中編
けたたましい雄鶏の声と共に、鼻腔に流れ込む朝餉の湯気の香が鬼童の眠りを破る。妻が死ぬ前は、毎朝こうして目を覚ましたものだ。
しかし、とんとんと小気味良く菜を刻む音は雑で落ち着きが無い。
軽く身を起こした彼は、竈の前をパタパタと走り回るその後姿に、小さな笑息を漏らした。
(落ち着かん娘じゃ。)
千代は、刻んだ菜をがっと鍋に放り込み、パタパタと何を取りにか走り出す。鍋蓋の熱さに驚いて、両手を振り回す……
「味噌はその水がめの横じゃ。」
声をかければ、振り向いたその顔がちょっとバツが悪そうな笑顔を浮かべた。
(じゃが、愛嬌はある。)
夕べは考えもつかなかったが、妻として娶るのもわるくはない。もともと自分に差し出された女だ。ここに置いたところで、誰が文句を言うわけでもなかろう。
起き上がって軽く体を伸ばせば、庭先の夕顔の白が目に入った。夕べのうちに開いたそれは既にしぼみはじめ、花弁は悲しげに垂れている。
(あれは、夕顔のような女じゃった。)
妻……お実は病弱で、千代のように騒々しい女ではなかった。菜の刻み方一つとっても、とん、とんと丁寧な音をたてる。何をするにもふわり、ふわりと優雅にも思える落ち着きがあった。儚く微笑む色の白い顔を、今でも忘れてはいない。
人間であった彼女と連れ添った20年は永く生きる鬼童には余りに短い。病弱なお実と違って健康的なこの女は、長生きするかもしれない。だが、それはたった百年に満たないことだ。鬼の寿命とはあまりにつりあわない。
(この娘も所詮は人間……か。)
妻を看取った瞬間の孤独感を思うと、鬼童はどうしても、この女を抱く気にはなれなかった。
野良から帰ってきた鬼童は、庭先に佇む懐かしい夏絣の後姿に我目を疑う。
夕暮れの気配を感じて開き始めた夕顔の花を、ただ無心に覗き込む細い背中。もしかして亡き妻への恋慕が見せる、夏の幻だろうか……
「お実……」
思わず伸ばした指先に振り返ったのは、死んだ女房とはとても似つかぬ、陽に焼けた健康そうな娘であった。
「お千代、何故その着物を着ておる!」
突然むき出しになった鬼の牙に彼女は恐怖して後退さる。
「納戸で見つけたので……」
小さく掠れるようなその声に鬼童があわてて口元を隠した。
「すまん。恐ろしかったな。」
取り繕うように、へらりと口の端を上げる。
「そうか、お前は着たきりすずめじゃもんな。しかしそれは、死んだ妻の形見じゃ。お前には奉公へ上がるときに、新しいのをあつらえてやる。」
「どんな方だったのですか。」
きゅっと夕顔の一輪を掴みながら、千代が尋ねた。
「お前と同じ、生贄としてわしの前にほうりだされた娘じゃ。その頃のわしは人食いでな、お実のことも、喰ろうてしまうつもりじゃった。」
しかし、その娘は喰う気も失せるほどにやせ細っており、彼はさほどに空腹ではなかった。だからこその気まぐれではあったのだが、その日のうちにその女を妻にした。
「諦めもあったのじゃろう。無体なやり方であったろうに、あれは抵抗すらせなんだ。」
そのあまりに哀れな姿と、肌を合わせた愛着から鬼童は女を連れて帰った。裏山を拓いて畑を作り、飯を食わせ、間違いのない『妻』として手元に置いた。日を重ねるうちに愛着は愛情へと変わり、気がつけば溺れるほどに好いていた。
「あれを丈夫にしたい一心でせっせと飯を食わせた。ただ笑って欲しくて、庭には花を植えた。」
情を通わせ、睦まじく暮らす日々に、己が人ではないことを忘れていたのかも知れない。今際の際に微笑んだ妻の顔は確実に20年の歳月をきざみ、しおれ落ちる寸前の夕顔のように哀しいというのに……
「わしは鬼じゃ。あんなに大事にしておった女房と、一緒に歳をとってやることすら出来ぬ。」
ふうと小さく微笑むその横顔は寂しい。千代は体の奥が、じくじくと音立つほどに締め付けられるのを感じた。
「お実さんの代わりに、私をここにおいてはもらえませんか?」
「代わり?」
鬼はねっとりと妖しげな視線で娘の体を嘗め回す。
日に焼けた顔。だが、ほっそりとしたうなじに女の色香を漂わせている。裾から僅かに覗く足首はしっかりと強健であるにもかかわらず、若い肌特有の瑞々しい質感が指先を誘うようだ。
しかし、女から視線を逸らした彼の顔には情欲の欠片すらなく、ただ優しげな笑みがふんわりと浮かんでいた。
「お前がお実の代わりになれるわけが無かろう。あれは、ほれ、その花のような女じゃった。」
指差した先に咲く夕顔は、薄暮れの中で空に顔を向けている。月に焦がれるように揺れている姿は、儚く、白い。
「じゃが、お前は、ほれ、それじゃ。」
背高くそびえるひまわりは、遊び足りない子供のように太陽を求めて、天に手を伸ばしている。心地よい夕風に揺すられて大きな葉がすれる音は、楽しく笑っているようにも聞こえる。
「花ですら、それぞれの良さがある。代わりになんぞなれはしない。ましてやお前は人間じゃ。誰かの代わりになんぞならなくていい。」
「……丈菊は嫌いですか?」
「……好きじゃ。」
太陽のように、ぎらりと熱い視線が千代に注がれた。だが、それもほんの一時のこと。鬼童はすぐに視線を外し、所在無く爪先を見つめた。
「じゃが、人間の嫁はこりごりじゃ。どうせ、わしを置いて行ってしまう。」
濃く漂い始めた夕闇の中に、それよりも色濃い孤独が香る。
「ならば、私が死んだ後もあなたが一人にならないように、ややこを産みます。何人でも、あなたの子を、産みますから……」
「無理じゃ。お実との間にも子は出来なんだ。鬼と人では子は出来ぬよ。」
鬼童の大きな手のひらが、お千代の頭をぽんぽんと撫でた。
「気にするでない。もう一人で居るのには慣れたわ。」
取り立てて明るい声が、さらに強い切なさで千代を捕らえる。だが鬼童は、それ以上何を言おうともしなかった。