僕の迷子な本心と
事務所に帰って少し休んでいたら、朝の九時くらいに川奈さんが来た。
川奈さんはデスクの上に鞄を適当に置くと、
「顔が死んでるぞ」
出会い頭の第一声として、そんな言葉をチョイスした。酷いよね。その言葉も、置かれた鞄の変わりにいくつかの書類がデスクから落ちるという有様も。
「いろいろありすぎて、疲れたよ」
「疲れた? お前が?」
川奈さんは僕を人間として見ていなかったらしい。落ちた書類を摘み上げながら鼻で笑った。
「僕だって疲れるよ。今までで三件も済ましてきたんだよ、昨日の依頼」
「で、成果は?」
「労いの言葉も無いなんて流石に冷たすぎないかな」
冷たい態度の川奈さんに冷ややかな視線を投げかけるも、彼女は何事も無いかのように事務椅子に座る。
「そうだな、おつかれ。で、成果は?」
「川奈さんに優しさを求めた僕が馬鹿だったよ」
気休めにもならない息を吐いて、僕は川奈さんにも見える場所に資料を広げた。依頼の書類だ。
最初の浮気調査についてを説明する。そして最後に、
「それで、少しだけ記憶が戻ったんだよ」
僕としては一番大事な事を付け足した。
すると、川奈さんが怪訝そうに眉をしかめさせる。
「なんだと?」
「なんかその反応だと、僕の記憶が戻らなかったほうがよかった、みたいに聞こえるんだけど……?」
「い、いや、すまん、そんなつもりは無かった」
川奈さんはわざとらしく咳払いして「で、どんな記憶だった?」と身を乗り出してきた。
「うーん、とりあえず僕はお母さんと二人で暮らしてたってことかな。それだけだよ」
「それだけ、か……?」
「うん、それだけだよ」
川奈さんは深い溜め息を吐き出して、
「そうか……」
と、脱力しながら呟く。
「なんか、安心してない?」
「ああ、少しな」
いや、それは薄情すぎませんか。
「お前は貴重な尾行要員だからな」
理由がさらに最悪だよね。まあいいや、今に始まった事じゃないし。
「で、次の夜遊び少年は、普通の友達と肝試しに夢中だったよ。別に、変な連中と変なことしてたわけじゃなかった」
いや、変な事はしてたけどね。思わず爆破したくなる程変なことを。
「肝試し、か……」
川奈さんの表情が引きつる。そういうのが苦手なのかな。
「川奈さんは肝試しとかしないの?」
「まあ、しないな」
「苦手なの?」
「いや、意味が無いからだ」
「意味が無い?」
川奈さんはデスクの横に掛けてあった袋から缶コーヒーを取り出し、開ける。
「ああ、全く、無意味だ」
相変わらずかっこつけた仕種でコーヒーを飲む川奈さん。でもその缶のパッケージに甘口と書いてあるから、割と全部台無しだ。
「意味ならあるじゃないか。肝試しなんてただの遊びなんだし、楽しければよくない?」
苦手だとしても、怖いからこそ楽しめる、というものなんじゃないかな、というのが僕の持論。でも、川奈さんは違ったらしい。
「だからこそ、意味が無いんだ」
「え?」
缶コーヒーをデスクに置いて、一息ついて、蔑むような目で僕を見る。
「例えば、お前は刃物を持つことに恐怖を感じるか?」
「まあ、切れちゃうからね」
鋭利なものならなおさらだ。
「だが、刃物を持つのが当たり前の料理人は刃物を恐れるか?」
「……恐れない、かな?」
料理人じゃないから解らないけど。
「そういうことだ」
「ごめん、話の繋がりが全く掴めない」
今ので理解できる人が居るのだろうか。居るとは思えない。説明が足りな過ぎる。
川奈さんはめんどくさそうに首を鳴らして、
「私は幽霊が見えるんだ。生まれつきでな。だから、今更幽霊が怖いとは思わん」
そう言った。
今日何度目かの思考停止。
時間は何時だ? 解らない。
ここはどこ? 解らない。
僕は誰? これは元々解らない。
「えっと、幽霊とかって、本当に居るの?」
なんとか振り絞ったのがこんな質問。面白味も何も無い。
だが、川奈さんは当然のように答える。
「実際に私は見てきた。話してきた。触れてきた。もし全てが私の幻覚や幻聴だったなら、私は今私が持つ全ての物を捨て去り、自由になった両手を千切れるほど振って喜ぶだろう。そう思う程度には見てきた」
僕は僕が信じていないものは信じられない。そういう性格なのだから、仕方ない。でも、それを語る川奈さんの表情が、窓の外を見ているのか、窓そのものを見ているのかさえ判断できない不安定な視線が、その言葉の信憑性を僕に叩きつけてくる。
「大変なんだね、そういうのも」
僕は素直にそう言った。幽霊が居るって信じるにしても信じないにしても、川奈さんが何かを体験してきた事に変わりは無いのだから。
「私の事はいい。その尾行対象は、どこで肝試しをしていた?」
再び缶コーヒーを手に持って、身を乗り出してくる。
「なんか、寺に繋がる林道、だったかな」
「……」
川奈さんの表情が凍り付く。缶コーヒーをデスクに置いて、頭を抱える。
「まさかそこって、本当に出る場所だったり?」
「いや、それは無い。あそこはまず、絶対に出ない」
「じゃあどうしたのさ」
僕の問いに、川奈さんは少し考える仕種をして、
「あそこは寺の私有地だろう。遊びで勝手に入っていい場所じゃない」
そう言った。それもそうか。常識だよね。
缶コーヒーに付いた水滴を几帳面に拭う川奈さん。本当はがさつな人間のくせに、なに潔癖ぶってんだよ、とは言わない。
「しかもあの少年少女、僕を見て幽霊扱いしたんだ。本当、非常識だよね」
「……ああ、それは笑えないな」
「本当、酷いよね」
まあ、川奈さん程ではないけど。
川奈さんは缶コーヒーをデスクに置いたまま、底の円を沿わして転がして遊んでいた。どうでもいいけど、飲めないなら買わなきゃいいのに。
「しかしな、お前は少年少女と言ったが、おおよそ同い年くらいだろう? 見た目からして高校生くらいだし」
「うん、まあね」
「お前もなかなか非常識だよな」
「否定はしないよ」
川奈さん程ではないけどね。
「閑話休題」
僕は言う。
「口で言うものなのか、それは」
「さあ。僕は非常識だからね」
「なぜここに来て根に持ってるんだ、お前は。そういうキャラじゃないだろう。もっと良くも悪くも淡白な人間だろう」
「知らない」
「その、なんだ、すまなかった」
「うん、じゃあ話を戻すね」
「にこやかだな、おい」
あの川奈さんが僕に謝ってくれたんだから、すっきりもするさ。
「この不審人物の調査なんだけど、ひとつ気になることがあったんだ」
「なんだ?」
「あそこ、なんて言ったっけ。僕が目覚めた公園。あすなろ公園だっけ。あそこの前で事故ってあった?」
あの男性が花束の前に立っていたのは黙祷か何かだったのかもしれない。そしてもしかしたら、僕のあの記憶と関りがあるかもしれない。なら、聞くしかない。
「ああ。あった」
即答だった。質問してから、数秒の間も無い。まるで、用意されていたかのような回答。
「交通事故だ。訳あって私もその事について調べていたんだが、まさかお前の口からその話題が振られるとは思っていなかった」
「ということは、まさか……」
嫌な空気が包み込む。さっきまでのおかしな空気が異空間でしたとでも言い出しそうな、強情な空気が。
しかし、
「事故があったのは二年前だ」
川奈さんは言った。
「事故が起きたのは夜だな。巻き込まれたのは一組の親子で、今はもう、どちらも死んでいる」
僕の記憶と矛盾が生じる。僕の記憶と繋がりがあるなら事故は一ヶ月前にないといけないし、なにより被害者は両方死んでいるというのだ。なら、僕の件とは無関係だろう。そう思うと自然に肩の力が抜けて、重りが軽くなった。
「あれ、でも川奈さんはなんで、そんな前の事故の事を調べてるの?」
しかも事件ですらないのだから、不思議だ。
川奈さんは答えた。
「その事故から、あの公園の入り口前にある横断歩道、つまり事故の現場を渡ろうとする親子が必ず転ぶ、という怪奇現象が起きるようになったんだ」
「……はい?」
「まあ呆けないで聞け。それは長らく続いていて、いつの間にかあの横断歩道は呪われた場所とされ、少なくとも親子は利用しなくなった。必ず、例外無く絶対に転ぶのだから、当然だな」
そうか、それであそこはあんなに人が通らなかったのか。納得だ。
「しかし、最近になって、その怪奇現象が起きなくなっていることに誰かが気付いたらしいんだ」
「へえ、よかったね」
それが発覚したということは、その呪われた場所を親子で通ろうとした馬鹿な人が居たってことなんだろうけど、そこは触れないでおこう。
「ああ、良い事だ。……表向きはな」
その意味深過ぎる言葉は、頭の悪い僕にはよく解らなかった。
「どういうこと?」
問うと川奈さんは、さっき缶コーヒーを出した袋から棒付きキャンディーを取り出した。
「私は苦党である」
「どの口が言うの?」
しかも唐突だし。若干意味が解らない。
「それだ」
ビニールを外して、飴を口に含ませる川奈さん。子供みたいだ、という風にはならない。川奈さんはどう見たって、かっこつけてるほうが様になる、大人っぽい外見だ。外見だけだけど。
「どれ?」
話がいちいち比喩なものだから、川奈さんの話は難しく聞こえる。でも、本質を突くと実はそんなに難しくない、なんてことはよくある。
「私は間違いなく甘党だ。しかし、かっこつけるためには苦党であるふりをしなければならない。いわゆる体裁というやつだな」「それは偏見じゃない?」「まあ黙って聞け」
僕の指摘は一蹴されてしまった。見事なスルーである。
「この事象もそうなのだ。横断歩道を渡ろうとしたら転ぶ。だから怪奇現象と呼ばなければならない。なら、何故それが突然無くなるまで放置されていたと思う?」
「……どうしようもなかったから?」
「違う」
即答された。ちょっと傷付く。
「この横断歩道だがな、昔からこの近くに交番が無かった事もあり、車のほうも歩行者のほうもマナーが酷かったんだ」
川奈さんは説明を続ける。
「その事故をきっかけに交番が設置されるようになったのだが、それだけでマナー違反が直るとは考えにくい」
「……だから、怪奇現象をそのままにした?」
「そうだ」
僕の考えが当たってしまった。願わくば、外れていてほしかったのに。
「交通ルールを守らせる抑止力にするため、その明らかな怪奇現象を残した。表向きだけは供養をしてな」
「じゃあ、ちゃんとした供養はされなかったってこと?」
「……ああ、そうだ」
「うわっ……」
呼吸が止まった。脳が酸素を拒絶しているようで、気持ち悪かった。この気持ち悪さを一言で表すなら、くそったれ、だ。
もし幽霊が居たとして、そこに留まってしまっているのなら、なんて残酷な話なのだろうか。利用するために残され続ける。帰るべき場所にも帰れずに。
そんなの、あんまりだ。
でも、
「しかし、その怪奇現象が、いきなりなくなったんだ。誰も供養しておらず、誰も望んでいないのに」
「あ……」
それは、と、僕は思う。誰も望んでいないなんてことはない、と。
あの男性だ。公園の前で何十分も立っていた、あの人。あの人は、その幽霊が成仏することを望んだはずだ。だって、何十分もあんなところに立っていたのだから、その事故の被害者を想っていたに違いない。
「そして私は探偵であり、霊感持ちだ。だから、何故、どういう経緯でその怪奇現象が消えたのか、そもそも何故怪奇現象が起きていたのか、調べていたんだ」
成るほど、と、納得する事が出来なかった。そっとしておいてやれよ、と。
誰だ、そんな依頼を出した奴は。ふざけるな。どこまで利用するつもりだ。
「死んだ人間まで利用するなんて、最低だ」
「……そうだな。最低だ」
川奈さんに答えられて、自分が言葉に出してしまっていた事に気付く。わざわざ言う必要なんてなかったはずなのに。
「本当は逆で、調べるようにと頼まれた事を調べていたらそこに繋がったんだがな」
「……え?」
「いや、なんでもない」
川奈さんの言葉は、小さすぎてよく聞き取れなかった。いや、正確に言うと聞き取る事は出来たのだけど、言い直した前と後の違いが理解出来なかったのだ。
「それで、依頼の方はどうだったんだ?」
聞き直すより先手を打たれ話題が変わる。
「あ、ああ、うん。この男性、住居不法侵入してるかも」
「というと?」
「公園の前でずっと立ってて、その後にアパートの中に入っていったんだけど、そこ、長年放置されてる感じだったんだよね。藤和って人が使ってたみたいだけど、あの男性が藤和さんかどうかは解らなかった」
凛という少女と別れた後に表札も確認したからね。僕って抜かりない。
「藤和、だと?」
「うん。聞き覚えがあるの?」
「一応、な」
歯切れの悪い川奈さんは、実は結構珍しい。普段は態度が大きいからね。
川奈さんは背もたれに寄りかかって天井を見上げる。そして舌打ちをしながら目頭を押さえ、
「お前は、この件から手を引いていい。あとは私がやる」
そう言った。
「川奈さんが僕に、半端なとこで仕事を切り上げさせるなんて……明日は雨か……」
大変だ。もしかしたら夏雪が降るかもしれない。
「そういう時もある」
「夏に雪が降ることがよくあるの!?」
「お前は何を言っているんだ?」
しまった、珍し過ぎて混乱してた。
「この件から手を引く、ね。解ったよ。というか、最初からそうするつもりだったし」
「どういうことだ?」
「それがね」
僕は仕事中に出会った女の子のことについて話した。
「その凛って子に、ここにはもう来るなって言われちゃったんだよね」
「……」
頭を抱えてうずくまる川奈さん。
「川奈さん? もしかして、知り合い?」
「ああ、まあな」
小さく頷く。あまり良い知り合いでは無いのかな。確かに、川奈さんは子供とか嫌いそうだからな。
それにしても、世間って狭いね。こんなに知り合いが溢れてるのは、川奈さんの人徳? それとも僕が少ないの?
「お前は、この件には関わらないほうがいいな。本気で」
なにか因縁じみたあものがありそうだな、と思ってしまうほど、川奈さんはげっそりしていた。相手は子供なのにね。
「でも、なんで僕は、初対面の女の子にあんな嫌われちゃったんだろ」
もしかしたら失くした記憶の中で会った事があるのかもしれない、とも思ったけど、それなら向こうからわざわざ自己紹介なんてしないだろう。
そんなことを考えていたら、川奈さんはくだらない、と言いたげに鼻で笑った。
「安心しろ。それは無い」
「なんでそう言い切れるの?」
「その凛という子は私の知り合いなのだが、おそらくその時、近くに父親も居たのだろう。そんな朝早くに、あの子の家からあんな遠い場所に一人で来るはずが無いからな」
家まで知ってる間柄なんだ、という意味の無いコメントは自重して、続きを聞く。
「その父親とお前を会わせたくなかったのだろう。あれの父親は、少なくともお前は会わないほうが良い類の人種だからな」
つまり、剃りが合わないと言いたいのだろう。どんな風に合わないのか少し気になったけど、聞く前に話が進められた。
「凛はお前の事を気に入った。少なくとも父親には会わせたくないと思える程度には」
その基準って普通に通用するものなのかな、とは思った。だけど僕と川奈さんとでは生きてきた環境が違うのだろうし、持ち得ている常識という物が異なるのは仕方ない事だろう。なら、ここは大人しく納得しておこう。無闇につついたら川奈さんのことだ。話が脱線する確率はサバイバルゲームで主人公達が乗った電車並だ。
……なんでこんなこと覚えてるんだろうか、僕は。まともな記憶も無いっていうのに。
「そういうわけだから、その凛という子の気持ちも汲んで、お前はもうあの近くには行くな。解ったな?」
「えっと、うん、解った」
僕は川奈さんには逆らえないのです。
というわけで、これで三つの依頼を完遂したわけだけど、いや、本当は完遂はしてないけど、完遂したということにして、四つ目の依頼に取り掛かることにした。
残りの二つもまた浮気調査なのだけれど、いかんせん気が乗らないのは、その二つの内容が、最初の依頼と殆ど同じだからだ。仕事を選べる立場では無い、なんて事は、誰かに言われるまでも無く自覚している。しかしそれでも、僕は一応、推定高校生ぐらいの年齢なんだぞ。それなのになんで自分から浮気現場を目撃しに行かないといけないんだ? しかも他人の。昼ドラかよって。
考え事をしながら尾行対象を追うのはもはや慣れた。ここ二回は失敗しちゃったから気を抜いたら駄目なんだろうけど、多分もうこれが癖になってるんだよね。
昼過ぎの商店街が尾行の舞台。廃れている、というわけでは無いと思うけど、所々シャッターが下りていて、寂しい感じはする。僕が経営者なら、こんなところには店を出したくは無いな、と思えるぐらいには。
そして尾行対象はと言うと、三十代後半ぐらいの女性だ。依頼人はその夫で、最近、この時間帯になるとよく若い男と歩いている、という噂を近所の人から聞いた、というものだった。なんかもうその噂を聞いてる時点で黒だよね、と思ったけど、ここ最近の僕のカンは的中率がマイナス振り切りゼロに戻ってきそうな代物だ。つまり当たらないという事である。逆転の発想でカンが働いたのと逆の仮説を立ててみたらどうだろう、と思いついたときには自分って実は天才なんじゃないかと期待した。でもすぐにそれが無意味だと悟った。きっかけは聞かないでほしい。
こんな感じで現実逃避に近い考え事をしているのには理由がある。僕はどうやら、直視した現実から目を逸らしたり、受け入れる時のショックを和らげるために余計な考え事をして心のクッションを作ろうとしているらしい。
今、目を逸らしたい現実。それは、尾行対象の行動だ。
隣には男が居た。しかも若く、スマートで、女性受けしそうな雰囲気だった。人妻の浮気相手としては打って付けだろう。
一応、適度な距離は保たれていた。でも、その二人の表情が怪しい。「今日はどこに行く?」などという言葉が尾行対象の口から漏れたと思えば「昨日は旅行会社を見てきたから、今日はアクセサリーを見にいきましょうか」男がそう答える。そんな感じで、いわゆるデートっぽい雰囲気のやりとりが多かった。
全部の会話が聞き取れたわけじゃないけど、昨日はどこに行った、とか、先週見た場所はすごかったなー、とか、デートを楽しむ、というより、デートに適した場所を探すのが楽しい、というような様子で、お前らもう付き合っちゃえよ、なんて笑えない冗談が心の割りと浅いところから滲み出てくるような空気。
少しの間尾行を続けていたら、今日は本当にアクセサリー店ばかりを回っていた。全部で四箇所くらいか。散策は商店街には留まらず、近くのデパートとか、町外れの深い場所とかも回っていた。結局ひとつも買わなかったみたいだけど、よく飽きないものだと関心する。
そして、ようやく一段落ついたのか、二人は今日一日の感想を述べ合っていた。デートの所要時間はおおよそ二時間半くらい。浮気のデートにしては妥当なのかな?
しかし、
「本当に、いつもありがとうね、ケイ君」
「いえいえ、これでも情報屋の端くれですから」
ふと、おかしな会話が聞こえた。え? なんだって?
商店街に戻ってきた二人は、隅っこで街路樹を囲うように設置されたベンチに腰掛けた。
「いつも情報を買ってくれている奥さんには、多少のサービスも付けないと失礼ですからね」
「あらあら、商売上手ねえ」
なに、この会話、本当に現実?
僕が物陰からこっそり覗いていた、その時、
「何をしているんだ、加奈子!」
そんな罵声が、落ち着いた午後の空気を打ち壊す。
「あ、アナタ?」
尾行対象の女性が呆然と呟く。
「加奈子、その男は誰だ!」
「アナタ、どうしてここに……?」
奇遇だね奥さん。僕もそれが聞きたかったんだ。なんで依頼人が直接出てきてるのさ。
「そんなものは抜け出してきた!」
依頼の意味について僕は問いたい。
依頼人である旦那さんは、今にも蒸気を上げそうな程必死な形相で、尾行対象と一緒に居た若い男に詰め寄った。
「貴様、私の妻に何か用かな」
威厳のある、重い声だった。
胸倉を摑まれた若い男の踵が地面から離れる程強く握られた拳。一触即発。怒髪天を突く、といった様子で、それは当然のように、辺りの視線を牛耳っていた。
「いやいや、なんといいますか」
答えあぐねる若い男。当然だ。依頼主の放つ威圧感は尋常じゃなく強烈だ。でもだからって、女性のほうに助けを求めるような視線を送るのはどうかと思うよ。
「……あなた」
「なんだ」
やけに冷め切った奥さんの呼びかけに、旦那さんも同じように冷たく聞き返す。
そして、
「――その手を離しなさい」
「!」
この旦那にしてこの妻有り。旦那の異常な威圧感を弾き飛ばした上での倍返しは、旦那さんだけでなく辺りの野次馬ごと凍りつかせた。
「アナタ。来月になにがあるか、覚えていますか?」
「来月……? 結婚記念日の事か?」
「はい、その通りです。ではアナタは、来月の結婚記念日の予定はお決まりでしょうか?」
「そんなもの、今まで通りで良いだろう。今まで、不満など見せていなかったではないか」
なんだろう。夫婦喧嘩がいきなり微笑ましく見えてきたぞ。
奥さんは、どこの肺にそんな沢山の空気が入ってたんだ、と思うぐらい深い溜息を吐いた。
「不満はありませんでしたよ。ただし、今年は別です」
「……何故だ」
「丁度、十年目だからです」
「あ……」
うわあ、立場が一気に逆転したぞ。穴が開いた風船よろしく旦那さんが小さくなっていく。
「アナタは去年までと同じプランで済ませようとしているみたいでしたから、私のほうで勝手にプラン変更させていただきました。この情報屋さんの協力の下に、です」
「な、なるほど……」
いたたまれない! これはいたたまれないよ旦那さん!
「解って頂けたなら、その手を離しなさい」
「……あ、はい」
そういえばそうだった。
胸倉を摑まれたままだった若い男は、いきなり解放されて地面に膝を着き、咳き込む。かわいそうだなあ、男二人共。加害者不在の事件って、誰も報われないよね。
「まったく」
奥さんは態度だけで呆れたと語り、
「用事は済みましたし、帰りますよ、アナタ。罰として、私が立てた結婚記念には期待しないこと。いいですね?」
「はい」
限界まで小さくなった旦那さんを引っ張るようにして、奥さんは若い男に謝罪と礼を告げながら、視線が集まったその空間から離れていった。
期待しないこと。
それは罰なんかじゃない、と、縮こまった旦那さん以外の人間は知っている。一部始終を見ていた野次馬にだって解るような事だ。
きっとその代償は、今日回ったアクセサリー店のどこかで、支払わされることになるのだろう。
結論を述べるまでも無く、今回の依頼は解決した。
色々と尾行をしていて、たまに思う。僕は、これでいいのかと。
例えばさっきみたいに、父親が疑って、でも本当は疑う必要なんて無かったことで。そんなことがよくあることを、嫌でも察してしまう。嫌疑してしまう。そんな環境は、どちらかと言えばろくでもない環境だろう。そしてその疑いが本当に必要だったものの場合、人はどうなってしまうのだろうか。
知らぬが仏という言葉がある。それを免罪符にするつもりは無いけれど、知らなかったほうが良かった事もたくさんあると思うのだ。何度か浮気現場とか修羅場も目撃してるからこそ、はっきりと言える。
騙すなら上手く騙せばいい。騙されてしまえばそれで問題は無いはずだ。浮気とかだって、そんな感じじゃないだろうか。バレなければ、最初から疑われるような事をしなければ、誰だって不幸にはならないはずだ。
なら、もしかしたら、僕のこの記憶もまた、知らないほうが良い事なのではないかと。
だって、僕は今の生活に満足しているから。
記憶を失くす前の生活が今より悪かったから、本能がそう叫んでるのかもしれない。このままでいい、と、納得してしまっているのかもしれない。例えば本を読んだ事の無い人が本の面白さを知らず、本の無い生活に満足しているようなものだ。記憶の無い僕には生活の比較対象が無いから、欲が芽生えないのかもしれない。
どちらにせよ、僕は記憶が無いと前の生活に戻れないから困ると言っていたけれど、本当に困っているかと言えば、別に困ってはいないのだ。川奈さんも僕のことをこき使っているし、きっと、このままというのもまんざらじゃないはずだ。
だから、このままでいいのではないかと思ってしまって、そんな自分が間違っているような気がしてならないのに、やっぱり焦りとかは無くて。
僕は今、箱の中に居る。実際は街を歩いて事務所に向かっている最中なのだけど、比喩的な意味で、箱の中というのが適切だ。
僕は何も知らない。僕の現状については勿論、僕の周りで、僕の近くで何が起きたのかさえも解らない。真っ暗な状態。
記憶を取り戻したら、その箱は開く。視界は広がって、どこにでも行けるようになるかもしれない。
でも、だけど、もしも。
箱が開いたその場所が大海原だったら、僕はどうなってしまうのか。
遭難していたのだと知ってしまった僕が今みたいに正気で居られるのか、なんて、はっきり言って自信が無い。
ここまで考えておきながら、何も纏まらないまま事務所に着いた。
中に川奈さんは居なくて、変わりに置手紙があった。大学の午後の講習を受けに行く、とのこと。そういえば大学生なんだっけ。メモの最後に小さく、あの公園には行くな、と、念を押すような事が書いてあった。行ったら駄目なのって朝だけじゃなかったっけ。でも、別に川奈さんに言われなくても行かないし、川奈さんに用があったわけでも無い。事務所には次の依頼を確認するために戻ってきただけだ。
次もまた浮気調査だ。そろそろ発狂していいかな。
とはいえ今回渡された依頼って、どれも探偵的には外れかもしれないけど、人間的には当たりの依頼なんだよね。尾行対象が実は良い人だったって、肩透かし感は否めないけど、心は温かくなる。
良い小説を読んだ時のそれに似ているかもしれない。傍観者でありながら、その物語に携われたような気分になって、その一端を担えたらもっと良いのだろうけど、自分まで良い事をしたみたいな気分になれる。
だから、こういう事があるから、こんな仕事も嫌いじゃない。川奈さんによる非人道的な僕の扱いにも耐えられる。
次の依頼は夕方からで、あと一時間ぐらい休める。これだけで充分だ、と思えるのは僕の体力がすごいから? それともこれが当たり前なの?
この探偵事務所に居るのだから当然、法律についても知る機会が多い。労働基準によると僕の働きは異常なのだけど、二十歳になる前に煙草を吸っている人が割りと沢山居るように、法律なんて飾りにしかならないものが多々ある。僕のこれもそういう形だけのものなのだろうか。
「さて」
もはや悪癖とも思えるこの無駄な思考とはしばしの別れを。スイッチを切り替え、最近の記憶について、整理しておこう。
もう二度と、失くしてしまわないように。気付いたらまた失くしていた、なんてことが無いように。
最初の依頼で、僕は記憶の一部を取り戻した。僕には父親が居なかったことを、そこで知った。母親は体調を崩しているようで、健康食がテーブルに並べられていた。
事務所に帰ったら川奈さんはもう居なくて、頭を落ち着かせるため、少し休んだ。
次の依頼で、世間は狭いと知った。尾行で行った場所は川奈さんの知っている場所だったという。ついでに嫌な勘違いもされた。入り組んだ林道のせいで迷子になり、事務所に帰ってもあまり休めなかった気がする。でも、気休め程度の休息は取った。
次は、凛ちゃんと出会った。そしてここにはもう来ないでと言われた。尾行対象については、川奈さんが引き継いでくれた。
事務所に戻って少ししたら川奈さんが来て、色々と話をした。その凛ちゃんと川奈さんは知り合いだった。やっぱり世間は狭い。あと、凛ちゃんと川奈さんは霊感があるという。真偽は不明。
二年前の事故についての話もした。かわいそうだな、とは思ったけど、なによりかわいそうなのは、そこで死んだ幽霊が、良いように利用されていたという事だ。酷い話である。でも、いつの間にかその幽霊もとい怪奇現象は消えていたらしい。誰かが供養してくれたのかもしれない。
そして、さっきだ。
世の中は良い事と悪い事がごちゃ混ぜになっていて、それこそ黒砂糖で無理矢理甘くしたコーヒーみたいな、酷い後味の曖昧なものになっている。自分が本当はどうなりたいのかも解らないっていうのに傍観者なんて気取っている僕が居る、というこれまた酷い事実にも気付いた。
現在。僕は次の依頼のため、待機中。
「……?」
なにかがおかしい。そう思った。
どこかの何かが足りない気がして、僕は辺りを見回した。そんなに広くない事務所だ、動かなくても全体が見渡せる。
先生が使っていたのであろう、使い込めれていながらも綺麗なデスクと、それと対を成す、散らかった川奈さんのデスク。接客用のテーブルと、それを挟んだ古いソファー。部屋の隅には、ガラクタが積み上げられていた。テレビもパソコンも無いこの事務所には、収納スペースすらも無いのだ。
そんな感じで、僕の記憶の限りででは、無くなっているものは無い。僕の記憶じゃないんだから、そんな簡単に物が無くなったりしない。
なら、さっきの感覚はなんだ?
僕の記憶の整理の中に、何か足りないものがあったのかもしれない。でも、何が引っかかるのか解らない。
ふと、缶コーヒーをいじっている川奈さんが頭を過ぎる。
「あれ?」
なんであの場面?
解らない。あの時した会話に違和感を感じたのか、はたまたその景色そのものか。
でも、僕は頭が良いわけじゃないし、記憶力も悪いほうだと思う。だから、そこらへんの都合だろう。脳みそがちゃんと働いてくれないんだ。僕の思考はキリギリス。なんか語感が良いと思ったのは僕だけ?
「まあ、いいや」
記憶に齟齬があるのなら、それはそれで構わない。もし僕が本気で記憶を取り戻したいと思っているのならありえない結論なのだろうけど、結局その回答に行き着いてしまうという事は、つまりそういう事なのだろう。
僕は僕だ。他の誰でも無い。
もし、記憶が無いのに平然としているのが間違いだというのなら、僕は存在そのものが間違えているのかもしれない。例えば川奈さん曰く存在するという幽霊みたいに。そこに存在するはずが無く、科学的にも判明されていない、魂という不可視な物質。あるはずも無いのに存在してしまうそれは、そこに在って尚も間違いだ。それと同じように。
「ま、別にいいか」
例え僕が、そんな幽霊みたいな存在なのだとしても、何かが間違えているのだとしても、それならそこに存在する間違いとして受け入れればいい。
こういう考え方ってなんて呼ぶんだっけ。能天気、と言えばそういうことかもしれないけど、少し違う気がする。
「そろそろ行かなきゃ」
暇潰しの無駄な思考。今回はやけに深いテーマでお送りしました。パーソナリティは僕。視聴者は黄昏に染まりつつある空――を透かす窓に写った僕。そんで世界を一周回って後ろから見た僕の提供でお送りしました。酷く虚しくなる遊びだから、皆も是非やってみてね。
しっかりと終わらせてから、頭の中で書類をファイルに閉じて保存するイメージを浮かべる。これで記憶の整頓は多分大丈夫。そして脳のスイッチを切り替え、僕は事務所を出た。
何度も言うけど、次もまた浮気調査だ。尾行対象は女性。三十半ばくらいの年で、既に高校生の息子が居る。依頼主はその息子だった。
資料の中には手紙も入っていて、高校生が書いた感情的なそれの内容はこうだ。
『自分は、出来婚(子供が出来たから結婚する事)で産まれた。両親は二人とも若くて大変だったという。だから遊びたい盛りに遊べず、苦労もかけた。自分が大きくなりバイトもするようになって、二人がラクになったらいいと思っていた。
でも最近、母の挙動がおかしい。
父はそれを自分の稼ぎが少ないから、母に無理をさせてしまっているから、疲れているのだろうと言っていた。
自分にはそうは見えない。
浮気をしているのではないだろうかと、疑ってしまった。
色々と疑わしい物品も出てきたけど、決定的な証拠が無い。
しかし自分も父もバイトや仕事で忙しい。
だから変わりに、探偵さんに調べてもらいたい。
自分は学校の後はすぐにバイトだし、父は帰りが遅い。
もし、万が一、有り得ないとは思うけど、母が浮気をしているのだとしたら、自分は母を許せないだろう。
親不幸な行いなのかもしれないけど、自分は両親にとても感謝しているし、尊敬もしているけど、でも、父が頑張ってくれている中で、その父を、母が裏切るような事をしているとしたら。そう考えただけで鳥肌が立つ。
お願いします。瀬野探偵事務所様。自分達を、安心させてください。疑ってしまってはもう忘れられない。
どうかもう一度、母を信じさせて下さい』
ちなみに、正直に言うと、僕は探偵としてやってはいけない事ランキングベスト三に入る事をしてしまっていた。どこかの小説で読んだのか、テレビで見た事があるのか、僕の失くした記憶の中でも残されていたもの、つまり知識や常識の中に、探偵の仕事は疑う事、というのが含まれていた。それがどういう意味なのか、解っていなかった。
いや、多分、解りたくなかったんだ。信じる事が間違えてるなんて、思いたくなかったから。
溺れる中で掴んだ藁。それと一緒に沈んでいくなんて、僕は一体どこまで滑稽なのか。
目の前に、豪華な装飾に身を包んだ男と、腕を組んで歩く女が居る。あの女が、今回の尾行対象。
その隣の男は、尾行対象の父親なんかじゃない。
どうしようもない程決定的に、この上なく徹底的な、浮気だった。
「……なに、してんだよ」
思わず呟いた自分の声の低さに驚いた。でも、周りには気付かれなかった。当然だ。ここは人通りの多い繁華街で、しかも夕方と繁盛する時間なのだから。僕の呟きなんかは雑踏に紛れ、流れて消えた。
隠れようとしなくても、隠れてしまう。それだけ人通りがある中で、どうか知り合いの方が居たら見つけて下さいと言わんばかりに堂々と、その女は、隣の男に露骨な愛情を注いでいる。
会話は聞こえない。もしかしたら、前の依頼みたいに、情報屋やらなにやらだという可能性もある。もう少し尾行を続けよう。そう踏み留まったのは、あの手紙があったせいだ。
息子は、家族想いだった。尊敬していると、信じたいと、確かに書いてあったのだ。
なら、それだけ信じる価値のある人間なんだろう? だったら、僕だって信じる。
――祈りが怒りへ変わる瞬間に、吐き気を感じた事はあるだろうか。
僕は、こういう仕事をしてから何度か経験してるけれど、相変わらず酷いものだ。
それは尾行対象と浮気相手がラブホテルに入っていった事で湧き上がったものだけど、問題は僕の中にある。
信じたのに、裏切られた。その希望から絶望に移ろいゆく心を、同じ心が拒絶する。吐いてラクになるのは身体的な症状の時だけなのに、それでも人間の体はそういうふうに出来ているのか、少しでもラクになるのならと、その可能性に縋る。
僕だけの癖なのかもしれない。でも、僕にとっては僕の世界が全てなのだ。
僕以外の人の心は見えない。触れられない。
自己嫌悪に似た不快感が血液に混じって体中を跋扈する。そのせいで脱力感に襲われて立ち尽くす。
つまり、僕は途方に暮れたという事だ。
雑踏は立ち尽くす僕に気付かず流れていくのに、人が減る気配は無い。それがやけにムカついて、お前らバカだろ。なにが楽しくて笑ってるんだ、と、心の中で悪態を吐いた。
縋りついた藁が、僕と一緒に沈んでいく。
知りたくなんて無かった事実を知ってしまえば、依頼主の少年はどうなるのだろう。
知っているのは僕だけだ。溺れたのはまだ僕だけだ。僕が依頼の報告として浮気は無かったと嘘を吐けば、縋りついた藁を手放せば、少年は溺れずに済む。
「……どうすればいいんだよ」
探偵の仕事は疑う事だ。なのにここ数日ちょっと良い事が続いたからって浮かれて、依頼主の純粋さを免罪符に探偵の仕事を放棄して、勝手に被害者面している僕が居る。
「なんて言えばいいんだよ……」
その答えなんて出ないまま、時間と雑踏だけが流れていった。
おおよそ二時間後に、尾行対象は出てきた。
当然のように繋がれた腕。それを見て、体に血を送る心臓が握り潰されたんじゃないかと思ってしまうほどの圧迫感が僕を襲った。
不快感を伴った血液が脳を満たして、全部壊しちまえよと本能が叫ぶ。
苦しい。
この場で暴れ出して、周りの人も巻き込んで、家族を裏切っているアイツをぶちのめしてやりたい。
ふざけるな、と心が叫ぶ。
なに笑ってんだ。なに幸せそうな面してんだ。
繁華街に溶け込もうとするその二つの人影を見逃さないよう睨みながら、僕は後を着ける。
これでどうするつもりだ? もう依頼は終わってる。黒で決着だ。この事実はもう揺らがない。でも、今ならまだ間に合うんじゃないか? そいつと別れろ、と僕が言えば、説得すれば……。
「お兄ちゃん見っけ」
鈴を転がしたみたいな声がした。
一瞬誰のことか解らなかったけど、それが聞き覚えのある声だったから、振り向く。
「り、凛ちゃん?」
「そうだよー」
小学生ぐらいの女の子だ。雰囲気は天真爛漫といった感じ。
「悪者さんの顔してたから、正義の味方のわたしがやっつけに来たよっ」
「あ……」
どうしてこんなところに居るのか、とかより、まず、心配をかけてしまった事に罪悪感を覚える。小学生に心配かけるって、最悪だよね。
とにかく、気持ちを落ち着かせるために一旦辺りを見回した。
ここは繁華街の出口だ。人通りはやっぱり多いけど、さっきまで程じゃない。でも、凛ちゃんに声をかけられたせいで尾行対象は見失った。……まあいいか、どうせ依頼は終わってたんだし。
「えっと、悪者って、まさか僕?」
気を取り直して、凛ちゃんと向き合う。
すると凛ちゃんは大きな挙動で、
「うんっ」
明るい笑顔付きで頷かれた。右手には和風テイストなブレスレットを着けていて、これで悪者を倒します、とでも言い出しそうな勢いで見せ付けてくる。毎朝日曜にやってる女の子向きアニメみたいなノリだろうか。
どうせ尾行対象も見逃しちゃったし、少しくらいなら付き合っても良いかな。
「ぐへへ、そうだよ僕が悪者だよー」
これはやり過ぎだろ。慣れない事をするからこうなるんだぞ僕。反省しろ変態。
「大丈夫なのですっ。お兄ちゃんはもう悪者では無いのですっ。わたしが浄化しましたっ。安心なのですっ」
胸を張って主張する凛ちゃん。その整った自慢げな表情に、そこはかとない既視感を覚えた。
「ありゃりゃ、ちょっと肩透かし感……。意を決して悪ノリした意味が……」
あれはやり過ぎたという自覚はあっても、こうも無下にされると少しだけ寂しいよね。
「こう見えて凛は優秀なのですっ。でも良かった。わたしにもなんとか出来る状態で」
そう言って彼女はイヒヒと笑う。
そこでやっと、あ、そうか、僕が彼女に救われたんだと自覚した。
自分で言うのもなんだけど、さっきまでの僕はどうにかしていた。考えてみたらただの浮気じゃないか。何かが終わったわけじゃない。やり直せる可能性だって充分にある。
それなのに僕は先走って……、
「?」
「どうしたのですか? おにいちゃん」
先走って僕は、何をしようとしていた?
何故か、よく思い出せなかった。頭に血が昇っていたからかもしれない。
僕は凛ちゃんになんでもないよと答え、
「そういえば、どうして凛ちゃんはこんなところに居たの?」
今はもうすっかり暗くなっている。夏で日が延びているとはいえ、七時くらいにはなっているだろう。
凛ちゃんは再びニヒヒと笑い、
「お兄ちゃんを見かけたから着いてきたんだ」
と、二本立てた指を僕の前に突きつけてきた。
「へえ、すごいね。全然気付かなかったよ」
楽しそうに言う凛ちゃんを一応は褒めるけど、時間が時間だから、あまり素直に褒めれない。
「うんっ。お兄ちゃんがピンク色のホテルの前で二時間も立ちっぱなしだった時はさすがのわたしも帰ろうかと思ったっ」
「すごいね凛ちゃん、よく耐えられたねっ!」
思わず純粋に褒めてしまった。その二本の指がVサインじゃなかったなんて、僕の観察眼もまだまだだなあ。
その時ふと、周りの視線が僕達に集まっている事に気付いた。おかしな物を見るかのような目で、隠す気も無いらしいそれらは僕と凛ちゃんに纏わり付く。
流石の小学生でも気付いたらしく、凛ちゃんは少し焦った様子を浮かべていた。
「でも、やっぱり解らないよ。なんで僕を着けてきたの? しかもそんな前から」
気を紛らわせるために話題を変えながら、ここから少しでも離れるため僕らは歩き出した。こんな時間に高校生ぐらいの男子が小学生中学年くらいの女の子を連れていたら、変な目で見られるのも当然だ。
それにしても尾行する僕をさらに尾行する凛ちゃん。想像すると少しおかしい。ちゃんと年功序列になってるというどうでもいい特典付きだ。本当にどうでもいいけど。
僕がした質問に対して凛ちゃんはふと首を傾げ、
「お兄ちゃんって、あすなろ公園の前で寝てた人だよね? だから気になって追いかけたんだ。なんでここに居るのかなーって」
と、言ってきた。
「ん?」
なんの話をしているのか解らなくて少し放心してしまったけど、そういえば僕は一ヶ月前、あそこの公園の前で目覚めたのだった。目覚めたという事は当然、その前は寝ていたという事。
「うん、そうだよ」
僕は答える。どうやらあそこで寝ていたところを、凛ちゃんに見られていたらしい。
「あそこがお兄ちゃんの家なんだよね」
「うん、凛ちゃん。少し冷静に考えようか」
公園が僕の家なんて事は流石に無いと思う。記憶が無いから断言出来ないけど、そうであって欲しいとは純粋に思う。
「違うの?」
不思議そうな顔をする凛ちゃん。どうしよう、本当にそうだったら僕は絶望と共にこの身体も海に投げてしまうかもしれない。
その時ふと、決して嘘にはならない便利な回答が降って来た。
「今はね、仕事場の事務所に住み込みで働いてるんだ。だからそこが、今の僕の家なんだよ」
「そうなの?」
何故か半信半疑の凛ちゃんに、僕は瀬野探偵事務所の事と、川奈さんの事。そして、一ヶ月前あそこで目覚めたことを話した。記憶が無い、という事は、小学生には重い話題だと思い、伏せた。
そしたら凛ちゃんは、
「川奈? 川奈はわたしだよ」
そう言った。
「…………え?」
整理していた記憶の一つがいきなり自己主張を強めたもんだから、仕方なく頭の引き出しから引っ張り出す。
「もしかして凛ちゃんって、今二十歳ぐらいになるお姉さんが居たりする?」
「うんっ」
元気に頷く凛ちゃん。大変よく出来ましたの判子を押してあげたいぐらい明るい笑顔だった。どおりで、川奈さんが物知り顔で凛ちゃんの話をしていたわけだ。成る程、姉妹なのか。そういえばどことなく似ているような気がしなくも無……。いややっぱ似てないよ、こんな純粋そうな子と川奈さんを比べたら、この子と純粋という言葉に失礼だ。
「ずっと前に家出しちゃったきり一度も会えてないけど、凛にはとても優しいお姉ちゃんが居たのですっ」
その明るい言葉が、不意打ちで僕の心に突き刺さる。
それってさ、そんなに明るい口調で言う事なのかなって、そんな疑問が頭を過ぎって、痛む心と共闘して僕を黙らせた。
なんなんだよ、と、僕は思う。
口に出さないのは、凛ちゃんが悪いわけじゃないと解っているから。
悪いのは、凛ちゃんにこれが当たり前ですと思わせている環境のほうだ。
そういえば僕自身にも父親は居なかった。でも、それが当たり前だとも思っていた。
本当は当たり前なんかじゃない。そういう環境も有り得ないってわけじゃないけど、決して多くは無くて、普通だなんて事は無いはずなのに。
持っていて当たり前の物を持っていなくても、人は幸せを感じる事が出来る。
凛ちゃんの場合は、居たはずのお姉ちゃん。僕の場合は、父親の存在と自分の記憶。
それでいいのか?
僕は思った。
さっきは、それでいいという結論に至った。
でも、本当に?
違う。
無いことは悲しい事のはずだ。浮気だなんだと尾行して調べてきて、僕は、家族の素晴らしさだっていくつも見てきたじゃないか。その素晴らしいものを誰しもが持っていて、でも持っていない人間も中には居て。
そんな事実を当たり前のように受け入れてしまうのは何でだ? 受け入れさせているのは誰だ? 他の誰でも無い、世界だ。世界のほうが、知らない事は知らないようにと、そういう仕組みにしてるんだ。
なら、間違えてるのは世界のほうだ。
だから僕らは被害者で、何も悩む必要なんて無い。
だけど、だけどだ。
僕は、世界の全てを知っているわけじゃない。僕が言う世界とは、僕が見てきたものや、感じてきた常識によって作られている。僕の世界という、僕にしか感じ取れない、酷く狭くて、限定的な世界の事になる。だからやっぱり、世界のせいにしてみても、それは僕の間違いだという事になる。捻くれた僕の精一杯の自己防衛は、僕自身の手で否定された。
つまり間違えてるのは僕だという事なのだけど、僕の全てが間違えてるとは思いたくない。だから、電灯に照らされているせいなのかそれとも別の理由でか、綺麗だと思う程眩しい笑顔を振りまく凛ちゃんに、今度事務所に遊びにおいでよと微笑みかけた。
うん、と嬉しそうに頷くその笑顔をもっと輝かせてあげられたら、少なくともそれだけは、間違いなんかじゃないはずだから。