僕の話のこれからを
「川奈さんはいつ、僕が藤和良助だって気付いたの?」
ようやく喋れるようになったのは、兵頭さんが住むマンションから事務所に向かう途中、ビジネス街に入る少し前のことだ。
僕は記憶が無く、川奈さんに自己紹介はしていなかった。さらに僕は幽霊で、僕自身にも二年間という空白の時間があったように、いつ死んだかも定かでは無かったはずだ。
いつ、どこで起きた事故に巻き込まれた人間なのかも解らないという状態だったはずなのに、川奈さんは全ての答えに行き着いた。それが何故か知りたかった。
少しずつ日が高くなり始めた空を見上げ、川奈さんは答える。
「お前が藤和良助だ、という答えは、いくつかある選択肢のひとつでしか無かった」
なんでもないかのような口調で紡がれる、彼女が僕に辿りつくまでの軌跡。
「最初は年齢が十五歳から十八歳くらいで、女性を助けようとして死んだ人間で色々と聞きまわった。これでも情報源は結構あるからな」
それでも、ヒントは僕が既に死んでいるということと、僕の記憶だけだった。事故に巻き込まれはしたけれどその時点では死なず、別の要因で死んだだけという可能性だって当時はあったはずだ。そうなれば、可能性は無限に広がってしまう。
「お前の顔写真を探すのにかなりの時間を使ってしまった。世間は夏休みだというのに歩きで色々な場所に出向き、お前の外見的特徴を話したり、十五歳から十八歳くらいの年齢で交通事故に遭っている人間。女性を助けようとした人間に覚えが無いかと聞きまわっていた」
たったそれだけのヒント、無いに等しいじゃないか、とも思ったけれど、流石探偵というべきか。地道に自らの足を使い、調べたという。
そして、
「解答は警察署でようやく得る事が出来た」
川奈さんが最初に出会った情報源は、どうやら僕と母さんを轢いた人間らしい。
「警察にも知り合いが居てな。女性を庇おうとして事故に巻き込まれた少年というのに心当たりがあったらしい。それで少年の名前を聞き出し、その名前を元に顔写真を探した結果、お前が藤和良助だという答えに辿り着いた」
いったいそれまでに、どれだけの時間を要した事だろう。どれだけの労力を割いてくれていたのだろう。考えただけでも胸が熱くなって、火傷しそうだった。
「どうして教えてくれなかったの?」
「ただ教えるだけでは取り乱すと思っていたからな」
しらっと流れるように返された言葉。そういえば、住職さんも言っていた。自分の死に気付いていない浮遊霊は、その事実を知ると取り乱す、と。
「事実、お前の母親は死んでいた。その時点では私も、お前は何も守れずに死んだのだと思っていた。そんな現実なら、知らないほうが良いと思って黙っていた」
確かに、そんな事実なら知りたくないと僕は思うだろう。事実そう思っていた。
「お前が眠っているという墓の在り処も警察の知人から聞いた。そしたら私の実家にあるというから、夜こっそり墓参りに行ったのだ。そこで、享年のズレに気付いた」
何もしてくれていないと思っていた川奈さんが実はここまでしてくれていたのだと思うと、酷く申し訳なくなった。だから俯こうとしたら、そんな顔をするな、と、川奈さんに叱られてしまった。
「生憎と病院に話を聞ける知人は居なかった。本当の事件が絡んでいるわけではない以上、過剰な捜査は犯罪になりかねないのだ。だから、お前が住んでいたアパートの大家に藤和の家を調べさせてもらったり、藤和刹那が働いていた職場に赴き、話を聞くしか出来なかった。それでも、期待した答えは何も得られなかった」
行き詰ったと川奈さんは言う。兵頭さんに出会ったのはその時らしいが、当時は彼と母さんが交際しているかも、なんて微塵も思わなかったそうだ。それでも享年のズレを不自然に感じた川奈さんは、何かあるのではないかと考えたという――ついでに二年前に死んでいる人の部屋がそのままになっていた事にも驚いたらしいが、管理しきれていないマンションやアパートではよくあることだという。
僕が事故に遭ったのは二年前の夏で、墓石に刻まれた享年が異なるということは最短でも半年以上の時間差があったはずだ。
事故が起きた半年後の死。
明らかに不自然でありながら、絶対に何かがあるとは断言出来ない、霧(きり
)みたいに曖昧な違和感。突き詰めようと思いながらも調べる事が出来ずに居た川奈さんはいっそ全て諦め、僕には事実を隠し通そうとしたという。
しかしそんな時に、藤和良助が事故に遭った場所で起きていた怪奇現象について調べまわっている人間と、僕の記憶という情報を手に入れた。すなわち昨日だ。
「兵頭文秀に依頼されたのはあすなろ公園前の怪奇現象を起こしていた犯人についてと、その怪奇現象が突然無くなった原因だ。それは昨日の時点で解っていたものの、お前に真相は教えまいと決めた手前、どこから情報が漏れるか解ったものでは無かったため、教えなかった」
しかし、時同じくして状況が変わった。
「お前が取り戻したという記憶。お前は気付いていなかったようだが、吐き気を催すというのがつわりなのでは無いか、と思って聞けば、お前が用意していたという母親用の食事も、明らかにつわりが来ている女性が食べたくなるものばかりではないか」
もしかしたら、と、川奈さんは思ったという。
もしかしたら、僕に真実を教えるだけの価値が、そこにあるかもしれない、と。
「埋葬に関する法律。第一章第二条――これは、妊娠四ヶ月を過ぎた胎児にも適応される法律だ」
いきなり出された専門的な言葉に、僕は一瞬戸惑った。
「現実的な話、妊娠四ヶ月を過ぎたらその胎児も埋葬しなければならないと言える。そしてお前が死ぬ時既に藤和刹那は子供を身ごもっていたが、彼女が死んだのは最短半年後。つまり最低でも四ヶ月以上は経っていた。にも拘わらず、藤和刹那のお腹に居たであろう子供は埋葬されていなかった」
つまり、僕が取り戻した記憶について川奈さんに話した瞬間に、僕に突きつけるべき希望を見つけたのだと。
「確認のためもう一度彼女の家に行ってみれば、以前調査しに来た時にあったはずのベビーグッズが無くなっているではないか。誰かが回収したのだ。なら誰が? 選択肢ならばお前が事前に持ってきていた。解るな?」
問われ、僕は頷いた。
「尾行調査の時の……」
藤和家に不法侵入している男。後に発覚する、兵頭秀文。
全てが繋がり、全てを理解したのはその時らしい。つまり、丁度僕が成仏させられそうになっている真っ最中だ。
川奈さんは「そうだ」と微笑み、小難しい話に肩が凝ったのか、腕を回しながら続けた。
「冗談みたいな偶然が同時に重なった。兵頭文秀が行動し始めたのとお前の記憶が戻ったのが同時だったのは、藤和刹那の導きだとしか思いようの無い奇跡だ」
奇跡。その言葉に納得しそうになったのは一瞬だ。
なんとなくだけど僕は、それが偶然だとは思えなかった。少なくとも兵頭さんがこのタイミングで動き出したのは偶然なんかじゃない。きっと彼は、川奈さんが藤和刹那について聞きまわっている事を知ったから、動き出したんだ。
つまり、最初から最後まで、全部、導いてくれたのは川奈さんだ。
話を聞き終えて見上げた晴天は、幽霊たる僕から力をむしりとっていく。蝉の鳴き声もうるさくて、今にも倒れこみたい気分だった。
ふと、そういえば、と、川奈さんが違う話を切り出してきた。
「凛にも感謝しろよ」
ビジネス街に切り替わった景色を拝啓に、川奈さんが言う。
「うん。憑依なんて危ない事もさせちゃったし、全力でお礼をしないとね」
答えると、それだけじゃないぞ、と川奈さんは僕を睨んだ。
「お前が父上に成仏させられそうになっていた時な、父上に連れてこられたお前を見かけた凛が、事務所に駆け込んできたんだ」
そういえば、あの場面が突拍子も無さ過ぎて忘れていたけれど、あんな場面で川奈さんが登場する、なんて、いくらなんでも出来すぎているとは思ったんだ。
「かくいう私も焦っていてな。約束を破って私の近くから離れた馬鹿野郎の代名詞たるお前を探していたら、近所のおばさんという素晴らしき情報提供者が教えてくれたんだ。小さな女の子が私を探していたから、事務所で待っているといい、と伝えたとな。だから事務所に戻ってみたら、そこに凛が居て、お前のピンチを教えてくれた」
成る程、と関心したと同時に、感動もした。
凛ちゃんにはどれほど感謝したらいいのだろう。川奈さんの恩には働いて返すとして、凛ちゃんには、一緒に遊んで返す、というのは有りだろうか。
「凛ちゃんには、どうやって恩を返したらいいのかな」
「一緒に遊んでやれ」
やっぱりそうなるんだ。それなら僕にも苦が無いから、恩返しにはならなそうだけど。
でも、昼前の空を見上げて、僕は思う。とにかく、貰った恩を返していこうと。
僕は、やっぱりまだ空っぽだ。もしかしたら、さっきまで溢れていた熱湯は、溢れすぎて全部漏らしてしまったのかもしれない。
いや、きっと、僕の心に穴が開いていたせいだ。
だって、僕が守りたかったのは母さんであって、母さんがお腹に命を宿していたなんて知りもしなかった。守ろうとしたものは、襷君じゃない。
価値の無い人生。生まれてきたことの意味。そんな重っ苦しいテーマに取り付かれて、悲劇のヒーローを気取っていたけれど、僕が他人と違うのは、今ではもう身体が無いという事だけだ。
満足なんて出来ない。
身体が無いなんて言い訳にしかならない。
だから僕は、やりたいと思った以上、探さないといけない。いや、掴まないといけないんだ。僕の人生の価値を、生まれてきた意味を。今、こうしてここに居て、川奈さんや凛ちゃんに助けられたことの意義を。
二人に恩返しをしていけば、掴めるものだろうか。この心の穴を塞いで、いつか、僕はもう空っぽじゃないよと、胸を張れる時が来るのだろうか。
解らない。
でも、たまに僕を見て、満足そうに笑う川奈さんは、ぶっちゃけ少し気持ち悪かった。
「なにがおかしいのさ」
僕は川奈さんを横目に睨みながら言う。
すると川奈さんは、僕の顔が面白かったのか、今日一番の笑顔で、声を出して笑った。
「いやあ、お前を助け、真相に辿り着き心まで救い出した女子大生探偵私! かっこいいだろう! これ、かなりかっこいいだろう!」
本っ当、自分で台無しにするのが好きだよね、この人は。それに川奈さんはまだ探偵じゃない。探偵見習いだ。美容室のスタイリストさんとアシスタントさんぐらい違うから、そこは勘違いしないで欲しい。
「この満足感はやはり格別だな! 流行の草食系男子はかっこつけが足りないが、そんなのは人生を損している! このかっこつけがぴったり決まって成功した時の多幸感と言ったら、不純異性交遊など足元にも及ばん程の快感だというのに!」
浸り過ぎててぶっちゃけ引いた。というか例えが不純だ。
「お前もな、きっと解るぞ、この気持ち良さが! せいぜい私を見上げすぎて首を痛める事が無いように、これからあの探偵事務所で頑張る事だな! あーしかし、折角真実を暴いたというのに『犯人はお前だ』という決め台詞を言えなかったのは心残りだ!」
目を輝かせているところ悪いけど、色々とツッコミたかった。
僕には痛める首が無い事とか、実は見上げる程かっこよくないというか自分で全部台無しにしている所とか、なんだか僕が歓迎されているように聞こえる事とか、――川奈さんのその喜びは多分、かっこつけに成功した事に対するものじゃないよ、とか。
でも、全部胸の内に留める事にした。
そして、はしゃいでいる川奈さんをおとなしく見守っていた時だった。
「――見つけたぞ。レイ子」
忘れていた、僕の危機。
「あ」「げっ」
僕らは揃って身を引いた。なにこのタイミング。というか住職さんめっちゃ怖い。何が怖いかって、動きやすくなるための処置なのだろうけれど、全身ジャージという格好が怖い。追いかける気まんまんだ。
でも、なんでだろう。さっきみたいな恐怖は感じなかった。それは多分、
「丁度良い。忘れ物を回収しておくか」
川奈さんのそんな呟きが、やけに明るい口調だったからだ。
「お前達……凛はどうした……」
息を乱している住職。凛ちゃんなら事務所で寝ています、と答えようか迷っていたら、川奈さんに先手を打たれた。
「――父上。家庭内暴力は犯罪ですよ?」
初手からいきなり王手飛車取り。何が起きたのか解りません。
「何を言っているんだ、レイ子。私は娘に暴力など振るっておらん」
冷静に対処する住職。ここはやはり大人な対応だ。僕だったらとんでもなく戸惑っていただろう。話が飛び過ぎてて。
「なにを仰いますか父上。親子と言えど自分の仕事を小学生に手伝わせようとしていたではありませんか。年端もいかない娘さんの意思など尊重せずに。どうせ報酬も支払っていないんでしょう? それなのに精神的に追い込む事で強制労働を強いようとしたではありませんか。強制労働もさることながら、精神的な暴力も家庭内暴力に含まれるんですよ父上」
白々しい態度の川奈さん。さっきとは大分雰囲気が違う。多分、探偵モードのスイッチみたいなのが入ったのだろう。
「……強制した覚えは無い」
住職は答える。
この人は、正しい事しか言わないという。だから、これはきっと真実なのだろう。
でも、正しさというものに模範解答は無い。
この人の知らない正しさというものも、この世界には存在する。
例えば、数多く存在しすぎて把握しきれず、飾りのようになってしまっている法律。
「直接的には強制していなくても、それは被害者が決める事ですよ? 従わなければ家を追い出されるかもしれない。その可能性を連想させるだけでも充分、まだ一人立ちの出来ない子供には驚異的な強制だ。法律では、そういう解釈も出来るようになっているんですよ、父上」
だが、これが真実だとしたら、川奈さんはどうして、寺での騒動の時にこれを言わなかったのだろうか。どこかに欠陥があったからじゃないのか?
「そのような事をしたつもりは無いと言っている。私はこれでも、お前の時の件で反省しているんだ。間違いを認めている。だからこそ、凛にはお前のように辛い思いはさせないようにしているし、お前が戻って来るのを心待ちにもしているくらいだ。お前は信じないだろうがな」
住職さんの言葉に、川奈さんは頷いた。
「ええ、信じませんよ?」
それにしても、なんでさっきから敬語なんだろうか。雰囲気かな?
「私の事はさることながら、凛に同じ思いはさせていないという事もね。事実、凛は家出をして、今、私が探偵として彼女を保護しているのですから」
成る程、と、呆れると同時に関心した。
事実、川奈さんの言葉は嘘でありながら、真実にも出来るのだから。
だって凛ちゃんは、自分の意思で父親に逆らい、自分の意思で今事務所に居る。見方によっては、そういう解釈も不可能じゃない。
「成る程……予期せぬほうに成長したな、レイ子」
「お褒めに預かり光栄です。では父上、ここで質問です。私が雇う弁護士と法廷にて話し合うのと、今ここで私と話し合うの。どちらがお好みですか?」
うわあ、川奈さん、その台詞も表情もまるっきり悪役のそれだよ、本人気付いてないみたいだし。
「……要求はなんだ」
住職のそれは、暗黙の了解だった。
今ここで話し合う。それが、彼の返答。自らの間違いを認める事。それも、あの住職さんにとっては、正しい事のひとつなのだろう。
「私の要求はひとつですよ、父上」
川奈さんは得意げに目を閉じて、浅く息をする。
そして次に開かれた目は、探偵のそれから、戦士のそれに変っていた。
「――これ以上凛を苦しませるな」
従わなければ斬って捨てるぞとでも言い出しそうな程強く睨みながら、川奈さんは続ける。
「仕事のことだけでは無い。まだ小学生の子供が、暗い空気に気を使い、憑依なんていう高等術を使って疲れ果てた体に鞭を打って、その場を和ませようなどとしたのだぞ。そうさせたのは私達全員だが、まだ幼いあの子に、そんな大人のくだらん付き合いみたいなものを教え込んだのは貴様じゃないのか」
さっきの事務所での事だ。
凛ちゃんはその場の空気にそぐわない破天荒とも思える明るい口調で、色々とぶち壊した。
子供だから空気を読めなかったんじゃない。子供なのに、空気を読んだんだ。しかも、気遣いなんていう特典付きで。確かに、普通の小学生では有り得ない事かもしれない。
「あの子はまだ小学生だぞ。貴様は一体、凛に今まで、どれほど気を使わせてきたんだ? どれほど苦しませてきたんだ? 母上と私に逃げられ、生活環境も変わってしまったことだろう。そこは私にも非がある。だが、反省したと貴様は言ったが、反省してなお、また違う所で間違いを犯しているのでは無いか? 生活環境が変わったのに、自分が変えたのは仕事のやり方だけとか、貴様の場合はその程度だろう。それで、小さな子供の孤独を癒せるのか? どうなんだ、父上」
淡々と語られた川奈さんの言葉という武器。それは、法律という鎧を脱ぎ捨てた、丸裸の要求。
でも、
「……成る程。そういう見方もあるのだな」
住職は、焦りなんて微塵も浮かべていなかった。
不発だったのか? 川奈さんは自分にも非があると認めてしまっているのだから、おあいこだという見方も出来るかもしれない
そう思ったのもまた、一瞬だった。
「解った。約束する」
住職は、簡単に折れたのだ。
「反省もしよう、確かに、その通りだ。私は凛に寂しい思いをさせていたのかもしれない。私はどうしても、厳しく接し、自分の思想を相手に押し付ける習性があるらしいから、お前やお前の母と同じ目に合わせないためには、距離を置くのが一番だと思ったんだ。言い訳だけどね。――約束しよう、凛に寂しい思いは、もうさせない。そのための努力をする。だから凛を開放しろ」
……勝った?
僕は現状に着いていけなくて、川奈さんを見た。そしたら彼女は
「いいだろう。事務所に帰ったら、凛にその事を伝える」
と答えながら、得意げなドヤ顔で、僕と視線を交わす。
そして、住職には聞き取れないような声で、僕に耳打ちをした。
「?」
その言葉の意味は、すぐには理解出来なかった。
でも、
「だが、これとそれとは別問題だ」
住職の敵意が、復活した。
「私は、その者を供養する事までは、曲げんぞ」
その者? それって何者?
僕解らない。日本語は難しいからね。
でも、解った事がひとつ。
――さっきのマンションまで、全力で走れ。
川奈さんのさっきの言葉、その意味はつまり、あの頑固親父から逃げろという意味だって事。
「もう諦めてよおおおお!」
せっかくの良い雰囲気がブチ壊しだ! なに? 僕の物語って、シリアスな話じゃなかったの? さっきまではそうだったよね! これは、あれですか、もしかしてファンタジーかギャグコメだったんですか!
「はっはっは。安心しろ、父上は術こそ強いがメタボリック寸前の老体。簡単に逃げられるさ」
余裕そうな、というか、どこか楽しげな川奈さん。その無邪気な表情が、ああ、凛ちゃんのお姉ちゃんなんだな、と思い起させる。どうでもいいけど、襟付きシャツにブラウスを羽織って、タイトめなプリーツスカートを履いた女性が全力疾走しているという絵はなかなかどうしてかなりシュールだ。どれくらいシュールかというと僕の脳内での日本語がおかしくなってしまうくらいシュール。
「でも、なんでさっきのマンションなの?」
別に事務所でも良い気がするんだけど。
そしたら川奈さんはフッと笑い、
「忘れ物を回収する、と言っただろう?」
「? それって、凛ちゃんの事じゃなかったの?」
苦しい環境であるはずの家に置いてきちゃった、的なニュアンスで。それならさっき回収したよね。
「いや、自転車の事だ」
「台無しにするの好きだなあアンタはああ!」
そうだよね! 確かに来る時は自転車だったもんね! 実は少し気になってたんだ!
でも、ここまで台無しに出来る人って他に居ないよね。もはや才能だよ。川奈さんのだらしなさとかそういうマイナス要素はこんな時でも健全だ。
「私はこんなんだからな。お前にはこれから、頑張ってもらうぞ」
そう言って僕の肩を叩いて、僕の先を走る川奈さん。
体中の包帯から、少しだけ血が滲んでいて、でも、そんなものは気にするな、黙って私の背中について来い、と、全力疾走する背中が語っていた。
これから僕は多分、今までの人生に無かった体験をしていくのだろう。
悲劇とか、喜劇とか、沢山の物語に出会えるはずだ。
だって、川奈さんはこれからもきっと、僕以外の人の事にも、僕の時と同じように、首を突っ込むだろうから。
僕はそれを手伝うのだ。余計なお世話を手伝って、海水浴場の水着貸し出しのコーナーに『海は危険だから』と言って鎧を並べていく。そんな馬鹿迷惑なお節介も焼いたりして。
走りながら川奈さんの背中を見て、僕は思う。今度こそ確信する。
これから、僕の空っぽな心に何が入っていくのか。そんなものは知らない。
でも、川奈さんとなら、歩いていける。
無意味じゃない意味を掴むため、走っていける。
風を切り裂く二つの影。
五月蝿い程鳴く蝉時雨。
これが、ある探偵と紡ぎ出した、僕の話のエンディングだ。
――∴~:襷の行方・完:~∴――
居るかどうか解りませんが、ここまで読んでくださった方がおりましたら心より感謝です。そしておそらくはじめまして、根谷司でございます。
主人公による記憶喪失編もとい『襷の行方』はお楽しみいただけましたでしょうか。
この作品はミステリー風ファンタジーとういう事で、あくまでミステリーではないという事を前提に読んで頂きました。多分その理由は、ここまで読んでくださった方なら把握しているかと。
僕は叙述トリックが好きなんです。それだけです。叙述トリックをやるためだけにここまで書きました。もしかしたらこれの続編みたいなのも書くかもしれません。その時は是非、御贔屓に。
では、最後にもう一度。
ここまで読んでくださり、まことにありがとうございます。