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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
襷(たすき)の行方
5/19

僕の重ねた過ちと


「着いてきてくれ」


 数分立ち尽くしていたら、住職がそう言って、移動を始めた。


 この状況と相手の立場からして、この人がどうして僕をここに連れてきたのかも、なんとなくだけど解った。


「君が正気のままいてくれてよかった」


 後ろに続いた僕を振り向いて確認してからそう微笑み、前へと向き直ってから言葉を続ける住職。


「自覚の無い浮遊霊は、自分の死を唐突に知ると、泣き出すか発狂するからね」


 その言葉に他意は無いのだろうけど、少なくとも褒め言葉には聞こえなかった。本当は狂ってしまいたかった。みっともなく泣き喚きたかった。腹の底に溜まった異物感をそうやって吐き出せたら、少しはラクになれると思った。


 でも、出来なかった。


 それは、僕の中に唯一残された、僅かな強がりのせいだ。


 昨日、川奈さんと約束したから。


 何を知っても立ち上がるって、約束したから。


「君はね、二年前、あすなろ公園の前で事故に遭った。そこで、命を落とした」


 住職は寺の重い扉を開け、境内(けいだい)の中に入っていった。


 ふと、世界が変わった、まるで外と隔離(かくり)されたみたいな感覚が僕を襲う。


 静かだった。墓地とは比べ物にならないくらい、虫の鳴く声も聞こえないぐらい。閉ざされた扉をもう一度開けたら、そこにはもう広大な無の空間が広がっているんじゃないか。そう錯覚するほどに。


 僕は住職が行くままに、境内の真ん中、仏の像と対峙するような位置へ。


 木製の床がキイキイと鳴いた。これが、今聞こえるたったひとつの雑音。


「その事故の後、地縛霊となった君は、あの公園の前で、利用されたんだ」


 地縛霊。その単語が胸に刺さる。


「地縛霊の多くに自我は無い。たったひとつの目的のために、ただそこに存在する概念と成る」


 自我が無い。だから僕は、事故の後の、つまり死んだ後の記憶が無いのか。納得はすれど、声にはならない。心と体が切り離されたみたいだ、とも思ったけど、そもそも僕にはもう体は無いのだから、切り離しようが無いなと気付く。もう既に、二度とくっつけられないくらいに、離れすぎた。


 仏像を背景に振り向いた住職。


「私はね、そんな君をなんとかしたかった。開放してやりたかった。だから、二ヶ月前からあそこに通い、供養をした」


 二ヶ月前。まだ時間にブレがある。


 祭壇にも見える神聖な場所に腰を下ろし、彼は座禅を組んだ。


 立ち尽くしたままの僕を優しく見つめる住職。きっと悪意は無いのだろう。言葉も口調も優しい彼は、僕を説得するように、再婚の話を切り出してきた母さんのように、続ける。


「だが、君の想いが強かったからか、君を利用していた者達に悟られぬようにと気を使い、この場所に連れてくる事の出来ない君を即席の場で成仏させてやるのは、難しかったんだ。言い訳だけどね」


 想いが強かった。その言葉が、僕に拳を握らせた。


 想いだって? なんの想いが強かったって言うんだ。生前にだってなにも無かったくせに。情けない話だ。でも情けないのは僕だ。じゃあ誰を恨めばいい? 誰のせいにすればいい? どうやって受け入れればいい?


 行く当ての無い葛藤((かっとう)と自責(じせき)が心を支配する。


「一月ほど通った時だった。君が突然居なくなってしまった。地縛霊を中途半端に供養したからか、縛りが緩んで浮遊霊に変わってしまったのだろう」


 つまり、一ヶ月前の話。そう、僕が自我を取り戻した時と重なる。


「君を探そうにも、私には仕事もあった。しかし君は元々地縛霊。きっとあそこにいつか戻って来ると思い、毎日あそこに通うようにしていたんだよ」


 住職の視線が僕から境内の真ん中に移ると、彼の言いたい事がなんとなく解った。その視線の先に移動しろ、という事だろう。


「そしてようやく、君をこの運命から解放してやれる」


 なんの準備をしているかなんて、考えるまでも無い。袈裟の袖から取り出された数珠が教えている。


 ――供養だ。


 この人はこれから、幽霊である僕を、その存在自体が間違いの塊である僕を、本来あるべき場所に還してくれるというのだ。


「少し痛いだろうが、我慢してくれるね?」


 そうか、成仏というのは、痛いのか。それは少し、嫌だな、と思う。


 でも、僕は頷いた。


「……聞き分けが良くて助かるよ」


 住職は僕と少しの距離を置いた場所で座禅を組む。


 そして、


「ところで君は、どうしてそこまで自我を持っておきながら、正気を保っていられるんだい? しっかりとした自我を持っている霊ほど、自分が死んでいる事に気付いておらず、知った時に取り乱すのだが」


 これは興味本位の蛇足だ、と、その口調が語っていた。


 日の光を適度に遮断した空間がやけに落ち着くから、というのは、多分理由にならない。


「なんとなく、解ってたんです」


 境内の真ん中に立ち、僕は答えた。


「僕は今、ある探偵の手伝いをしています。それでよく尾行なんかをしてるんですが、殆ど、見つかった事が無かったんです。尾行なんて、初心者だったくせに」


 それだけじゃない。その場に腰を下ろしながら僕は続ける。


「僕が声を掛けても、殆ど誰も、相手にしてくれませんでした。世の中が冷たいんだって自分に言い聞かせていましたが、あれはきっと、誰も僕に気付いていなかったから、見えてさえいなかったからでしょう」


 一ヶ月前に目覚めた時もそうだっだ。交番に居た警察さえ相手にしてくれなかったのに、よく自己暗示なんて出来たものだ。


「昨日の昼過ぎか夕方だったと思います。自分の記憶について考えていたら、その時何故か、いつも一緒に居る人がコーヒーを飲んでる場面を思い出して、違和感を覚えました」


 川奈さんの事だ。でも今は、それが誰かなんて話じゃない。


「その違和感は、僕の食生活にあったんです。――僕はこの一ヶ月、何も口にしていない」


 それどころか、暑さも寒さも感じず、あまつさえ、まどろむことはあっても睡眠は摂っていないという有様で。


 馬鹿さ加減に嫌気が差す。気付いてみたら、気付かないなんて有り得ないのに。


「そういうものだよ」


 住職は言った。


自暴自棄(じぼうじき)になる事は無い。幽霊というのはそうういうものだ。魂に本来形は無いように、そういう、曖昧な物なんだよ」


 その言葉に、僅かな安堵を覚える。どうせ馬鹿なら、少しでもマシな馬鹿でいたいから。


「……最後に、言い残した事は?」


 住職のその余計なお世話が、溢れさせまいとしていた感情を呼び起こした。


 駄目だ。言うな。そう言い聞かせても、一度動き出した思考は止まらない。


「……守れなかった……」


 ああ、言ってしまった。


 もう止まれない。ここで止めたら、内に留めようとしたら、変わりに心臓が張り裂けるような気がした。そんなもの、僕にはありはしないのに。


「母さんを、たったひとりで僕を支えてくれていた人を、僕は守れなかった……。あと一瞬、せめてあと一瞬だけ早く動けていたら、助けられたかもしれないのにっ……」


 より鮮明に思い出す。


 あの瞬間。全てが終わったあの時の光景。


「この手は触れていたんだ。でも、届かなかった……。僕は、僕自身の存在理由を、一番大切な人に見せてあげる事も出来なくて、僕自身の人生にも価値は無くて……生まれてきた意味さえも解らないままだ……」


 喋るのがやっとだった。それが本当に言葉になっているかも解らないほどに声は震えていて、それでも涙だけは流すまいと必死に堪える。


「だけど、意味が無いのなら無いなりに、価値が無いなら無いなりに、こんな時くらい、誰にも迷惑はかけたくありません」


 それが、本音だった。僕なりに、前を見た結果だった。


 胸が痛んだ。


 僕自身を否定することで、自分を悪者みたいに扱う事で、僕が消える事、それ自身に意味を与えようとしているんだな、と、僕は気付く。


 それでもいいと思ってしまった。


 その時点で多分、僕はもう、終わってた。


 僕の話は、言い訳は終わった。


 言い訳にはなんの意味もない。山ほど浮かんでくるいくつもの言い訳は、いわゆる(ちり)だ。


 塵も積もれば山になるという。言い訳だって、山ほど積もれば存在感を放つ事も可能かもしれない。


 でも、所詮は塵。吐息のような弱い風の一吹きで、崩れ去ってしまう。


「賢明だね」


 その風を起こした本人たる住職の心は動かない。


 僕が命乞いをしたら、何かが変わったかもしれない。


 でも、命乞いをして何になる? 僕は既に死んでいて、何も守れないまま人生を終えて、今更曖昧で不明瞭な存在だけを残して何が出来る?


 身体があった時点で何も出来なかったんだ。それなのに身体を失ってなお、何に縋ろうっていうんだ。


「では、始めるよ」


 住職は仏前の合掌をした。


 そして、呪文のような何かを唱え始める。


 抵抗するつもりは無い。


 少し、ほんの少しだけ痛みに耐えればいいだけだ。


 それで、文字通り全てが終わる。


 僕の周りに、白い光が灯された。


 光っているのは床だ。


 目測半径十メートルほどの円が僕を中心に広がり、住職を巻き込み、その中に五芒星(ごぼうせい)が浮かび上がる。


 光は僕を茹で上げようとしてるかのように熱く、そして気味が悪かった。僕を成仏させようとしているのだから当然かもしれないが、この不快感を伴う締め付けがあとどれだけ続くのか。あまり考えたくは無い。


「っつ……つあっ!:」


 僕を締め上げる力が増した。痛い。あまりの痛さに意識が飛びそうだ。


 でも、感じる痛みの強さは人それぞれだ。僕が特別に軟弱なだけで、これは所詮少しの痛みでしかないはず。


 関節が砕けそうだった。


 肺が潰れて、圧力のせいであばらが肉に食い込む。


 息が出来ない。


 いつの間にか、指先さえも動かせない程の締め付けに変わっていた。


「ぐうあ……ああああ!」


 這い蹲って嗚咽を漏らす。


 待て。


 おかしいだろ。これが少しの痛みなのか?


 そんなはずが無い。僕は生きている間に、こんな痛みを味わった覚えが無い。


 痛い。苦しい。吐き気がする。でも吐く余力さえ今の僕には無い。


 肩が軋んだ。


 いや、全身の骨は少し前から鳴いていた。ただ、痛みに気を取られて気付かなかったんだ。


 待ってくれ。少し休憩をくれ。懇願しようにも声が出ない。


 住職は構わず呪文を唱える。


 おい、待てよ。こんなの話が違う。


 少しじゃないのか。こんなの全く少しじゃない。


 こんなんならさっさと死んだほうがマシだ。


 でも僕には身体が無いから、痛みだけじゃ死ねない。


 永遠に続くような苦痛。始まって二分も経っていないのに、その二分で限界を超えた。


 僕の限界なんて関係無い。その地獄はまだ続く。


 いつまで?


 僕はいつまで苦しめばいい?


 まだなのか。僕はまだ消えないのか。


「……くっ。何故成仏しない……っ」


 住職も想定外だったのか。そんな呻き声が聞こえた。


 なんなんだ。そんな顔されたら、住職を悪者に仕立てて逆恨みすることも出来ないじゃないか。


 身体は動かない。声も出ない。


 誰か助けてくれ。そんなことさえ言えないまま、その締め付けは強まる。強まる。強まる。


 そして、


「――お父様!」


 声がした。


 金切音のように高い声だった。


 境内の扉が開かれる。


 僅かに、ほんの僅かに締め付けが弱まった。


 誰かが来たようだ。だが誰が?


 本当に、祈りが通じて誰かが助けに来てくれたのか? そんな都合の良い話があるはずもない。きっとなにかの偶然で――


「……邪魔をするな。凛」


 ――住職の言葉に、唯一動いていたはずの思考さえ止まりかけた。


「お父様! その人は悪い人じゃありません! だからいじめないでっ」


 慌しい足音。刻むリズムから察するに小さな歩幅が、ああ、彼女か、と思い出させる。


 凛。彼女は先日僕と会ったとき、僕にあすなろ公園近くにあるアパートの前でこう言ったじゃないか。ここにはもう来ないで、と。


 それはつまり、こういうことだったのだろう。


 彼女は僕が幽霊だと知っていて、この住職に会わせないようにしてくれたんだ。


 それなのに僕は、なんて事をしたんだ。こんな小さい子にまで迷惑を掛けて。なんて情けないんだよ、僕は。


「善悪は関係無い。この者にはこの者の、本来在るべき場所がある。ここに在る事、それ自体が間違いなのだ。いつもそう言っているだろう」


「それは……」


 凛ちゃんは息を切らしていた。どこからか走ってきてくれたのか、整わない呼吸を苦しそうに繰り返し、それを落ち着かせる間もなく叫ぶ。


「それでも、その人は悪い人じゃありません!」


 自分の苦痛なんてどうでも良くなった。


 なんだよ。なんで、こんな小さい子に、たった二回しか話していない子に、こんな守られてるんだ?


 意味も無くて価値も無いくせに、守られる事だけは人一倍か? だとしたら最悪だ。


 ……もう、よく解らなかった。


 消えるべき存在が消えようとしている。ただそれだけの話に、なにかが混ざろうとしている気がする。


 その瞬間。境内の扉が、もう一度開かれた。


 誰か、もう一人入ってきたようだ。


 ……そういえば。


「久しぶりだな、父上」


 ……凛ちゃんには、お姉さんが居たと聞いていた。


 境内に響いた逞しい声に、思わず鳥肌が立つ。


 それは、まるでヒーローのように強く。


「まさかとは思うが、凛にまで私と同じ道を辿らせようとしているわけではあるまい?」


 それはまるで母性のように優しく。


「まあそんなことはどうでもいいか。ところで父上よ」


 住職は黙っていた。なぜこんなところに、と顔をしかめさせている。


 その声は続けた。


「――その者は私の客人なんだ。悪いが返してもらうぞ」


 それは、かっこつけ過ぎなくらいにかっこよくて、思わずツッコミを入れたくなった。




「……川奈、さん……」


 振り絞る声。その僕の声に対して、川奈さんは、ふはは、と、冗談みたいに笑う。


「助けに来たぞ。かっこいいだろう」


 こんな場面でもそれか、と、僕は苦痛の中で笑った。


 ああ、なんだよこれは。


「まったく、久方ぶりの再開だというのに、なんだ、その物言いは。レイ子」


 住職の言葉にはっとする。


 レイ子。初めて聞いた、川奈さんの名前。


「なんだ、はこっちの台詞だ、父上」


 川奈さんは止まる事無く歩み寄る。その先に居るのは住職では無い。僕だ。


「この術を解け。そいつは私の客人だぞ」


「それは無理な話だ。その者がどういう存在なのか、お前も知っているだろう」


「ああ、知っていた」


 締め付けとは違う痛みを感じた。


 そうだ。川奈さんは僕の事を調べてくれていた。なのに、教えてくれなかった。


 僕が既に死んでいる事を、川奈さんはわざと黙っていたんだ。


 思い返せば、思い当たる点がいくつもあった。


 書類を事務所の外には持ち出させなかったり、僕が開けた事務所の扉を、近所の子供の悪戯だと誤魔化したり。


 でも、だとしたら川奈さんは、何を思いながら僕と接していたのだろう。どんな気持ちで僕と話していたのだろう。


 そんなこと今は関係無いのに、思考の大半を支配する。


 彼女は、この人は、なんで、僕に手を差し伸べてくれたのだろう。


 なんで、僕の肩を掴んでくれたのだろう。


「だが、それがどうした」


 川奈さんは、僕が抱いた疑問の全てを一蹴するように、それが当たり前なのだと主張するように、そう言った。


「私にはな、霊が見えるぞ。話せるぞ。触れられるぞ。それでも霊は間違えている存在か? ならば私にとっては、生きている者だって皆間違えている存在になるな。私にはどれも同じにしか見えない。残念ながら私には、その区別が出来ないんだ」


 住職の言葉をばっさりと切り捨てると、川奈さんは僕に向けて手を伸ばす。


 しかし、その手は僕に触れる遥か手前で、何かによって弾かれた。


「無駄だ、レイ子。霊が見え、その声が聞け、そして触れる事さえも出来てしまうお前の身体は、極めて霊体に近い。そんなお前では、その陣の中には入れない。下手をすれば、お前の魂まで向こうに渡るぞ」


「!?」


 住職の言葉に耳を疑った。


 確かに、僕が幽霊であるにも拘らず、川奈さんは当たり前のように僕に触れていた。話していたし、見ていてくれた。


 だからって、たったそれだけで、生きているのに霊と間違われるのか? そんなのおかしいだろ。僕の存在自体が間違いだから、僕を取り巻くこの環境も、なにもかもが間違えてるんだ。理不尽とか、そんな言葉で片付く話じゃない。


 だというのに、


「それがどうした」


 川奈さんは、曲がらない。


「……凛の霊力ではその者には触れられん。お前はその中には入れん。つまり、諦めろ、という事だ。いくら足掻こうと意味など無い。過ちを犯して命を落とすなど、間違えている。おとなしく退くんだ。それが正しい選択だ」


 住職の言葉は、もっともだった。


 僕はもう駄目なんだ。


 僕の人生に価値は無くて、生まれてきた意味さえも無い、空っぽの存在。それがついに身体まで失って、そんな状態で何が出来る? 存在を保ったところで、その先には空虚しか無い。空白からは空白しか産まれない。


 でも、


「それがどうした、と聞いている」


 川奈さんは再び、僕に近づこうと手を伸ばした。


 雷撃のような光が走り、川奈さんの手はそこでまた弾かれる。


 痛みを伴ったのか、川奈さんの表情が僅かに崩れた。


「……どれだけ力を込めえているんだ、父上よ」


 その顔には、焦りが浮かんでいた。


「その者が通常の強さでは成仏しそうに無かったからな。私の限界の霊力を込めている」


 専門的な事はよく解らないけど、つまり僕が無駄にしぶといという事だろうか。だとしたらなんて情けないのだろうか。


 この後に及んでまだ、僕は何かに縋ろうとしているのか。


「当然だ」


 川奈さんは再三手を伸ばす。


「そいつはな、自分を偽るのが得意なんだ」


 川奈さんの手に雷撃が走る。


 しかし、今度は弾かれなかった。


 陣の力がさっきより弱くなった、という感じはしない。耐えているんだ。平然を装いながら、その苦痛に。


「父上は知っているか? 大好きで、本当は誰にも譲りたくなかった人を、その人が幸せになるならそれでいい、と、他人に譲ろうとした者の優しさを」


 重なる雷撃を堪えながら、川奈さんは続ける。


「父上は知っているか? 記憶を失っていて本当は怖いのに、それを一切顔に出さず、気丈に振舞う愚か者の強さを」


 川奈さんの手がさらに深く僕に近付く。


 腕全体が陣の中に入った時には、その雷撃は雷を連想させる程に、強くなっていた。


「父上は知っているか? 記憶が戻り、大切な者が危機に晒されていたと知って、自分も同じ境遇に居ながら、自分よりも他人の心配をする馬鹿の想いをっ」


 ああ、そうか。川奈さんが言っているのは、僕の事だ。そこまできてようやく、思い知った。


「父上は、貴様は知っているのか? 普通に生きているだけでは意味が無い。誰かのためにならないなら、その人生には価値が無いなどという馬鹿げた理屈を掲げ、自らを追い込んできた、大馬鹿野郎の苦悩を!」


 川奈さんは進む。もう身体の半分が陣の中に入っていたが、内側から掛かる力が強いからか、それ以上が進まない。


 その時、川奈さんの手から赤い何かが飛び散った。


 すぐにそれが血だと解り、もう止めて、と叫ぼうと口を開けた。だが、


「貴様は知っているのか! たかだか他人の浮気を目撃しただけで心を痛めるほどやわな心しか持ち合わせていないくせに、大切な者が死んだかもしれないという悲惨な記憶を取り戻すため、小さなプライドを捨て、土下座までした蛮勇の覚悟を!」


 川奈さんの手に無数の切り傷が刻まれる。なんらかの拒絶反応だ、なんて見れば解る。なのに、川奈さんはそんな事は関係無いとでも叫びそうな程に堂々と、


「貴様はそれが間違えているというのか! その想いの全てが、たったひとつ前提が間違えているだけで、存在さえ許されない物だと言うのか!」


 彼女は叫ぶ。


 ただ叫ぶ。


 まだ、叫ぶ。


「そんな事が貴様に解るものか! 正解不正解でしか物事を語れないような貴様に判断できる程、稚拙(ちせつ)で単純なものじゃないんだ! 間違えたからこそ立ち上がりたいと願ったこいつの意思はっ! その正しさは!」


 川奈さんが手を伸ばす。僕も同じようにすればもう、届きそうな距離だった。


 でも、僕に降りかかる圧力がそれを拒む。


 川奈さんの手は、それ以上は進めそうに無い。


 既に全身が陣の中に入っている。同時に、川奈さんの身体を切り裂く不可視の刃も、全身に広がっていた。


「……なん、で」


 僕の身体は動かない。でも、口だけはなんとか動かし、潰れている肺から酸素を押し出す。


「……僕は、川奈さんにそこまでしてもらう資格なんて、無いし、川奈さんに僕を助ける義務なんて、無い……。なのに、なんで……」


「だからどうした。それがどうした」


 繰り返される雷撃の音に紛れながらも、掠れて霞んだ彼女の声は、しっかりと響く。


「お前は、言ったはずだ。存在理由があるのなら、知りたいと。そして、私は言ったはずだ。今日、全て解ると」


 その言葉に、目の前が真っ白になった。


 肺から酸素は出し切った。もう、質問を重ねることは出来ない。


 でも、川奈さんは言った。


「お前の人生の価値を、産まれてきた意味を、私が教えてやる! そしてお前は約束通り、あの事務所で働くんだ! お前が、もう散々だ、こんなんなら成仏したほうがマシだと思うまでこき使ってやる! だから、その手を伸ばせ! この手を取れ!」


 ……ああ、なんてかっこいいんだろう。この人は。


 無茶苦茶だ。でも、こんな事を言われてしまったら、縋りたくなってしまうじゃないか。


 僕は、重くて動かない役立たずな腕に、これが終わったらもう千切れてもいいから、だから今だけは動いてくれと言い聞かせる。


 そして、僕の手が上がった。


 伸ばす。伸ばす。ただ、伸ばす。


 痛い。重い。苦しい。でも、それがなんだ。


 手を伸ばす。限界まで伸ばしきったその手は、――川奈さんには、届かなかった。


「っつ!?」


 時間が止まった気がした。


 その空間に拒絶された川奈さんは後方に大きく弾き返され、残像のような血飛沫を残して陣の外で倒れた。


「川奈さん!」


 潰れた肺をさらに潰して、叫ぶ。


 川奈さんはすぐに立ち上がった。でも、その足は地面を踏まずに滑って、足元に氷が張られているようにも見えた。


 それでも川奈さんは、再び、歩き出す。


「待ってろ……。私はかっこいいヒーローだからな。すぐに助けてやるぞ……」


 冗談が、冗談になっていなかった。


 笑えない。


 今すぐ止めなきゃ。そう思っているはずなのに、川奈さんの瞳の鋭さがそれを阻む。


「やめろ、レイ子! それ以上は危険だ!」


「……ならば、その術を解けばいいだろう?」


 焦りを浮かべた住職に、川奈さんは不敵な笑みを見せ付ける。私はやるぞ、と、言外に告げている。


「解けないよなあ、正しい事しか出来ない貴様には、そんな事……」


 川奈さんの傷だらけの手が、陣に触れた。


 だが、その手がそれ以上進まない。


 万全な状態でさっきの有様だったのだから、傷だらけの状態で進めるわけが無い。当たり前だ。でも、


「正しいことは正しいさ。貴様は確かに正論しか言わんよ。だがな、貴様の正論は行き過ぎているんだ。そして、はっきり言おう。正しいだけの正論など、反吐が出る!」


 本当にはっきり告げられたそれは、ヒーローらしい口調のままでありながら、ヒーローのそれとは掛け離れていた。


 でも、そうだ。川奈さんがかっこいい理由が、なんとなくだけど解った。


 彼女はヒーローじゃない。ヒロインなんかじゃ間違えてもありえない。


 かっこつけても空回って、めんどくさがりで、だらしがないのに良いカッコしいで。


 そして、だからこそ人間らしくて、かっこいいのだ。


 人は、間違えるからこそ人間らしくあれる。


 正しいだけの人間が間違っているというわけじゃない。


 でも、つまり言いたい事はたったひとつで。


 間違えていても良いのなら、僕は、望んでも良いのだろうか。ここに居てもいいのだと。そう思っても良いのだろうか。


 川奈さんとの距離はまだ遠い。でも、僕はもう一度手を伸ばした。


「凛! レイ子を止めろ!」


 焦りが限界を迎えたらしい住職がそんな事を言った。


 さっきから住職さんが全く動かないという事は、この術を展開している内は動けないのだろう。


 しかし、


「……おい、凛。何をしている……?」


 そういえば、さっきから凛ちゃんが何もしていない。街中で僕を見かけたからと二時間も尾行するような子が、その行動力を押し留めていたという事だろうか。


 でも、もちろんそんなはずが無かった。


 見ると、凛ちゃんは両膝を突いて、右手を僕のほうに伸ばしていた。左手は右手首に添えられている。そこにあるのは、昨日自慢げに見せてきたブレスレットだ。


 そして彼女は、祈るように天井を見上げ、何かを呟いていた。


「やめるんだ、凛!」


 住職の焦燥が爆発したかのように、凛ちゃんが強烈な光を放った。


 多分、霊的な何かなんだと思う。その光にはどこか現実味が無くて、思わず僕は目を閉じた。


 温かい。


 随分と久しぶりに感じた感覚な気がした。


 そして、閉ざしていた目を開くと、視界の中から凛ちゃんが消えていた。


 いや、僕の居る場所が変っているんだ。


 すぐ近くに居た川奈さんと住職が少し遠くなっていて、痛みが無くなったと思ったら、成るほど、僕はいつの間にか陣の外に移動していた。


「……」


 静寂が空間を支配する。川奈さんは僕を見て目を見開き、陣の中に入れていた手を引く。


 住職も唖然としていて、術の光も段々と弱まっていた。


「まさかとは思うが」


 最初に口を開いたのは川奈さんだ。


「――お前は、藤和良助か?」


 そんな質問が投げられて、困惑がさらに深まる。


「え、えっと……いったいなにが……。っつ!」


 声を出して、さらに困惑する。


 僕の声が、僕の物じゃなくなっていたのだ。


 僕は自分の手を見た。小さい。まるで小学生のようだ。


 自分の足を見た。少なくとも、僕の物では無くて、さらに手首を見ると、そこには見覚えのあるブレスレットがあって。


 つまり、僕が凛ちゃんになっていて。


「……一応、僕は僕だけど……」


 川奈さんに確認された事を思い出し、答える。自分のじゃない声で、自分だと名乗る。この違和感は尋常じゃない。


「っつ……」


 川奈さんと住職が同時に頭を抱えた。


「父上。凛にこれを教えたのは貴様か?」


「いや、違う……とは、言えんな……」


 えっと、これはいったい、どういう空気?


 川奈さんは今までに聞いたことが無いくらい大きな溜め息を吐き、


「落ち着いて聞け」


 と、僕と向き合う。しかし、その目は普段僕に向けている物とは違った。


 そして、重たそうな唇をゆっくり動かし、




「お前は今、凛に憑依している」




 そう言った。


「……は?」


 聞き取れなかったわけじゃない。でも、意味は解らなかった。


 川奈さんは僕から住職に視線を移し、キッ、と睨む。


「そこの頑固親父からお前を救うために、自分の体の所有権を一時的にお前に預けた、というわけだ。特例でも無ければ使ってはならない禁術を使ってな」


 禁術。憑依。それらの単語が合わさって、ようやく僕は理解する。


「憑依すると、霊の魂と、媒体になった者の魂が混ざり合うため、極めて危険なんだ。だから、禁術になっている。しかし、魂が混ざり合っているからこそ、凛に憑依している間は、お前を成仏させる事は出来ない。……お前は、凛に助けられたんだ」


 ああ、そうか。僕は、助かったのだな、と。


 呆れ果てたと言わんばかりに頭を掻く川奈さんのその仕種が、やけに微笑ましく見えた。

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