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ある探偵と僕の話  作者: 根谷司
鳥篭の呪い
10/19

淑女の頭から抜けたもの

 その後は依頼金の話になった。今回の依頼は結構アウトローというか、普通の依頼では無いから判断し難いため、応相談、もしくは事後に決まる、と川奈さんは言っていた。そしたら大光司さんは、では、また後日、前払い金を持ってきますと言った。解決出来るか解らないから前払いは要らない、と川奈さんが言うと、なら、調査に必要になるであろう経費を用意します、と言って、大光司さんは帰って行った。そして来た時同様、玄関を出る時にもドアに激突していた。どうしたのあの人……。


「常識を知っているのか知らないのか、よく解らんな」


 と、川奈さんは、彼女が出て行った玄関を見つめたまま言ったから、確かにと思い、少し考えてみた。


 大光司さんは事務所に来た時は扉にぶつかり、川奈さんや僕の言葉に対して妙におどおどしてたのに、仕事の話になった途端、言葉遣いも振る舞いも綺麗になった。その時の大光司さんはお嬢様、もしくは箱入り娘と呼ぶに相応しい振る舞いだったといえよう。


 そして、まだ正式に依頼が成立したというわけでもない――ちゃんとした手続きは済ませていない――のに、依頼の契約書を封筒に入れて持ち帰って行った事もそうだ。印鑑も必要ではあるけれど、無いなら無いで拇印でも構わないから、その場ですぐ書く事も出来ただろう。しかし彼女は拇印では済ませず、書類をお持ち帰りした。


 周到、とかっていうより、神経質、と言ったほうが近いかもしれない。それが、大光司綾祢という人物と十分程話して抱いた感想だ。


 しかし彼女は、出て行く時も扉にぶつかった。


「確かにね。なんというか、抜けているわりにはしっかりしているっていうか」


 なんて言ったらよく解らなくて言葉を濁すと、川奈さんも僕と同じだったのか、その事へのコメントは続けず、放置されていたテレビの接続作業を再開した。同意なら同意で、そういうコメントをして欲しいと思わなくもない。


「結局やるんだ」


 放置したままにすると思っていた僕は思わず口を挟む。このまま無言になられても悔しい、というのもある。でも思えば、川奈さんはさっき、テレビをあまり見ないせいで恥を掻いてたからね。これは当然の行動かもしれない。


「ただの気まぐれだ」


 と川奈さんは言うけど、それがただの強がりである事を僕は知っている。過ちとか間違いとか虚偽(きょぎ)とか、そういう事を平気で重ねる探偵ってどうなのだろうか。


 しかし、僕の脳内ではもう既に未来予想図が鮮明に出来上がっていた。きっと川奈さんは十分ぐらいしたら根を上げて、手に持っているケーブルを放り投げる事だろう。


「飽きた」


 残念、一分でした。桁がひとつ違ったね。


 世間と触れ合おうとしない探偵。最近になって川奈さんがどれだけ探偵に向いていないかを思い知らされる機会が多くなっている。


 適当で、おおざっぱで、かっこつけたがりのくせにどこか抜けてる。パズルを組み立てている途中で完成図が見えてしまい、止めてしまったみたいな肩透かし感が、僕の胸の内を支配した。


「……仕方ない」


 ふと、川奈さんは疲れてもいないであろう肩を回しながら立ち上がる。


「少しの間、下に行ってくる。お前も来るか?」


 聞かれてふと、そういえば、このビルの二階って誰がどういうふうに使っているのか知らないな、と思い出す。


 四階建てのこの雑居ビルは、一階は小さなマイナーゲーム会社が使っている。三階はここ、瀬野探偵事務所で、四階は無人だ。


「下って、何をしている人が居るの?」


 問うと、来れば解るさ、と言いながら、川奈さんはさっさと行ってしまった。


 着いていく以外に道は無いな、とひとつ嘆息して、大人しく川奈さんに続く。



 古びたコンクリートの階段を下りて二階へ。そして川奈さんは、そこの呼び鈴を鳴らした。


 しかし、中から返事は無い。


 無人なのかな、と思ったら、川奈さんは強く、今度は直接扉を叩いた。


「ケイ! 居るのは解っている! 無駄な抵抗はやめてさっさと出て来い!」


 取立て屋さんか何かかと思った。そして中の人は立てこもり犯。だとしたら両方とも有罪だけれど、現状では明らかに川奈さんが恫喝しているだけのため、探偵であるはずの川奈さんだけが有罪だ。


 少しすると、どたばたと慌しい音が中から聞こえた。川奈さんの言った通り、本当に居留守を使っていたらしい。


 そして数秒、がちゃ、と扉が開いて、中からは川奈さんと同い年くらいの男の人が出てきた。背は高いけど細身で、肌も白い。大光司さんとは違って、不健康そうな印象を受けた。髪も男の割りには長く、縁の濃い眼鏡と相成って、良く言えば仕事人間、悪く言えば出不精な印象となっている。


「……なに」


 その男から放たれたのは、返答ではなく敵意だった。川奈さんに送られるあからさまな拒絶。しかし川奈さんは一向に気にせず、堂々とした立ち姿のまま、


「テレビの接続を手伝って欲しい」


 と言った。それが人に物を頼む態度なのだろうか。違うよね、絶対に。


「嫌だ」


 ケイと呼ばれた男は言う。そしてそのまま扉を閉めようとしたけれど、川奈さんは扉の間に割って入った。


「困った時には助け合おうではないか、ケイ。ほら、あれだ、今度大学の課題を手伝ってやるぞ」


 ということは、川奈さんと同じ大学に通う人なのかな。じゃないと今の交渉は成立しないからね。


「川奈にやらせると必ず再提出を食らうから嫌だ」


 元々成立しなかったみたいだ。川奈さん……。


「そこをなんとか頼むとケイ。なんならあれだ、今度女を紹介してやる」


「川奈の周りにはまともなやつが居ないじゃないか」


「そうでもないぞ。とても素直で、目も眩むような良い子が一人居る。お前が好きそうな子だ」


「一応聞くけど、どんな子?」


りんという私の妹だ」


 僕は川奈さんの大学での人間関係とかは知らないけど、家庭の事なら多少は知っているし、さらに言えば凛ちゃんとは知り合いだったりする。確かにすごく良い子で、可愛いし、しっかりしている。ちなみに小学生である。ケイさんはロリコンなのだろうか。


「帰れ」


 違ったみたいだね。扉を閉めようろする力をさらに強めたケイさんの反応は、すごく正しいものだと思う。


「つれない事を言うな、ケイ。――そうだ、忘れていたな」


 不自然に会話を切った川奈さんは、ふと僕のほうを見た。そしてケイさんを指差して、


「紹介しよう。こいつは半年前まで瀬野探偵事務所の一員だった五和圭吾いつわけいごだ。今は、情報屋というものをやっている」


 と、僕の彼を紹介してくれた。情報屋とかって本当に居るんだ、とも思ったけど、それよりも重要な事がある。川奈さんがわざわざ僕を紹介したということは、彼にも僕が見えているって事だろうか。だとしたら、世間は霊感持ちの人が溢れている。僕が知っているだけでも五人だ。そんな事ってあり得るの? 少し前まで、というか、僕自身が幽霊になるまで、幽霊というものを信じていなかった僕からすれば、(いささ)か現実味に欠ける。


 でも、五和さんの反応は全く違った。


「……なんの冗談だ……?」


 彼は僕を見ていない。ただひたすら川奈さんを睨んでいる。


「どうもなにも……」


 川奈さんは悪戯な笑みを浮かべると、してやったり顔で僕の頭に触れる。川奈さんの霊感は、幽霊に触れる事も出来てしまうのだ。


「――ここに居る藤和良助という私のしもべに、お前を紹介してやっただけだぞ?」


 グラ、と、停滞していた扉が再び動き出す。五和さんがまた扉を閉めようとしたのだけど、それを川奈さんが遮ったのだ。しかしそんな事よりしもべってぼくのことだろうか。あながち間違いでは無いような気がするけど事実上間違いだ。意味的にも字面的にも、とてもややこしい。


「ナニをイッテルかワカラナイ」


「それはむしろこちらの台詞だな。もう少しちゃんとした発音で喋ってくれ、ケイ」


 いや、川奈さんはちゃんと理解してるじゃないか。というツッコミは自重した。これ以上会話をややこしくするのは、僕にも五和さんにも優しくない行為だろう。現に、会話以前の問題で取り乱している五和さんをこれ以上追い込んだら、多分会話にならなくなる。


「見えないものを見えるみたいに言うなああああ!」


 もうなってたわ。


 頭を抱え込んで、入り口から離れる五和さん。別に珍しいとは思わないけど、幽霊とかが嫌いな人も当然居るよね。昨日の大家さんとかもそうだし、解ってたし覚悟もしてたけど少し傷付く。僕も人間だからね。いや、もう元か。……なにこれ結構傷付く。


「そう取り乱すな。害はあまり無い」 


 とかって川奈さんは言うけど、少なくとも僕は実害を(もたら)すような事をするつもりは無い。というより、人に迷惑をかけるような気概(きがい)は持ち合わせていない。生前、困ってる人を見ても助ける事が出来なかったような甲斐性無しだった僕には到底、そんな事は出来ないのだ。


「あまり、じゃ信用できないんだよ。……というか、目に見えないものを信じるなんて出来るわけないだろ? どうかしてる……」


 (うずくま)ったままの五和さんに、川奈さんは歩み寄って、震えるその肩に手を置いた。


「安心しろ。私には見える」


「俺には見えないんだよ!」


 それもそうだ。川奈さんの言い分はただのエゴであり、自己満足でしかない。川奈さんには見えるからって、それが他の人と共有出来ない情報である時点で、見えない人からすれば絵空事と大差無いのだから。


 ともすれば、


「昨日、依頼を回してやっただろう?」


 言う事を聞かないなら脅す。まるっきり悪役のやる事である。でもこれしか無いよね。


「あの紹介状の人か……くそ、引き受けなければ良かった……」


 昨日の青年の話だろう。瀬野探偵事務所では引き受けられないから、下の階に行けと川奈さんは言っていた。情報屋に仕事を回す、なんて、探偵事務所としては仕事敵に塩を送るみたいなものだ。だからこそ恩になるし、交渉材料にだってなる。でも突き詰めれば、今回の頼みごとはただのテレビの接続だ。はっきり言って割りに合わない。川奈さんが圧倒的に不利になるような気がするのだけど、良くも悪くもおおざっぱな川奈さんは、満足そうにあくどい笑みを浮かべた。


「昨日の依頼の件をチャラにしてやる。だから、事務所のテレビの接続を手伝ってくれ。もちろん、無料で」


 手口が完全に悪者のそれだけど、僕はもう慣れた。


 五和さんも諦めてくれたみたいで、渋々といった様子で立ち上がる。


「ただし、俺には幽霊を近づけるなよ……」


 疑うような視線を送りつつ言うと、川奈さんは快く頷いた。


「では、事務所行こう。お前も一緒に戻るぞ、良助」


「俺の話聞いてたか!?」


 近づけるなと言った傍から同行させようとするのだから、確実に聞いてなかったと思う。


 今度はコンクリートの階段で蹲る五和さん。相当嫌い、というか、怖いらしい。僕に害は無いのは確実だと思うんだけど、それでも、嫌なものは嫌なのだろう。食わず嫌いならぬ見ず嫌いだ。ある種の差別でもある。


 しかし僕に人権は無い。もはや人間ですら無いといえる。ともすれば、それだけでも怯えられたりするのは、やっぱり仕方ない事なのだろう。


 それにしても、


「ねえ、川奈さん。どうして、僕が居る事をこの人に教えたの?」


 霊感が無いのなら、存在を教えないほうが良かったと思うんだよね。事実この人は僕の存在を知って怯えまくってるし、何か意味や価値があったとは思えない。


 川奈さんはさも当然のように鼻を鳴らし、


「そのほうが面白そうだったからな」


 と、外道な事を言っていた。この人、基本的には最低だ。




 仕方ないから、僕は少しの間、昼間の気だるい陽光を浴びつつ、散歩をする事にした。川奈さんもわざわざ止めるような事はせず、僕を見送った。五和さんにはむしろ歓迎された。招かれざる客は帰る時が一番歓迎されるのである。でもあの事務所は僕の家みたいなものなんだよね。どうして僕が帰らされる側になってるの?


 そんな不満を脳内に並べつつ、(よど)んだ思考を歩く道の景色と一緒に流していく。


 僕はこんなふうに、川奈さんに対して不満ばかり抱いているけれど、川奈さんが嫌いなわけではない。むしろ感謝している。


 僕は一ヶ月と少し前、記憶を失くした状態で目覚めた。


 自分が死んでいるという事にさえ気付かずに居た僕を、川奈さんはあの事務所に連れて行き、一緒に記憶を探してくれたのだ。


 色々あって住職である川奈さんのお父さんに成仏させられそうになったけど、そこに川奈さんとその妹、凛ちゃんが現れ、僕を救い出してくれた。さらに、自分が死んでいると知って意気消沈していた僕に、居場所と存在し続ける勇気と、その事の意味を明示してくれたのが川奈さんだ。


 川奈さんが居なければ、僕は既にここには居ない。だから、感謝するのは当然だ。


 索漠さくばくとしたオフィス街。大小問わず乱立されたビルが陽光を反射して、幽霊たる僕をいじめてくる。早足になろうにも、力があまり入らなかった。こういう時、ああ、僕ってば幽霊なんだな、と実感する。


 そんな拷問地を抜けると、閑静(かんせい)な住宅街に入る。今は使われなくなって腐食した木製のバス停を通り抜けた辺りから、立ち並ぶ家々がどんどん古くなっていく。まるで世間の階級を区別しているかのように明らかに、街から色は失われていった。


 目的地はあすなろ公園という場所だ。遊具とかは無いけど、木々が整理されていて、綺麗な公園である。散歩とかに適しているという理由から、そこを目的地にした。


 理由はそれだけだったのだけれど、目的地が近付くと、前方に見知った後ろ姿があった。背は小さい。小学生くらいだ。というより、確実に小学生だ。


「凛ちゃん」


 周りに人が居ない事を確認して、声をかける。するとその少女は振り向いて、宝石が埋め込まれたみたいな大きな瞳をより一層輝かせた。


「お兄ちゃん!」


 斜め後ろの中途半端な位置で結った一房の髪を揺らしながら、その少女が駆けてくる。


 川奈凛。瀬野探偵事務所に居る川奈さんの妹であり、同時に、僕の命の恩人もとい、魂の恩人だ。命の恩人というには幽霊という僕の現状がよろしくない。


「どうしたの? こんなところで」


 言った後に、あすなろ公園に用があった、くらいしか、この辺りでの選択肢が無い事に気付いた。でも彼女は楽しそうに人差し指を立てて、唇の前に翳して笑う。


「なんでしょーかっ」


 クイズ形式にされるとは思っていなかったけど、考えてみれば小学生が好きそうな話の流れだ。僕は少しの間考えるふりをして、


「あすなろ公園で友達と待ち合わせかな?」


 それくらいしか思い浮かばないからね。


 でも、


「ぶっぶー」


 凛ちゃんは満足そうに唇を尖らせて、


「近くの交番に落し物を届けに来ていたのです!」


 え、偉い……。偉すぎて頭を撫でてあげたくなったけど、凛ちゃんは僕を見て、僕と話す事までは出来ても、触れる事は出来ない。僕が触れようとしても、まさしく何事も無かったかのように、この手は彼女をすり抜けるだろう。


 だからなるだけ爽やかを意識して笑って、すごいね、と言った。すると凛ちゃんは粉末状の宝石を飛散させたのかと思うほど砕けた笑みを浮かべて、えへへー、と、嬉しそうに頭を掻く。


 頭を掻いた手首に、木彫りで和風テイストなブレスレットが見えた。


 御守り、というには実用性がありすぎる代物で、ただの飾りなんかでは間違えてもあり得ない。事実、あのブレスレットには力がある、と川奈さんも言っていたし、僕自身、あれで助けられたという経験がある。


「その落し物ってなんだったの?」


 姫潰しがてら話題を掘り下げると、


「封筒だよ」


 と凛ちゃんは答えた。そしてA四サイズ程度の大きさの四角を小さなその手で作ってみせて、


「これっくらいの封筒」


 と、丁寧に教えてくれた。あの適当人間たる川奈さんと血が繋がっているとは思えないほどしっかりしている。


 ふと、凛ちゃんが示したそれに、そこはかとない既視感を覚えた。それくらいのサイズの封筒を、さっきばかり見た気がしたのだ。


 今日一日の記憶を漁ってみたら、そういえば、大光司さんがそれくらいの大きさの封筒に書類を入れていたな、と思い出す。


「もしかしてその封筒、茶色じゃなくて緑色だった?」


「うん!」


 即答されて、思わず頭を抱えてしまった。それ、時間的にも条件的にも大光司さんのじゃないかな。落としたのか。だとしたらやっぱり、大光司さんはどこか抜けているのだろう。神経質と天然の両立……ある意味ですごく器用な性格だよね、それ。


「お兄ちゃんのだったの?」


 抱えた頭を覗き込まれて、若々しさ溢れる凛ちゃんの顔がすぐ目前に現れた。いきなりの急接近に少し驚きつつ、取り乱さないようにと距離を取る。


「い、いいいや、封筒は近いけどね!」


 そして僕の発言は意味不明だけどね! 駄目だった。取り乱しました。……小学生相手に……。


「……封筒に覚えはあるけどね」


 一拍置いてなんとか言い直し、


「一応、後で確認しに行ってみるよ」


 と、その話を終わらせた。


「それで、これからどこか遊びに行くの?」


 次の話題に移ると、凛ちゃんは「んーん」と首を振る。そしてさっきちらりと見えたブレスレットを見せ付けるように突き出してきて、自慢気に答えた。


「午後のお時間からは、お父様に術を教えてもらうのです!」


「術?」


 術というのは、住職をしている凛ちゃんのお父さんが使う、除霊術とかの事だろう。それの修行をする、ということだろうか。だとしたら少し心配だった。

凛ちゃんは活発な子だから大丈夫そうな気もしないでもないけど、その除霊の修行が嫌になって逃げ出した人物を僕は知っている。凛ちゃんのお姉さん、瀬野探偵事務所に居る川奈さんだ。


「安全な憑依(ひょうい)のやり方、っていうのを教わるだけだから、大丈夫だよーっ」


 ニカ、と、両掌を広げて自分の頬を突付く凛ちゃん。


 憑依。専門的な事は解らないけど、凛ちゃんが使う憑依は確か、自分の魂と霊の魂を同化させるものだったはずだ。わけあって僕も凛ちゃんに憑依したことがあるけど、川奈さんもそれは危険だと言っていた気がするから、安全な憑依の仕方を教わる、というのは、必要な措置かもしれない。


「じゃあ、頑張らないとね」


「うん。頑張るっ」


 僕のありきたりな激を素直に受け止めて、凛ちゃんは駆けていった。


 その背中が見えなくなるまで見送って、目的地をあすなろ公園から交番へ変更する。公園の近くにある、割と新しい交番だ。


 そして交番の前に辿り着き、ガラス張りの扉を開けようとする。しかし扉に触れる事が出来なかった。


「あれ?」


 不思議に思って首を傾げてから、朝、川奈さんから聞いた話を思い出した。僕が物に触れるのは、その空間や物が放つ霊磁場が強い場合のみだ、みたいな話だ。つまりそういう事なのだろう。


 だったら扉を開ける手間が省けるね、ラッキー。と思ってすり抜けて、「すみませーん」とカウンターの向こうで事務作業をしている男性に声をかけた。


 返事が無い。まるで屍のようだ。しかし残念ながら屍は僕である。ともすれば屍の一歩先の存在とも言える。冗談にするには笑えない。なにせ幽霊ということは当然、警察に落し物の確認をさせてもらうことも出来ないのだから。


 つまりはここまで来た意味が無かったということなんだけど、こんなポカしているようでは大光司さんの事を言えない。誰よりも抜けてるのは僕のほうじゃないか、と、気付きたくも無かった事実に行き着いてしまい、僕は少しの間、交番前に落ちていた、傷ひとつ無い蝉の死体を見つめていた。信じられないだろ? これで死んでるんだぜ。


 冗談めかして脳内でアナウンスしてみた。傷の無い蝉の死体は夏の風物詩のひとつだけど、それは儚さの象徴でもある。


 夏にしか生きられない短命の蝉。死因は寿命。ともすれば、ここから解るのはひとつ。


 夏がもうすぐ終わる。


 そんな淡くて微かな切なさが、胸の中にこみ上げていた無力感を少しだけ癒してくれた気がした。

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