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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
襷(たすき)の行方
6/19

僕の確かなエンドロール

 凛ちゃんに憑依してしまった僕は、魂が凛ちゃんと繋がっているため成仏させられないらしい。テレビの特集とかでは誰かに憑依させてそれを(はら)う、というやり方を見たことがあるけど、そういうのとは勝手が違う、と川奈さんが言っていた。なんにせよ、専門的な事は僕には解らない。


 ただ解るのは、僕は存在を保ってしまったという事。そして、凛ちゃんの体のまま、川奈さんと二人で寺から脱出し、住職から逃げ出したという現状ぐらいだ。


 住職は格好が格好だっただけあり、寺の前の階段を過ぎたあたりから、もう追ってこなかった。それでも僕らは息が切れるまで走って、ふと、川奈さんが膝に手を着いたため、止まった。


 時間はまだ朝だ。人通りは少しあったけど、川奈さんの怪我を見て驚くだけで、特に関ろうとはしない。傍から見たら、その程度の怪我という事なのかもしれない。


「まずは、手当てをしなければな」


 平然とした口調で川奈さんは言った。でも、顔色は良くない。痛みはあるはずだから、当然だ。そしてそれは僕のせいのはずなのに、


「お前は気にするな。私はただ、貴重な労働力が居なくなったら困る、というだけだからな」


 そんなとんでもない言葉と共に、川奈さんはまた歩き出す。


 出血はそんなに酷く無い。というより、回復が早い、というべきか。さっきよりも治まっているのは確かだった。元々深い傷では無かったのかもしれない。


「川奈さん。僕は……」


 罪悪感に押し潰されそうで、少しでも現実から目を背けようと俯く。でも、そんな事には勿論意味が無い。むしろ余計に虚しくなって、やっぱり川奈さんを見る事にした。


「心配するな。ただのかすり傷だ」


 見上げた川奈さんはかっこよくそう言って、その後に、一度はこの台詞を言って見たかったんだ、と拳を掲げ、全てを台無しにする。


「それに、お前だから助けた、というのは、理由の半分しか無いからな。いや、下手したら、私も凛も、三分の一くらいしかお前のことは考えていなかったかもしれない」


 雲を自らの天敵に見立てているかのように空を睨むその姿は、天に懺悔するような姿にも見える。


「どういう事?」


 聞くと、つまらない話だぞ、と言いつつも、川奈さんは話してくれた。


「私は寺の生まれだ、というのは、もう解るな?」


「うん、まあ、流石に」


 あの流れで違うなんて事は、流石に無いだろうし。


「そして、父上の家系が代々霊感持ちでな。私も凛も例外無く、それを継いだ。そして、私は人よりも強い霊感を持っていたんだ」


 そういえば、そんな事も話していたな、と、住職と川奈さんの話を思い出した。


「私は霊に触れられるし、喋れるし、見れる。普通は見れるか喋れるかのどちらかだけで、しかも触れるなんて不可能だと思われていた」


 にも拘らず、と、川奈さんは続ける。


「私は全てを備えていた。そんな私に期待をした父上は、まだ幼い私に退魔術だのなんだのを教えようとしてきた」


 川奈さんの拳に、僅かな力が加わった。確かに、あまり気持ちの良い話では無さそうだ。


「してきた、って事は、失敗だったの?」


 その質問に、川奈さんは小さく頷く。


「そうだ。私が早々に体調を崩した事で、父上に課せられた過剰な修行は終わった。あくまで、一旦は、だがな」


 それが中学に上がる前の話だったという。凛ちゃんももう産まれてはいたけれど、凛ちゃんには川奈さん程の素質は無かったらしい。それを聞いて、僕も少し安心した。


「普通の人間と霊の区別が出来ない程、私の霊感は強かった。そんな条件で霊が成仏させられる場面を見せられたんだ。その光景は、生きている者を処刑するのと同じに見えたよ」


 薄ら笑いを浮かべる川奈さん。その言葉に鳥肌が立った。


 確かに成仏は痛かった。霊達は苦痛に悶えていた事だろう。その場面を想像しただけでも逃げ出したくなる。


「父上は高校に入ったら修行を再開すると言っていた。母上がそれに反対した。私だって嫌だった。でも、父上は正論しか言わない。それが余計に悪質だった。……嫌気が差したらしい母上は、私も凛も置いて、何も言わずにどこかへ行ってしまった」


「っつ!」


 母親が、娘を置いて逃げた? 僕の知る狭い世界では、有り得ない事だった。母親というのは、僕の世界では絶対的な存在だったから。


 僕にとってはなにより大切なものが、他人の世界ではそうじゃない。それが信じられなくて、相槌さえも打てなくなった。


「そして、私もまた、高校に入ると同時にあの寺から逃げ出した。成績は悪くなかったから特待生として進学し、バイトをして学費を稼いで、なんとかやりくりをした。私は、母親と同じように、凛を置いて逃げ出したんだよ」


 軽蔑(けいべつ)するか? と、川奈さんは自嘲(じちょう)する。


 軽蔑なんて出来るはずが無い。だって、小学生が処刑の場面を見せられたんだぞ? そんなの、怖くなって逃げ出すのが普通だ。逃げないほうがどうかしている。


 そう言ってあげられない自分が、どうしようもなく小さくて、卑怯に思えた。


「でも、私にはそうするしか無かった。凛も一緒に連れ出す力など私には無く、だからと言ってあんな修行を続ける勇気も無く。……絶望したよ。この世界にも、自分自身にも」


 八方塞がりだったと川奈さんは言う。私はその時、確かに過ちを犯したのだと。


「だから、私はお前を見捨てるわけにはいかなかった。過ちを犯した事であの探偵事務所の先生に出会い、不幸のどん底だと思っていた人生に生きる価値を見出せた私には、間違いを否定する事なんて出来ないんだ。笑えるだろう? あんなかっこいい事を言っておきながら、本当は、お前を助ける事で自分を正当化しようとしたんだ」


 笑えなかった。笑えるはずが無かった。


 でも、これを否定する気にもなれなかった。


 だって、彼女は人間だから。


 少しくらい間違いを犯しているほうが、人間らしい。この考えはやっぱり変わらないから。


 丁寧な模範解答を用意してくれない世界が悪いんじゃない。模範解答が無いからと、自分勝手な答えを見出す僕らが悪いんだ。


 でも、だとしても、


「だとしても、僕は貴女に助けられた」


 僕の命はもう無くなってしまっているけれど、僕は思う。


「何が正解で、何が間違いかなんて、関係無い。少なくとも僕は、正義でありたいわけじゃないから」


 やっとの思いで紡ぎだした言葉は、ただの気休めだった。


 間違いを正当化するための気休め。言い訳だ。こんなものに意味なんて無い。そんなこと、散々言い訳を並べてきた僕は、嫌ってほど解ってる。


「受け止められなくても、どうしたらいいのか解らなくても、例えなんの価値も無いとしても、僕らは歩かないといけない。その間一回も間違えないなんて、誰にだって出来るような事じゃない」


 だから、間違えてもいいんだと。


 間違えてるほうが人間らしいのだと。


 人外の存在になっておきながら、僕はまだ、そんなことをほざくのだ。


 現実から目を背ける。僕が知る限りでは、僕の唯一の特技。


 ……最悪だ。


 事務所前の階段を上っている間はお互いに無言だった。


 足が重く感じたのは、久々の体だからだろう。僕の心には何も無いのだから、気持ちだのなんだののせいで足が重くなるなんてあるはずがない。


 そう言い聞かせて、そう思い込んで、階段を上る。


 鍵を開けて、事務所にあった救急箱で応急手当をする川奈さん。


 この事務所も、僕らと同じように、何も無かった。


 客待ちには安いテーブルと、それを挟んだ一対のソファー。あとは川奈さんと先生用のデスクがあるだけ。部屋の一角にある物置エリアは、どうせガラクタばかりだから除外して。


 ……空っぽだ。そう思った。


 体はふたつあって、魂は三つある。そのはずなのに、何も無い。


 魂に宿るべき感情が、何も沸いてこない。


 手当てをする川奈さんを見ながら、これからの事を考える。


 でも、上手く想像出来なかった。


 昨日この場所で、あんなかっこいいやり取りをしたはずなのに、それは形ばかりで実証を成してくれない。当たり前だ。だって僕には何も無いから。


 価値の無い人生。守るべきものを守れなかっただけじゃなく、記憶も失くして、自分を騙して、耳を塞いで目を覆った。そんな無力なこの手で何が掴める?

 きっとこれから僕は、川奈さんに助けられた恩を返すために、今までと同じようにここで働くのだろうけど、そのイメージが浮かばない。無理に想像しようとしたら、なんだか吐き気がしてきた。


 なにも守れなかった僕に、これから先何が出来るっていうんだ。


 自信が無い。実績も無い。無い。無い。無い。無い。


 その二文字が頭の中で渦巻いて、不意に、目の前が歪んだ。


「!」


 思わず後ずさると、途端に体が軽くなった。重さを感じなくなった、というのが正しいかもしれない。


 目の前には凛ちゃんの背中があって、憑依が解けたんだ、と気付く。


 凛ちゃんは震えていた。怖かったのかもしれない。当然だ。あんな後ろ向きな感情を、小学生に共有させてしまったのだから。


「……」


 情けないことに、僕はまた何も言えなかった。


 震える凛ちゃんに、謝ることも、お礼を言う事も。


「あ、忘れてた。お姉ちゃん、久しぶり!」


「おう、久しぶりだな、凛。さっきは助かったぞ」


 ……何も……。


「えっへん。ちょっと怖かったけど、お兄ちゃんの気持ちは行ったり来たりするから楽しかったよ!」


「そうか。そいつはかなり優柔不断だからな」


 ……言えない……。


「でも少し疲れたから、わたし、ここで少し休んでっていい?」


「ああ、そうしろ。これから私達は出かけるから、そのソファーで昼寝でもしておけ」


「うんっ、そうする!」


「ねえ、二人はなんでそんなに普通なの?」


 今って、そういう空気じゃなかったと思うんだけど。


「何を言っているんだ、お前は。手当ても終わったから、さっさと行くぞ」


 そう言って川奈さんはスクッと立ち上がり、肩を鳴らした。


「行くって、どこに?」


 もしかしてもう仕事かな。それならそれで気晴らしにはなるかもしれないけれど、違うらしい。川奈さんは僕の頭の上に手を乗せて、優しく微笑んだ。


「確かに私はあの家から逃げ出し、一度空っぽになった。だが、私はもう空っぽじゃない。この事務所があり、探偵の仕事があり、先生が居る。凛だって、こう見えてかなり頑張っている。私が心配するのなどおこがましい程逞しく、頑張っている。今空っぽなのは、お前だけだ」


 そして、僕の頭から手を離し、今度は胸を小突いてきた。


「その空っぽなお前の心に、とびっきり熱いお湯をぶち込みに行く。割れないように、ありったけの覚悟を用意しておけよ? どんなにみじめだろうと、お前がどう思っていようと、もしこれがなにかの物語だとしたら、それの主人公はお前だ。お前以外には有り得ない」


 その意味深な言葉はまるで暗号のようで理解出来ず、聞き返そうとしたけど間に合わなかった。川奈さんが事務所の扉を開けて、さっさと出て行ってしまったからだ。


「いってらっしゃーい」


 空気にそぐわない快活な凛ちゃんの見送りに背中を押され、空っぽな僕は、空っぽのまま走り出す。川奈さんもまた空気を読まずに自転車に乗るもんだから、全力疾走だ。


 真夏。昼前の強い日差しは僕から力を奪っていく。でも、暑さは感じなかった。




「……川奈さん、僕が、疲れないとでも、思っているの……?」


 息を切らしながら、両膝に手を置く。


 十分くらい走って、とあるマンションの前で自転車を置いた川奈さんは汗を拭いながら答えた。


「まさか。魂だって疲弊(ひへい)はするさ。当たり前だろう?」


 確信犯か、と突っ込む気にもなれなかった。


「早く行くぞ」


 川奈さんは歩く。硬い靴音を鳴らして階段を上る。


 歓楽街の近くにあるマンションなのだが、この辺りは土地が高いだけあり、並ぶ家やマンションもなかなかに上等なものばかりだ。エスカレーター付きという時点で僕には理解出来ない世界なのだけど、そのエスカレーターを使わずに階段から上るという川奈さんの行動も理解出来ない。


 見覚えの無いマンションだ。こんなところになんの用があるのか、というのもまた、僕に解るはずが無い。


 マンションの最上階である五階に到達して、一番奥の部屋の呼び鈴を鳴らす川奈さん。


 その仕種に躊躇なんて無くて、そこの家主もすぐに出た。状況を理解しようとする暇さえも無く、現れたのは公園の前に居た男性だった。もしくは、昨日の夜、事務所に来ていた人だとも言える。もちろん、記憶を取り戻した今でも見覚えは無い。


「お、探偵さんか。もう調べてくれたのか?」


 男性は言う。


 そして川奈さんは微笑み、


「はい。依頼された通り、あすなろ公園前の怪奇現象についての調査結果をご報告に来ました」


 僕の知らないところで、僕の物語が読み解かれる。


 ふと、部屋の中の物陰に隠れている子供が居ることに気付いた。


 小さい、本当に小さい子供。一歳くらいだろうか。


 その子供はなんとなく、どこかで見た事があるような気がした。


 気になって表札を見てみたら、そこには兵頭(ひょうどう)と書いてある。


 やっぱり、知らない名前だった。


 兵頭さんに部屋を案内されて、川奈さんは畳の部屋に通された。僕はそれに勝手に続く。兵頭さんには僕が見えないのだから、これは仕方ない。


 川奈さんが座布団に座ると、兵頭さんはお茶を淹れる、と言って台所に向かった。その際すれ違った小さな子供の頭を撫でて、ちょっとの間おとなしくしててくれよ、とも言っていた。子供は頷きながらも、やっぱり物陰から僕らを覗いてくる。


「川奈さん。あの子、もしかして僕が見えてる?」


 見られすぎて気になったから聞いてみると、川奈さんは何故か少しだけ笑って、その子を見ながら「さあな」と答えた。


「ただ、見えていたらいいな、とは思うが」


 子供を見ながら微笑む川奈さんは、そんなよく解らない事を言って、僕のほうを見る。


「――さて、藤和良助。これからお前の人生という物語のエンドロールを見せてやる。ありったけの覚悟はちゃんと持ってきたな?」


 そんなものは事務所に置いてきたよ、とは言えない空気だった。


 だから、


「走ってる最中に落としちゃったよ」


 せめてもの冗談で返すと、こんなつまらない冗談にも川奈さんは笑った。いつもなら、お前の冗談はつまらん、とかって怒られるのに。


「そうか。なら、仕方ないな」


 それ以上、川奈さんは何も言わなかった。兵頭さんがお茶を持って戻ってきたからだ。


 兵頭さんに僕は見えない。だからお茶は二人前。


「さっそくだけど、聞かせてもらっていいか?」


 そのお茶を川奈さんの前に出して、兵頭さんは川奈さんと向き合って座る。


 川奈さんは頷いて、深呼吸した。


「それでは、ご報告します」


 空気が変わる。


 川奈さんの緊張が伝わってきそうな程張り詰めた空気が部屋を包むと、僕が知らない、僕の物語のエンドロールが始まった。




「藤和良助。事故に遭ったのは高校二年生の時ですね」


「ああ。その通りだ」


 向き合う川奈さんと兵頭さんはどちらも自然体で、緊張している様子は無かった。だからだろうか、一人だけそわそわしている自分が情けなく思えたのは。


「実際車に轢かれそうになったのは母親のほうで、良助君はそれを庇おうとして巻き込まれた。というのは、確かですね?」


 川奈さんが僕を君付けで呼ぶ、というのに、喉に埃が詰まったみたいな違和感と息苦しさを感じた。でも、僕のそんな現状なんて気にも留めず、二人は続ける。


「二年前の事なのに、よく調べたな」


 兵頭さんは関心したように言って、お茶を一口飲み込む。その時、彼の手が震えている事に気付いた。なんだ、緊張してるのは僕だけじゃなかったのか、と知って、少しだけ気分がらくになる。


「そん時の運転手が、轢き逃げせずに白状したし、もうひとつの証言とも一致したからな。俺が実際見たわけじゃないが、それは確かだ」


 もうひとつの証言? あの時間のあの場所に、他の人は居なかったはずだ。誰かが偶然、その瞬間に居合わせた、という事だろうか。


「そうですか」


 川奈さんは小さな間を置き、一瞬だけ、僕を見た。


「では、本題です。あすなろ公園の前で怪奇現象を引き起こしていたのは、彼で間違いありません」


 その視線はすぐに兵頭さんに戻って、僕が既に知っていた事を言う。


「そうか……」


 兵頭さんは俯いて、お茶の中に写っている自分とにらみ合いをしていた。


「彼は、母親を守ろうとして亡くなりました。その想いが強かったのでしょう。自分と自分の母親を危険な目に遭わせたあそこは危険だ。そう思った彼は、あそで二度と、自分と同じ目に遭う人が現れないように、道を塞ぎました。地縛霊となった彼は、死して尚、他人の心配をしたんです。決して器用では無いやり方ですがね」


 それが、あの公園の前で起きていた怪奇現象、横断歩道を渡ろうとした親子が必ず転ぶ、というものの正体。


 自分の馬鹿さ加減に呆れた。呆れ過ぎて震えた吐息が漏れる。


 海で泳ごうとする人に、海は危険だからと言って無理矢理鎧を着せるようなものだ。はっきり言って余計なお世話であり、ただの迷惑でしかない。


 川奈さんは、それを誇れというのか? こんなもので心を満たしたら、僕は空っぽ以上に質の悪い物になるんじゃないのか?


「成るほどね」


 兵頭さんは天井を見上げて呟いた。


「不器用で、いたたまれない程に謙虚で、それなのに優しい。そうだな、確かに、刹那の子供らしい」


 どうやら川奈さんの話に納得したようだ。


「それで、今も、良助君はあそこに居るのか?」


「いいえ。あそこにはもう、彼は居ません」


 首を横に振る川奈さん。


「彼は今、地にも自分にも縛られていない。空っぽであれど、自縛霊なんかでは無くなった。ですので、あそこにお参りをする必要は、もうありません」


「成る程。ああ、解った」


 そして、その話は終わった。たったそれだけで、川奈さんの報告は終わってしまった。


 僕の心のグラスに、彼女はいったい何を注ぎ込んだのだろう。苦虫のだし汁でも注ぎ込んだのか。熱してあるせいで異臭もするから余計に最悪だ。味も匂いも最悪過ぎて吐き気までする。この心ごと捨ててしまいたいと思う程だ。


 しかし、


「じゃあ、依頼の報酬と行こうか」


 兵頭さんは言った。


「金は要らないから、教えて欲しい事がある、だったな。俺の傷を慰めてくれた礼だ。なんでも聞いてくれ」


 随分と気前の良い人だな、と思った。


 川奈さんの話は、普通の人では確かめられない、オカルトに分類されるものだ。例え川奈さんが嘘を吐こうと、誰も確かめられない。


 そんな不確定なことのために、いったい何を教えようというのか。


「ではいきなりですが、少し辛いであろう事を聞かせてもらいます。兵頭文秀(ふみひで)さん。――あなたは、藤和良助の母親、藤和刹那と交際をしていましたね?」


 何かが止まったような気がした。


 それが時間なのか時計なのか、僕の思考なのか、違う何かなのか。僕には確かめられない。


「そうだ」


 兵頭さんは頷いた。どこから聞いたんだ、と、半ば呆れたような口調で彼は言う。


「こういう言い方はどうかと思うが、苦労したぞ。六年前、刹那に恋をした瞬間、まるで高校生に戻ったかのような気分になった。だから、嫌われそうな程何度も告白をして、呆れられる程デートに誘った」


 しかし、と、兵頭さんは続けた。


「家で息子が待っている、と言って、何度も断られたよ。それでも何回もアプローチをかけて、一週間に一度、一時間程度だけ、俺に譲ってくれるようになった。そして、二年目でようやく、俺たちは付き合う事になった」


 頭の中が真っ白だった。


 なんとか何かを考えようとするけど、何を考えていいかも解らずに居た。


 代わりに続きを喋ったのは川奈さんだった。


「そして、交際を続けていた貴方達は、藤和刹那が妊娠した事をきっかけに、婚約をした」


「!?」「ほお」


 兵頭さんも驚いてるみたいだけど、僕だって頭が割れそうなぐらいに驚いていた。


 母さんが妊娠をしていた? 母さんが再婚すると言っていたのはこの人だった?


 否定。


 肯定。


 拒絶。


 逃避。


 どれが正しい? 僕は今どうしたらいい?


 兵頭さんは、どこで調べてきたんだ、と、また笑う。


「その通りだ。あとは良助君の返答待ちだった。俺はこれでも結構稼いでいるし、ずっと一人身だったから預金もある。刹那がなによりも大切にしていた良助君も、全力で幸せにする。そう約束をした。しかしアレもなかなか頑固というか。良助君の意思も尊重したいから、返答には少し時間をくれと言われたよ。それで、なかなか言い出せなかったのかもしれないな。返事は数ヶ月保留された」


 しかし、と、口を閉ざす兵頭さん。再び川奈さんが続きを紡ぐ。


「……その長い返答待ちの最中に、事故が起きた」


 兵頭さんの唇は、かじかんだみたいに青くなっていた。それでもゆっくり動かして、その通りだ、と頷く。


 静寂が流れた。


 川奈さんの前に出されたお茶が小さな波紋を立てる。彼女の呼吸か、それとも不可思議な何かが原因か。


 その波紋が消えても、沈黙は続いた。


 空気が重い。このまま潰されないのが不思議なくらい、ずっしりと、僕にのしかかる。


 これは、誰のためのエンドロールなんだ? こんな物語で誰が得をする?


 静寂の中、川奈さんの言葉が信じられなくなって顔を見たら、川奈さんの視線は兵頭さんを見ていなかった。


 しかし僕を見ているわけでも無く、その視線の先には、物陰からずっとこっちを見ている子供が居た。


 よく飽きないな、と思った。この空間の中で身動きひとつしない子供を見続ける川奈さんも、あの子供も、


 こんなつまらない話を、言葉も理解出来ないだろうに、一生懸命聞いているようで、いたたまれなくなった。


 川奈さんが言った通り、これは僕が主人公の物語なのだろう。


 僕の周りで、僕を中心にして起きていた物語。


 子供に聞かせる御伽噺(おとぎばなし)にしては意地の悪い、川奈さんが嫌いなコーヒーみたいに、苦味ばかり主張する、最悪のバッドエンド。


 僕の小さな世界では、そのはずだった。




「――あの子が、藤和刹那が最後に残した宝物ですか」




 今度こそ、確かに、呼吸が止まった。


 息ってどうやって吸うんだっけ。そんな当たり前の事さえ思い出せないのは、僕が幽霊だからかももしれない。


 習慣で呼吸みたいな事はしているけれど、この体は本来酸素を必要としていない。空っぽの僕にはぴったりの器だ。


 でも、変わりに、苦虫の汁で錆付いていた思考に潤滑油が差し込まれた。


「今日の朝、藤和家にお邪魔してきました。藤和家は長らく二人暮しで、他に子供は居なかった。そして広く無い家とはいえ、自分の唯一の子供を育ててきた証を全て処分してしまうとは思えない。事実、藤和家には藤和良助が使っていたであろう幼稚園の制服まで残っていた」


 そうだ。母さんは、物が捨てられない性格だった。


 狭い家に無理矢理、思い出を詰め込んでいた。


「にも拘らず、それより前の物、ベビーグッズが一切無かった。それだけが無かったんだ。そして私は確信しました。それらを回収したのは、貴方だと」


 兵頭さんも言葉を失っていて、もはや、川奈さんの一人語りになっていた。


「藤和良助は、自分が母親を守れなかったと思い、その変わりにと、他の親子を守ろうとした。しかしそれは間違いだった。その行動が、ではない。その前提が、間違えていたんだ。……彼は、守れていたんだ。自らの命を投げ出す事で、なにより大切に想っていた人を、愛していた相手を、しっかりと、その手で」


 川奈さんは続ける。


「しかし、無傷では無かった。私が調べられたのは、事故現場で即死したのは少年のほうだけ、つまり藤和良助だけだったという事のみで、ここからは推測に過ぎない。だから確認したいのです。藤和良助に救われ一命を取り留めた藤和刹那は、しかし重症であることに変わりは無かったのではないでしょうか。少なくとも出産に必要な体力など無くなってしまう程に。だが、お腹に宿した命は無事だった。そして彼女は、その子を産んだ。産んで、命を落とした。そういう事なら、墓石に刻まれていた享年のズレも当てはまり、その子の年の頃も一致する。……いかがでしょうか」


 慎重に尋ねるようなその問いかけに、兵頭さんは微笑み、


「見てきたように語るのだな」


 そう答えた。


 そしてふと、思い出す。


 僕は墓石で母さんと自分の名前を見た時、その事ばかりに気を取られて見落としていた。でも今思い出してみると、確かに、母さんと僕が死んだ時期にはズレがあった。


 そして僕は二年前に死んでいる。一年前に生まれたであろうあの子供に見覚えがあるはずが無いのに、最初見た時、どこかで見た事があると思った。


 つまり、そういうことなのだ。


 あの子は、母さんの子供だ。そう確信してしまう程、その子には母さんの面影があると思えた。


「病院に運ばれた刹那は、君の言う通り重症だった。だが、ちゃんと入院して安静にしていれば、時間は掛かっても退院できるはずだった」


 兵頭さんは語りながら、子供に向けて、おいで、と手招きする。


 子供はよたよたとバランスを崩しながらも歩み寄ってきて、兵頭さんの膝の上に、倒れるように寝転がった。


「しかし、刹那は産みたがった。自身の手術の事もあり、体力的に難しい、と医者から言われてなお、産みたがったんだ。もし産むとしたら帝王切開になるのは確実だが、母子共に無事である可能性は五分を下回るとも言われた。俺は反対した。刹那を愛していたから、それが当然だと思って、全力で、産むなと言った。……しかし刹那も、迷わなかったよ。私は産む。このお腹の子は、彼が守ってくれた大切な命だから、と」


 子供の頭を撫でる兵頭さんの目は、優しくて、なにより暖かく感じた。


「俺も気付けば、彼女の意思に同意していた。普通ならもっと反対すべきなんだろうが、俺は約束していたじゃないか。刹那が大切に想っている物を、俺も大切にする、幸せにする、と」


 それは、さっきも言っていた事だった。でも、意味が変っている気がした。


 その約束は、僕だけに有効なものなんかじゃなかった。この人は本当に母さんを愛してくれていて、だからこそ、母さんが大切にするものは全部、自分も大切にする、幸せにすると決めたんだ。


 僕は何も言えなかった。言いたいことはたくさんあるのに、口を開いても架空の吐息が漏れるだけだ。


 それに、僕が言葉を放っても、兵頭さんには届かない。


 兵頭さんは自分の膝に甘える子供を何度も撫でながら、続けた。


「結果として、刹那は死んだ」


 その言葉の重みに反して、彼の口調は柔らかかった。


「でもな、俺の宝物はここに居る。刹那が自分よりも大切にしていた良助君が命を張って守り、刹那自身が命を賭けて産み落とした、もうひとつの命が。だから、今ここに居る俺の役目は決まっている。俺は、この子を、命を捧げて幸せにする」


 力の篭った口調で、しかし変らず優しい手つきで、その子供を守るように、支えるように、僕の物語のエンドロールが終わりに近づく。


「きっと、藤和良助も、藤和刹那も、報われていることでしょう」


 言いながら、川奈さんは立ち上がった。


「そうだといいな」


 兵頭さんも同じように、子供を抱きかかえながら立ち上がる。


「聞きたかった事は以上です。それでは、私はもう帰ります」


「ああ、今日はありがとう」


「いえ、こちらこそ」


 互いに挨拶を済ませながら、この道は、来る時はこんなに長かっただろうか、と思いつつ、僕も玄関に向かう。


 そして川奈さんが靴を履いて、扉を開けて、兵頭さんが見送りのためにサンダルを履いて、反対の手で子供を抱えながら、もう片方で扉を支えた。


「最後に、もうひとつ、聞いてもよろしいでしょうか」


 去り際に、川奈さんが言った。


「その子のお名前は?」


 その問いに、兵頭さんは顔を赤くした。


 今の話を知っている人に言うのは、少々恥ずかしいな、と、大の大人がモジモジして、


「タスキだ。兵頭襷。本当は刹那と良助君の名前から捩りたかったんだが、生憎と刹那の文字をどう使っていいのか解らなくてね。そうなれば、これしかないと思ったんだ」


 と、答えた。


 川奈さんは微笑んで、良い名前ですね、と、その子の頭を優しく撫でる。


「今度、この子に会いに来ても?」


「ああ、構わないよ」


 そんなやりとりを最後に、川奈さんは歩き出した。


 かくいう僕は、何も言えないままだった。


 川奈さんが歩き出したからそれに続いて、でも、胸の痛みに耐えられなくなって、俯いて、前が見えなくて、だけど、進むことは出来て。


「ちゃんと見ておけよ」


 ふと、階段の前で立ち止まって、川奈さんは言った。


「あれが、お前が守りきったものだ」


 川奈さんを見上げて、その視線を辿ると、兵頭さんはまだ、僕らを見届けていた。


 その大きな手に抱えられている子供と目が合った。


 襷。


 僕が命を張って守り、母さんが命を賭けて産み、兵頭さんが命を捧げて幸せにする、子供にしては重荷すぎる想いを背負ったその子の名前だ。


 そしてその子はその時確かに、川奈さんにではなく、僕のほうに、手を振ったんだ。僕はもう死んでいて、普通なら見えないはずなのに。


 きっと、視界が歪んでいるせいだ。だから、そんなふうに思うのだ。


 夏の陽炎(かげろう)は性質が悪い。顔はもう上げているはずなのに、ちゃんと前が見えない。


 その子の顔も、兵頭さんの顔も。それほどまでに、視界は歪む。


「これでもまだ、お前の人生に価値は無いか? 生まれてきた意味は無かったか?」


 その問いに答えることは出来なかった。何かが喉に詰まっているせいで、喋ることはおろか呼吸さえも出来なかった。何か言葉を発しようとする度に、しゃっくりみたいな情けない声が漏れるだけだ。


 変わりに、精一杯、なんとか割れないようにしていた心のグラスが、注ぎ込まれた何かで一杯になった。それでも何かは注がれ続けるもんだから、それが滴になって、ポタポタと溢れていく。


 身体の無い僕には、存在するはずの無い涙。


 でも、それは確かに僕の瞳から零れて、だけど物質としては成立しなくて、地面に弾けて光って消えた。


 ああ、川奈さんが言った通りだった、と、頬を伝うそれに触れて、思う。


 僕の心に注ぎ込まれた物は、本当に、馬鹿みたいに熱かった。

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