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後編

 向日葵が種の重みに頭を垂れる頃、千代は鬼童がなけなしの金で仕立ててやった着物を着て、この家を出て行った。千代の奉公先が決まるまでの短い間ではあったが、その生活は賑やかで楽しく、いつまでも鬼童の心を放さない。

 陽気な彼女は何かあれば声を立てて笑い転げた。ひまわりの葉擦れにも似たその声は鬼童の心をくすぐり、暖め、柔らかくほぐしてくれる。

 そんな日々が続いたからだろうか、千代が出て行った家の中は薄暗く、太陽にさえ見放されたように感じた。

 元の村から離れた大きな村の豪農の家に、飯炊き女としての職を見つけてやったのは自分だ。だが、どうしようもない寂寥感と後悔だけが暗くなった家の中を支配する。

(お千代はどうしているじゃろうか。)

 季節は巡り、庭には再び向日葵が咲く。主に手入れもされず荒れた中に、すっくと伸び上がった日輪の花はたおやかで、どうしてもあの娘の面影を消してはくれない。

 鬼童はだらしなく昼過ぎまで寝入っていた布団から身を起こし、何する気力も無く竈のほうへと目を向けた。既に火が消えて久しいそこには、主すら居ないくもの巣が力なく風に揺すられている。

……あの時、あの娘を手放しさえしなければ、毎日煮炊きのために火の入る竈になんぞ、奴らも好んで巣など張らぬだろうに……

 虚しい視線を庭に向けた鬼童は、向日葵の隣に立つ女の姿に、悲鳴にも似た喜声をあげた。

「お千代!」

 陽焼けた顔は多少色抜けているが、見間違いようも無い。幾晩も夢の中で確かめ、もう一度会いたいと願っていたあの娘だ。

 はだしのまま庭へ飛び降りた鬼童は、旅疲れた風情のその女を家に引き上げた。

「すまんのう。やもめ暮らしじゃもんで。」

 いつかも言った懐かしい言葉を吐きながら、取り急ぎ布団をあげる。

 鬼の足なら一刻(二時間程度)ではあるが、人の足ならどれほどをかけて会いに来てくれたのだろう。その喜びから、鬼童は大事なことを見落としていた。

「今日はどうした。薮入りか?」

 明るく尋ねれば、ふうと嘆息のような笑みが千代から返る。

「相変わらず何も無いがな。ゆっくりして行けばよい。」

「いえ、すぐにお暇します。ここへは、顔を見に来ただけですから。」

「ふむ? 何か所用ならわしが送ってやる。一晩ぐらいは……」

 鬼童は不吉な予感に言葉を呑んだ。身よりも無く、生まれた村からも捨てられた彼女には、他にどこ行く当てとて無いはず……

「お前は一体……」

 思わず詰め寄れば、単純に身をすくめるだけの生娘とは違う。腰からくにゃりとねじれるように、艶めかしく拒まれる。

 ずく、と、肺の腑の辺りを掻き散らされる心地がした。

(わしにはもう、笑顔すらゆるしてはくれんのか。)

 そのとき初めて、鬼童は気がついた……ここへ来てから、彼女は一度も笑っていない。「ふう」とか「は」とか、中途半端な笑息をもらすばかりで、無遠慮に心の奥底に踏み込むような、あの明るい声をまだ聞かない。

 人食いの本能にも似た劣情が血の中を駆け、気がつけば細い手首を引き寄せていた。

「いや!」

 袖からこぼれた腕に、鬼童は言葉を失う。皮膚の上に刻まれた、青黒い不幸の跡。逆の手も同じように捲り上げれば、それは治りかけた無数の痣であることは明らかだった。

「誰だ! 誰が……」

 鬼童の喉が怒りでぐるぐると獣のように鳴る。

……間違いない。非道なやり方でわしからこの女を奪った男が居る。体ではない。心でもない。あの明るい笑い声をわしから奪った奴が……

 牙をむき出し、本能のままに角を突き上げようとする鬼に千代が縋りつく。

「やめて! 人食いに戻らないで!」

「喰らう? そんな生ぬるいことで許すものか、八つ裂いてくれるわ!」

 ふうふうと唸り、肩をいからせる様に千代が泣き出した。

「ごめんなさい。ここへ来るべきじゃなかった。あさましく、最期にあなたの顔が見たいなどと願わなければ良かった!」

「最期? 最期とは、どういうことだ!」

 怒りのままに鬼童が細い肩を掴む。

「こんな体にされて、奉公先は追い出されて……もう行く当てなど、本当に……」

「ならば、ここに戻ればいい! むしろ、戻ってくれ!」

 千代が身を振って、鬼童の腕から離れた。

「ややこが……います。父親すら解らぬ子が……」

「ちち……おや、すら……」

 鬼は言葉をも失い、立ち尽くす。

……因果か……かつて自分は間違いなく人食いであった。いまでも鬼であることは曲げようの無い事実だ。千代の奉公先を探すにあたって、そのことだけはばれぬよう角を手ぬぐいで隠し、牙も見せぬようにできるだけ口も閉じていた。

 だが、ばれたのだ!

 どこから話が知れたか知らないが、鬼の住処から下った女など、もはや人間扱いはされるまい。だからこそ、ここまで無体に……

「わしが……鬼じゃから……わしが……」

 鬼童は逃げようとする女の体を決して逃さぬように、腕の中に捕らえた。決して傷つけぬように、優しい腕で。

 千代の耳元でぐう、ぐうと唸る喉が己をのろっている。そして頭上から降る涙は、しおれた向日葵を再び開かせようとする慈雨のように温かだった。

 どれだけそうしていたのだろう。やがて、唸り声は大きな嘆息と共に止んだ。

「お千代、よう聞け。そのややこの父親は……わしじゃ。」

 その鬼は、声さえもが温かいものであった。

「お前はわしの子供を産んでくれると、言っておったではないか。」

「でも……」

「聞こえなんだら、もう一度言う。それはわしの子じゃ。」

 鬼童の右手が千代の体から離れる。ごそりとした動きと共に、嫌な音が庭先まで響いた。

 ゴ……ボリン!

 板の間にごとりと落とされたものに千代が震える。

「角が!」

「こんなものを折ったところで、わしが鬼であることに変りは無い。じゃが、人目を誤魔化すことはできるじゃろうて。」

「やめて、血が出てる! やめて!」

 左腕が耳を塞ぐように、その頭を胸に引き寄せる。二度目の贖罪の音は彼女の耳には届かなかった。

 板の間には二本の角が転がり、頭の傷を抑えた鬼童は呻きながら膝を突く。

「お千代、この角は後で、あの向日葵の根元に埋めておくれ。」

 指の間をたらりと伝う血に、千代が震える手を添える。

「何故、こんな……」

「この傷が癒えたら、お前を江戸へ連れてゆく。」

「江戸へ?」

「幸いに鬼の体は丈夫じゃ。どんな職でもやってゆける。じゃから、お前のことも、そのややこの事も知るものはない江戸へ出て、夫婦になろう。」

 その言葉に、千代は大きな声をあげて泣き出した。鬼童が頬の涙を唇で掬う。

「泣くでない。わしはお前を泣かせるために角を折ったのではないぞ。ゆっくりでいいから、もう一度、あの笑い声を聞かせておくれ。」

 庭先の向日葵が、強い夏日に照らされていた。


 江戸での暮らしをはじめた鬼童は職を選ばずよく働き、千代を喜ばせようと土産など買って帰る。その優しさがゆっくりと千代を癒し、子供が生まれる頃には、彼女は明るい笑顔を見せるようになっていた。

 二人の間に他に子が出来ることはなかったが、生まれた女児を鬼童は本当の子供のように可愛がった。いや、彼にとってはその子こそが、千代が与えてくれた自分の子供だったのだ。

 長屋暮らしの家の中はいつも明るく、軒下には毎年、向日葵が揺れていた。

 

 やがて娘は縁あって嫁に出た。泣き泣き彼女を送り出した鬼童は、初孫の誕生をまた、泣いて喜んだ。

 だが、鬼は人と生の速度が違う。二人目の孫の顔を見た後、彼は誰にも告げずに住処を変え、江戸の町にまぎれた。

 千代は、点々と住処を変える鬼童に最期まで付き添った。どれだけ歳を重ねようと生来の明るさが失われることは二度と無く、死に顔すらもが笑顔であった。


 一人身になった彼は、娘を、そして孫を人知れず見守り続けた。

 同じ江戸に暮らしながら決して名乗ることは無く、ただ近所に居を構え、孫がひ孫を産み、そのひ孫がやしゃごを産み……江戸はいつの間にか東京と呼ばれるようになっていた。

 見守ることは楽しいことばかりではない。生まれるものがあれば死ぬものもある。震災や、戦火に巻き込まれたこともある。鬼童は辛い別れにいつも涙して、それでも生まれてくる子を毎回嬉し涙で喜び、長いときを重ねていった。

 東京にビルがごちゃごちゃと積み上げられ、平成の世になったとしても、彼は向日葵のような笑顔の面影を残す子供たちを見守ることをやめなかった。


……彼は東京を遠く離れ、アンダルシアの向日葵畑を見下ろしている。

 歳月にやっと許された彼は老人になり、深く刻まれた皺の中まで差し込むような強い日差しに、疲れきって肩で息をした。

「見事じゃろう。これをどうしても見ておきたかったんじゃ。」

 今も誰かが寄り添っているかのように、鬼は牙すら抜け落ちた口をあけて微笑む。

 数年前から、迫る彼岸の気配を感じていた。むしろ待ち望んだことではあるが、最期にどうしても向日葵が見たかった。

 もちろん東京にだって向日葵くらいはある。だが、その丈を追い越すビルに埋もれた黄色い花が見たいのではなく、あの女のように伸びやかな、ただ天に向かって笑い声を上げている日輪の花がもう一度見たかったのだ。だからこそ、写真で見たこの場所に強く焦がれた。

 地平線を越えるように日輪の海は緩やかに広がっている。うねる大地を覆う花はまさしく波のように、時折の風に揺れ遊んでは鬼童を誘う。

 静かに足を踏み出しながら、鬼童は幸せな思い出の中に話しかけていた。

「お実、愛しておったぞ。嘘じゃない、わしが本当に愛した、初めての女じゃ。」

 背の高い向日葵の波間に踏み込めば、黄色い花弁に砕かれた夏の日差しがまだらに男の姿を染める。

「お千代……」

 ざわと音立てる葉擦れが返事のようだ。

 疲れきった彼は土の上に倒れこんだ。荒く呼吸を吐きながら仰向けになれば、陽光に透ける明るい黄色が優しく微笑んでいる。

「お千代、わしはずっと、寂しかったことなんぞ忘れておった。お前がくれたわしの人生はそれほどに楽しいものじゃった。子供たちのために悲しみ、笑い、実に毎日が充実しておったよ。」

 遠い昔、あの家の庭先に咲いていた花が、今もここにはある。

「お前は、最期までわしを一人にせんつもりじゃな。」

 かつて鬼だった男は、花に向かって、笑った。皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。

天に向かって差し伸べた指の間から見える、それは……

「お千代。」

 ざわ、ざわと風に揺れる花の音が、それに答えて……笑っていた。


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