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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
襷(たすき)の行方
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僕のお座なりな現状

「聞くたびに聞かせ方が巧妙になっているな」


 呆れたように嘆息(たんそく)しながら、その女性は言った。せっかく襟付きシャツにブレザーを羽織り、タイトめなプリーツスカートでもってザ・社会人、みたいな雰囲気を出しているというのに、綺麗な黒髪を気にも留めず頭を掻いたその仕種が野生的な雰囲気も(かも)し出していた。そして僕に向けられる(いぶか)しげな表情が、その話はもういい、と言外に告げている。


「そりゃ、そうでもしないと川奈(かわな)さんは聞いてさえくれないじゃないか」


 聞いてもらえないと困るのだ。なぜなら僕には記憶が無いから。


 ここは小さな事務所で、元は白かったのであろう天井や壁はおそらく酸化によって黄ばんでいる。川奈さんは窓側にある二つ並んだデスクの引き出しを開けたり閉めたりを繰り返しながら、入り口側にある接客用のソファーに座っている僕へ向け、慌しく吐き捨てた。


「もう聞くつもりは無い。そのことについては話が着いているだろう。文才があるわけじゃなく、まともに記憶も無いお前がいくら工夫しようと、なんの意味も無い」


「そうだけどさ……」


 川奈さんは探偵だ。本当は探偵見習いらしいけど、現役大学生とかなり若く、高校の時からこの瀬野探偵事務所に勤めて勉強もして、ちゃんと仕事もこなしている。




 僕はある時、とある公園の前で目覚めた。大きくも小さくも無く、遊具で遊ぶというよりも自然に和もうぜ、というような雰囲気の、のどかな公園。


 ここはどこだろう、と思って公園の中を少し歩いて、何人かとすれ違ったけれどなんとなく物を尋ねる気にはなれなくて、公園から出てまた歩いた。足が疲れたとかってわけじゃないけど、これ以上公園から離れたら不味いかな、と思って、たまたま近くにあった交番に行った。すごく綺麗な作りだったから、多分最近出来たばかりの交番だろう。だけど、中のお巡りさんには相手にさえしてもらえなかった。多分、僕が自己紹介すらちゃんとできなかったからだ。


 僕は、自分の記憶が無い事に、その時初めて気が付いた。


 意識が覚醒(かくせい)してから三十分。自分の記憶が無いのに三十分も気付かなかったんだ。すごいよね、これなかなかすごいよね。


 ともかく、自分の記憶が無くって、助けを求めようにも皆、相手にさえしてくれなかった。薄情な人間が多いよね、この世の中って。


 困り果てていたところに、この人が現れた。川奈さんだ。


 下の名前は知らない。お前には教えたくないって理不尽な理由で教えてくれなかった。


 でも、かくいう僕も名乗っていない、というより記憶が無いから名乗りようが無いのだけれど、これでおあいこってことになるのかもしれない。


 だから記憶が無いという事も正直に告げたら、ならうちに来い、と、川奈さんが勤めている瀬野(せの)探偵事務所に連れてきてくれた。それが一ヶ月前の話だ。


 この探偵事務所の本当の開業者は今入院中らしくて居ないけど、その人にも話をつけてくれた。記憶のことについても調べてくれるらしいし、記憶が戻るまでこの事務所に置かせてくれるという。


 なんて心の広い人だ、と感動していたのは最初の日だけだった。


 翌日から僕は、その探偵事務所の仕事を手伝うことになった。働かざる者食うべからず、とのこと。しかも押し付けられる雑用の量が半端じゃない。記憶も行くあても無いからって好きなようにこき使うなんて、非道だよね。




 そういうわけで、僕は探偵業務の仕事の手伝いをする変わりに事務所に置かせてもらい、記憶についても調べてもらう、ということになった。だけど川奈さんときたら、僕の記憶について調べてる様子が全く無いんだよね。なんか騙されてるような気がするから、たまにタイミングを見計らってさっきの話を持ち出す。そうすればなんらかのアクションは起きるだろうと企んでいるのだけれど、毎回あしらわれてしまう。押しが弱い人間のようですよ、僕は。


 そして押されて何も言えなくなった僕はいつも通り、ささやかな抵抗として川奈さんを睨みつける。押して駄目なら引いてみろ、というからには、押しが強い人に対しては一歩距離を置く事が大事なのだろう。


 普段なら川奈さんがそれに気付きそうになるまで続けるのだけれど、今日は違った。


「ねぇ、川奈さん、さっきから何をしてるの?」


 さっきから同じ事を繰り返しているのが気になったのだ。


「見て解らないのか。仕事だよ」


「うん、僕には同じ引き出しを何回も開閉してるようにしか見えないんだけど、なんの仕事?」


「探偵の仕事以外に、私の仕事があるか?」


「まあ、無いよね。無いからこそもう一回聞くよ。なんの仕事?」


「……紛失物の捜索」


「ものは言い様だよね。つまりは失くし物でしょ? 川奈さん自身の」


「ちっ」


 ものすごい舌打ちが聞こえた。当たりだったらしい。


 川奈さんは引き出しの開閉を中断し、事務椅子に腰掛けた。


「依頼の契約書を失くしてしまったかもしれない」


 かなりハイレベルな問題発言が聞こえた。失くし物って表現で済むのかな、それ。


 とはいえ、物を失くしてしまったという事実にある種の説得力が伴ってしまう程に、川奈さんが使っているデスクは散らかっている。何かの資料集や書類だけではなく、ポケットティッシュやら空き缶やらゴミ入れらしきビニール袋とか明らかに仕事と関係の無い物まで乱雑に積み重ねられている辺り、都会の雑踏を揶揄して表現してみたと言えば評論家達が殺到しそうだ。


 都会で子供が親とはぐれてしまうのが常なら、そこでなんらかの書類を失くしてしまうのもまた常なのだろう。つまり、失くし物は川奈さんの自業自得ということだ。


「念のため聞くけど、どんな依頼?」


 問うと川奈さんは顎に手を当て、浅く息を吐いた。川奈さん曰く、この仕種は探偵だからこそ際立つ『考え中』のポーズで、知的さをアピールするためのかっこつけであり『特に意味は無い』らしい。ならやるなよ、とは、僕にも立場ってものがあるから言わない。


「確か、殺人事件の調査、だったか」


「かっこつけてる場合じゃないよね、それ」


 多分、探偵業務の中ではトップクラスの大事な依頼なんじゃないかな。


「なんだお前、まさか失くなったのが私のせいだ、と言いたいのか?」


「違うの?」


 川奈さんは彼女が使っているデスクが証明している通り普段からだらしないから、最初に疑ってしまうのは仕方ないだろう。でも確かに、いきなり何も聞かずに責任を押し付けられたら誰だって嫌だろうから、少し反省。


「いいか、まず、その依頼は私に対するものではない。先生に対するものだ」


「そうなの?」


「そうだ」


 川奈さんは立ち上がり、正義を語る騎士のように堂々とした立ち姿で、


「だいいち、私にそんな大事な依頼が来るわけないだろう」


 その全てを台無しにした。騎士の鎧の中身は、これを着てれば少しは生存率が上がるかな、とか考えてる姑息(こそく)な人でした。ものすごく残念だ。ついでに、立ち上がった拍子にデスクの上にあったポケットティッシュが落ちたというのも残念さを助長している。


 それでも未だに威厳を保てると思っているのか、川奈さんは言い訳を続けた。


「しかし先生は今入院中だ。お前は会ったことが無いから解らないだろうが、先生はとても素晴らしい人なんだぞ。探偵業の仲間や普段世話になっている警察からは、現代に生まれ変わったオスカー・ワイルドと呼ばれている」


「オスカー・ワイルド?」


 知らない名前、というわけではなかった。記憶は無いけど知識はある、というか、計算の仕方とか、文字も読み方とか、そういう基本的な事は覚えているのだ。


 オスカー・ワイルドは確か昔の物書きだった気がする。少なくとも探偵の異名としてはどうなのだろう。普通はジェームズとかじゃない?


 ……あれ? なんかいつの間にか話が逸らされてる?


「ああ、オスカー・ワイルドだ。正直私もよく知らないのだが、名前からしてすごそうだろう? かっこいいだろう?」


 知らないのかよ、とツッコミたくなったけど、その衝動はため息と一緒に外気に溶かして体外に押しやる。ついでに言い訳を放棄した川奈さんへの軽蔑も同様に扱った。


「そういえば、僕がここに居てもいいって許可をくれたのは先生なんだよね」


「ふむ、そうだぞ。私はお前を追い出すつもりだったからな、本当は」


「最初の一言以外は聞かなかったことにするとして、だとしたら僕も、一度挨拶しなくちゃ失礼かな」


「年上たる私に敬語を使わないお前の口から、まさか礼儀について語られるとは思わなかった」


「うん。川奈さんにはなんだか、敬語を使ったら負けかなって」


「どこの自宅警備員だお前は」


「ここの事務所警備員だよ」


 なんたって住み込みですから。似たようなものです。多分。


「とにかく、礼儀知らずのお前は礼儀知らずのままでいいということだ」


 尊厳(そんげん)な態度で胸を張り、最低の結論を下される。こんな理不尽が許されるのなら、今頃どの国にも政治家は存在しない。僕は断固として抗議する。


「僕が礼儀知らずなのは川奈さんだ」けだ。


 言おうとした言葉が途中からただの吐息に変わったのは、その反論が本当に正しいのかどうかが、僕には解らなかったからだ。


 僕には記憶が無い。そしてその記憶の限りでは、僕は川奈さん以外の人とコミュニケーションをとっていない。だから、僕が今までどんな風に他人と接してきたのか、僕の事でありながら僕は知らないのだ。むしろコミュニケーションが苦手な人間だったからこそ、この一ヶ月、川奈さん以外とは話していないのかもしれない。


「ほら見ろ。何も言えない」


 大人っぽい整った顔にくしゃっとシワを寄せ、悪戯して怒られて言い訳をしている子供のような顔で、川奈さんは告げる。


「お前は先生とは会わなくていい。決定だ」


 理不尽な事に変わりは無いけど、これ以上の反論は不毛だ。諦めよう。


「話が逸れたな」


 ふと、肝心なことを川奈さんが掘り返す。


「私はどこまで話していた?」


 しかし肝心なとこを忘れてる。


「えっと」


 かくいう僕も忘れてる。


「先生はオスカー・ワイルド。だったかな」


 そういえば先生の本名も知らないな。あれ、オスカー・ワイルドが本名? 先生って外国人だったんだ。


「その言い方だと先生の名前がそれみたいになるが、たしかにそのあたりだったな」


 あれ、先生の名前の話じゃなかったっけ。ダメだ、よく思い出せない。


 たまにこういうことがあるんだよね。一分前のことが思い出せない。こういうとき、もしかしたら僕は事件や事故のせいじゃなくて、もともと記憶力が無くて記憶を失ったんじゃないかと思ってしまう。流石にそれは無いか、とすぐに正気に戻るのだけど、不安は残る。


「入院中の先生に来た依頼だし、私が勝手に手を付けていい内容でもないからな。先生の病院に届けようと思ったのだ」


 そういえばそんな話だったね。その契約書だかを失くしてしまって、それは川奈さんのせいじゃない、という事を、川奈さんが説明しているところだった。


「うん。それで?」


「そしたら、なくなった」


「……」


 話の辻褄が合っていない気がしたのは僕だけだろうか……。


「なぜ黙る」


 訝しむような表情で睨まれたけれど、そんな事は気にせず、今の話をどう聞いたら辻褄が合うか考えた。


「ごめん、一応確認するけど、この話って、契約書が失くなったのは川奈さんのせいじゃないことを証明するために始まったんだよね?」


 確認すると、川奈さんは腕組みをして頷く。


「そのとおりだ」


 うんうんそうだよね。で、


「この事務所に居るのは、先生が入院してる今、僕と川奈さん、それとたまに直接依頼をしにくるお客さんだけだよね」


「そのとおりだ」


「……」


「なぜ黙る」


「犯人はお前だあああぁあ!」


 思わず声を荒げて立ち上がってしまった。ツッコミとかそれ以前の問題でしょ、これは。


「決め付けるな。証拠はあるのか」


 むっとしながら座り直す川奈さん。不貞腐れる前に自分を見つめ直して欲しい。そしてついでにさっき落ちたポケットティッシュを拾って欲しい。


「証拠ならあるよ、川奈さんの普段のだらしなさが、川奈さんが犯人だと告げてるよ」


 落ちたままのポケットティッシュとかいい例だ。


「それは証拠ではなく因縁だ。お前は昭和のヤンキーか」


「なんというかもう……昭和のヤンキーに謝ってよ」


 川奈さんと同じにされたというだけで憐れだ。


「昭和のヤンキーはもう生きていないから謝罪のしようが無い」


「本気で謝って! 年号的にはまだ結構生きてるというか殆ど生きてるはずだから本気で謝って!」


「昭和のヤンキーという言葉そのものが死語だという事だ。それを使ったのはお前だろう? だからお前が謝れ」


「あ、そっか。うん、ごめんなさ……僕は誰に謝ってるの?」


 広辞苑か何かに謝ってるのかな。というか川奈さんの理屈がおかしいことに今気付いた。そもそも昭和のヤンキーという言葉を最初に使ったのは川奈さんだったはずだ。


「冗談はここまでにしよう」


 僕のほうは割と冗談ではなかったのだけれど、という言葉は、脳内に浮かべたいくつもの突っ込み(しか)り、もう今更だろう。川奈さんは別の紙を何枚か取り出し、それを僕に差し出してきた。


 手を伸ばせばなんとか届きそうな距離ではあるけれど、僕はしっかり立ち上がってから受け取りに行く。ほら、やっぱり僕は礼儀正しい人間だ。


「これは?」


「仕事だ」


「うげえ」


 渡された書類の数は五枚。全て異なる依頼だが、さらりと目を通した感じだと内容はどれも似たようなものだった。


 探偵の仕事は案外地味なものばかりだ。


 事件なんてそうそう起きないし、起きても大抵警察さんのお世話になるから、こっちに仕事は来ない。だから、ある程度有名にならないと大きな仕事は取れないのだ。さっきも先生に来た大きな仕事を、まだ若手、というか見習い探偵の川奈さんは勝手に扱わなかった。そして川奈さんはというと、行方不明のペット探しだの、不倫の調査だの、その証拠を持って来いだのといった仕事ばかり。


 僕にはその地味な仕事の中でいわゆる尾行調査、つまりストーキングものが回されてくる。川奈さんはこういう性格だから、尾行なんて性に合わないのかもしれない。というか川奈さんが誰かの尾行をしているところなんて想像も出来ない。絶対ばれるし、ばれたことに逆上して川奈さんのほうが犯罪者になってしまう可能性もある。


「でも、なんかいつもより多くない?」


 いつもならこういう依頼は一週間で五件あれば良いほうだ。あまり繁盛していないんです、ここは。先生が戻ってきたら大分変わるらしいけど、その先生が居ない今、それを考えるのは無いもの強請(ねだ)りだ。空っぽの心を空想で満たすのは酷く虚しいし、結局空っぽ。あまりに不毛だ。先生がどれくらいで戻ってくるのか解らない以上は、自力でなんとかしないといけないわけだけれど、


「私は先生への依頼を今日中に届けたい。とりあえず書類を探して、お見舞いついでに届けにも行くから、私は今日は忙しい」


 当の川奈さんにやる気が見当たらない。彼女のやる気は心の大海原で遭難中のようです。誰か助けてあげて。


「だからって、まさか今日中にこれ全部やれってわけじゃないよね」


 だとしたら鬼過ぎる。


「まさか」川奈さんは両手を広げて降参みたいなポーズをとり「明日までに終わらせろ」あまり変わらないよね、それ。


「あの、今夕方なんだけど」


「ああ、お前が動き出すには丁度良い時間だろう?」


「まあそうだけど……」


 記憶を失くす前の僕はどうやら夜型人間だったようで、朝や夜はなんとなくだるいのに、夜になると元気になる。体内時計おかしいよね、という自覚はあるけれど、意識だけではどうにもならない。


「それでも、明日までっていうのは厳しいんじゃないかな。時間帯も被るのがあるだろうし」


「そこはもう確認済みだ。時間帯はほとんど被ってないから、安心して働け」


「……うん、まあ、うん。解ったよ」


 逆らえる立場ではないし、お世話にもなってるからね。やれというならやるしかない。それに、なんだかんだ言っても僕はこの仕事が嫌いじゃない。


 誰かの役に立っている、という達成感もあるし、なんだか僕は尾行が得意みたいで、相手を見失ってしまうことはたまにあっても、見つかったことは一度も無いのだ。記憶も何も無い僕の唯一の自慢である。


「あ、これ、時間的にもうすぐだ」


 時計の針は午後四時半を指している。そしてとある依頼の尾行対象が退勤するのは五時だ。場所はそんなに遠くないけれど、もしかしたら対象が早めに退勤するかもしれない。そういうのを考えると、もう出たほうが良いだろう。


「なら早く行け」


 シッシ、と手の平を振る川奈さん。大事な書類失くしたくせにさ。


「ちょっと待って」


 かくいう僕は書類とにらめっこ。笑うと負けだよ。


 依頼内容は浮気調査。笑いたくても笑えない。


 名前は曽加部浩二(そかべこうじ)。対象の顔写真はイケメンともブサイクとも言いがたい。真面目そうで、爽やかな雰囲気が写真から伝わってきた。浮気なんてしそうには見えない。


 家庭内状況は、結婚して三年が経ち、四歳になる娘が居るとか。出来婚ってやつだ。最近毎日のように帰りが遅いし、晩御飯も食べないことが多いらしい。さらに、平日は帰って来たと同時に疲れたと言って何もしないくせに、休日にもよくどこかに出かけているとか。


「……」


 これ、尾行する必要あるのかな。なんか資料を見ただけでもすごく怪しい。


 あ、なんかさっき見た時は爽やかに見えた顔写真が、いきなりやらしく見えてきたぞ。浮気してそうだな、こいつ。


「よし」


 気合を入れて立ち上がる。


「覚えたか?」


「うん、ばっちり」


 資料を客待ちのテーブルに残して、そのまま歩き出す。落としたりしたら困るから、と川奈さんに指摘されてから、こういうのは外には持ち出さないようにしているんだ。


「誰にも見つかるなよ」


「任せて」


 そして、僕は仕事に向かった。




 尾行について。by川奈さん。


 その一。誰にも見つからないこと。


 これは、尾行対象だけではなく通行人にも怪しまれるな、という意味だ。理由はとても簡単で、通行人の中に尾行対象の知人が居ないとも限らないし、通報されたりしたら厄介だからだそうだ。だから、通行人にも怪しまれず、警察のお世話にもならないよう、細心の注意を払わなければならない。


 そのニ。対象の動きには細かく反応すること。


 対象が買った物とかも、可能な限りチェックするのだ。尾行対象が毎回必ず尻尾を出すとは限らない、というのは、浮気に限った話では無い。尾行全般で言えることだ。何がヒントになるか解らない以上、どんな情報でもかき集めたい。そこから白か黒かを判断するのもまた探偵の仕事だし、なにより対象の行動によっては、尾行がバレている可能性もある。バレた、と判断したら、すぐに退く。これもすごく大事だ。


 その三。


 ゴミは出さない。


 最低限のマナーだよ。


 ――以上が、川奈さんが僕に教えてくれた尾行の心得三カ条だ。皆も機会が有ったら意識してみてね。特に一番最後はすごく大事です。他の二つは、割とどうでもいい。




 というわけで僕は今、某会社の前に来ている。普通の会社だ。工場にも見えるけれど、何分門から向こうの敷地が広すぎてよく見えない。


 尾行対象は車を使っていない。最寄のバス停から二駅。そこから徒歩で帰宅するのが通常のルートだそうだ。そこから考えて一番バス停に行きやすい門を選んで見張って、対象を見つけたから追いかけた。そしたら対象はバス停には向かわず、なんだか不穏な空気を纏いはじめる。


 携帯電話で誰かと話している。妙に白々しい笑顔を浮かべながら、悪く言うとにやにやしながら歩く。ただ歩く。たまに止まって、携帯電話の画面を見て、また歩きながら電話を再開する。それを何度か繰り返していた。浮気相手と話してるのだろうか。


 もう少し近付いて確認したいけど、これ以上は危険だ。なんとか踏み留まる。


 それにしても、浮気なんて許せないよね。


 だって家族だよ? 僕には家族の記憶も無いけれど、きっとすごく大事な物のはずだ。浮気はそれを否定している。家族を否定して、裏切っている。


 僕は既に何件か浮気現場を捉えて川奈さんに報告している。その家庭はどれも離婚に至った。浮気した人間には多額の慰謝料を請求されている人も居たし、浮気なんてしても誰も幸せになれないのは火を見て触れるよりも明らかだ。


 なのに、欲求に任せて、家庭をぶち壊す可能性も(かえり)みず、全てを台無しにする。


 ああ、なんか考えてたらむかついてきた。曾加部浩二と言ったか。早くボロを出すか、浮気相手と喧嘩してくれないだろうか。


「――ふざけるなっ!」


 瞬間、僕は思わず浮き足立った。


 ごめんなさい、変なこと考えてごめんなさい。本心だったんです。だからそんなに怒らないで。なんて考えている自分に嫌気が差す。


 声の主は尾行対象の男だった。携帯電話に向かって叫んでいるようで、僕の思考に対して怒ったわけではないらしい。当たり前か。もしかして僕の祈りが通じて浮気相手と喧嘩? やったね依頼は無事じゃないけど達成だよ。


「こちらにも都合があるのだから、勝手な都合で予定を変更されては困る! そんなガサツな管理体制の場所など、こっちから願い下げだ!」


 なんの話をしてるのか、遠いからよく解らないけど、残念ながら浮気相手では無さそうだ。


 尾行対象は何かを呟きながら、携帯をポケットに入れる。壊れそうな程乱暴に扱っている辺り、相当怒っているように見える。いや、焦っているようにも見えなくは無い。


 尾行対象はそのままコンビニに入っていった。僕はその間外で待機。


 なんだか雲行きが怪しくなってきたな。いや、晴れてきたというべきかもしれない。少なくともまだ、はっきりと浮気に繋がるような行動は見られない。


 尾行対象は、すぐに出てきた。


 袋はそんなに大きくない。目を凝らして中身を確認しようと試みてみる。箱が見えた。コンビニの袋は透明だからよく見える。多分、弁当だ。家に帰れば温かいご飯が待っているのに? ああ、なんかまた怪しくなってきた。あとはペットボトルだ。飲み物は必要だよね。そして最後に、何かの雑誌が入っているようだ。何かは解らない。少なくとも肌色はそんなに使われていないようだ。


 尾行対象はコンビニの前の喫煙所で煙草を吹かして、一息付いた。そして煙草を吸い終わってまた歩き出し、人の少ない広場で、ベンチに腰掛ける。


 そのまま弁当箱を開けると、一心不乱に口に放り込む。ここはご飯を食べるための場所ではない、なんてことは、彼にとっては瑣末なことなのだろう。それほどの勢いで口に運んで、飲み物で流し込む。


 ご飯を食べ終えるとまた一息付いて、雑誌を開いた。くつろいでるなぁ、とは思わない。その行動の全てが、あまりにも全力だったから。これ、確か浮気調査でしたよね。なんか解らなくなりそうだけど、疑われるには疑われるだけの理由があるのだ。今はたまたま浮気っぽくない行動ばかりだけど、なにがどうなるか解らない以上、油断してはいけない。


 雑誌のページを乱暴にめくりながら、対象はまた携帯電話を取り出した。そのページを指差しながら、どこかに電話をかける。


 僕は、その男があんまり必死だったから、もっと近づいても大丈夫だろうと判断した。ここからでは誰となんの話をしているかも解らない。


 ベンチは全部で三つ、等間隔で並んでいる。僕はさりげなく、対象の反対側に腰を下ろした。姿は見られるだろうけど、怪しまれなかった者勝ちだ。


 すると、さっきよりも鮮明に、男の声が僕の耳に触れた。


「あの、そちらでアルバイトをしたく、お電話させていただきました」


 その触れる勢いが強すぎて、鼓膜を通り越して直接脳を叩かれたような気がした。勿論それは気のせいで、予想外の展開に驚いただけだ。


「はい。ダブルワーク可という募集を見たので」


 ダブルワーク。つまり、仕事の掛け持ち。


「そこで、お願いがあるんです。仕事時間は四時間から、とありますが、どうにかして三時間からにしてもらえないでしょうか」


 男は人目も気にせず、携帯電話相手にヘコヘコと頭を下げる。


「そこをなんとか出来ませんか。うちには家庭があって、四歳になる娘も居るのですが、妻がまだ若いこともあり、子育てしながら働く、というのは難しいんです。なので少しでも私が稼がないといけないのですが、ダブルワークはどこも受け付けてくれなくて……。そちらのお店だけなんです。どうか、お願いします。家族との時間も、失くしたくないんです!」


 ああ、どっかの誰かさんとは大違いだな、と思った。


 この世界には、大事な書類さえ簡単に失くしてしまう人も居る。しかもそんな人の傍らには、自分の記憶も無くした奴が居るっていうのに。


 それなのに、不器用でありながら、必死に、大事な物を守ろうとしている人も居る。


 どうせ、妻には心配を掛けたくないから、黙っているのだろう。そして今のご時世、就職は難しいという。だから空回って、そのせいで妻にも疑われている。


 ……馬鹿だ。


 俯いて初めて、僕は自分の拳が強く握り締められていることに気付いた。


 空回りし過ぎているこの男も馬鹿だし、こんなに必死に家族を想っている夫を疑う妻も馬鹿だ。それに便乗して、知りもしないで勝手に浮気してそうな顔だ、なんて思った僕も、同じくらいに馬鹿だ。反吐が出る。


「くそっ」


 気付くと、男は通話を終えていた。どうやら駄目だったらしい。


 冷たい世の中だ。面接くらいしてあげてもいいじゃないか。なんでそれさえしてあげないんだよ、こんなに必死なのに。さっきの電話先の相手も馬鹿だ。本当に、馬鹿ばっかりで嫌になる。


 でも、嫌になったの僕だけだった。


 紙をこする音。


 見ると、男はまた、雑誌をめくっていた。それは求人誌だった。


「……待ってろよ、早苗(さなえ)由紀(ゆき)


 鳥肌が立った。


 諦めていない。絶望なんて微塵もしていない目で、求人誌を睨む。


 仕事後で疲れているはずなのに、男は足掻く。多分この後、体力を限界まですり減らして、帰ってもすぐ寝てしまうのだろう。そして休日になっても、掛け持ちが出来るうえで家族と過ごす時間が取れる仕事を探しに出かけるのだろう。


 羨ましい。そう思った。


 僕には記憶が無い。もちろん家族の事も忘れている。でも、こんな家族だったらいいな、と思う。いや、こんなお父さんだったらいいな、と。こんな家族想いなお父さんを疑うお母さんは嫌だ。


 でも、だけど、それでも。


 ――羨ましい。そう思った時点で、それが僕には無いものなのだと悟った。




 ただいま、という優しい声が聞こえた。少ししたら、僕の前に、豪勢では無いし少し焦げたりもしてるけれど、食欲をそそるには充分な食事が並べられていく。そんな光景が頭に浮かぶ。


 小さな部屋。畳だった。窮屈(きゅうくつ)な空間に無理矢理置いたテーブルには、一人前の普通の食事と、一人前の質素な食事。計二つ分が広げられていた。僕と、お母さんの分だ。


 どうしてお母さんの食事はそんなに質素なのだろうか、という疑問は勿論あった。節約している、という様子では無く、健康食みたいなものばかりだったからだ。


 食事を終えるとお風呂に入って、少し時間を置いてから、テーブルを片付けて布団を敷く。布団は二つで、それだけで、部屋はいっぱいになってしまった。


 お父さんは居なかった。居たとしても、お父さんが入り込めるスペースなど、その家には無かった。




 動けなくなったのは多分、いきなり記憶が戻ってきたから動揺しているのだろう。


 頭の中に直接異物を放り込まれたみたいな痛みが襲う。本当ならこれは、異物なんかじゃないのに。


 悲しい、とは思わなかった。多分、僕の過去では元々父親という存在が無かったからだろう。


 取り戻せたのはほんの一部の記憶だけだったけれど、実感が湧かないせいか素直に喜べない。喜ぶべき場面なのだろうけど、なぜかそれが出来ない。一度失くしてしまったものだから、どうでもよくなってしまったのだろうか。だとしたら、父親が居なかったという事実よりも、そっちのほうが悲しい。


 全部思い出したら、喜べるのだろうか。父親が居ないことも、素直に悲しめるのだろうか。今のままでは、解らない。


 解るためには、知らないといけない。ちゃんと、思い出さないといけない。


 そんな余計な事ばかり考えていたからか、気付いたら、尾行対象を見失っていた。


 でも、もう大丈夫だ。あの人は、浮気なんてしていない。それが解ったから、今回の仕事としては充分だろう。


 結論。


 浮気は無かったので、曾加部家の皆様はどうぞ末永くお幸せに。




 事務所に帰った頃には、もう夜の八時だった。川奈さんは居ない。


 客待ちの机の上に置手紙があった。


『書類は見つけた。病院に届けて、そのまま帰る』


「うわ、せめて報告ぐらい待つものじゃない?」


 僕に記憶は無いけれど、知識と同様常識なんかもしっかり覚ええている。記憶喪失としてはこういうのはよくあることだ、という事も含めて。


 そんな僕だからこそはっきり言える。川奈さんは非常識だ。


 大事な書類も失くすし、仕事してる僕をほったらかして先に帰っちゃうし、このメモ用紙と川奈さんの情。どっちが薄いか比べてみたいものだ。


「せっかく、少しとはいえ記憶が戻ったことも報告したかったのに」


 呟きながら客待ちのソファーに腰を落とす。どうでもいいのだけれど、接客用の椅子なのにこんなボロボロでいいのだろうか。景気良くない、と言外に叫んでいるようで、依頼に来た初見の人は考え直して帰ってしまいそうだ。


 でも、僕にはあまり関係無い。そういうの、気にしないからね。


 そんなふうにして、意味の無い考え事を浮かべては消してを繰り返すのが、今の僕の日課だ。川奈さんは独り暮らしをしているらしく、仕事が終わるとさっさと帰ってしまう。かくいう僕は事務所警備員。どうでもいいけど、自宅と事務所って響きが似てるよね。似てないか。


 ともかく、そうやって時間を潰すしか、僕には無い。元々独りでいるのが好きだったのか、それとも慣れたからか、大した苦にはならなっかた。


「確か、十時くらいから次の仕事があったかな」


 思い出して、机の上にあった資料を手に取った。


 一番上の浮気調査はもう終わった。


 次の資料は不審人物の動向調査。毎朝、一人の男が公園の前に何十分も立っているらしい。うわ、恐っ。その後、やけに回りをキョロキョロしながら移動して、必ずどこかで見失ってしまうとか。


 その次がまた浮気調査。そして次がまた浮気調査でなにこれ、今浮気が流行ってるの? 浮気は文化なの? 世も末だな、おい。


 そして最後の一枚は、と。


 高校生になった息子が夜遊びをするようになった。いったいどんな仲間とどんな風に遊んでいるのか、調べて欲しい。心配性のママより、みたいな内容。


 これって探偵の仕事なのかなー、なんて、最近は思わなくなった。名前の売れていない探偵事務所なんて、早々に潰れるかご近所さんの便利屋みたいなものになるかしかない、と、卑屈モードの川奈さんは言っていた。


 この事務所の先生は名前が売れているけれど、入院して結構経っているらしく、先生宛ての依頼は減っている。となれば当然、ご近所さんの便利な相談役直行ルートしか残されていない。


 だから、よくあるのだ、こういう仕事は。


 散らかった歩道の掃除の依頼が来ていないだけ、まだ体裁は守られているとは思うけどね。




 それから一時間くらいは、さっき取り戻した記憶について考えていた。


 そして時間が近づいてきたから出かけて、尾行対象の家の前に。結構遠かったです。


 少ししたら、資料に載っていた顔写真まんまの少年が出てきた。少年、といっても、ちょっと悔しいが僕よりは大人っぽい見た目だ。服装も、夜間徘徊対策のつもりか、妙に大人びた服装だった。


 しかし移動は自転車だった。背伸びして大人ぶるんならダメでしょそれは、なんて呑気なことを言っていられるのも今のうちだ。何故って、僕が徒歩だからに決まっているじゃないか。


 ああ、最悪だ。




 自転車による移動は少しで、少年は少し大きな家の前にその自転車を止め、携帯電話でどこかに繋げていた。


 なんらかのやりとりを少しだけしたら、目の前の大きな家から数人の男女が出てくる。どうやら友達の家で待ち合わせをしていたらしい。特徴を言うなら、男は全部で三人だ。尾行対象は中肉中背、たいした特徴は無い。あとは背の高い茶髪君と、小太りの眼鏡君だ。


 女のほうは清楚な雰囲気のワンピースの人と、ピアスまでしたいかにもなギャル。なにこの異色な組み合わせ。ご飯にして食べたらお腹を壊しそうだ。


 彼らはすでに目的地が決まっていたらしく、すぐに歩き出した。自転車は使わない。助かった。


 しかし歩く距離がなかなか長かった。二十分くらいだろうか。


 ピアスの女が文句を垂らし始め、尾行対象がそれをなだめている。腰が低いポジションなのか、あのピアスが恐いのかは解らない。


 眼鏡の男が、もうすぐだ、言った。


 途端にワンピースの女が、きゃー、あたし、恐くなってきたー、とわざとらしく言って、尾行対象の腕に絡みつく。尾行対象は照れた様子で頭を掻き、大丈夫だよ、と耳打ちした。どっかに爆弾落ちてないかな。火薬単品でも良しだ。僕が火を点ける。


 少し歩くと、少年少女探検隊はとある林道の前に来た。


「ここだ」


 眼鏡の男が言う。


「おっけい、さっすが田辺(たなべ)。良い雰囲気じゃん」


 上機嫌な茶髪少年。準備体操のつもりなのか、たんなるかっこつけか、腰を回したりストレッチしたりして気合を入れていた。


「ねえ篠崎(しのざき)くーん。なにかあったらー、あたしを守ってね」


 ワンピースの女が、上目使いで尾行対象に攻撃を仕掛けた。その攻撃の一般名称は色仕掛けという。


「うん。勿論だよ」


 尾行対象は力尽きろ。効果抜群にも程がある。


「さっさとはじめようよ、なんかワクワクしてきたわ」


 ピアスの女は、言葉の通り目を輝かせている。その視線の先の林道は、遊ぶにしては暗すぎた。多分、夜間に人が通る事を想定していなっかたのだろう。灯りさえなかった。


 そこで、眼鏡の男が懐中電灯を取り出す。


 ここまで来てようやく気付いた。ああ、この人達は今から肝試しをするんだな、と。


 そういえば、僕は暑いと思わなかったから忘れてたけど、今は夏なのだ。世間は夏休みなのかな。そこらへんの季節感も、記憶が無いせいか曖昧だ。


 少年少女蛮勇隊は、懐中電灯ひとつを頼りに林道に踏み込んでいく。


「この中は少し入り組んでる」


 眼鏡の男が話し出す。


「なんでなんで?」


 ピアスの女が楽しそうに聞く。お前の声のトーンのせいで怖さ半減だろ、空気読め。


「いやー、怖いー、聞きたくなーい」


 ワンピースはむしろ空気を読みすぎてうざかった。抱きつかれた尾行対象には特にコメントは無い。ただ、デレデレするのを止めるか今すぐ爆発しろ。


「この林道は、寺に繋がってる」


 眼鏡の男通称眼鏡は続ける。


「その寺は墓地も扱っていて、そこの住職は本当に見える人らしい」


 くいっと眼鏡を持ち上げて知的アピール。だけど喋っているのは雑学にも及ばないような与太話だ。フラメンコが片足を上げながら壁に寄りかかっているみたいで、絵にならない。


「見える? まさかモノホン!?」


 お決まりの良い仕事をするのはピアスの女だ。なんか一見ワンピースの女のほうが純粋そうに見えるけど、実はピアスの女のほうが良い子なんじゃないかな、と思えてきた。でもモノホンっていう言い方は古いと思う。


「そう。そして霊感のある人の下には霊が集まりやすくて、供養されたい霊達がその寺に集まって来ようとするらしい」


 なんだか段々肝試しの盛り上げ話から二次元話にシフトしてきた気がする。でも僕、盗み聞きしてる立場だからね、文句は言えない。


「それでそれで?」


 重ねて聞くピアスの女。茶髪は何かを探すようにずっとキョロキョロしてるし、尾行対象とワンピースの女なんか眼鏡の話なんて関係無く別次元に突入してるし、泣けてくるほど良い子に見えてきたよ、ピアスの子。外見だけで中身を決め付けようとしてごめんなさい。だから許して。ついでにこれから隣のバカップルを爆破しようと思うんだけど、それも許してくれないかな。


「でも住職は、納められている仏の供養で忙しい。余所者の事を構っていられるほど、暇ではない」


 作りこまれた設定だな。でも、こういう設定は作りこまれるほど現実味を失いやすい。だって、現実はそんなに辻褄合わせがされていないから。


 もし本当に神様が居るとして、神様が全てを決めているのだとしたら、神様はプロット構成が下手くそだ。作家さんのほうがよっぽど神様に向いていると思えるほどに。


「だから、外から来る霊を寄せ付けないように、この道を入り組ませている。霊がここで迷うように」


「と、いうことは……」


 息を呑むピアス。ワンピースの女は耳を塞いでいる。もう帰れよお前。


 眼鏡の男は言う。


「そう、ここには、供養されたい霊が集まり、そして、目的地に辿り着けず、彷徨っている」


「きゃーーーー!」「っい、いやああああ!」「ぐああああ!」


 ピアスの女が悲鳴を上げる。便乗するようにワンピースの女も叫ぶ。今の間はなんだ。そして尾行対象もワンテンポ遅れて、色の違う悲鳴を上げていた。断末魔のようだ。なんでだろうね、知らない。知りたくない。


 しかし肝試しの盛り上げ話が上手いな、あの眼鏡君。一人しか聞いてなくても挫けないその精神に敬礼。


 次の瞬間だった。


「……誰だ」


 茶髪の男が振り向いた。


「え?」


 残りの四人は驚きながら茶髪の男を見て、ゆっくりとその視線を辿る。


「っつ」


 目が合う。全員の視線が僕を捉える。


 彼らの顔色が一気に青ざめていく。懐中電灯が僕を照らす。


 ――見つかった。


 余計な事を考えすぎていた。注意力が散漫になっていた。


 後悔なんて今更だ。今更だから後悔するのだから、当たり前だ。


 今まで尾行で見つかったことがなかったから、油断していた。慢心だ。


 バカップルがむかついていたからとか、眼鏡の話が非現実的過ぎたからとか、言い訳なら山ほどある。でもその言い訳には、山ほどの存在感などありはしない。なんの価値も無い。


「で……、出たああああ!」


 一目散に逃げ出す少年少女大変態(よく解らないよね、僕も解らない)。


 逃げ出したいのは僕のほうのはずだ。尾行が見つかった探偵は、容疑者を追う立場から一転、ストーキングの実行犯へと摩り替わる。


 なのに彼らはその犯罪者を見るや、見てはいけない物を見たような表情を浮かべて逃げ出したのだ。


 追いかけようかと迷いもしたけど、止めておこう、と理性が告げる。尾行がバレた今となっては、悪あがきは滑稽過ぎて笑えない。


 しかし、それにしたって、


「傷付くなあ」


 まさか、僕が幽霊だと思われるなんて。


 仕方ないから引き返そう。依頼はどんな人間とどんな遊びをしているか調べろ、だったし、それはもう達成できた。


 でも、いざ帰ろうとして、気付く。


「あれ?」


 辺りを見回す。代わり映えの無い林道の闇は、全てを覆い隠し、道を閉ざすかのように広がっていた。


 この林道は入り組んでいる、と、あの眼鏡君も言っていたじゃないか。


「……最悪だ……」


 つまり僕は、道に迷ったという事だ。




「本当、悲惨だったよ……」


 ようやく林道から出られたのは、明け方になってからだった。入り組み過ぎでしょ、この林道。もう二度と来ない。絶対に来ない。


 産まれたての朝日が僕を包む。身体がだるい。このまま無気力に全てを預けて倒れ込めたらどれだけ楽なのだろうか、なんて考えながらもこの足は進む。時間は止まらないのだから、僕も止まってはいられない。


 川奈さんからは、あの依頼の束を今日中に調べろと言われている。


 そして確か、あの中に朝やらないといけない調べものがあったはずだ。



 まだ早朝と言うのも気が引ける程早い時間だし、事務所に戻って少し休んでから、そっちに向かおう。


 気だるい頭の中でそういう算段を立てて、僕は来た道を思い出しながら事務所へ向かう。


 あと忘れる前に、今回の調査結果。


 息子さんはいかがわしい遊びこそはしていなかったけれど、いかがわしい行為はしていたよ。たっぷりしかってあげてね、お母さん。




 事務所に着いても当然川奈さんはいなくて、仕方ないから後で全部報告することにして、少しだけまどろんだ。


 そしたらすぐに時間が来て、僕は依頼の場所へ向かう。


 その場所には覚えがあった。


 あすなろ公園。記憶を失くした僕が最初に目覚めた場所だ。


 そこでふと、僕は考える。


 記憶。


 僕の記憶。


 中途半端にまどろんだせいか、それとも昨日の林道で迷子になったせいか、思考までもが迷子になっていることにようやく気付く。疲れている時に上げる話題にしては重過ぎるかなとも思ったけれど、如何(いかん)せん他に考える事が無かったため、思考を続けた。


 僕の記憶。誰かが轢かれそうになっていて、僕はそこに手を伸ばしていた。


 そういえばあの後、僕はどうなったのだろう。


 今こうしてここに居るのだから無事だったのは確かなのだろうけれど、ならあの時、()かれそうになっていた人は?


 最初に目覚めた時には気付かなかったけど、この場所はなんとなく、あの記憶の場所に似ている気がする。


 もしかしたら、あの事故はここ、あすなろ公園前で起きたものなのかもしれない。だとしたら、後で川奈さんに聞いてみよう。


 と、そんなことを考えていたら、公園の入り口に中年の男性が立っているのが見えた。中年、といっても、四十いくかいかないかぐらい。体型はしっかりしていた。太っているのではなく、何か運動でもしているのかな、と思うような、がっちりした感じだ。


 とはいえガテン系な感じでは無い。薄いフレームの眼鏡のせいか、それとも鋭くて深い眼光のせいか、知的な雰囲気があった。


 その男性は何かを抱きかかえていた。柔らかそうな花柄の布に包まれた、赤ちゃんくらい大きさ。子供だとしたら一歳くらいの大きさかな? その手荷物の事も含めて、尾行対象の特徴と一致する。間違いないだろう。


 その男性は何かを見下ろしていた。かくいう僕は昨日の事もあり、かなり遠いところからそれを見ていた。


 そのままの時間が過ぎていく。何も起きない。人通りも無く、異常に思えるぐらいに静かだった。


 ふと、男性の視線の先に何かがあることに気付いた。


 ――花束だった。


 仏様に捧げるような、そういう、寂しい感じの花束。供華(くげ)


 きゅう、と、胸が何かに締め付けられた。


 誰かが死んだのだ。ここで。なら誰が?


 嫌な予感がした。


 その予感はネガティブ色の妄想によって肥大化して、いつの間にか僕の思考の大半を埋め尽くしていた。


 あの記憶の事故。あれで、人が死んでいた? その衝撃が強かったから、その記憶だけが残っていたのか?


 もしかしたら、いや、もしかしなくても、その事故は一ヶ月前に起きたもので、僕はその事故のせいで記憶をなくしたんじゃないのか?


 回る。巡る。思考だけが堂々廻りだ。(らち)が明かない。


 そのことは川奈さんに確認しようとさっき決めたじゃないか。僕は馬鹿だから、一人で考えたって何も出来ない。


 ――その行き着いて当たり前の結論に落ち着こうとした時、胸に鋭い痛みが走った。


「?」


 なんだろう、なんてとぼけられるほど、僕は器用ではないらしい。


 焦っているのだ。あの女性がどうなったのか、とか、あの記憶についてとか、そういうものが早く知りたかった。


 だけどさっきも言ったとおり、時間は止まってはくれない。僕の感情なんてお構いなしで、男性が動きだしたのだ。


 僕は深呼吸をして、吐く息と一緒に、焦りを体外へと押し出す。


 ついでに落ち着けと自分に言い聞かせて、男性の後を追った。資料にあった通り確かに、男性は移動中、ずっと辺りを気にしていた。閑寂とした、古めかしい家やヒビの入ったコンクリートが所々に窺えるマンション。錆びた鉄階段のアパート。観察して楽しいとは言いがたい、閑散とした住宅街だ。


 男性が避けているからだろう人影は無く、まるで世界に僕と彼だけが取り残されたみたいな感覚に陥る。


 それでも男性のほうが僕に気付いた素振りは見当たらない。


 男性はおそらく遠回りをして、とあるアパートの中に入っていった。自分の家なのだろうかとも思ったが、外の郵便入れには大量のチラシが詰め込まれていて、そこの家主が長年不在であることを語らずとも告げていた。


 僕は外で待機だ。あまり近づきすぎると昨日の二の舞だからね、それだけは避けたい。


 でもこれって、不法侵入ってやつじゃないのか? 大丈夫なのだろうか。多分大丈夫じゃないよね。まあ、これが不法侵入だったらの話なんだけどさ。それでもどうやら僕は思い込みが激しい人間らしい。これだと思ったらそうとしか思えない。自分の考えたことを柔軟に曲げられない、狭い思考。そんなもので開く視界は、他の人と比べたらきっと狭いのだろう。でも、だからって簡単に変えられたら多分、僕はこんな人間では無かったはずだ。


 僕の人生は、劇的だったのだろうか。それとも平凡だったのだろうか。勿論、それが解る程たくさんの記憶を僕は持っていない。


 だからこそ、僕は僕で、今の僕のまま、今までの僕を探さないといけない。

 人は、望んだからってすぐには変われないのだから。


 ……解った事がひとつ。僕はどうしようもないほど卑屈な人間だってこと。


 解らない解らない言っておきながら、しょうもないことだけは得意げに断言する。僕は僕が嫌いなのだろうか。自分の事だ。誰かが愛してくれていたとしたても、自分が嫌っていたら意味が無いのに。


 アパートの中に入った男性はなかなか出てこなくて、待つ時間がいやに長く感じた。この辺りには時計も無い。どれくらい待ったかも、もう解らない。


 体内時計で三十分くらいして、ようやく男性は出てきた。手荷物に変わりは無い。相変わらずなにかを抱きかかえていて、それがなにかは解らない。


 僕は見つからないように物陰に隠れて男性をやり過ごす。


 そして尾行を再開しようとした時だった。


「お兄ちゃん、なにをしてるの?」


 後ろから声がして、思わず浮き足立った。


 鈴を転がしたみたいな、かわいらしい女の子の声だ。振り向くと、小学生中学年くらいの女の子が、少し高めの位置に結ったツインテールを揺らしながら僕を見上げていた。


「え、あれ、えっと」


 尾行中に見つかるという失態もそうだし、川奈さん以外の人に声を掛けられたのが初めてだったから、上手く声が出なかった。僕は普段事務所に引きこもっているし、外に出る時も目立たないようにしていたからだ。


「?」


 吸い込まれそうな程大粒の瞳が僕を捕らえて離さない。


 動揺していた僕を不審に思ったのか、女の子は小首を傾げる。


「悪いことをしてたの?」


 はい、僕はストーキングをしていました、なんて、いたいけな少女に言えるわけがない。社会的に死ぬ。探偵もどき殺人事件。犯人はいたいけな少女。冗談にしたら一生の笑い種だ。


「ち、違うよ。僕は、正義のパトロールをしてたんだ」


 多分、見方によっては嘘じゃない。


「なら悪者がいたんだねっ。どこっどっこ」


 楽しそうに辺りを見回す女の子。困った僕は仕方なくさっきの男性をターゲットにしようとしたのだけれど、


「あれ?」


 その男性がいつの間にか居なくなっていた。いや、いつの間にかなんて考えなくても解るか。僕のバカッ。


「悪者どこー?」


 無邪気な女の子をがっかりさせるのも気が引けるからなあ。


「その悪者はね、普通の人には見えないんだよ」


 そんな嘘が出たのは多分、昨日肝試しに参加(?)したからだ。


 そしたら女の子は納得したように頷き、


「じゃあ、お兄ちゃんも幽霊が見えるの?」


 そう言った。


「うん、そうなんだ」


 本当は幽霊なんて見たことないけど。嘘に嘘を固める最低な僕。小学生になんてことを。


 ……って、ん?


「おにいちゃん、も?」


 も、という事は、まさか、


「うん」


 嬉しい、という感情を惜しみなく弾けさせ、それを笑顔に乗せて表現する女の子。


「わたしも、見えるんだっ」


 その笑顔は純粋で、嘘つきのそれでは有り得ないものだった。


 でも、相手は子供だ。子供は妄想と現実の区別が難しいだろうし、なにかを勘違いしている、という可能性も高い。


「へえ、すごいね」


 僕はそう言って、女の子の頭を撫でようとした。でも直前で、あれ、これ、セクハラじゃね? と気付き、その手を引っ込める。


「すごくはないよ。だって、お父様もお姉ちゃんも幽霊が見えたもん」


 自慢げに語っていた女の子の顔だが、でもね、と、いきなり怪しい雲行きに。


「良いことばっかじゃないけど、良いこともあるけど、ちょっといやな時もあるんだ」


 言葉がどうも支離滅裂(しりめつれつ)なのは、子供だからだろう。


 僕は(なぐさ)めるべきか我慢している事を褒めてやるべきか迷って、結局、何も言えなかった。


「でも、あれ?」


 ふと、女の子の表情が素に戻る。子供の感情は入れ替わりが激しくて助かる。


「わたしにも幽霊は見えるはずなのに、なんで悪者が見えないの?」


 前言撤回。やっぱ助からない。それはね、僕が嘘を吐いたからだよ、なんて言える人は、勇敢だけど勇者じゃない。蛮勇だ。もしくは馬鹿だ。


「えっと、本当はね、悪者なんていなかったからだよ」


 かくいう僕はただの馬鹿だ。これはもう確実。昨日からその伏線はあったしね。


 女の子は「え?」と、再び小首を折る。小学生を混乱させる僕。本当、なにやってんだろ。


「じゃあ、お兄ちゃんが悪者?」


 なんかもう、それが正解なような気がしてきたよ。


 でも、そんな自責は後回しだ。


「そうじゃなくて、ほら、悪者は居ないけど、いつ現れるか解らないでしょ? だから、パトロールしてたんだよ」


 女の子はなるほど、と両手を叩き、


「じゃあわたしが悪者だー!」


 がおー、と両手を挙げる少女。


「驚きの展開だ! 名探偵もびっくりの犯人だよ!」


「見た目は子供で態度は大人だよっ!」


「それただの生意気な子だから! 探偵要素も犯人要素も無いから!」


 そこで女の子はニヒヒと笑い、腰の後ろで手を組んだ。


「お兄ちゃんは、どうしてここをパトロールしてたの?」


「……え?」


 子供の話に脈絡が無い、というのは、尾行対象を見失って少し付き合おうと決めた時から覚悟はしていた。でも流石に、いきなり変わり過ぎて思考が止まる。あれ? そんなに変わったっけ?


「お兄ちゃん?」


「あ、ああ、ごめんごめん。えっと、僕は、ちょっとこの近くに用事があって来ただけなんだ。ここに居たのは、たまたま、偶然だよ」


「へえ」


 女の子はにぱあ、と、花が咲いたかのように笑う。


「お兄ちゃんって、面白いよね」


「そ、そうかな?」


 僕はそうは思わない。


「悪い人にも見えないし」


 なんか泣けてきた。純粋な女の子にこういうふうに言われて、感動しない人って居るのかな。いたらそいつはきっと不感症なんだ。間違いない。


「あのね、お兄ちゃん。わたしの名前は(りん)っていうの」


 言われてふと、舞い上がっていた気分が最底辺まで急降下。勢い余って不時着するかと思った。


「えっと、僕は……」


 名乗れない。僕には記憶が無いから。


 でも、そんな卑屈は通じない。


「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよっ」


 凛ちゃんは拳を握って力説する。ありがとう、僕の名前はお兄ちゃん。名付け親は君だよ。


「それでね、お兄ちゃん。凛はお兄ちゃんのことがとっても気に入りました」


 お姫様ごっこの真似事か、凛ちゃんはわざとらしく胸を張る。


「だから、そんな凛からのお願いですっ」


 小さな身体で、何かを隠した凛ちゃんは、僕に言った。


「――この近くには、あまり来ないで。とくに、今くらいの時間は」


 満面の笑みで、理解できいない僕を置き去りに、凛ちゃんは走り去っていった。


「……僕、嫌われるようなこと、したかなあ」


 落とした肩の重さが増した。ああ、感情にも重さってあるんだなあ、と実感した瞬間でもある。

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