睨んでぼそりと言った。

「あんたの会社は、客人に手締めをお願いするのか?」

一瞬で座敷が沈黙に包また。着物の仲井さんが静かに席を外した。

続けて威圧するように社長が僕に言い放った。


「それどころか三本締めの略式の一本締めとはなんだ、えっ、堀切修二さんとやら」

「えっ、堀切さん」

僕は固まって黙り込んでしまった。

高山部長に今回の取引はなかった事にすると言い捨て「寸志」と書かれた封筒をテーブルに叩き付け席を立った。

社長は激怒して帰ってしまった。

テーブルの上に置かれた土鍋から湯気が弱々しく立ち昇るのを眺めながら、僕と部長は畳に正座したまま黙っていた。長い時間そうしていたような気がする。


しばらくしてから、高山部長がうわ言のようにつぶやき始めた。


「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」


やがて、立ち上がり叫び始めた。


「いよおー!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「よっ!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「もう一丁!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」


何度も何度も繰り返し三本締めを叫んでいる。


小柄で太った高山部長が、涙を流して叫んでいる。


「いよおー!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「よっ!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」

「もう一丁!」

「ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱぱぱん、ぱん」


僕と同郷のやさしい高山部長が叫んでいる。

まるで悲鳴のようだ。


 寸志の封筒には五万円が入っていた。

僕は部長と料亭を後にして、歌舞伎町を叱られた子供のようにとぼとぼ歩いていた。

部長が小さな声で僕に言った。

「堀切君、すまなっかたね。まちがった事を教えてしまったな・・・・・・」

部長はかなり酔っていた。

僕はつかれていて返事もできなかった。


 その後、僕と部長は死んだような面で風俗店にいた。

僕はボーイさんに呼ばれシャワーを浴びてタオル一枚を身にまとい、奥の部屋に案内された。

僕と同じようにタオル一枚に身を包んだ美しい女性がベットの縁に座っていた。

女性と目が合った。僕の心臓にどきんっという大きな鼓動があった。

「シ、シゲコか?」

僕がそう聞くと、女性は目を丸くして僕に言った。

「もしかして修二くん・・・・・・」

シゲコは急に慌てて僕に指図しはじめた。

「とにかく私の言うとおりにして、帰る時は財布を無くしたふりをしてね。修二君は会社を辞めさせられるの。高山部長にね」

修二は混乱した。

「おいシゲコ、高山部長を知っているのか? 他にも何か知っているのか?」

シゲコが早口で言った。

「ここに来る前、料亭で接待があったでしょ。そんでもって相手は怒って帰ったでしょ。

全部シナリオどおりなの。

景気の悪い世の中でどこの会社も口減らしのために社員を辞めさせたいのよ。

高山部長って人も生き残るために必死なのよ」

修二は頭が整理できないまま、シゲコに聞いた。

「シゲコは何でそれを知っているの?」

シゲコが答えた。

「ここは風俗店なんかじゃないの。仕組まれたシナリオの一部なのよ」

そう言うとシゲコは修二をベッドに押し倒した。

直後ガラの悪い男数人が部屋に入ってきて僕に言いがかりをつけた。

「お客さん、うちはそういう店じゃないんだよ。困りますねホント」

シゲコが怯えたふりをしてガラの悪い男たちに言った。

「この人を外に連れって行って早く」


出口で金を要求された。なんと五十万円だ。

僕はシゲコに言われたとおり財布を無くしたふりをした。

するとガラの悪い男たちが部長の胸ぐらを掴み脅し始めた。

部長が僕を指差して言った。

「彼の責任は私の責任です。どうか許してください」

そう言うと財布から数万円とクレッジットカード、上着の胸ポケットから寸志の封筒を取り出し、土下座して頭を下げそれらを差し出した。


 こうして僕と部長は店を出る事ができた。

僕はまだ混乱していた。

頭が整理できていない状況で僕は部長に言った。

「部長、申し訳ありません。助けていただいて・・・・・・ 本当になんて言っていいか・・・・・・」

部長がクレジットカードの明細を見ながら静かに語り始めた。

「クレジットカードから百万円引き落とされたよ。

今日の接待では二億円の見込んでいた収入が飛んで消えた。

明日社長に辞表を出すよ」

部長はその場で膝をついて途方に暮れていた。

僕は思った。どいつもこいつも見事な芝居だ。生きるための実に見事な芝居だ。

僕はぐったりと疲れた。

役者どもと戦う力も残っていない。

部長が、社長が、会社が、僕に望んでいる答えを静かに言い放った。

「高山部長、僕が責任を取ります」

部長の目の奥が達成感で光ったような気がした。

前に辞めた先輩のお見舞いに行った時、お客さんを怒らせたのが、新宿の料亭だと先輩が言っていた事をふと思い出した。

ネオン街のすえた臭いが冬の風に乗って僕の体をすり抜けて行った。

僕は帰り道、シゲコの事を考えていた。

シゲコはおばあちゃんとおじいちゃんと三人で、蜩川の支流であるカブ沢のたもとに暮らしていた。

カブ沢は、かつて僕たちが幻の大岩魚『赤鬼』を探し求めた思い出の場所だ。

両親は大人の事情でシゲコが生まれてすぐに、シゲコを置いて出って行ったそうだ。

中三の時、夏の集中豪雨でシゲコの家は流された。

おじいちゃんとおばあちゃんも一緒にだ。

その時シゲコは学校に行っていたので命は助かった。

シゲコは中学を卒業後、高校へは行かず隣町の印刷会社に住み込みで就職した。

シゲコはアケミの幼馴染でアケミには心を開いていたようだ。

アケミは中学を卒業すると、隣町の名門進学校に進んだ。

キッチョムも同じ高校で、確かふたりは同じクラスだった。

アケミは度々シゲコの下宿先を訪ね、食事や洗濯と世話をやいていたようだ。

シゲコはそのころ暴走族の総長をしていた。

アケミが高校の生徒会長に立候補した際、「生徒会長 須藤 あけみ 後援会」とかかれたのぼり旗を掲げたオートバイで仲間を従え、アケミの学校の回りを暴走し警察に補導されたと聞いた事がある。


 思えば僕はシゲコに二度助けられている。

高校時代にマッスンと僕は川で赤鬼を相変わらず探していた時の事だ。

河原でお湯を沸かしてカップラーメンをつくっている時、川沿いの道を集団で走るバイクの爆音が近づいてきた。

暴走族が僕らを見つけ河原に降りてきた。

案の定からまれた。後ろの方からシゲコが黒い特攻服を着てこちらに近づいてきた。

シゲコが僕とマッスンに気が付いてくれた。

「マッスンと修二じゃん、赤鬼を探してるの?」と声をかけてきた。

シゲコがメンバー達に声をかけた。

「ふたりはあたしの仲間だ、みんな帰るよ」

僕らはシゲコのおかげで絡まれずに済んだ。

シゲコはにっこりしながら僕らに言った。

「アケミが生徒会長に当選したんだって。副会長にキッチョムを指名したってよ」

シゲコの黒い特攻服の肩には、光沢のある白い糸で、岩魚の泳ぐ姿が刺繍されていた。

仲間を引き連れ帰って行く後姿の背中には『赤鬼』の文字が縫い込まれていた。

マッスンは僕を見て言った。

「あいつも赤鬼の事、忘れてなかったな」

シゲコが赤鬼の事を憶えていた事が、僕はその時うれしかったのを憶えている。


二度目に助けられたのが今日だ。

シゲコに会わなかったら、僕は部長を何の疑いもなく信じていただろう。


雪がちらつく大都会、そんな事を考えていると路地裏の換気扇から何かを焼く匂いを含んだ温かい風が僕の顔にふいてきた。

故郷の三九六、柳の枝に刺した玉餅の焼ける匂いが無性に恋しくなった。


【中二の夏】

 中学二年の夏、どんぐり君の才能が開花した。

鉛筆で書いたデッサン画が県の展覧会で金賞を受賞した。

スポーツ万能のどんぐり君は絵がとても上手く、運動部には入らないで美術部に入部した。

身長一八五センチ、あいかわらずの長髪で日に焼けた顔に真っ白な歯が光る。

益々ハワイのサーファーみたいになっていた。

感情を表に出さないぶっきらぼうな人だが、とてもやさしいヤツだ。

美術部の顧問の柿沢先生とは折り合いが悪く、放課後は部活に出ないで用務員室で住み込みの用務員のおじさん(通称ムツ)のところでいつも絵を描いている。

ムツは無口で日に焼けた筋肉質の小柄な老人である。

肩まで延びた白い髪はクルクルと渦を巻き、何とも不思議ないでたちである。

ムツは油絵を描くらしく、どんぐり君はムツをとても尊敬しているようだ。

部活に出ないどんぐり君の作品は、ムツが出展の手配をしているそうだ。

美術部顧問の柿沢先生は、ムツにだけはなぜか頭が上がらないようだ。


 ボク修二はバスケ部だ。

エロのジンサとガリ勉キッチョムも同じバスケ部。

ある日の練習中にジンサがそっといなくなった。

女子の部室を覗きに行くならばキッチョムを誘うはずだ。

おかしいと思った僕は後を付けた。

ジンサは用務員室に向かった。木々に囲まれた用務員室の前にある大きな庭石の陰にどんぐり君が隠れるようにしゃがんでいるのが見えた。

ジンサとどんぐり君は大きな庭石の向こう側に隠れるように消えて行った。

僕は感じた、何か面白い事が起きそうだ。


ぼくはドキドキしながら大石の裏側にへばり付いてしゃがみ、聞き耳を立てていた。

夏の太陽で暖まった石が暖房の様になって僕は汗だくになっていた。

ジンサの声がした。

「どんぐり、書けたか?」

どんぐり君が答えるのが聞こえた。

「ああ、出来たよ」

ジンサの「サンキュー」という上ずった声が聞こえた。

ジンサが何かをどんぐり君に手渡したようで、どんぐり君が「おぉっ」とうなった。

僕は足元から生えているサルスベリの幹につかまり、そうっと立ち上がった。

掴んだサルスベリの幹に手の汗が吸い込まれていくのを感じた。

石の上に垂れ下がる無数の枝葉の隙間から、ふたりの様子をそっと覗いた。

どんぐり君の手には大きな瓶、中には茶色く煮付けられた蜂の子がぎっしり詰まっていた。

どんぐり君はお父さんとしょっちゅう蜂追いをしている。蜂の子など珍しくないはずだ。なぜ見慣れた蜂の子がうれしいのだろう。

僕は不思議に思った。

どんぐり君がうれしそうにつぶやいた。

「ジンサのジジが煮付けた蜂の子は俺んとこのよりうまい。

おれの親父もジンサのジジ特製のこれが大好きなんだ。

ジンに頼んで売ってもらえってひつこくてな」

僕はなるほどと思った。

どんぐり君が「はいよ、一万五千円」と言ってジンに封筒を渡した。

ジンは素早く封筒を受け取り、何も言わずさっきとは逆の方向に走って行った。


 僕は変だと思った。

金を入れる封筒にしては大きすぎる。多分ジンサは教室に戻り封筒をカバンに入れに行ったと僕は予想した。

僕は封筒の中身がどうしても見たくなった。


僕は校庭に出て、マッスンを探した。

マッスンは野球部のキャッチャーだ。マッスンはなぜか自転車に乗って守備をしていた。飛んでくる打球を自転車で追いかけ上手い具合にボールをキャッチしていた。

マッスンがキャッチすると、バックネット前に整列した下級生達が「素晴らしい!」と声をそろえて叫んでいた。

上級生が引退したこの時期、マッスンは天下を取ったように生き生きしているように見えた。

僕はマッスンに面白いものを見せてやるといって教室に連れていった。


 夏の終わりの西日が差し込んだ静まり返った夕暮れの教室に、マッスンのスパイクの音がカツカツ響いた。

僕はマッスンにジンサのかばんを指差して目で合図した。

マッスンはクリクリの坊主頭の丸い目で、きょとんとして僕を見た。

再度かばんを指差し開けるようマッスンを促した。


 かばんの中から大きな封筒が出てきた。

マッスンの手が土で汚れていたので僕が封筒の中身を取り出した。

封筒の中にはエンピツで書かれた上手な絵が入っていた。

僕とマッスンは体が固まり、耳がジーンと熱くなるのを感じた。

手に取った麻布みたいな硬い紙には、女の人の裸体が書かれていた。

女の人の長い髪の毛先はクルッと巻かれ、毛先がくすぐるように乳首に落ちていた。

その女はシゲコだった。

いじめられっ子でアケミの後ろを付いて歩いていた太ったシゲコは、中学に入ると急激にスマートになり美人になった。

性格も明るくなって、今では親分肌の女番長で皆に恐れられている。

シゲコの裸はまぶしかった。

 

僕とマッスンは無口になってしまい、そっと絵をジンサのかばんに戻し教室を出た。

マッスンが元気の無い声で言った。

「なあ修二、あの絵はなんだ?」

僕は答えた。

「ジンサがどんぐり君に頼んで書いてもらったのさ。

シゲコは最近学校に来てないし、裸のモデルになる訳もない。

どんぐり君が想像で書いたんだろう」

今度はマッスンが僕に聞いてきた。

「頼まれて書くか?人の裸を?もしばれたらやばいだろ」

僕はその質問に答えず、マッスンに質問した。

「なあマッスン、ジンサのおじいちゃんの蜂の子を食べた事あるか?」

マッスンはなるほどという顔で頷いた。

僕はマッスンに、この事は内緒だからなと念を押した。


 体育館に戻るとジンサがキッチョムとマイケルジャクソンのムーンウォークの練習をしていた。

靴の裏にガムテープを貼って、板張りの体育館の床を滑るように後ろ向きに歩いている。

良く見るとムーンウォークの練習をしているふりをして、何かをこそこそ相談しているように見えた。

しばらくすると、ジンサはキッチョムを連れて出て行った。

僕はふたりのたくらみが手に取るように分かった。

ジンサはどんぐり君から手に入れた絵の事がうれしくてしかたない。

口の堅いキッチョムにあの絵を見せるんだろう。

そしてキッチョムの感動する顔が見たいんだと思う。

ジンサはキッチョムと喜びを共有したいんだろう。


僕は先回りして教室の先生の机の陰に隠れて二人を待った。

ジンサがキッチョムを連れて入ってきた。

会話の内容は聞こえなかったが、絵を見ている気配が伝わってきた。

キッチョムが押し殺す声で叫んだ。

「ジンサ、すげーよ、ほんとこれすげーよ」

ジンサがうれしそうに笑うのが聞こえた。

二人は感動を共有している。

その後キッチョムは必死でその絵のコピーをくれと、ジンサに頼み込んでいた。

ジンサが、絵を描いてくれたどんぐりに怒られるからダメだと言うと、キッチョムは半べそになってだだをこね始めた。

ジンサがキッチョムに言った。

「分かったよキッチョム、でも誰にも言うなよ」

キッチョムは急に元気になったようで、ジンサに特注の学生服をプレゼントする約束をしながら教室を出ていった。

うれしそうにムーンウォークで後ろ向きに歩いて出て行く二人のすり足の音が聞こえた。


 その数日後、絵のコピーをめぐって事件が起こった。

ジンサとキッチョムは、エロ同士の約束をはたすために朝早く職員室で例のデッサン画をコピーしているところを宿直の先生に見つかったらしい。

運悪く、暴力教師で有名な美術顧問の柿沢先生に見つかって殴られたとの事だ。

授業が終わった夕方、殴られてけがをした二人をどんぐり君とマッスンと僕の三人で何があったのかを問い詰めた。

見つかった時の様子はこうだった。

コピー機に置いた絵を柿沢が手に取り、鬼の形相で「豊川の絵だな」と言って、絵を取り上げることもなく二人を殴り出て行ったそうだ。

柿沢に見つかった時はコピーは済んでいて、キッチョムはそれを大事にかばんにしまった後だったのだろうと、僕はジンサとキッチョムの様子から察する事ができた。

いつも穏やかなどんぐり君がボソリとジンサに言った。

「あの絵をコピーしたのか?」

ジンサが答えた

「コピーする前に見つかって、、、」

どんぐり君がキッチョムを睨みつけて言った。

「おい、キッチョムお前は何でそこに居たんだ?」

キッチョムが半べそ状態になると、どんぐり君は深いため息をついた。

代わりに、ジンサが答えた。

「一人で職員室に忍び込むのが怖くて、キッチョムを連れて行ったんだ。

キッチョムは絵は見てないし、、、」

どんぐり君は聞いていない様子でイライラしていた。

僕は何も知らない素振りでどんぐり君に聞いた。

「ねえどんぐり君、その絵が見つかるとヤバイの?」

どんぐり君が冷たく答えた。

「べつに」

どんぐり君は教室の方へ歩いて行ってしまった。

どんぐりを追いかけるようにマッスンも行ってしまった。

遠くでマッスンの声が、吹奏楽部の演奏の音に混じって聞こえてきた。

「おい、どんぐり、何で怒ってんだよ」

どんぐり君の返事は聞こえてこなかった。

 

翌日の朝の会で、県の展覧会で金賞を取ったどんぐり君の全国大会出展が取り止めになったと担任の先生から話があった。

どんぐり君の方をそっと見ると、うつむいていた。

僕は思った。ヤバイ事になったと。


放課後の部活前、僕はどんぐり君が気になって用務員室に向かった。

用務員室の庭石に小さなムツが座っていた。

その前にジンサが正座をしてムツに何度も頭を下げている。

ムツに何かをお願いしているように見えた。

僕はそっと引き返し、部活に向かった。


翌朝、昇降口の目立つところし横断幕が貼られていた。

「祝 二年三組 豊川 渓太 全国中学校美術展 デッサン画部門 出展」

どんぐり君のおとうさんが、その横断幕の前に立って女子に写真を撮らせていた。

写真を撮らされているのは良く見るとアケミだった。

事情を何も知らないどんぐり君のお父さんは、近くにいた美術顧問の柿沢先生に深々と頭を下げると、ちどり足で帰っていった。

柿沢の顔がひきつっているように見えた。


空の感じがすっかり秋めいてきた。

「おい修二、今日部活抜け出してキッチョムと美術室に来いよ。いいもの見せてやるよ」

どんぐり君が白い歯を光らせてうれしそうに言った。

どんぐり君の誘いが何なのか僕は一日中気になっていた。

部活顧問は部活にいつも来ない、三年生は引退した、部活は僕らの天下だ。

一年に三点シュートの練習をしとくように言い付け、僕はキッチョムと美術室に向かった。


美術室に入ると、どんぐり君が冷蔵庫くらい大きなビデオカメラを肩に担いで、窓の外の校庭に大きな望遠レンズを向け、足を大きく広げて踏ん張るように立っていた。

マッスンが窓を背にしてどんぐり君と向かい合うように足を大きく広げて、大きな望遠レンズを両手で包み込むように支えて立っている。

そして脚立に登ったジンサがファインダーを覗きながら右だ左だと叫び、どんぐり君とマッスンはそれに従い大きなカメラを左右上下に動かして被写体と思われる物に照準を合わせている。

ジンサが自信に漲る声で叫んだ。

「よし、バッチオーケー!」

どんぐり君が振り向いて、ニヤニヤしながら言った。

「キッチョム博士よ、ご覧あれ」

キッチョムはカメラに駆け寄り、ジンサに促されて脚立に登ってファインダーを覗くと、いつもの半べそ状態になって唸った。

「す、すげえ」

キッチョムは黙り込んでファインダーに片目をギュッと押し付けている。

長い望遠レンズを支えているマッスンが叫んだ。

「おいキッチョム俺にも早く見せろよ」

どんぐり君がマッスンに言った。

「まあ待てマス。おい修二見てみろよ」

そう言われた僕はキッチョムの背中をつついて言った。

「博士交代しよう」

キッチョムの目の回りにファインダーの輪っかの痕がくっきり付いていた。

僕は脚立に登ってそっとファインダーを覗いた。

校庭の一番向こうの奥にあるテニスコートで、たくさんの女子がテニスをしている。

ボールを打つ時の勢いで短いスカートがひらりとめくれ、やわらかそうな尻を包んだ白いパンツが見えた。

パンツに秋の物悲しい西日があたり、中まで透けて見えそうだ。

僕は感動した。

女子の尻がこんなにも美しいなんて。

テニスコートの向こうの側の銀杏並木、葉が黄色くなり始めている。

髪を茶色く染めたシゲコがスクーターにまたがって走り過ぎるのが一瞬見えた。

シゲコはあまり学校に来ていないようだ。

僕は急に冷静になり、覗きながら考えていた。

この後どんな顔でみんなを見ればいいのか、うれしそうにしていたらみんなにエロだと思われるかな。

マッスンが叫んだ。

「早く俺も見たい」

マッスンに交代した。

どんぐり君がカメラをかついだまま、マッスンにアドバイスをした。

「おいマス、サーブを打つ瞬間の尻がバリだ。打ち終えた瞬間に尻の下の方の肉が小刻みに揺れるんだよ」

僕はびっくりした。どんぐり君はジンサやマッスンやキッチョムよりもエロで不真面目だった。

ファインダーを覗いているマッスンがアドバイスに従い感想を言った。

「揺れた、揺れた、プルンプルン揺れた、バリだ、ちょーバリだ」

全員が見終わると僕らは興奮状態でカメラを隣の視聴覚室に片付け、脚立をロッカーにしまった。

最後に、マッスンの泥だらけのスパイクで汚れた床を掃除した。

例の裸デッサン画コピー事件の後、しばらく気まずかった僕たちの関係を、女子の丸くて柔らかい尻が修復してくれた。

僕は思った。もうすぐ最後の文化祭、この楽しい中学時代が終わらないで欲しいと。

渡り廊下を歩いていると、秋の虫の声が草むらから聞こえたきた。


【結婚式】

僕ら赤鬼捜索メンバーは、もうすぐ五十歳になろうとしていた。

今日は結婚式に呼ばれている。

なんと、キッチョムとシゲコが晩年結婚する。

場所はキッチョムの家が経営しているゴルフ場に併設されたレストランだ。

僕はキッチョムに今日の結婚式で放映する動画の作成を依頼されていた。

ここ一ヶ月は本気でそれに取り組んでいた。

動画を作成するための取材で大忙しだった。


 受付はキッチョムの勤務している大学病院の部下たちがやっていた。

シゲコは猛勉強して看護師になったらしい。

暴走族を引退し印刷会を辞めてから新宿で何をしていたかよく分からないが、その後看護師を目指したんだと思う。

看護学生時代、研修の講師で招かれたキッチョムと恋仲になり今日に至ったそうだ。

シゲコは自分がシゲコである事を隠してキッチョムに近づき、付き合うようになってから自分が幼馴染のシゲコである事をキッチョムに告白したそうだ。

その時、キッチョムは既にシゲコに完全に夢中になっていたと聞いた。


 橘川カントリークラブと書かれた看板の周りには満開の桜が咲き乱れていた。

その横の大きなヘリポートに、風に散った桜の花びらがぎっしりと積もっていた。

ヘリポートのすぐ横には披露宴会場となるガラス張りのレストランがあった。

すっかり歳をとったどんぐりと白髪頭のマッスンとジンサがいた。

僕は受付でご祝儀を出した。

僕の隣でジンサがにやりとしながら異常に大きい祝儀袋を出すと、受付の人が怪訝な顔をした。

どんぐりがジンサに聞いた。

「何であんなにでかい?何が入っているんだ?」

ジンサがどんぐりに答えた。

「1万5千円と1万5千円相当の原画だ。合わせて3万だよ」

どんぐりが言った。

「おお、あの絵か、にくいねぇ」


僕はみんなに聞いた。

「あれ、アケミは?」

どんぐりが答えた。

「かみさんは今日来れない、急な仕事で山小屋に食材を届けなければならなくなってな」

アケミは二十年ほど前に、どんぐりと結婚していた。

僕はアケミが好きだったので、結婚すると聞いた時はショックだった。

男気あるアケミはそれ以上に男気のあるどんぐりとお似合いすぎた。

だから僕はすんなりアケミをあきらめる事ができた。

僕はアケミに告白した事も、付き合った事もないが、、、

アケミはヘリコプターの操縦士をしている。

山小屋などに物資を運ぶ仕事をしているのだ。

旦那のどんぐりは、市役所の納税課に勤務している。

テニスコートを盗撮して喜んでいたあのどんぐりが、公務員というのは何とも不思議な感じだ。

マッスンはジンサとムーンウォークの練習をしながらげらげらと笑っていた。

まるで白髪頭の子供のようだ。

マッスンは大工、独身で自由に生きている。

ジンサは家業の八百屋を継いでいる。

ここのレストランにも野菜を卸しているらしい。

バンドを組んでいて、ギターを弾いてボーカルも担当している。


 披露宴も終盤になっていた。

僕は心臓がバクバクして緊張がピークに達していた。

僕のつくった動画がこれから上映される。

僕は心の中で自分自身に言い聞かせた。

「ぬかるなよ、お前ならできる」


 会場を三百六十度囲んでいた大きな窓が、電動の暗幕で覆われた。

会場内が闇に包まれた。

次の瞬間、映画の上映合図みたいなブザー音がする笛を、僕はマイクに向かって吹いた。

その瞬間、僕は僕のスイッチが入った。

自分で自分の目つきが変わるのが分かった。

汗でびしょびしょになった手を男らしく膝で拭いて、ノートパソコンのエンターキーを「食らえっ」と呟きながらパツリと押した。


会場正面の大型スクリーンに青い空が映し出された。

ヘリコプターのプロペラ音が流れはじめた。

「バッバッ、バラバラ」

「バッバッ、バラバラ」

その音はやがて爆音に変わった。

ズームインされた操縦席に、ティアドロップのサングラスをかけたアケミが写っていた。

残念ながら今日ここに仕事で来れない、どんぐりの奥さんのアケミだ。

アケミを知っている人の声で場内に歓声が沸いた。

地上すれすれでホバリングしているヘリコプターは、大量の桜吹雪を巻き上げボディーには、『赤鬼』と書かれていた。

スクリーンを見つめるシゲコが蛇口をひねったように涙を流し号泣していた。

僕は心で呟いた。

「さあシゲコ、これを食らえっ」

ヘリが地上に着陸し、操縦席から黒い編み上げブーツを履いたアケミガ降りてきた。

僕はふと思った。

「やっぱアケミは僕の手には負えないな、結婚しなくてよかった」

僕はアケミに告白した事も、付き合った事もないが、、、


突然会場後方の扉が大きく開き、逆光の中ヘルメットを片手に下げたアケミが立っていた。

場内は興奮のるつぼ、僕も涙を流しながらノートパソコンに向かって叫んでいた。

「ざまあみろっ、これがサプライズ生中継だっ」

キッチョムの母親が仕立てたウェディングドレスを着たシゲコが、アケミに駆け寄って抱きついた。


ようやく場内が静かになり始めた頃、僕は再びパソコンのエンターキーをそっと押した。

スクリーンには家を建てている大工のマッスンの様子が映し出された。

マッスンがどんぐりの家を建てている時の映像だ。

建築中の足場の下から、背広を着たどんぐりが不安そうにマッスンを見る様子をアケミが爆笑しながら見ていた。

マッスンは市民税の滞納で銀行口座を差し止められていた事がある。

口座を差し止められたマッスンは市役所に怒鳴り込み、市長に合わせろとカウンターで大騒ぎした。

その様子を陰から見ていたどんぐりは当時市役所の納税課だった。

滞納税の進捗管理担当だったどんぐりは困り果てマッスンに、俺の家を建てさせてやるから市民税を払ってくれと話をまとめたらしい。

豊川邸は無事完成したが、マッスンが勝手に『赤鬼庵』と看板が掛けられた離れのような小さな家を敷地内に建て入り浸っている。

夜中にホステスとタクシーでそこに帰ってくると、鍵をかけて朝まで出てこない事があるとどんぐり夫婦が愚痴っていた。


続いて小学校の卒業式で黒板にさよならの言葉を書く小さなキッチョムが写し出された。

映像が切り変わり集合写真が写し出された。

写真の中央には薔薇の胸章を胸に付けたキッチョムが大学病院のみんなに囲まれて立っている。

キッチョムが、まだ禿げていない三十代の写真だ。

写真の上部には大きな横看板が掲げられ、「中信大学医学部附属病院 橘川教授就任パーティー」と書かれている。

あんなに小さく病気がちだったキッチョムは、今では恰幅のいい大人の男になっていた。

僕はつぶやきながらエンターキを押した。

「ぼつぼつ、クライマックスだ」


映像が切り変わった。

真上から撮られている映像で、人の頭がふたつ見える。

よく見ると一人はギターを持っている。

もう一人はドラムセットに向かって座っている。

絵づらが正面にゆっくり切り変わると、ギターを持ったジンサがギターアンプのスイッチを入れてシールドを差し込んだ。

「バッチッ」という音とともに乾いた音でギターを鳴らした。

ローリングストーンズのジャンピングジャックフラッシュだ。

すかさずドラムの音が入ってきた。

ジンサの後ろでツイードの背広をビシッときめたハンチング帽をかぶった老人がドラムを叩いている。

口からタンをひとつ床に飛ばし捨てて、酒やけしたドスの効いた声でイントロが終わると同時にマイクに向かって吐き捨てるように呟いた。

「ワントゥー」

ジンサのおじいさんだ。

それに気がづいた人たちが歓声を上げた。

ジンサのおじいさんは若い頃バンドマンで、ドラマーとして全国を旅していた。

移動中の小型セスナ機の墜落でバンド仲間を全員失った。

それを機にドラマーを引退し、林業の道へ進んだと聞いている。

他界した仲間を成仏するように奥深い山谷でひたすらノコを引き、休日はツイードの背広にハンチング帽をビッシと決めて競輪場に勝負に出かける。

そんな単調な日々を、経を読むが如し何十年も続けている。

ジンサはそんなおじいさんを誇りに思っていた。

ジョンレノンの命日には家族で喪に服し、ジンサもその日は学校を休んでいた。

スクリーンの中のジンサは学生服を着ている。

キッチョムに裸婦画のコピーと引き換えに仕立てた学ランだ。


映像がまた切り変わった。

遠くからカワサキGPZの改造車にまたがった茶髪美人が近づいてくる。

シゲコだ。

岩魚の刺繍が施された右腕でアクセルを器用にふかし、軽快な爆音をとどろかせている。

シゲコの後ろにたくさんのバイクが連なって蛇行運転をしている。

シゲコの暴走族引退セレモニーの時の映像だ。

アケミがシゲコに頼まれホームビデオで撮影した物だ。

当時高価だったホームビデオは、アケミがキッチョムのお父さんから借りた。

走り去るシゲコの背中には『赤鬼』の文字が輝いていた。


 上映が終わった。

場内は盛大な拍手に包まれた。

僕はノートパソコンを抱え、スクリーンの袖から席に戻った。

シゲコとキッチョムが僕の方を向いて深々と頭を下げた。

席に戻ると、どんぐり、アケミ、マッスン、ジンサが立ち上がって僕に拍手を送ってくれた。

アケミが今日は仕事で来れないと騙された事などみんな忘れているようだった。


 披露宴が終わった。

みんなが帰った後、赤鬼捕獲メンバーはその場に残り浴びるほど飲んだ。


 僕はヘリポートで外の風にあたりながらセブンスターをくゆらせていた。

ニコチンが体中の血管をめぐり、心地よい達成感を感じた。

煙の向こうのレストラン、オレンジ色の明かりの下で語り合う友たちのシルエットが見える。

はげ頭のタキシード姿のキッチョムが、グラス片手にムーンウォークをしているのを、みんなが手を叩きながら楽しそうにしている様子が見える。

その時、僕は背後に人の気配を感じた。

振り向くと年老いた女性がレストランの方を眺めている。

僕のところまでゆっくりと歩いてきた老人の目には涙が光っていた。

「結婚式っていいわね」

そう言うと老人は帰って行った。


 その人は三十五年前キッチョムの家で、ケーキを配ってくれたお手伝いさんだった。

「シゲコのお母さんだ」

僕はそう思った。


【完】


 今年もヒグラシが鳴き始めた。

あれから三十五年、今でも鮮明に思い出す夏の夕暮れ。

オレンジ色の西日に輝く川で過ごした友との夏休み。

今日もまた、僕は故郷の川にいる。杉村 真

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