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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
鳥篭の呪い
13/19

淑女の鎖と罪状と

「頼まれていた調査を進めていたらいくつか不可解な点があったので、もしかしたらと思ったのですが……ちなみに、どのような情報操作をしたのかを確認してもよろしいですか?」


 黒沢さんが居るから、川奈さんはあくまで調査の報告をするという体で話さなければならない。その中でいかに相手から聞き出すのかと思っていたけど、やっぱり調査の一環として、というのが一番合理的だったのだろう。


 しかし、その問いに大光司さんは答えなかった。気まずそうに俯いて、唇を噛んでいる。


「それは、わたくしから、説明いたします」


 変わりに答えたのは黒沢さんだった。


「……よろしいですね? お嬢様」


 大光司さんを見つめる瞳。しかしその口調かは問いや確認というよりも、擁護(ようご)のような優しさが垣間見えた気がした。


 大光司さんは黙った頷き、それを確認した黒沢さんが話し始める。


「ここでの話は、他言無用でお願いします」


 その前置きに川奈さんは「はい」と即答し、後に続いたのは黒沢さんの淡白な語り草。


「大光司財閥は、この辺りでは最も、大きな影響力を持っています。そんな力が私利私欲のために費やされる事が無いようにするため、跡取りの育成に力を注ぐのは至極当然の流れでしょう」


 僕はそもそも大光司財閥という名前すら知らなかったのだけど、一介の高校生でしかなかった僕だ。そういう情報に疎くても仕方ないと思う。自己弁護だけど。


「よって、跡取りとなる者はその血筋の者か、婿養子に来た者に限られます。万が一に備えて複数人の養子を引き取ってはいますが、それはお嬢様の身に何かがあった時のための保険でしかありません。それは、養子達も了承しています。となると、婿養子の選択もまた、大光司財閥の未来に拘る大事な事柄です」


 だから、大光司さんは政略結婚以外の道が無かった。思えば家柄の良い場所では当たり前の事なのかもしれない。


「奥方を早くに亡くされた当主様は、次の奥方となる人物を探す事よりも、今居る唯一の血筋の者、つまりお嬢様の育成、教育に力を注ぎました。よって、お嬢様は唯一にして絶対の、大光司財閥後継者なのです」


 一抹の疑問と、多大な不満が体内を跋扈ばっこした。どうして当主は奥方探しをしなかったのか、という疑問と、なんでそんな事のために大光司さんの将来が全て、勝手に決め付けられないといけないのか、という不満。さらに言えば、保険扱いされながらもその『唯一』に含まれない養子の人達への同情もあるかもしれない。とにかく、良い気分では無かった。


 しかし、黒沢さんは続ける。


「この事からご理解いただけたかもしれませんが、お嬢様の身に何かがあったという事はつまり、大光司財閥とそれに連なる全ての関係者に影響を及ぼす事になるのです。故に、お嬢様の身に何かが起きる、という事は、決してあってはいけないのです」


 だから、事故の情報がもみ消された。土砂崩れごと、駆け落ちという事件も無かった事にした? 大光司さんの決死の覚悟は、こうやって打ち消されたのか。


「成る程」


 理解したらしい川奈さんはゆっくりと頷き、そして、大光司さんのほうを見た。川奈さんの鋭い目は、全て解った、と、言外に告げているようで、どこかわざとらしかった。多分、本当にわざとそういう目をしているからだ。


「私は貴女から駆け落ちの相談を持ちかけられていましたが、そういう流れになってしまったのなら仕方ありませんね。以前貴女が言っていた通り、わがままを通すのはここまでにしましょう」


 わざとらしい口調は続く。大光司さんは少し戸惑っていたけれど、すぐに川奈さんの発言が黒沢さんを騙すための嘘だと気付いたのか、背筋をピンと伸ばした。


「……はい。もちろん、そのつもりです」


 胸を張っているはずの大光司さんがどこか小さく見えた。


 でも、小さくなろうと縮こまろうと、世界にとっては瑣末(さまつ)な事だ。時間は進むし日は傾く。窓から差し込む夕日が、胸を張り裂きそうな程に居たたまれないこの空気を助長しているような気がして、うらめしく思えた。


 それでいいのか、と僕は思う。


 演技だとしても、本当は瀬野探偵事務所に依頼に来るくらい彼の事を忘れられないはずなのに、表面だけであろうと彼を否定する。そんな状態があっていいのか? そんな空気が許されていいのか?


 恨みついでに黒沢さんを睨む。そういえば、駆け落ちについて、メイドたる黒沢さんはどこまで知っているのだろうか。テーブルを見つめたまま、蝋燭(ろうそく)みたいに固まっている視線。その目が一体何を見て、何を思っているのか。当然僕には解らない。


 けれど、彼女のその不動がまた、痛々しかった。


「彼の事を忘れるならば、今回調べてきた事は報告しないほうがよろしいでしょう。そのほうが貴女のためです」


 そんなおためごかしを用いて、今回の本題だった虚偽の報告を省こうとする川奈さん。


 しかし、


「そうはなりません」


 許さなかったのは黒沢さんだ。監視役として、大光司さんが、川奈さんに何を頼んだのか、という事くらいは聞こうとしたのかもしれない。


「ご用件をお聞かせ下さい」


 その目は、まるで敵を見つけた戦闘狂のように寒々しく、そしてなにより鋭さを持っていた。


 でも、川奈さんとてそこまで無用心じゃない。


「駆け落ち相手の個人情報と、土砂崩れに遭って以降見つかっていないという事になっている彼の行方。それらの報告が、今の彼女に必要でしょうか」


 これは餌だな、と、さすがの僕でも気付いた。


 もしも黒沢さんが本当に、大光司さんの頼みごとの内容を聞き出そうとしただけなら、相手はこれで満足するだろう。それでいてこちらは実質なんの情報も明かしていないのだから、本当ならば不釣合いだ。


 しかし、川奈さんの嘘によって、相手からすれば対等に見えるのだろう。


「……そうですね。不要でございます」


 対面上、そうしなければならなかったからだ。頷く変わりに目を閉ざし、黒沢さんが引き下がる。


 そして川奈さんは立ち上がり、


「ありがとうございます。私はこれで失礼しますが、大光司さんの復帰と真の回復を心待ちにしています」


 そんな社交辞令をして、踵を返した。


「こちらこそ、わざわざありがとうございます」


 大光司さんも立ち上がり、そして


「黒沢、門まで送って差し上げて」


 と、メイドさんに指示をした。


 途端に、川奈さんの足が止まる。不自然な止まり方だったけど、どうしたのだろう。メイドさんが扉を開けるのも待ってるのかな?


 黒沢さんは無言のまま、掌で道を指し示しつつ、扉を開けた。そこで、僕の予想通り、川奈さんは足を進める。


 そういえば、僕達は一体何を確認するためにこんな場所まで来たんだっけ?


 緊張し過ぎていたせいか、それが酷く曖昧だった。


 階段を降り、廊下を歩き、玄関を出て庭園を進む。門を潜るまでの間、結局黒沢さんは一言も喋らず、そして僕も、目的を思い出せずにいた。


 門から離れて、黒沢さんが中へ戻っていくのと入れ替わるようにして、どっと開放感に包まれる。


「っぶはあ! ……息が詰まったな」


 その開放感を惜しみなく吐き出す川奈さん。肩が凝ったのか、自分の肩を揉み解しながら首を回していた。


「お疲れ様。でも、結局何が解ったの?」


 田園風景を横目に流しながら問うが、川奈さんは答えない。ぶつける先の無い悪態を吐きながら、何も聞こえないかのように先を歩く。そこまで華麗に無視しなくてもよくない? それとも機嫌が悪いのだろうか。だとしたらその理由は解らない。僕は川奈さんじゃないから、当然だ。


 でも、同じ心境なんだろうな、とは思った。


 不機嫌な理由が解らなくても、不快感を共有する事は出来る。理由が違えていようと感情は感情だ。


 僕だって悪態を吐きたかった。


 大光司綾祢という人物が居る場所。大光司財閥。


 それが彼女を縛る鎖のように思えて、妙に腹立たしかった。






 事務所に帰ると、もう日は沈みかけていた。時間は七時前だけど、いつも以上に神経をすり減らしたのであろう川奈さんはそそくさと帰ってしまう。


 僕は事務所に取り残されて、なんとなく記憶の整理をしていた。


 大光司綾祢は、大光司財閥唯一の跡取りだ。だから彼女は大事にされているし、結婚相手も家によって決められた。


 しかし彼女は恋をした。写真家の男性に引き寄せられるようにして、家という鎖から逃げ出し、外の世界へ飛び立った。大光司さん曰く、彼は大光司さんに何かを見せたかったらしい。その何かというのは解らない。


 その最中に土砂崩れに巻き込まれた。目的地に向かう途中、まるで大光司さんが逃げ出す事を世界が拒絶するかのようなタイミングで、運命は道を塞いだ。大光司さんが自由を得た鳥だとしたら、世界の役目は鳥籠(とりかご)だ。彼女に自由を見せないため、運命という扉を用意した。


 そして、大光司財閥という鎖までもが動いた。鳥が二度と飛び立たないようにその足を括り付けて、扉に鍵まで掛けて、周囲からの干渉を拒み、また、写真家の男性の時の二の舞を起こさないため、彼女を世間から隔離した。それがあの屋敷だと僕は思う。


 神経質なまでの防犯は解る。家柄上仕方ないのだろう。


 でも、個人に監視までつけるのはどうかと思う。


 世界という鳥籠から逃げ出せなかった大光司さんは、狭い世界を飛び回る事も出来ないまま、さらに小さな、屋敷という牢獄に閉じ込められた。二重の拘束に四苦八苦した事だろう。


 そんな彼女はだからこそ、ここ、瀬野探偵事務所に頼った。そして、頼りながらも譲歩は忘れなかった。


 彼女の望みはただひとつ。彼が見せたかったものがなんなのか。それを知る事だけだった。


 小さな世界に閉じ込められた彼女の小さな願い。小さ過ぎて見失ってしまいそうな程だ。


 それを見失わないように、血眼になって、手探りで足掻く。


 その先に、僕が出来る事。


 僕が見せてあげられるものはなんだろうか。


「ねえ、彼氏さん」


 一人きりの事務所にて、天井を仰ぎ見ながら呟いた。この言葉に意味なんて無い。あるのは自己満足くらいだろう。


 この事務所の外に出たら何も掴めない虚無の手を、蛍光灯に向けて伸ばして見る。当然だけど届かない。


 それでも、掴めるものはきっとある。


「大光司さんに見せたかったものを見せられなかったんだ。……死んでも死に切れないよね、そんなのさ」


 僕は、そう信じたい。






 翌日の三時頃の事である。いつも通りの時間に川奈さんが来て、いつも通り僕は何もしない。むしろ何も出来ない。携帯とにらめっこしながらメモを書きとどめている川奈さんを観察するくらいしかやる事が無いから、ぼろぼろのソファーに座って時間の経過を待つだけだ。もどかしさは当然ある。この時間を無駄にしている感じは好きじゃない。


 それでも僕は幽霊だ。実体の無い、魂の塊。ともすれば気の持ちようで時間を早く感じる事も出来なくはない。……ただ単に暇に慣れただけなんだけどね。もはや精神統一と言っても過言では無いと思う。修行僧にだってなれる気がする。もちろん体さえあれば。……つまりなれないって事だね。じゃあ諦めよう。


 その時だった。


 こんこん、と、遠慮がちなノックが事務所の入り口から聞こえた。


「どうぞ」


 川奈さんは促すと、いくらかの間を置いてから、扉が開く。そこに居たのは大光司さんだった。


「こんにちわ」


 気まずいのか、苦笑しながら会釈する大光司さん。


 川奈さんは何かを探るような沈黙を置いていたけれど、僕はそこはかとなくこみ上げた残念感に言葉を失っていた。


 その出所を探ろうとしたら、すぐに解った。服装だ。昨日は白のワンピースですごく似合っていたのに、今日はまたラフなシャツに薄いフリースとジーパンという組み合わせで、季節感丸無視だった。昨日の服装が部屋着だったとしても、どうして部屋着のほうがお洒落なの? 服装さえもお洒落にしないといけない家庭なのだろうか。だとしたら外出時にも気をつけようよ。せめて季節は大事にしようよ。


 でも言わない。女性の服装にけちをつけられる程、僕自身がお洒落じゃない。しがない高校生によくある服装を、魂が習慣からランダムで選出している。過去に着た事のある服装だ。


 二年前に死んでいる僕の服装。流行の最後尾とも言える。……僕のほうが残念なのではなかろうか、と、今更気付いた。知らなかったほうが良かった事とはこういう事を言うのか。


「えっと……こんにちわ」


 川奈さんがいつまで経っても無言だったから、僕のほうから大光司さんに挨拶した。どうせ彼女には僕が見えているのだ。なら、今更黙る必要も無いだろう。それに、昨日は監視が着いてたからね。


 大光司さんは僕から挨拶が返ってきた事に安堵しているようだった。胸を撫で下ろし、一息付いている。


「えっと、その、まずは謝らないといけない事がありまして……」


 靴も脱がず、玄関でもじもじする大光司さん。このままじゃ彼女に失礼だと気付いた僕は、昨日の黒沢さんに倣って、立ち上がってからソファーを掌で示す。


「どうぞ」


 ちゃんと出来ただろうか。普段から黒沢さんみたいな人が近くに居るお嬢様たる大光司さんからすれば、稚拙な接客だろうとは思う。でも、なんとなく真似してみたかった。


 大光司さんは不安げな表情を浮かべながら川奈さんを一瞥。そしてようやく我に返った川奈さんも立ち上がり、ソファーのほうへ移動した。


「まずは上がってください。話はそれからです」


 その言葉を聞いて、今度こそ靴を脱ぐ大光司さん。泥の付いたスニーカーというのも相変わらずだ。もしかしたら、簡単には外に出歩けないから変装しているのかもしれない。だとしたら中途半端だけどね。やっぱり大光司さんは天然で抜けているところがあるみたいだ。


 川奈さんがソファーに座る。僕はその後ろへ。いつものポジションだ。その正面に、「失礼します」と言いながら大光司さんが座る。お嬢様然とした振る舞いではあるけれど、服装が服装なだけに、どうも違和感がある。


「えっと、その……」


 頬を掻きながら言葉を濁す大光司さん。謝りたい事がある、と言っていたけど、昨日の事なら特に謝罪が必要だとは思えない。むしろ僕らが勝手に、いきなり押しかけただけだからね。迷惑をかけたのはこっちだ。


 だけど、その心配は杞憂(きゆう)に終わった。


「先日頂いた書類を、どこかに落としてしまったみたいで……」


 ああ、そういえばそんなこともあったな、と思い出す。それは今頃交番だ。


「お気なさらずに。また新しいものを用意します」


「ありがとうございます」


 事務的なやり取りを見届けつつ、僕は川奈さんのデスクへ向かう。本来ならここで動いちゃいけないのだけど、僕が見えてる大光司さんの目先、必要の無い気遣いだ。


 物が散乱(さんらん)した川奈さんのデスクから書類を捜す。依頼の紙、依頼の紙っと……違う、これはただの離婚届けだ。……なんでこんなものが……。


「あと、小切手ってありますか?」


 ふと、合いの手を打ちながら大光司さんが言う。


「あります。依頼のお支払いですか?」


「はい。調査に必要な資金も小切手で支払いたいのですが、大丈夫でしょうか」


「問題ありません」


 そのやり取りを聞いて、僕の探し物がひとつ増えた。小切手小切手っと……いいやこれはアマボンの領収書だ。……なんだと……? 川奈さん、ネットで買い物なんて出来るの……?


「あと」


 川奈さんが、思い出したかのような様子で続ける。


「また書類を持ち帰るのも面倒でしょう。拇印でも構わないので、今ここで書いていったらどうですか?」


 確かに、また落としたりしたら二度手間だ。そんな事になるのなら、ここで買いてしまったほうが数倍利口である。


 でも、


「えっと……」


 大光司さんはしぶっていた。拇印を押したくないのかな?


 でも、生まれたての小鹿みたいに潤んだ瞳で書類を摘んでいる僕のほうを見て、少し考える。


「解りました。それで、おねがいします」


 ということで、またひとつ探し物が増えた。朱肉朱肉っと。赤い物を棚の中に発見。しかしそれは液体だった。……血糊(ちのり)じゃなかろうか。警察呼ぼうかしら。探偵事務所に警察。容疑者は川奈さん。罪状はデスクの上に混沌を築き上げたというある種の営業妨害。自分で自分の首絞めてるよ、川奈さんのだらしなさは。


 ひとつも見つからないから、僕は探し物に専念する事に。その間もなんやかんやと二人で話していたけれど、僕はそれどころじゃなかった。汚すぎるよこのデスク。今度本気で片付けてもらおう。……とかって考えながら探してたら書類の山が崩れた。小さな土砂崩れである。でも僕が挫折するのには十分の威力でした。これ無理。


「何をしているんだ、お前は」


 崩れる音に反応して、川奈さんがこっちに気付いた。


「依頼の用紙と小切手と朱肉を探してるんだけど、どこにあるの?」


 自分で探すのを諦めて聞くと、川奈さんは呆れたように嘆息し、


「そんな大事なものが、私の机の中にあるわけがないだろう」


 自分で言うんだ、それを。


「先生のデスクだ。そっちを探せ」


 汚い自覚があるのは良いけど、だったら片付けろって話なんだけどね。言わないけどさ。


 先生のデスクは川奈さんのデスクと向き合っているやつだけど、そっちはとても綺麗だった。片付けがしっかりされている、というよりも、使われていない綺麗さだ。年季はあれど長い事使われなければ当然埃とかも被るだろうに、そういうのが全くない。先生は入院中だから、埃を掃ったりしているのは川奈さんなのだろう。


 そっちを探すと、目的の物はすぐに見つかった。もっと早く教えて欲しかったです。


「はい」


 言いながら、依頼の用紙と小切手。朱肉と、あとペンも、大光司さんの前に置く。


「ありがとうございます」


 言いながらペンを手に取り、書類を書き始める大光司さん。すらすらと、綺麗な字が並べられていく。


「ティッシュも用意しろ。拇印だと手が汚れるからな」


 川奈さんに指摘されて、自分の至らなさを思い知らされた。丁寧な接客っていうやつを心がけたつもりだったけど、意識だけじゃ限界があるようだ。


 言われた通り手を拭くためのティッシュも用意していたら、その間に書類の用紙は完成していた。字を書くのは得意なのか、すごい速さだ。


「では……」


 手が汚れる事に抵抗があったのか、大光司さんは戸惑いつつ、朱肉に触れる。赤い液体が親指に着くのをまじまじと見つめながら、彼女は何故か驚いていた。変な感触でもしたのだろうか。


 それでもすぐに気を取り直して、大光司さんは書類に指紋の印を押す。掠れた指跡が紙に着いたのを確認して、安堵の息を漏らしていた。


「拇印を押すのは初めてです」


 ティッシュで指を拭きながら、誤魔化すように苦笑を浮かべる大光司さん。


「そうある機会ではありませんからね」


 適当な口調で話しを合わ、川奈さんは頷く。


 確かに、拇印なんて、少なくとも僕は押した事が無い。では川奈さんはというと、


「拇印は警察がよく取っていますが、他の場所ではあまり使われませんからね」


 その言い分から察するに、川奈さんは警察で拇印を押した事があるようだ。何をしでかしたのだろう。


「そうなのですか」


 大光司さんは両手を合わせて打ち鳴らし、関心するように身を乗り出す。


「殆ど家に篭っていた私では、なかなか経験できないはずです!」


 嬉しそうに言う事なのだろうか。絶対に違うと思う。


 さらに彼女は、指を拭いたティッシュを丁寧に折りたたみながら、軽く会釈してきた。


「貴重な体験をさせて頂き、ありがとうございます」


 その礼儀正しさと純粋さが眩しすぎて、思わず自分を見失いそうになった。


 完成された人間というやつを見ると、自分が酷く卑しい人間に思える時がある。有能過ぎる学級委員とか、形ばかりじゃない生徒会長とかね。そういう遠すぎる存在は、時に無能な人間を傷つける。つまり嫉妬だ。それでさらに惨めを催すのだから救いようが無い。


「それで、依頼の資金なのですが……」


 資金、というより、前払い金と言ったほうが近いだろう。でも、それは今は関係ない。すらすらと小切手に数字を書き、サインを付けた彼女の手元には、半ば信じられない額が書かれていた。


 一がひとつにゼロが六つ。百万。


「……ゼロがふたつ程多いです」


 流石の川奈さんも頬を引きつらせていた。そりゃ、こんな数字を見ればね。


「そうなのですか?」


 大光司さんはきょとんと小首を折り、


「探偵さんにお仕事をお願いするには、これくらい必要なのではと……」


 そう言って言葉を濁らせていた。常識を知らない事を恥じるような仕草だ。でも正直、これは知らなくても良い事だと思う。それにこういう普通じゃない仕事に関しては、基本的に応相談で金額も左右される。ともすっれば、知らないのは当然だ。


「資金込みの前払いでは……そうですね。五万円あれば十分過ぎるくらいです。五千円を越える事も、そう無いくらいですし」

 

 川奈さんは言いながら新しい小切手を大光司さんに渡し、七つの数字を並べた小切手を細かく破った。


 新しい小切手を受け取った細くて華奢な指はゆっくりとそれをなぞり、そして、


「では」


 と、何故か満面の笑みを浮かべる。


 新しく書き綴られた数字。――五十万。


 人の話を聞いていなかったのだろうか。


「ゼロをひとつ多く書いてますよ」


 僕が指摘すると、大光司さんは首を横に振る。


「これで全額払わせて下さい」


 川奈さんを見つめ、胸に手を当て、すがるようにして大光司さんは続ける。


「大光司財閥の事もあるので、あまり何度も動く事は出来ないのです。調査が終わった途端に、ここに来れなくなる可能性も高いです。……なので、これを受け取って下さい」


 それに続いたのは気まずい沈黙だった。


 確かに、昨日の一件もある。


 大光司財閥の監視。大光司さん本人がこういうのもそうだけど、僕らだってそれをまじまじと見ている。あれが氷山の一角なのだとしたら、きっと、僕なんかでは想像も付かない束縛がそこにはあるのだろう。


 ともすれば、事前に支払っておくというのは妥当な判断であり、信頼の証でもある。そして、そんな建前に内包されたもうひとつの意味を、大光司さんは、そして川奈さんは気付いただろうか。


 ここに来る事も出来ない程の監視が、以降着くかもしれない。もう二度と家出などしないように、飛び立たないようにされるのだと。それはすなわち、ひとつの諦め。


「解りました」


 川奈さんは仕方なしにと頷いて、そのついでに、と、テーブルに置かれた小切手を手に取る。


「……明日はここに来れますか? 可能であれば、一日程時間を頂きたいのですが」


 仕事モードの川奈さんは問う。


 それは難しいんじゃないかな。だって、大光司さんはあの監視を受けてるんだよ? 簡単に外出なんて出来るはずが無い。事実、大光司さんを見ると、彼女は難しそうな顔をしながら、口元に手を置いていた。


「あのメイドになら、ある程度の融通(ゆうづう)は利くのでは?」


 そう提案する川奈さん。あのメイド、というのは多分、黒沢さんの事だ。


「あのメイド、とは、黒沢の事、ですか?」


 驚きながら確認する大光司さん。


「ええ、そうです」


 ふと、大光司さんはさらに考え込む。対する川奈さんも、訝しむような表情でもって大光司さんを見据えていた。


 そしてしばらくの沈黙を置いた後、なんの偶然か、二人が同時に「やっぱり」と、独り言のように呟いていた。何か思い当たる点があったのだろうか。その内容が同じ事なのか、違う事なのかは解らない。


「ここに来る事が可能かは、断言は出来ません」


 それでも、彼女の視線は真っ直ぐ、川奈さんを捉えていた。


「……なんとしてでも、来ます。それで、彼の見せたかった景色を見る事が出来るなら」


 この意思は絶対に曲げない、と言外に告げるように伸ばされた背筋。その整った体から放たれた言葉と声はそれでも、今にも掻き消えそうに掠れていた。

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