1 旅人 前編
アヴァロン王国北西部。
街道から外れた山間に、小さな村があった。
名を、リーフ村という。
人口は二百人ほど。
痩せた畑は石だらけで、水路は崩れ、井戸の水は濁っていた。
今年も収穫は少ない。
冬を越せる保証はなく、多くの村人が一日二食で暮らしている。
病も広がっていた。
汚れた水を飲み、傷口は化膿し、薬草も不足している。
医者はいない。
神官も巡回に来なくなって久しい。
それでも村人は畑を耕し、森へ入り、家族を守るため懸命に生きていた。
だが、村を苦しめているのは飢えだけではない。
盗賊。
奴隷商。
傭兵崩れ。
力を失った兵士たちは略奪者となり、豊かな街ではなく、抵抗する力の乏しい村ばかりを襲っていた。
収穫を奪い、家畜を奪い、人まで連れ去る。
そんな日々が何年も続いていた。
村の入口では、一人の少女が木剣を振っていた。
栗色の髪を後ろで束ねた少女。
アイリスである。
額には汗が浮かび、両手には豆が潰れた跡が幾つも残っていた。
「もう一回……!」
木剣が風を切る。
何度も。
何度も。
腕が震えても振り続ける。
近くで見守っていた少年ジャイルが苦笑した。
「今日だけで五百回は振ったぞ。」
「足りないわ。」
「また盗賊が来るかもしれない。」
アイリスは木剣を握る手に力を込めた。
「誰かが戦わないと、村は守れない。」
その言葉に、ジャイルは静かに頷いた。
彼もまた長剣を背負っている。
まだ駆け出しの冒険者にも届かない実力。
それでも村を守るという気持ちは本物だった。
少し離れた場所では、黒髪の少女エリスが帳面を広げていた。
「残っている小麦は十五袋。」
「塩は二袋。」
「干し肉は四日分。」
静かな声で数字を書き留めていく。
村の代表を務める彼女は、年若いながらも現実を直視していた。
「このままでは冬まで保ちません。」
集まっていた村人たちの表情が曇る。
「税もある。」
「盗賊も来る。」
「どうすれば……。」
誰も答えられない。
その時だった。
村の見張り台から鐘が鳴った。
カーン。
カーン。
村中に緊張が走る。
「敵か!」
ジャイルが叫び、木剣を捨てて長剣を抜いた。
アイリスも息を呑む。
村人たちは子供を抱え、家へ駆け込む。
やがて見張り役の少女カエデが息を切らしながら駆け下りてきた。
「盗賊じゃない!」
「旅人が一人!」
その言葉に村人たちは顔を見合わせた。
旅人。
こんな辺境へ来る者など滅多にいない。
しかも一人。
しばらくして、一人の男が村へ歩いてきた。
年は二十五歳ほど。
黒髪。
灰色の外套。
背には古びた荷物。
腰には一本の剣。
どこにでもいそうな旅人だった。
威圧感はない。
豪華な装備もない。
それでも歩き方だけは不思議だった。
無駄がない。
焦りもない。
長い旅を続けてきた者だけが持つ静かな落ち着きがあった。
男は村の入口で立ち止まり、ゆっくり頭を下げた。
「旅の途中で立ち寄りました。」
「水を分けてもらえますか。」
アイリスは男を鋭く見つめた。
「名前は。」
「コウラン。」
「旅人です。」
短い返事だった。
アイリスは疑いを隠さない。
「旅人なんて信用できない。」
「この辺りには盗賊の間者もいる。」
コウランは否定もしなかった。
「疑うことは悪くありません。」
「村を守るなら当然です。」
その答えにアイリスは少し驚いた。
普通なら怒る。
言い返す。
あるいは笑う。
目の前の男は違った。
村人の立場で考えている。
そんな印象だった。
エリスが一歩前へ出る。
「旅人さん。」
「何か食べ物を持っていますか。」
「申し訳ありません。」
「代金は払えません。」
コウランは荷袋を開いた。
干し肉。
乾燥野菜。
黒パン。
保存の利く食料が少し入っていた。
その半分を何も言わず差し出す。
「半分で十分です。」
「旅は長いでしょう。」
エリスが遠慮すると、コウランは穏やかに首を振る。
「人は食べなければ働けません。」
「私は歩けます。」
「皆さんは村を支えています。」
その言葉に、年老いた農夫が目を潤ませた。
「ありがとう……。」
しかしアイリスだけは警戒を解かない。
「どうしてそこまでするの。」
「見返りは。」
「ありません。」
「私は旅人です。」
「困っている村で水を飲み、食事を分けてもらう。」
「だから私も持っている物を分ける。」
あまりにも自然な口調だった。
誰かに恩を売るつもりもない。
感謝を求める様子もない。
ジャイルは小さく笑った。
「変わった人だな。」
その時だった。
コウランの視線が村全体をゆっくり見渡す。
崩れた水路。
荒れた畑。
汚れた井戸。
咳き込む子供。
腫れた足を引きずる老人。
乾いた土。
痩せた家畜。
彼は静かに目を閉じた。
魔力が体内を巡る。
魔力循環。
さらに周囲へ意識を広げる。
魔力操作。
森。
川。
畑。
地下水。
村人一人ひとりの魔力の流れ。
病を抱えた者。
疲労で弱った者。
そのすべてが、まるで地図を見るように伝わってきた。
「なるほど……。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
問題は才能ではない。
教育がない。
それだけだった。
村人の多くは魔力を持っている。
にもかかわらず、誰一人として扱い方を知らない。
鍬を握る老人も。
薪を運ぶ少女も。
泣き虫の少年ノールも。
それぞれが大きな可能性を秘めている。
教える者が、いなかっただけなのだ。
その瞬間、村の外から馬の足音が響いた。
複数。
一頭ではない。
見張り台の鐘が、再び鳴り響く。
「盗賊だ!」
村中の空気が凍りつく。
コウランは鐘の音を静かに聞きながら、ゆっくりと空を見上げた。
その表情に焦りはない。
彼が見ていたのは、盗賊ではなかった。
この村が、何年後にどこまで変われるか。
その未来だった。




