"KANI"balism
私は蟹を飼っている。
手のひらに乗るくらい小さな、真っ白い蟹だ。
名前はクラちゃん。クラブのクラちゃんだ。ネーミングセンスの無さは自覚しているから、他人からわざわざ指摘されるまでもない。
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クラちゃんを拾ったのは、ある日の九十九里浜でのことだった。
空が真珠色の雲に覆われていたあの冬の日。
海辺の実家に帰っていた私は、海水浴客のいない砂浜にてくてく出かけていき、サンダルを脱いで、凍るように冷たい海水の中に裸足を突っ込んだ。
死ぬつもりだった。
理由は特にないけど、敢えて言うなら、生きていく理由もなかった。
夫も彼も男友達もいない。女友達もあまりいない。可愛い姪っ子も、可愛い犬もいない。実家と言ったが、その実家に住んでいた両親は5年前に相次いで他界した。大好きな姉も大嫌いな妹も、日本にはいない。
私がこの世界に繋がっていなければならない理由が、その時の私には何一つなかった。
だから人知れず入水しようと思ったのに、一匹の蟹が私の邪魔をしたのだ。
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足元がチクチクするから、妙に思って見下ろしてみると、そこには雪の塊のような白い蟹がいた。
蟹はお節介にも、ペディキュアの剥がれかけた私の親指の周りを忙しなく動き回り、爪の形を整えていた。
蟹はいつの間にやら私の手のひらの上にちょこんと乗っかっていた。
1時間後、蟹は私の部屋の古びた水槽の中に入っていた。
その夜、何時間も苦しんだ末に名前を決めた。
「クラ」と書いた付箋を水槽に貼ると、クラちゃんは泡をぶくぶく吐いた。
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唯一の仲間を得た私は、一日中クラちゃんと一緒にいた。
天気がいい日は、二人で浜辺に出る。
私は砂浜に寝そべり、クラちゃんは私の頭や手や足の間を忙しく往復しては、小指の爪ほどの小さな白い鋏で、私の髪や爪を器用に切ってくれる。枝毛を一本一本丁寧に切り取り、毛先を綺麗に整える。波の音しかしない海辺には、私の髪や爪が切り取られる「さくり」「ぱちん」という音が面白いほど響く。
私とクラちゃんのいた場所に、髪の毛や爪は一つも残らない。波が少しずつ持って行ってくれているのかもしれない。
クラちゃんを拾ってから一週間経った頃。
クラちゃんに、悲劇が訪れた。
茹でられてしまったのだ。
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非は、どちらにあるのだろう。
朝起きた私は、急にペペロンチーノが食べたくなって、パスタポットにお湯を沸かしていた。私の頭の上で、クラちゃんはいつものように髪を切っていた。
私は頭を急に傾けたりはしなかったし、何よりパスタポットには蓋をしてあった。
でもいつの間にか、真っ白いクラちゃんはぐらぐら沸騰しているパスタポットの中に落ちて、真っ赤にゆだっていたのだ。
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こうなったら、私に残された道はただ一つしかなかった。
クラちゃんを食べるのだ。
パスタポットにお湯を沸かしたって、家のどこにもパスタはない。パスタどころか金もない。
実際この一週間、私は何も食べていなかった。
あんなに綺麗な白い蟹だったクラちゃんが、今ではよくある赤い蟹になってしまっていた。
食べ物として見てみれば、クラちゃんはいわゆる食指が動くタイプではなかった。わざわざナイフとフォークを用意した程でもない。
途端に訳のわからない怒りが込み上げてきて、私はフォークを振り上げ、小さな赤い蟹のおなかをぐしゃりと潰した。
異様な音がした。ぐしゃりと潰した筈なのに、ぐしゃりと言わない。
何でもいいからグロテスクな音がすることを期待していたのに。
視覚から得た情報と聴覚から得た情報が一致しない。
代わりに聞こえてきたのは、「さくり」「ぱちん」という柔らかな優しい音だった。
さくり。
ぱちん。
さくり。
ぱちん。
さくり。ぱちん。さくり。
ぱちん。さくり。ぱちん。さくり。
さくり。ぱちん。さくり。ぱちん。
さくり。ぱちん。さくり。ぱちん。さくり。ぱちん。
さくり。ぱちん。さくり。さくり。さくり。さくり。さくり。
さくり。さくり。さくり。さくり さくり さくり さくり さくり さくりさくりさくりさくりさくりさくりさくりさくりさくりさくりさくりさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく
私の視界は、真っ黒い髪の毛で覆い尽くされた。