淑女の思いが眠る場所
「まさかお前、また幽霊とかそういうやつに関わってる?」
呆れた様子で五和さんが問う。視線は、画面を見つめたままだ。
川奈さんは一拍置いて、ひとつ深呼吸を吐いてから答えた。
「らしいな」
そして哂う。
それは他のなんでも無い、自嘲だった。
気付かなかった。だから、らしい。
しかし川奈さんは言っていたはずだ。大光司さんの屋敷に上がりこんだときに、彼女が幽霊なのではないか、と。
つまり川奈さんは解っていたんだ。あの屋敷で、大光司綾祢と出会うまでは。
「養子に整形手術を施して、大光司綾祢を作り上げた。それが、大光司財閥がしでかした、本当の情報操作だったのだろう」
馬鹿らしい、と言いたげに、掌で顔を覆いながら川奈さんは続ける。
「大光司綾祢に何かがあってはいけない。万が一何かがあった時のための養子……合点が行くな。残念ながら」
言い捨てるようにして、五和さんに背中を向ける川奈さん。用はもう済んだらしい。
しかしそれはあれはあり得ない事だった。だって、そんな事があって良いはずが無いから。
「待って。ちょっと待ってよ」
倫理的にも、常識的にも、法律的にも道徳的にも。そんな事は間違えてるとしか言い様が無い。破綻している。
ドアノブに手を掛けた川奈さんの冷たい目がこちらを向く。五和さんには聞こえていないから、当然無反応だ。
「大光司さんは、だって、でも……」
しかし否定の材料は出てこなかった。変わりに出てくるのは嗚咽に似た淀んだ声と、それと、その悲劇の肯定材料だった。
大光司さんはある日、書類を道端に落とした。それは、書類にあった霊磁場が事務所から離れる事で弱まり、触れていられずに落としたのだとしたら?
大光司さんは初日、事務所の扉にぶつかっていた。もしそれが、本当はすり抜けようとしていたのだとしたら? すり抜けられると思っていたとしたら?
大光司さんは先日、事務所に来た際、僕らがなんの前置きも無しに自宅訪問した事に対し、何も言わなかった。それこそ何ごとも無かったかのように。でもそれは、屋敷に居た大光司さんと事務所に来た大光司さんが違う人物だったからだとしたら?
疑問が疑問では無くなっていく。
事実。それら全てを肯定するように、パソコンの画面はひたすらに、誰も居ない階段を映し出している。
「でも、なら、大光司さんは、何にも縛られていないはずじゃないか……」
言い訳じみた事を言った後で、これもある種、筋が通っているなと気付く。死んでいるなら、幽霊なら、縛られる身代わりが居るのなら、彼女はとうに自由のはずだ。
「地縛霊だよ」
扉を開け、外に出ながら、川奈さんは答える。
「大光司財閥。あの家柄に縛られ続けた大光司綾祢は、無意識のうちに、自分はこの町から出られないのだと思っていたのだろう。この場合は自覚と言ったほうが正確か」
今更正確性なんてどうでもいい。それが一番の感想。次にこみ上げてきたのは運命に対する軽蔑だ。
大光司さんは先刻、駅前にて、駅を眺めながらこう言った。ここが駅なのですね、と。例えばそれが、駅に見えなかったのでは無く、駅が見えなかったのだとしたら?
「だから彼女は、この街から出ようとしたら姿を消した。消えてしまったんだ。おそらく大光司綾祢は既に何度か外に出ようと試したのだろう。……だから、彼が見せたかったものを見たい、では無く、知りたいと言った。見る事が出来ないと知っていたから」
残酷過ぎる。
生きてる間はしがらみに縛られ、死んでなお運命に縛られる。
僕は昨日、運命と家柄の両方が大光司さんを閉じ込めているんだと揶揄した。
でもそれは、正解でありながら足りていない解答だった。
真実は、僕が思っていたよりもさらに冷たく、そして明確な意味でもって、彼女を束縛していた。世界がグルになって、彼女を頑丈な鳥籠にぶち込んだ。
「事実大光司綾祢は、自分で言っていたしな。この街からは出られない、と」
その意味を履き違えていた僕らは、安直にも、大光司財閥の人を騙せば全て解決すると思い込んだ。事実はそんなに簡単では無かった。
僕らの敵は大光司財閥では無く、世界のシステムだったんだ。
なんだよそれ、と、心の中で悪態を吐く。
川奈さんは階段を上りながら、無気力に言い放つ。
「こればっかりは、どうしようも無いな。私だけの力では」
と。
それはひとつの諦め。
痛々しい程強く突きつけられた真実が、川奈さんの心に致命傷を与えた。それで再起不能にしてやろう、と、階段の隙間から覗く青空があざ笑っている様を幻視した。
僕は何も言えなかった。
何か出来るのではと思っていた。
その方法を見つけられた気になっていた。
結局僕は無力だった。
「大光司さんを、探してくる」
踵を返し、そんな免罪符をもって、川奈さんに背を向けた。これ以上、川奈さんが現実に打ちひしがれる姿を見たくなかった。
何も考えたくなかった。
何も考えられなかった。
思考を働かせようとしても、世界に対する不満が呪詛となって毀れてくるだけだった。
だから何も考えず、ただ歩いた。
強烈な日差しに照らされて、無力な僕はさらに脱力する。
気付くと僕は、住宅街を抜け、田園地帯に来ていた。ここまで来ると、大光司財閥の屋敷が見えてくる。結構遠くまで歩いてきたみたいだ。
それを見た途端に、無心ではいられなくなった。
歩く。
目的地は大光司財閥の屋敷。
その前まで来ると、鉄柵向こうの庭園を睨みつけてやった。
「……ふざけるな」
豪勢に思えた柵が、その高い塀が、彼女を閉じ込めるための檻だったとしたら。
「ふざけるなよ……」
石造が、道を示す木々が、小川と橋が、箱庭を作り上げ、これが世界だと大光司さんを騙すために用意されたものだとしたら。
鉄柵を掴む。僕にも触れられる鉄柵。様々な感情が入り混じっているせいで霊磁場が上がったのだと思っていたそれはしかし、真実とは異なっていた。
幽霊たる大光司綾祢。それがこの場所に来ていたから霊磁場が上がっていたのだ。
まるで、死してなおも、彼女を閉じ込めようとするように。
ふざけるな。ふざけるな。心と口で何度も呟く。
生前の大光司さんはこの屋敷に縛られ、自由は無かった。
死してようやく自由になるかと思いきや、それさえも許さなかった。
幽霊となった彼女をまだ縛るだけじゃなく、大光司財閥は大光司さんの身代わりを用意した。大光司さんの死を否定して、身代わりとなった人の人格を拒絶して、大光司綾祢という概念を作り出し、権力でもってそれを形にした。
「っつ……人間を、なんだと思ってるんだよっ!」
否定と拒絶によって作らされた、人造人間まがいの、本物の人間。問題が生じれば、着せ替え人形のように本体を摩り替える。
外道だ。
腐ってるしイカれてる。
そんな連中、呪われてしまえばいい。
神様が居るのなら、もしこの様を見てるなら、天罰を下してくれないか。
ガタン、と音を立て、石造の頭が取れて転がる。僕の感情に呼応するかのようにして起きた現象。それが偶然だとは思えなかった。
これが天罰なら、まだ足りない。
風が吹いた。強烈な風は僕の体を通り抜け、木々を揺らす。古びていたのか、一本の枝が折れた。巻き添えを食らった背の低い植物が押しつぶされる。
足りない。
押しつぶされた植物が傾き、頭の取れた石造にのしかかった。
耐え切れなくなった石造は倒れ、その体にヒビを入れる。
足りない。
砕けた破片が飛び散った。振動に反応してか、小川に居たのであろう鯉が跳ねた。同時に、転がった石造の頭が、その鯉を巻き込みながら小川に落ちる。
なんの奇跡か。これが天罰なのだとしたら、届くだろう。
この偶然の重なりが屋敷にまで届くはずだ。それで、全てのしがらみを断ち切って――
「藤和さん!」
――声がした。凛々しく張り上げれているのに、物腰の柔らかさが抜けきらない、中途半端な声が。
誰だよ、邪魔するなよ。そう言おうと振り向くと、そこに居たのは大光司さんだった。服装はジーパンにシャツとフリース。季節感を無視した服装。
既に死んでいる、本物の大光司綾祢だった。
「……大光司さん……」
言葉を失う。
もしかしたら、大光司さんはもう世界から消されたのかと思っていた。でも、そこまで狂ってはいなかったようだ。大光司綾祢という魂は、まだこの世界に残されていた。……閉じ込められたままだ、という言い方も、出来なくはないかもしれないが。
だとしても、いや、だとしたら、
「……やめてください、藤和さん」
彼女の言う事は、筋が通っていない事だ。
「あなた方を騙していた事は、本当に申し訳ありません」
大光司さんは僕のほうへ歩み寄りながら、続ける。
「でもどうか、大光司の血筋は、悪く思わないで下さい。悪いのは、逃げようとした私なのです」
そんなのおかしい。人間なのだから、逃げたくなって当たり前だ。
「謝って済む問題だとは思いません。ですので、依頼を取り下げます。依頼のお金は、元々私個人の物ですので、キャンセル料として、そのままお受け取り下さい」
ですから、と、大光司さんは、重たそうな唇を、僕と同じで、現実では存在していないはずの唇を動かし、さらに、頭まで下げて、
「お許し下さい。せめて、大光司の名だけでも」
その謝礼があまりにも綺麗だったからか、それともその口調があまりにも美しかったからか、大光司さんが、人間じゃない何かに見えた。
「……なんで……」
こんな家のために、どうしてそんな卑屈になる? 卑屈な体制を取って卑屈な言葉を並べられる?
僕だったらまっぴら御免だ。自分を縛り、不幸のどん底に突き落とした連中のために何かをしてやれるほど、僕は寛容じゃない。そんな寛容さ、欲しいとも思わない。
「理由は、決まっています」
下げた頭を上げる大光司さん。
「私は、大光司に育てられた、養子ですから」
その瞳は笑っていた。
卑屈な笑みなんかじゃない。正真正銘、本物の笑顔だ。
「本物の大光司綾祢は、随分と前に亡くなっています。私ですら、本物ではありません」
精神的な衝撃に耐えられなくて放心している僕を他所に、大光司さんは、それでも、と、続ける。
「大光司は私を育ててくれました。感謝こそすれ、恨むなんて出来ません」
その理屈はおかしくないか? どういう経緯でもってその答えに辿り着く? 僕には到底辿り着けない解答を、さも当然のように彼女は語る。
「駆け落ちも、彼が見せたいという景色を見る事が出来たら、すぐに帰るつもりでした。本当に逃げるつもりなど、無かったのです」
どうして。そんな事さえも聞けないまま、彼女はなおも語る。
「外の景色が見たかったのです。一度でいいから、私の知らない世界に触れてみたかった。きっと、とても美しいものが、沢山溢れているのだろうな、と、そう思って仕方ありませんでした。写真家の彼が撮ってきてくれる景色もまた、素晴らしいものばかりでしたから」
目を輝かせて、間違えた将来の夢を語る、先日の凛ちゃんのように無邪気な笑顔。
世界はそんなに美しくないのに、美しくある事が前提で話を進める大光司綾祢を見て、痛々しいとは少し違うもやもやが、胸の内を支配していた。
道化の仮面みたいに完成された笑みをもって、大光司さんは、コンクリートの上で踊るように手を広げる。
そして、恥じるようにはにかんだ笑みに変え、
「見た事の無い景色に溢れている。この世界は、希望が沢山落ちているはずだと、彼が教えてくれたんです」
そう言った。
ああ、こういう事か、と、胸のもやもやの正体に気付くと同時に、付和雷同に嫌気が刺す。
大光司綾祢は人を呪わない。
その事実が、道化の仮面のように、酷く醜悪な物に思えた。




