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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
襷(たすき)の行方
4/19

僕がここに居る意味は

 家族について考えてみた。最近僕が体験した事を考えれば当然の思考かもしれない。


 凛ちゃんと別れた後(家まで送ろうとしたら断固として断られた)とりあえず事務所に戻る気分にはなれなくて、夜の街を歩きながら。


 そしたら小学校のグランドが強く輝いているのが見えて、なんだと思って見てみたら少年野球団が練習をしていた。丁度良いから、それを眺めながら考えよう。


 さて、片や家族のためにとひっそり頑張る人が居て、片やそれを裏切る人も居る。


 家族を失ってそれを受け入れている人も居れば、家族の事を忘れてもなんとも思っていない人間も居るわけだ。僕の場合、忘れてしまったのだから悲しみようが無い、という言い訳が出ないわけじゃないけど、どうせ今は誰も聞いてないからね。言い訳に意味は無い。


 そんな感じで、家族には色々な形がある。


 記憶が戻ったら、僕は家族についてどう思うだろう。


 母さんを愛していた? 憎んでいた? 裏切っていなかったか? 裏切られていなかったか?


 見事なまでに空っぽなのは、僕がそういうのに無関心な人間だからなのか、これも記憶が無いせいなのか。


 少年野球団の傍らで、その保護者と思わしき女性が何人も居た。頑張る息子の姿を生暖かく見守りながらの井戸端会議に勤しむ奥さん達。


 あれが異常なのか、普通なのか。それぐらいなら僕にも解る。答えは、割りと普通、だ。


 息子を愛してる人だって都合ぐらいあるし、練習を見に来ていないから薄情だ、と言うのは早計だ。でも少なくとも、愛していなきゃ見にくる事は無いだろう。


 ああいう親子であれたかどうか。それがネックだ。


 もし僕が愛されていたら、記憶を取り戻すのは良い事だろう。だが、そうじゃなかったら?


 知るのが怖い。そう思う僕は間違えているのだろうか。


 僕は、練習が終わって片付けを始めた少年達から、夜空へと視線を移した。星が見えない変わりに、グランドを照らす強烈なライトが目に染みる。このままあの光を見続ける事が出来たら、天啓が僕に模範解答をくれる。そんな小学生じみたおまじないをかけて、頑張って目を開く。


 そしたら、光が僕のほうに近づいてきた気がした。


 少しずつ大きくなる白い光。手を伸ばせば届きそうだ、なんて馬鹿みたいな勘違いをして、もし本当に届いたらどうなるだろう、という妄想に捕らわれる。


 だから僕は手を伸ばした。


 その光に向かって、強く、強く。


 そして、少年達の保護者の誰かが鳴らしたのだろう、車のクラクションが聞こえた。


 発信源はそんなに近く無い。近くは無いのに、その音はどんどん大きくなって、大きくなって、僕の鼓膜を全力で叩いた。


 脳が揺れた。


 これは錯覚だ。そう解っていながら、それは続く。


 白い光の中に、女性の姿が浮かび上がる。


 これは錯覚だ。


 解っているのに、解っているからこそ、なおも続く。


 大きくなって、近くなって。




 ――そして、あの日の記憶と重なった。




 闇夜を切り裂くヘッドライト。唸るように鳴くクラクション。これは、僕自身に降り注いだ非現実。


 女性が居た。横断歩道を中途半端に渡っている。


 その女性が強烈な光に照らされていて、僕は叫んだ。


 そう、あの時、僕は確かに、こう叫んだんだ。




 ――母さん!




 と。




 グランドを照らしていた光が消えた。


 引き戻された現実で、僕はいつの間にか、走り出していた。




 僕は馬鹿だ。解っていたはずなのに、まさかここまでだったなんて思わなかった。


 母さんは体調を崩していた。健康食ばかり食べていたから、というだけでなく、よくトイレに駆け込んで気持ち悪そうにしていたのを思い出したんだ。


 父親が居なくって、それでも頑張って、女手ひとつで僕を育ててくれていた。


 そこまでされておきながら、愛されてないはずがなかったじゃないか。


 それなのに勝手に疑って、勝手に怯えて、僕は逃げていた。


 思い出したのは母さんが体調を崩していた事だけじゃない。全てじゃなくとも、色々な事を思い出した。


 でもまずは、記憶の整理がしたかった。そしてそれよりも先に、やらないといけない事があった。


 僕は事務所へ走った。


 今はおおよそ夜の九時ぐらい。川奈さんが居ない可能性のほうが高い。


 でも、その少ない可能性を信じて、僕は走った。息を切らすのも忘れるぐらい全力で、僕は走った。


 事務所はビジネスビルがいくつも並ぶ道の中でも、とびきり古い四階建ての貸しビルの中にある。一階は小さなゲーム会社が使っていて、二階は個人が借りているらしい。何をしているかは知らない。


 事務所があるのは三階だ。そして三階の電気が着いてるのを見て、胸を撫で下ろす。だけどすぐに気を取り直し、そのまま階段を駆け上がった。


 そして、


「川奈さん!」


 近所迷惑という言葉を忘れていた僕は、思いっきりドアを開け放してから、自分の失態に気付いた。


 僕に視線が突き刺さる。


 川奈さんの分だけじゃない。もう一人、見覚えのある男性が事務所に居て、客待ちのテーブルを挟んで川奈さんと向き合っていた。


「……あなたは……」


 僕は呟く。その中年の男性は、あすなろ公園の前に居た不審者だったからだ。


「……おや?」


 僕のほうを見て、その人は首を傾げた。


 それを見た川奈さんは呆れたように溜め息を吐き、


「すみません。近所の子供の悪戯でしょう」


 そう言って立ち上がる。


「あ、ああ。そうか……」


 苦笑する男性。川奈さんは僕のほうに向かって歩く。


「川奈さん。話があるんだけど……」


「後にしろ」


 川奈さんは僕の耳元で小さく呟いた。


「外で待ってるんだ」


 そして、自然な動作で僕を追い出しながら、ドアを閉めた。


「……あ」


 追い出されてドアと向き合い、そこでようやく、今の時間を思い出す。少なくとも、高校生が働いていて良い時間では無いのだ、と。


 だから川奈さんは、僕を従業員扱いしなかったのだろう。そこに気が利かないなんて、やっぱり僕は非常識な人間なのかもしれない。


 あれ? 少し前までは常識人ぶってなかったっけ? まあ、どっちでもいい。


 僕は四階に続く階段に座った。ここなら、あの男性がいつ出てきても見つからないし、四階は誰も使っていないから、迷惑にもならない。


 そうだ。焦り過ぎて取り乱していたけど、川奈さんと話す前に、ちゃんと、思い出したことを整理しておこう。




 僕は高校生だった。なんの特徴も無い、と言ったら普通の人に失礼だろうか。一回記憶を失くして客観的に見てみたら、失笑したくなるような性格だった。


 僕にはなんの力も無い。そう信じて疑わない人間。物語の主人公にはなれない程度には無力で、逸脱して見下される事が無い程度には凡庸(ぼんよう)で。

 誰かが困っているところを見たら、助けようと手を差し伸べる自分と、そして助けた相手と笑顔で向き合っているところを妄想して、でも最初の一歩が踏み出せなくて、結局何も出来なくて。


 友達だって居たけれど、相手も僕を友達だと思っているか自信は無かった。僕みたいなのは変わりなんていくらでも居るから、自分に価値は無いのだと自らに言い聞かせて、見捨てられた時にショックを受けないようにと、緩衝材(かんしょうざい)を作っていた。


 でも、そういうマイナス思考な点を除けば、悪い人生じゃなかったのかもしれない。そこに価値や意味があったかは別として。


 家に帰ると、母さんは居ない。仕事だ。


 家事は僕がしていた。掃除、片付け。炊事、洗濯。思えばここには多少の意味と価値はあったかもしれない。


 母さんが帰ってくる時間はいつも遅かったけれど、家事をしたり勉強したりしていたら、そんなに長い待ち時間には感じなかった。


 母さんが帰ってきたら、僕が用意しておいたご飯を母さんが温め直して、僕はテーブルの上に広げていた勉強道具を仕舞う。そして二人でご飯を食べて、お風呂に入って、少しまどろんで、眠る。


 それが僕にとっての日常だった。もちろん、勉強ばかりしていたわけじゃない。多くはないけどお小遣いも出ていたし、それで友達と遊びに行ったり、小説とかを読んで時間を潰したりすることも結構あったから、そこまで成績優秀というわけでも無かった。


 そんなある日、母さんが体調を崩した。時折吐き気を催してトイレに駆け込んでいた。


 母さんは大丈夫だとしか言わなかったけど、そうだ、母さんの健康食は僕が作っていたんだ。いや、正確には健康食では無く、食欲不振になった母さんがこれなら食べられると言ったものを並べただけだ。


 トマトに塩を軽く付けただけのサラダに、主食はサンドイッチ。ツナサンドかたまごサンドが母さんのお気に入りだった。食後は基本的にみかんだ。毎日毎日それだった。たまには違うものにしたほうが良いんじゃない? と聞いても、他のものだと食べられそうにない、と、母さんは苦笑した。


 そしてある日、母さんが言った。


 再婚する、と。


 普通に考えたら、嬉しい事だろう。


 再婚相手は、見た目や喋り方は少しきついが、とても優しい人らしい。それに収入もあるから、この貧乏生活からもおさらばよ、と、母さんは僕を説得するような様子で、訴えかけてきた。


 普通に考えたら、良い事だ。


 幸せになれる、素晴らしい事だ。


 でも、僕はすぐに返事が出来なかった。


 再婚するならすればいいのに、僕の意見も尊重したいと言ってくれたお母さんに甘えて、あまつさえ反対したいとまで思っていた。


 だって、そんな人と結婚して恵まれた環境になって、僕が家事をする必要が無くなったりしちゃったら、僕の価値はどうなる?


 それを奪われたら僕は、自分の価値を奪われて、無意味な人間になってしまう気がした。


 学校で困っている人を助ける事も守る事も出来ない僕だけど、母さんだけは守りたかった。たった一人の家族だけは、僕のこの手で、母さんが愛してくれたこの手で、守りたかった。


 頷く事が出来ないまま、数日が過ぎた。


 母さんの幸せと、僕の価値。どちらが大事かなんて、始めから解っていた。


 今夜、母さんに同意を伝えよう。


 今夜こそ。


 今夜こそ。


 しかし自分の唯一の価値が可愛かったのか、僕は自分からは言い出せなかった。


 そして気付いたら一ヶ月が経過していて、母さんから話しを切り出した。


 ――散歩をしましょう。


 風呂あがりの身体を夜風が撫でる。そんな涼しい初夏だった。


 散歩をしながら、母さんは言った。


 嫌なら嫌と言っていい、と。


 それならそれで仕方ないし、今ならまだ間に合う、とも言っていた。結婚の話はまだ確定じゃなかった、という事かもしれない。


 でも、そんな母さんの顔を見て、決心が着いた。


 僕は、価値の無い人間にはなりたくない。


 母さんが良い人と結婚することで、僕の価値は無くなってしまうだろう。


 けれど僕がそれを認めて、母さんの幸せを願って、背中を押してあげたら、それは、僕の存在した意味になるんじゃないか。そう思えたんだ。


 気持ちとしては、ヒーローを励ますヒロインの心境だった。性別は逆だけどね。


 だから、僕は言ったんだ。


 その人と結婚して。


 どうか、幸せになってと。


 そしたら母さんは泣きそうになりながら喜んで、夜道にも拘らずはしゃいだ。


 僕はそれを見ただけで嬉しくなって、ああ、こんなに簡単な事だったんだな、と、自分に呆れた。


 価値は、与えられるものじゃないんだ。意味は、他人から受け取るものじゃないんだ、と。そう思えた。


 そして母さんは少しだけ振り向き、訂正がひとつだけある、と言って、恥ずかしそうに前へと向き直って、上を見上げ、笑った。


 ――貴方も、一緒に幸せになるのよ。


 と。


 涙腺が緩んだ。でも同時に、台詞のくささに笑ってしまった。


 浮かれているな、と思った。無理も無いけど、浮かれすぎだ。ちゃんと前を見て歩いていないのだから。


 そうだ。この時だ。この瞬間だ。


 母さんが歩いていたのは、横断歩道の上だった。


 でもそこは普段から車の通りも少ないし、夜になると人通りも寂しくなる。だから、車も人間も、交通規則に対する意識が薄れてしまう場所だった。


 信号は、赤だった。


 闇夜を切り裂くヘッドライト。唸るように鳴くクラクション。それは、僕らをぶち壊しやがった非現実。


 これが、僕の取り戻した記憶。




 震えが止まらなかった。


 寒いわけじゃない。


 外で待ち続ける時間は長くて、記憶の整理も出来た。


 僕が聞きたいのはひとつ。母さんがどうなったのか。それだけだった。


 残念ながら、僕は自分の名前や住所も思い出せていない。


 そしてこれがいつの記憶なのかも曖昧だ。


 父親がなんで居ないのかとか、この後どうなったのかとかが全く思い出せない。


 僕は今こうしてここに居るけれど、蘇えった記憶も、あの事故以外は(もや)がかかったみたいになっていて、周りの風景までは思い出せない。当時の僕が気にしていなかったからかもしれない。


 ……怖かった。


 箱を開けたら外は大海原だった。


 でも、こんなことを知ってしまったら、どれくらい広い海なのか知らなければ、漕ぎ出す事さえ出来ない。


 そうやってうずくまった時だった。


「では、報告を待っているよ」


 そんな男性の声と共に、暗い階段に光が差し込んだ。


「はい、必ず。と約束は出来ませんが、尽力はします」


 そして続いた、川奈さんの声。


 僕が待ったのは一時間くらいだろうか。男性が階段を降りる音がして、それが遠くなってから、


「中に入れ」


 川奈さんがそう言った。


 そして僕は、事務所の中で、まずは依頼についての話をした。最後の依頼は完全に黒だったことも、正直に答えた。


 記憶の事を早く相談したかったのもあり、凛ちゃんの事は省いた。


 そしてその経緯と、取り戻した記憶について話した。


「……」


 川奈さんは黙って、手で口を覆っていた。


 僕はいつもの客待ちのソファーに座っているのだけど、川奈さんは僕の隣でずっと立っていた。


「川奈さん。僕は、母さんが今どうなっているのか、知りたい。知らないといけない。だから、お願いです」


 僕は立ち上がって、川奈さんと向き合う。


 でも、それだけじゃ、これだけじゃ僕の誠意は伝わらないだろう。


 だから僕は、両膝を床に叩き付けた。


「僕の記憶は、僕の記憶です。これからなんとかして自分で取り戻します。依頼だってもっとたくさんやります。どんな雑用だって引き受けます。だから、お願いします!」


 両手を使い、力の限り床を押す。その込めた力の反動に逆らって、僕は歯を食いしばり、頭を下げた。


「母さんがどうなったのか、どうか、それだけでも、知りたいんです! 僕の人生の意味が、僕が産まれてきた価値が、そこにあるんです! 無茶なお願いだって解ってます。報酬が払えないならいくらでも働きます! だから、……母さんに……会わせて下さい!」


 冷たい床の感触が、手の平から伝わってくる。


 無言が空間を支配して、その冷たさだけが僕の全てだと思ってしまう程、今の僕は空っぽで。


 だから、さらに強く、床を押した。手の平と膝だけじゃ足りない。これしか無いのなら、これに縋る以外に僕は出来ない。額も完全に床に押し付けて、唇を噛んだ。


 痛みは無かった。なんなら唇が切れるまで噛んでやる。


「顔を上げろ」


 その決意を、冷徹な声色の川奈さんが制する。


 でも、


「嫌です」


 僕にはこれしか無いから。僕には力が無いから。何も守れないから。


 そんなのは嫌だ。


 困っている人を見かけた時、本当は助けたかった。なんとかしてあげたかった。


 自分は無力だからなんて言い訳して、一体何から逃げていたんだ?


 必死にならなかったのは誰だ。


 価値を、意味を作ろうとしなかったのは誰だ?


 全部、全部、ぜんぶっ!


 ……僕、自身じゃないか。


「顔をあげろ」


「嫌ですっ」


「いいから!」


 いきなり上がった川奈さんの怒声に、僕は思わず顔を上げてしまった。


 鋭い眼光が、真っ直ぐ僕を捕らえている。


 しかし、その目に込められているのは怒りじゃない。


「どんな過去でも受け入れる覚悟があるなら、今すぐ立て。みっともなく這い蹲るな。今お前が見ていたのはどこだ? 今お前が見るべきなのはどこだ? 少なくとも下じゃないだろう」


 その言葉が、僕を包んで離さない。


 そうだ。僕が見るべきなのは、下じゃない。


「お前は現状に不満は無かったはずだ。しかしお前は帰ると決めた。前に進むためじゃないのか? 過去に何があったかを知って、自分の価値を、産まれてきた意味を見つけ出せたら満足か? そうじゃないだろう。そうあるべきじゃないだろう!」


 川奈さんは、立ち上がろうとした僕の肩を掴み、引っ張り上げた。


「っつ!」


 川奈さんの顔が眼前に迫る。整った肌に、邪魔する物は切り裂いて進むという意思を表したかのような、鋭くも大きい瞳。黒髪が揺れて、慰めるように優しく、僕の頬を撫でた。


「お前の人生だ。お前の物語だ。そしてその物語の主人公が立ち上がった。――かっこよくあるべきだ。それがどんな運命を運んで来るとしても。……そうは思わんか?」


 ああ、ダメだ。


 力強いのに優しく、気高い事をさも簡単そうに言うもんだから……僕にも出来る。立ち上がれる。そんなふうに思ってしまった。


 だからだろうか。普段ならくさくて笑ってしまったり、空回りに呆れたりしていた川奈さんのかっこつけが、本当にかっこよく見えてしまった。


「……思います」


 僕は川奈さんの手を振りほどき、今度こそ、自分の足で、その場に立つ。


 そして、


「僕だって、かっこつけたいお年頃なんです」


 この人となら、立っていられる。そう思った。


 もしかしたら、勘違いなのかもしれない。


 川奈さんの言葉に酔った、一時的な気の迷いなのかもしれない。


 でも、だとしたらその酔いが醒めないようにしなくちゃいけない。


 そんなのは、間違えているのかもしれない。


 だからどうした、間違いなんて、僕はいくらでも犯してる。


「お願いの仕方を変えます。川奈さん」


 酔ってる僕は、恥なんて忘れている。


「僕と一緒に探して下さい。母さんと、僕の記憶を」


 正気に戻った僕はきっと、この時の事を、恥ずかしがるだろう。そしてそれを誤魔化すために、呆れたように笑うだろう。


 だからその時のために、言っておこう。未来の自分へ。


 ――この気持ちだけは、忘れるな。




 しかし、そのメッセージが届けられたのも今だった。


「なら、明日だ」


 川奈さんがそう言った。


「……え?」


 僕は思わず聞き返す。いったいなにが明日なのかと。


「おいおい。お前がここに来てから一ヶ月経ってたんだぞ。私が何も調べていないとでも思ったのか?」


 正直、今の茶番はいったいなんだったのかと。


「まさか、もう解ってたってこと!?」


 この人まさか、さっきのシーンをやりたかっただけ!? だとしたら相当恥ずかし……あれ? そんなに恥ずかしくない?


「いや、目処(めど)は付いていた。しかし、確信が無かった。それと、まあ、その他色々な必需品がな。だから言わなかった」


 僕は思わず感嘆(かんたん)する。


「なら、それを早く言ってよ……」


 確かにシチュエーションとかは大事だけど、もっと大事な物があるでしょ? 僕の心構えとか。あれ? それなら今整えられたのか。


「言えなかったんだ。憶測ばかりで積み上げた推論はなんの役にも立たないどころか混乱も招きかねないからな。だが、今のお前の話を聞いておおよその事情は把握出来た」


 川奈さんは浅く息を吐いて、天井を見上げた。


「……明日だ。明日、確かめたい事がある。お前が昨日行ったアパートだな。あそこになにかがあるかもしれない。そこでそれを確認出来たら、私はお前に全てを教える事が出来るだだろう。だから、その覚悟をしてもらいたかったのもある」


 川奈さんは天井から再び僕へと視線を戻す。


「今日は私もここに泊まる。明日の朝一で、確かめに行くぞ」


「え? あ、うん。でも、随分急だね。急ぎたいのは確かだけど、川奈さんまでそれに付き合って無理することは無いよ?」


 それは純粋な心配だった。


 はっきり言って、川奈さんには本来関係無い話だ。そこまで親身になる義務は、川奈さんには無い。


「いや、私の心配はするな」


 川奈さんは事務所の戸締りの確認をしながらそう言った。


 僕もそれを手伝っていたら、


「……私も、覚悟が揺らがない内にケリをつけたいからな」


 川奈さんが何かを呟いていた。でもその意味は、勿論僕には解らなかった。




 灯りの消えた暗い部屋。事務所の窓は開いていて、頼りない風が吹いている。


 カーテンは元々着いておらず、外からは時折車の音が聞こえるか、酔っ払いの騒ぐ声が聞こえるだけだった。


 川奈さんは僕とテーブルを挟んだソファーで横になっている。寝息は聞こえない。多分、まだ起きている。


 だから僕は黙っていた。ただひたすら、現状を脳に焼き付けていた。


 川奈さんは、明日(正確にはもう今日だが)に全てが解ると言っていた。あの口ぶりからして、前々から調べていてくれたんだと思う。


 川奈さんはパズルのピースを嵌めて、しかし今まで僕にそれを悟らせずに居たんだ。


 解らなかった。


 僕から見て川奈さんはずぼらで、勝ち気な性格で、探偵をやってるくせにめんどうくさがりで、だらしが無い。


 なのに、僕は川奈さんに頼ってしまった。


 それは、川奈さんぐらいしかちゃんと話せる人が居なかったから、なんて理由じゃない。


 実のところ僕は、川奈さんを信頼できていない。


 だって、川奈さんがこんな性格なんだもん。さっきのだけじゃなく、薄情だって事もある。なのにたまに熱血漢になって、かっこつけて……。


 たくさんの記憶を思い出して、僕はひとつひとつ、確信した事がある。


 人間は、現金な生き物だ。


 川奈さんは僕の恩人で、そこは揺るぎ無い事実で、ぼくは感謝しているのだけど、それでも僕は、本当に、この人に出来るのだろうか、なんて疑いもあったりして。


 それでもこの人に任せようと思えたのは、ひとえに川奈さんがこう言ってくれたからだ。任せろ、と。


 初めて川奈さんと出会った時、記憶の事を話して、途方に暮れていた時、川奈さんはここに連れてきてくれただけじゃなく、記憶の事も任せろと言ってくれたんだ。


 後になって、お前を事務所に連れてきたのは、そうしたほうがかっこいいと思ったからだ、とか、お前を事務所に置いているのは先生がそうしろと言ったからだとか色々設定変更をしてきたけど、どれもこれも、恥隠しなのが見え見えで、少し笑えた。


 そんな中で川奈さんは、どんなにめんどくさそうな態度を取っても、あの時言った任せろという言葉だけは訂正しなかった。


 ……繰り返し確認するけど、僕は川奈さんを信頼出来ていない。


 でも、それでもだ。


 川奈さんとなら、大丈夫だ。


 そう思ってしまう僕は、現金な人間なのだろうか。


 縋り付いた藁みたいなものなのかもしれない。


 でも、不思議と、恐怖は無かった。


「川奈さん」


「なんだ」


 狸寝入りされるかもとは思っていたけど、川奈さんは即答した。


「寝れないの?」


「少しな」


 少し寝れない、というのは、日本語的に正しいのだろうか。


 僕は窓の向こうの夜空を見上げた。星は無い。静かな静寂は世界を包み込まん勢いで広がっていた、あれがもしも全部絵の具だったら、世界中の全員が絵の具の匂いで息が詰まって死んでしまいそうだな、と思う程、深い黒だった。


「ぼくは、正直、今、怖いんだ。でも、絶対に引き返さないよ。逃げない。この勇気をくれたのは川奈さんだ。だから……ありがとう」


 素直に言った。


 なんとなく、色々な矛盾とかには気付いてた。


 今日した様々な考え事の中に、間違えてるのは世界のほうだ、というものがあった気がするけど、やっぱりあれは、正しいなと思う。


 間違えてるのは世界だ。


 僕らみたいな人間を作り出しておいて、無責任なことに、後のことは知らん振りをする神様とか。そういうのも含めて、間違えだらけだ。


 でも、同じように僕らだって間違いを犯している。


 なら、おあいこだ。


「そうか」


 川奈さんは、相槌を打つだけだった。


 この真っ直ぐ人間の川奈さんだって、きっと何か間違いを犯した事があるはずだ。


 あの幼い凛ちゃんもいつか間違いを犯すのだろうし、夜遊びして現在進行形で間違いを犯している子供達だっている。


 この世界は間違えてる。


 この世界に生きるに人間も、同じように間違いを犯している。


 だからといってそれを免罪符にするつもりは無い。


 こんな考えは間違えているかもしれないけれど、だからこそ、間違えているからこそ、そしてそれを自覚しているからこそ、胸を張って、とてつもなくしょうもない事をほざこう。


 ――間違えているからこそ、人間らしくあれるのだと。




 翌朝。日が昇って間もなくして、僕と川奈さんは事務所を出た。


 流石に早すぎないだろうか。まだ五時だよ?


 隣を歩く川奈さんは大きなあくびをしていて、途中で自販機に寄り道。一番甘そうな缶コーヒーのボタンを押して、一気に飲み干そうとしてむせてた。


「苦い!」


 空き缶と言うには重みのある音を伴って、缶コーヒーはゴミ箱へ。だから、飲めないなら買わなきゃいいのに。


「流石に早朝は辛いな」


 それは僕も思ったけど、川奈さんと違って夜のほうが元気な人間だから、根本的な理由が違う。


「だが、これくらいの時間でなければ色々と面倒だし……」


 ぶつくさと誰に言い訳してるのやら。普段かっこつけてる人の言い訳って、聞いてて少し楽しくなるよね。


「川奈さん。ホットレモンを飲むと目が覚めるって、記憶の中の母さんは言ってるよ」


「ふむそうか。つまりお前の母上は非常識な人間だったということだな」


「失礼な事言わないでよ。母さんだってちゃんとホットレモンは夜に飲んでた」


 冗談が通じないなあ。いや、通じてたのか? 今のはどっち?


「安心しろ。お前のボケは割とつまらん」


 ああ、冗談は通じてたんだね。


「安心する要素は無いけどね」


 つまらない自覚はあるから。


「でも、川奈さんだってたまに冗談言うけど、なかなかにつまらないよ?」


 これは仕返しではありません。注意です。つまらない冗談は、多分人間関係を危うくするから。あくまで親切心です。


「ふむ、そろそろ着くな」


「そこまで華麗にスルーしなくても良くない!?」


 態度も崩さないとか、僕が本当に発言したかも解らなくなりそうだ。


 でも川奈さんの言う通り、もうすぐで目的地だった。会話を中断しないといけない程近くも無いけど。


「お前は外で待っていろ。そしてうろちょろするな。絶対に、近くから離れるな」


 やけに用心深い川奈さん。何をするつもりなのだろうう。


 頷いて少し様子を見ていたら、川奈さんは例のアパート――不審者、というか、昨日事務所に来ていた男性が入っていった場所だ――に入っていった。


「……」


 これ、不法侵入じゃね?


 僕はアパートの前で待機。なんとなく、昨日チラシが溜まっていた郵便受けを見ると、その有様は相変わらずだった。本当、この状態を見れば、この郵便受けにチラシを入れても意味無いって解りそうなものなのにね。


 郵便受けには藤和という名前があった。ここに住んでいた人の名前。


 この人は、何故帰ってこないのか。そんなの、考えたくも無い。


 僕は辺りを見回した。


 質素で少し寂しい住宅地。裕福な人は近づこうともしないんじゃないかな、なんて、嫌な考えが頭を過ぎる。


 その時だった。


 どこからか、鈴の鳴る音が聞こえた。


 こんな時間に?


 聞き間違えだろうか、と首を傾げたら、鈴の音は再び聞こえて来た。


 鈴は一つでは無い。小さな鈴がいくつも鳴っている様子だ。


 確認しないと。


 何故か、そう思った。


 どこで、誰が、こんな時間に、なんで鳴らしているのか。


 僕の足は勝手に動く。少しくらいなら、川奈さんと離れても平気だろう。すぐに戻れば良いんだ。


 そして僕の足が向かったのは、二年前に事故があったという、あの公園だった。


 あすなろ公園。その入り口の前に、誰かが立っている。


 昨日のあの不審者では無い。その手には、大きめの布袋ではなく鈴が握られていて、頭は全ての毛が剃り落とされていた。


 服装は、見慣れないものではあったが、和服のようで、少し違う。袈裟(けさ)。つまり、住職さんだ。


 その住職さんは、公園の前に花束を置いて、再び鈴を鳴らす。


 その時ふと、ああ、例の怪奇現象を止めたのはきっとこの人なんだな、と気付いて、なんとなくだけど、話をしなきゃ、と思った。


 そして僕がさらに歩み寄ると、住職さんは振り向きもしないまま、


「おはよう」


 そう言った。


「え……えっと、おはようございます」


 僕は驚きはしたけど、なんとか返事をした。


「ふむ。挨拶が返せるのは素晴らしいね」


 住職は振り向きながら、そんなことを言った。一応僕は常識人ですから。あれ? 昨日は非常識人だったっけ? まあいいや。


「住職さんって、気配とかが解るんですか?」


 僕はここ一ヶ月、何人も尾行をしてきた。きっかけもなく接近がバレるなんて思ってもみなかったのに。


「ああ、解るとも」


 住職さんは優しく微笑みながら頷く。すごいね、流石、修行とかする人だけある。


「お参りですか?」


 僕は花束を見ながら言った。


 すると住職は、少し間を置く。


「少し、違うね」


 どっからどう見てもお参りにしか見えないけど、と言おうと住職のほうを見たら、住職はじっと僕を見て、微笑んだままだった。


 微かにたじろいで身を引こうとしたら、何故か足が動かない。


「君と話がしたかったんだ。一緒に来てくれるかな?」


 駄目だ。そんなわけにはいかない。そんな場合じゃない。そのはずなのに、途端に溢れ出してきた冷や汗が、僕から正常な思考を奪っていく。今はやるべき事があるのに、脳内で勝手に優先順位が入れ替わる。


「……来てくれるね?」


 この人には逆らえない。


 そう気付いた瞬間、その微笑みの背後にドス黒い光を幻視した。




「私は見ての通り住職でね」


 住職は歩きながら、そんな話を切り出した。僕は住職の後ろに並び、無言のまま聞く。


「世間のしがらみとか、汚いところとか、たくさん見てきて、たくさん戦ってきた」


 坊主頭だから老けて見えるが、どうだろう。目算で五十歳くらいの人だ。


 その目は優しそうで、深みがある。


 本当に色々経験して、苦労してきたよ、と、そのシワの数と深さが語っていた。


「あそこでの事故は、本当に可哀想なものだった」


 歩きながら語る住職の口調は優しい。なのに、なんとなく恐怖を感じてしまうのは何故だ?


 逃げろ、と理性が叫んでいる。


 逃げちゃ駄目だ、と本能が制している。


 その相反する感情に気持ち悪さを感じて、少しでも気を紛らわそうと住職の話に耳を傾けた。


「死んでしまってもなお、魂はあそこにに縛られていた。誰かが供養せねばならなかったはずなのに、形だけで済ませ、交通安全のために利用される。理不尽だとは思わないかい? 命を張って、魂を縛られて、そこまでして成せる事が交通安全だよ? 私はね、そういうのが許せないんだ。人の魂は死後、安らぐためにあると思っている。勿論、異論は受け付けるよ。ただ、今は聞いて欲しい。人生というのは荒波だ。皆なんらかの形で一生懸命だ」


 僕は、何も言わずにただ聞いた。


「人生は長い道だ、という人も居るけれど、私はエスカレーターのようなものだと考えているんだ。止まっていても、周りが動く以上は状況が変わる。止まっている事なんて出来ない。そこに留まり続けたいのなら、後ろ向きで歩かないといけない。でも、だからといって運命に身を任せていたら、どこに運ばれていくかも解らない。そういうものだと思っているんだ」


 確かに、と思ったのは、僕に思い当たる事があったからだ。


 僕は、あの事務所が実は気に入っていた。


 記憶が戻らなければ、僕はあそこに留まろうとしていただろう。


 でも、僕は記憶を取り戻し、動かなければならなくなった。状況が変わった事で、留まろうとしていた僕の意思はどこかに行ってしまったんだ。


 それは、全て僕の選択だ、なんて言えない。


 僕が動き出したのでは無く、僕を取り巻く状況のほうが先に動いたんだ。だから僕はあの公園の前に居た。


 なのに何故、今の僕はここに居る?


 僕を取り巻く環境が、僕を知らないどこかに運ぼうとしている。そんな気がした。


「何もしない、というのもまた、何かをしなければならないという義務から必死になって逃げなければ出来ない選択だ。つまり、逃げることにさえ必死にならなければならない。人生とはそういうもので、だからこそ悲しいし、楽しいんだ。辛いこともたくさんあるだろうけど、人は死ぬまでは生きている。その身を削って、心をすり減らして、笑って、泣くんだ」


 いつの間にか、周りの景色が変わっていた。結構歩いた気はするのだけど、気分は本当に、エスカレーターに運ばれているようだった。


 そこは長い階段だった。


 石の階段で、等間隔に真っ赤な鳥居が並ぶ。


 住職に続いて、僕はそれを上り始めた。


 これは本当に僕の足だろうか。そう思ってしまう程軽く、僕は進む。


「辿り着く終わりは、人生には無かった休憩所だ。死を推奨(すいしょう)しているわけじゃないよ? でも、疲れた心と体が、人生を進み続けてきた魂が、お疲れ様。よくここまで頑張ったね、と、初めて開放される瞬間なんだよ」


 その階段の周りは林で囲まれていた。早朝で影が長いとはいえ、まだ暗い。


「誰しもが皆、生きてる間は頑張っていた。どんな人生だろうと関係ない。ちゃんと、なんらかの形で頑張っていたんだよ。誰だって、自覚が無い人だってね」


 住職の考えとしてはどうなのか、とも思ったけど、僕は住職じゃないから解らない。批判も賛成も僕には出来ない。


「だから私は、その頑張り続けた魂から安らぎを奪って縛るような行為が、許せなかったんだ」


「……あ」


 そうか。だから、あの事故現場にこの人は居たのか。


 長い階段を登ると、そこは寺だった。少し大きいけど、どうやら住居と合同のようだ。なら、適正の広さかな?


 よく掃除されていて、参道には砂利も葉っぱも落ちていない。だからだろうか。綺麗だ、と感動してしまったのは。


 ふと、寺の二階、というよりあそこは住居のエリアかな? そこで何かが動いた気がした。家族の人だろうか。


 住職は気に留めないで一旦話すのを止める。参道から外れて寺の横を通り抜けていったため僕もそれに続くと、墓地があった。


 林に囲まれ、静寂に包まれた空間。


 等間隔に並んだそれは、全部で百無いくらいだろうか。


 一番奥にはやけに立派な墓があり、その右手側に錆びた扉があった。林の中に道が見えるから、あそこは裏口だろう。林道に続く裏道。という事は、あそこが前に肝試しした林道だろうか。


「……」


 ちょっと待て、と、そこでようやく、僕は正気を取り戻す。


 僕は本当に、なんでこんなところに居るんだ?


 こんな事をしている場合じゃないはずだ。川奈さんに離れるなと言われていたじゃないか。


 なのになんで、大人しく着いてきている?


 正気になったからこそ思考が絡まる。


 この異常を受け入れていた時点で、さっきまでが異常だったのだ。


 そうだ。僕はさっきまで、自分の足でなんて歩いていなかった。体が勝手に動いていたんだ。


 いや、違う。それは今もだ。


 住職が歩き出す。僕はそれに続く。勝手に続く。僕の意思に反して、僕のではなくなった僕の足が僕を運ぶ。


「君に見せたいものがある」


 住職はそう言って、ひとつの小さな墓石の前に立った。


 それは、綺麗に手入れされていた。


 墓前の榊も、両隣のは枯れているのにそこのものだけは新しい。今は夏休みであれどお盆前だから、丁度墓石の手入れが滞る時期なのだろう。


 藤和家ノ墓。


 綺麗な墓石に刻まれた文字。


 あのアパート。住居者不在の一室。あそこに住んでいた誰かが眠る場所。


 異常だった僕の体が、僕の物に戻る感触がした。


 途端に震えだす両足。今にも世界が暗転しそうな程、過剰に瞬きをする。そうしなければ目が乾いて失明しそうだった。


 こんな不安定な視界じゃ何も見えない。何も確認できない。


 そんなの、なんの言い訳にもならない。


 僕は、その墓の裏を見た。


「っ……!」


 そして、感じた事の無い吐き気が僕を襲う。


 目が回る。世界がピンボケを起こし、現実と非現実をかき混ぜる。


 暗い。そこは暗い夜道だった。違う、僕が今居るのは朝の墓地だ。


 でも、カメラの連続シャッターのように、今と過去が交互に流れる。


 ――その夜道には、一人の女性が立っていた。


 墓石の裏にはいくつかの名前が刻まれている。


 ――暗い夜道を車のライトが照らし、鼓膜を裂くようなクラクションが響く。


 墓石の名前を、下から確認する。


 ――僕は叫んだ。母さん、と。



 

 享年平成二十五年 藤和刹那。



 

 その母さんの名前を、今、こうして、思い出した。


「……あ、……ああ」


 墓石をなぞり、その文字に触れて確かめようとしてみた。


 でも、僕は多分どこかで、解っていたんだ。


 目を逸らしていた。解らないフリをしていた。


 証拠が無いからと、記憶が無いことに甘えていた。


 僕は昨日、全ての記憶が戻ったわけじゃないと思い込んでいた。


 でも、父親は初めから居なかったんだ。


 全部、思い出していたんだ。




 享年平成二十四年 藤和良助(りょうすけ)




 僕の記憶は、あれで全部だったんだ。




 これが、僕自身に突きつけられた、確かな真実。




 刻まれていたのは、僕の名前だ。


 墓石に伸ばしていたその手は、母さんの名前をすり抜けた。

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