虫、飼う。
私の頭の中には虫がいる。
具体的に何処の部分に潜んでいるかは分からない。脳ミソの皺の中か、頭蓋骨の隙間か、それは分からないけれど、ともかく私の頭には虫がいる。
虫、蟲、ムシ、むし。
表記なんてどうだっていいけれど、気が付いたら私は望んでもいないのに虫を飼っていた。何時から、何てことは分からない。何時から自転車に乗れるようになったのか、とか、何時から逆上がりが出来るようになったのか、とか、そんなことが分からないのと同じように、ふと気が付いたら虫がいた。
最初に虫が私に干渉してきのは、確か、十歳の頃だった。パパがいてママがいてお姉ちゃんがいて、ごく普通の食卓だった。みんなでクリームシチューを食べながらNHKのニュースを見ていた。画面に映し出されていたのは、年老いた母親がニートの息子を締め殺したというニュースだった。加害者も被害者も顔写真はなくて、ただがらんどうの安アパートが画面に映し出されていた。
パパもママもお姉ちゃんも、一致して被害者のニートである息子を糾弾していた。具体的な文言は覚えていないけれど、三十六歳にして職歴なし学歴なし、恒常的に年老いた母親から金を無心し、時には暴力を振るっていた顔も知れぬ被害者を、まるで実害を被ったように非難していた。
その時の私は十歳で小学五年生の女の子で、家族全員が正義で絶対だった。そんなみんなが非難するのだから、きっと被害者が全面的に悪いのだと思った。そこに私自身の思考はなかった。ほぼ自動的に家族に同意した。そして、その旨を言葉にしようと思った。
だけど、私の声帯は何の言葉も発しようはしなかった。まるで餌を乞う鯉のようにただ口をパクパクと開閉させるだけだった。私は戸惑った。
「そうだね」の四文字が、「その通りだよ」の六文字が出てこないのだから、それはそれは焦った。幸運だったのは、そんな私の様子に家族が誰一人気付くことなく三十六歳ニートへの非難を繰り広げていたことだった。
私は自分の言葉が失われてしまったことを誤魔化す為に真っ白なクリームシチューをスプーンですくい間断なく口に運び続けた。とっくにお腹は一杯だったけれど、二杯もシチューをおかわりした。おかげで私が一時的に失語症に陥った事はバレなかったけれど、その代償として私はその日の夜中に嘔吐した。便器に向かって、真っ白な吐瀉物を吐き出し続けた。
その時は気付かなかったけれど、今にして思えば、私がみんなに同意出来なかったのは、虫が邪魔をしていたからに他ならない。そうでなければ、その時まで上手くやってこれていたのに、その時だけ言葉が出なかった理由がつかない。私は狭い便所で両膝をつき、汚れた便器を両手で掴み、こぼさないよう細心の注意を払いながら涙目でクリームシチューを吐き出しながら気付いたのだ。
私には、私の頭の中には、虫がいるのだ、と。
それからの日々を言語化するのはとても容易だ。七文字、たったの七文字で表すことが出来る。
上手くいかない。
ただ、それだけ。
私はその日を境に何もかもが上手くいかなくなってしまった。例を挙げれば枚挙に暇がない。
クラスメイトがただの馬鹿としか認識できなくなった。
大人がただの汚れた存在としか認識出来なくなった。
異性がただの性欲の塊としか認識出来なくなった。
自分がただのウジ虫としか認識出来なくなった。
孤独になった。
勿論虫のことを他人へ話したりなんかしない。そんなことをすれば、私が気狂いだと思われてしまうから、絶対に誰にも話さなかった。
表面上は上手くやれていたと思う。私の心の内を誰にも知られていないと思う。家族にもクラスメイトにも先生にもバレていないと思う。その自信だけは確実にもっている。だけれど、私は上手くやっていくことが非常に困難になってしまった。少し前までは何の問題もなくやれていた。友人もいたし、大人のことも尊敬していた。それが急に出来なくなってしまった。
虫のせいだ。
それは全部、虫のせいなのだ。
友人と疎遠になり彼氏が出来ないのも、大人の言うことを聞く気がしないのも、家族と徐々に溝が出来ていったのも、全て虫のせいだ。それ以外に説明がつかない。
何度も同意しようと思った。幾度も微笑もうと思った。だけど、出来なかった。虫が邪魔をするのだ。私の笑顔を歪にし、声を上ずらせ、顔を俯かせる。虫が私の神経に直接干渉して、私の心とは相反した行動を取らせるのだ。私には、どうしようも出来ない。抗う術なんてない。後になって溜め息を吐くことくらいしか出来ることはない。
私はただ、己の運命に、不運に甘んずる他なかった。私の頭に住み着いた、見ることも出来ない虫を、呪って呪って日々をどうにかやり過ごすことしか出来なかった。
毎日の努力を積み重ねて夢を実現させるのと全く同じように、私は虫への呪詛を積み重ねて齢を重ねていった。
気が付けば私は十九歳になっていた。
大学に入った。偏差値的に良くも悪くない、どうってことのない大学。私が大学に通おうと思った理由は一つしかない。
実家から出られるから。
それ以外にただの一つもない。
虫のせいで私は家族との関わりが上手くいかなくなっていた。
表だって悪感情をぶつけ合うようなことはなかったけれど、微妙に歯車が噛み合わないような、同じ言語なのに訛りが強過ぎて細部のニュアンスが擦れ違うような、そんな気持ち悪さが常にあった。
優しくされれば苛立ち、厳しくされれば拒絶する。
虫のせいで、パパともママともお姉ちゃんとも笑顔で会話することが出来なくなった。
だから、遠方の大学に合格した時は本当に嬉しかった。大学に受かった事よりも、家族と距離を置くことが出来ることに。
私はボストンバックに必要なものを全て詰め込んで家を出た。電車に二時間揺られた。見知らぬ街に辿り着いた。
環境は変わった。初めての土地で、見知らぬ町で、一人で暮らすことになった。だけど、だからといって、私の本質が変わる訳ではない。虫がいなくなる訳でもない。新生活への微かな希望も、切なる渇望も、呆気なくいとも簡単に毎秒毎に崩れ去っていった。
新しい生活。
煌めく学校。
微笑む若人。
私はやはり、上手くいかなかった。
サークルに入れなかった。
友達が出来なかった。
恋人なんて出来る筈もなかった。
勉強に付いていけなかった。
バイトに受からなかった。
受かっても馴染めずに長続きしなかった。
何もなかった。
本当に、何もなかった。
特筆するようなことは、人並な日々は、全然、なかった。
絶望、なんて言葉を用いるのはおこがましいけれど、絶望よりも緩くて温くて真に深い失望が、のそりと私の全身にまとわりついていた。家族との軋轢はなくなったけれど、軋轢すらない、怠惰でどこまでも真っ平らな日常が半笑いで待ち構えていた。私は入学してすぐに気が付いた。
ここでも、どこでも、私はきっと上手くやっていくことが出来ないのだろう。
それも、これも、虫のせいだ。本来の私はそんな人間では決してなかった筈だ。虫に入り込まれる前までは、誰とでもにこやかに接して、絶え間なく笑顔で会話して、誰からも好かれる、そんな人間だった。
虫さえ、虫さえいなければ、私はもっと、私はきっと――。
先輩に声をかけられたのは、一年目の大学生活をそろそろ終えようかという二月の某日だった。その日は雪が降っていた。前日からの降雪で景色の大半は雪に覆われていた。白かった。真っ白だった。
先輩とはそれまで一言も言葉を交わしたことはなかった。ただ一方的に、私が先輩の噂を小耳に挟むだけだった。曰く、学内で一番のイケメンだとか、曰く、特定の彼女を作らず常に不特定多数の女子と関係を持っているだとか、まあとにかく、何もかもが上手くいかない私とは正反対な存在として私は認識していた。
そんな先輩に話しかけられたのだ。講義を終え、帰宅しようと大学の出入り口へ歩いていると声をかけられた。唐突に、何の前触れもなく。
私の行く先を経ち塞ぐようにして先輩は私の前に立った。常に猫背で俯き加減で歩く私は驚いて顔を上げた。至近距離で先輩の顔を見た。噂に違わぬ極限まで造詣の整った顔があった。先輩と私の視線が、振り続ける雪越しにかち合う。均整のとれた唇を先輩は動かす。
「キミも、虫を飼っているんだね」
先輩は、そう言った。確かに、そう言った。私は驚いた。阿呆のように口を半開きにしていた。
「虫のことを、知っているんですか?」
「もちろんさ」
恐らく、今まで何人もの女を落としてきたであろう屈託のない笑顔で先輩はそう言った。
私も先輩も首にマフラーをぐるぐると巻いている。厚手のコートを着込んでいる。それでも、露出している顔の部分はアイスピックで刺されているみたいに痛い。耳なんてちょっと引っ張ったらポロリと取れてしまいそうだ。周りには誰もいない。カメラで切り取られたみたいに、私と、先輩と、雪景色しかこの世界には存在していないみたいだった。つまらない少女漫画なら、愛の告白が繰り広げられる場面なのかもしれないけれど、現実的に私達が交わしているのは、虫についての会話だった。
「どうして、私の中に虫がいるって分かったんですか?」
「そんなの、見ればすぐに分かるさ。キミの顔を見て、すぐに気が付いたよ。僕の仲間がいる、って」
「仲間、ですか?」
「ああ。僕の中にもいるんだよ、虫がね」
「え……」
先輩は笑いながら人差し指で自分のこめかみ辺りを二度三度小突いた。
先輩の中にも、虫が? それは俄かには受け入れがたかった。何故なら、私は先輩を自分と対極にある存在として認識していたからだ。
友人も多く、性的関係を複数と持ち、バイトもそつなくこなし、成績だって優秀。
少なくとも私が情報として得ている先輩は全てにおいて充たされていた。そんな人が、何もかもが上手くいかない私と同じように虫を飼っている……? やはり、信じられなかった。
「要はね、使い方なんだ」
先輩は片目を閉じながら言った。
「僕はね、本当はとても根暗な人間なんだ。出来るなら家から一歩も出たくないし、他人となんか関わりたくもない。異性の前に出れば汗と震えが止まらなくて思ったように喋ることなんて出来ない。物覚えだって悪いし、融通がきかなくて他人と同じことが出来ない。そんな奴なんだよ」
「嘘、でしょう?」
「本当だよ。僕が今、上手くやれているのは、全て、虫のおかげなんだ」
「どういうことですか?」
「キミも知っている通り、虫は僕達の脳に直接干渉して自分の意志とかけ離れた言動を取らせる。そこを、逆手に取るんだ。奴らは、僕等がプラスの思考を試みればマイナスの行動を取らせる。ならば、逆に普段からマイナスなことばかりを考えていれば……?」
「あ……」
でも、本当にそんなことが?
「僕自身が、その証明になってはいないかい?」
「でも、やっぱり、すぐには信じられないです。本当に、先輩が私と同じように虫を飼っているだなんて……」
「そっか……」
先輩は眉根を寄せて困った風に笑った。その仕草すら堂に入っていて、余計に私は先輩を疑ってしまう。
「なら、僕の中にいる虫をキミに見せたら、僕の言っていることを信じてくれるかな?」
「そんなこと、出来るんですか?」
「出来るさ。僕は何年間も虫のことだけを考えて生きてきたのだから、それぐらいは、出来るさ。見たいかい、僕の虫を。そうしたら信じるかい、僕のことを」
「見たいです、先輩の虫を! そうしたら、信じます、先輩のことを!」
私はほぼ反射的にそう言っていた。ずいっと先輩の顔に自分の顔を近付けていた。そんな私を、先輩は心底満足そうに見下ろしていた。
「分かった。じゃあ、見せるよ、僕の中にいる虫を。キミだけに、そっとね」
そういうと先輩はそっと微笑んだ。その表情は今まで見せていたものとは違う、本当に、心底、安堵したような表情に見えた。
先輩は、一度深く息を吐いた。そして、右手の人差し指を、右目の目頭の部分に差し込んだ。ヌプッ、というゼリーを先割れスプーンで突き刺した時のような音が聞こえそうだった。そして先輩は、自分の目に指を突き刺したまま、事もなげに第一関節を細かく動かし目の中をほじくっている。目の端から微かに黄色がかった涙が筋になって流れている。
「痛くないんですか?」
私は問う。
先輩は答える。
「痛くないことはないさ。だけど、これが一番手っ取り早いからね。こんな姿を見せるのは本当は恥ずかしいんだけどね。キミにだけだよ、こんな所を見せるのは」
自分の眼球をほじくっている時でさえ非常に整った顔で先輩は照れ笑いを浮かべた。ピンポンダッシュをする直前に家主に見付かった小学生みたいな顔だった。
「お、いた」
そう言うと先輩は極めて慎重に、コマ送りのように遅々と指を眼球から引き抜き始めた。ゆっくり、丁寧に、まるで女体を愛撫するように。――私にそんな経験はないけれども。
そうしたゆっくりとした作業の末に、先輩は己の眼球から指を全て引き抜いた。
そして私の眼前に手のひらを目一杯開いて差し出した。その表情はどこか誇らしげだった。
虫がいた。
その虫は茶色くて、長細くて、先輩の体液でぬめっていて、まるで枯れ葉に擬態するナナフシのようだった。
「ナナフシみたいですね」
私は反射的に感想を口にしていた。言ってしまった直後に、もしかしたら失礼なことを言ったのかなと思ったけれど、今更発言を取り消せる筈もなかった。
私の心配をよそに先輩は怒るでもなく、照れくさそうに笑っていた。
「見てくれは良くないかもしれないけれど、可愛いやつなんだ。こいつがいなかったら今の僕はないと思う。以前のように、暗くて、つまらない日常を繰り返していたのだろうと思う。そう思うと、こいつには感謝してもし切れないよ。こいつがいなかったら、もしかしたら、僕は今、生きていなかったかもしれないからね」
虫に、感謝。
虫の存在に気付いてからの九年間、私は虫に対してそんな感情を抱いたことなど一度もなかった。
憎悪し、忌諱し、絶望していただけだった。
同じ虫に浸食された存在でも、こうまで違うのかと、私は密かに驚いていた。
「僕のこと、信じる気になってくれた? 僕と君が同じ存在だってことを」
「ええ」
「キミは、自分の虫を見たいと思うかい?」
「……え? 見ることが出来るんですか? 私の、虫を?」
「勿論さ。それくらいには、虫の扱いには長けているからね」
そう言いながら先輩は自分の虫を右目の端に押し当てた。虫は、スルッと吸い込まれるように眼球の奥へと姿を消した。
「キミは、虫を見たいと思うかい? キミの人生に圧倒的な力で干渉してきたモノを、キミという人間を絶対的に形成したモノを、直接見たいと思うかい?」
「見たい、見たいです! 是非見たいです!」
そして、殺したいです。私の人生を、私自身を無茶苦茶にした原因を、何もかもを上手くいかなくした要因を、この手で、握り潰したいです。
「分かった。じゃあ、僕に身を任せて、身体を楽にして」
「あの、私も、目から虫を取り出すんですか?」
「そうすることも出来るけれど、あれは少し痛みが伴うからね。ちょっと時間はかかるけれど、初心者向けの、楽な方法で取り出してあげるよ。ちょっと、横を向いてくれるかな?」
「はい」
私は言われるがままに横を向き、右半身を先輩の方へ向けた。
「じゃあ、いくよ。力を抜いて」
私は深く息を吐き、なるべき身体をリラックスさせようと試みたけれど、それでも身体は強張っていたように思う。先輩が「仕方ないな」って感じで微笑んでいたのが横目に見えた。
そして私の耳に先輩の指が挿入された。
私の身体は反射的にピクンと波打った。
視認出来ないから確かではないけれど、太さからいって小指だと思う。先輩のそれが、私の耳の中のスペースをすっぽりと埋める様に中に入ってきている。出したり入れたり、指先を動かしたりしている。私は異物感が気持ち悪くて気持ち良くて、頬を赤らめ思わず短く声を挙げてしまう。それも、何度も。くすぐったくて、ほんの少し痛くて、充足感に支配されていた。どれくらいの間、そうやって先輩に指を突っ込まれていたのかは分からない。ほんの数十秒を十数分に感じていたような気もするし、その逆なような気もする。そんな永遠のような刹那を、もしくは瞬間のような長期を、私はただ先輩に身を委ねていた。
そして。
「オーケー、出てきたよ」
先輩は私の耳から指を引き抜いた。私は先輩の方へ向き直る。
「ほらご覧、これがキミの中にいた、頭に巣食っていた虫の姿だよ」
先輩がそっと手のひらを広げた。私はそこを、じっと見詰めた。
蝶だった。
綺麗な、色鮮やかな、光を反射してキラキラと光る、蝶々だった。
「これが、私の中にいた、虫?」
「そうだよ、正真正銘、間違いなく、キミの虫だよ。綺麗だね」
これが、こいつが、私の人生を狂わせた虫なの? こんなにも綺麗な蝶が、ことごとく私の夢想した未来を破壊したの?
私のこんなにも醜く煤けた外見と内面に巣食っていたのが、目を奪われる程美しい蝶だというの?
私は戸惑っていた。
何となく、私の中にいる虫は、汚くて醜くて産毛の生えた多足を持つくすんだ色の気持ちの悪い虫だとずっと思っていたから、それと正反対な虫が出てきて、頭の中を整理することが出来なかった。
「ほら、手に取ってみるかい?」
言われるがままに私は先輩から蝶を受け取った。私の両手の中に収まっている蝶は羽をたたみ、静かに佇んでいた。その姿は優雅でさえあった。
「先輩、私はこの虫をどうしたらいいんでしょうか?」
私は思わず先輩に尋ねていた。
「そんなの、キミの好きなようにすればいいさ。なんたって、キミの虫なんだからね。生かすも殺すも、戻すも放つもキミの自由だよ」
私はこの虫を殺そうと思っていた。生きてきた中で積み重ねた怨嗟を全て込めてぐちゃぐちゃにしようと思っていた。この姿を、見るまでは。
こんなにも美しい存在を、こんなにも醜い私が亡き者にしてもいいのだろうか。
私の人生は上手くいかなかった。本当に、何も、上手くいかなった。その原因はこの虫にある。私がこんなにも醜くなってしまったのも、こいつが原因だ。他に理由は考えられない。私はこいつを殺してもいい筈だ。私の生きる道を塞がれたのだから、それぐらいしても許される筈なんだ。この両手をそっと閉じて、ぎゅっと力を込めればそれは果たされる。余りにも簡単に、復讐を果たすことが出来る。
だけど、それでも、私には出来なかった。
こんなにも美しい蝶を殺す権利など、醜い私にはないように思われた。
「なら、蝶をキミの中に戻すかい?」
それだけは、絶対に嫌だ。
この九年間、必死に耐えてきた温くて気だるい煉獄のような人生を、これからも果てしなく続けるだなんてもう無理だった。私が生きている理由は、『死んでいないから』それだけだったのだから。
「なら、逃がしてやるかい?」
それも、嫌だった。
こんなにも綺麗な蝶を野に放って、誰かに捕らわれたり、他の虫に食われたりするなんて、とても我慢出来なかった。たまたま手にした宝石をポイっと捨てる度量なんて、私にはなかった。
「なら、どうしようか?」
私は、考えた。心底考えた。この虫をどうするのが私にとって最も正しいのか、真剣に考えた。
思えば、虫の存在を認識してからのここ九年間、物事を真剣に考えることなんて一度もなかったように思う。私がどんな思考を巡らそうが、虫のせいで事態は最悪の方向へと向かうのだから、結局それは徒労でしかない。やがて私は考えることを放棄した。流されるまま、虫の操るがままに生きてきた。だけど今、その虫は私の手の中にいる。今だけは、邪魔されない。だから、考えなくては。丁寧に、実直に。
――そして、私は答えを出した。
私に巣食っていた虫をどうするのか、私の人生が全く好転しない原因をどうするのか、私という人間を、どうするのか。
私は、答えを出した。これからどう生きるのかを、導き出した。
その瞬間だった。
私の両手の中にいた蝶が、羽をパタパタと動かし出した。そして、ゆっくりと舞い上がり始める。
蝶は、私の顔の方へ真っ直ぐに近付いてきた。
鮮やかな、万人の目と心を惹きつける羽を羽ばたかせ、私の顔のすぐ近くへと飛んできた。
黄金色の鱗粉を振りまきながら舞う蝶。外灯よりも、雪よりも、輝いている蝶。
蝶が、私の眼前へやってきた。
そして、大きな口を広げた。
私の顔よりも大きく、口を広げた。
そして、私の顔面をすっぱりと口内へと収めて、ガブリと食い千切った。
私は、首から上を、蝶にパクリと食われてしまった。
青色のマフラーが、ふわりと宙を舞った。
後に残ったのは、首からどす黒い血の噴水を吹きまくる身体だけだった。
え?
その一文字でさえ私は発することが出来なかった。何せ私は、頭を全て、蝶に食われてしまったのだから。
「あらら」
私の身体が噴き出す鮮血を全身で浴びながら先輩は気の抜けた声でそう言った。いやいや、傍観していないで、助けて下さいよ、先輩。
そんな私の内心が伝わる訳もなく、先輩はただ、困ったように苦笑いを浮かべるだけだった。
頭という重心を失った私の身体はゆらゆらと揺れて、血液を円状に真っ白な雪の上へ撒き散らしながら倒れた。
蝶は、私の頭を食らった蝶は、天へと向けて昇り始めた。礫のように振り付ける雪屑を避けて昇り続けた。私の意思など関係なく、私の遺志などどうでもよく、私の出した結論など全く無視して、綺麗な羽をはためかせ、華麗に昇り続けた。
私の体は、血の最後の一滴を、首の根元から、どろりと吐き出した。
蝶は、白く輝く雪に紛れて、やがてその姿は見えなくなった。
〈了〉