「穏便にしろ」が口癖の夫へ。迷惑隣人の証拠を集めていたら、カメラに深夜2時のあなたも映っていました。穏便に離婚してください。
「子供がいない人にはわかんないと思うけどさ」
隣の亜美さんは、笑ってそう言った。
「子供って元気なのが普通じゃない? いちいち気にしてたらキリないよ」
ボールが花壇に落ちて、植えたばかりのラベンダーが折れた日のこと。
私は「そうですよね」と返した。
それ以上、何も言えなかった。
◇◇◇
隣に越してきたのは半年前だった。
夫婦と、男の子が三人。
休日になると庭先でバーベキューが始まる。
煙が風に乗って、うちのベランダに流れてくる。
干したばかりのシーツに匂いが染みついた。
洗い直した。
翌週も。
その翌週も。
一度、意を決して亜美さんに声をかけた。
「煙がベランダのほうに来てしまうので、少し頻度を減らしていただけると……」
「えー、でもうち庭でやってるし。別に違法じゃないですよね?」
「違法とかじゃなくて、洗濯物に——」
「子供いるとさ、外食もなかなかで。家で楽しめることくらい好きにやりたいなって」
亜美さんはスマホに目を落とした。
話は終わり、という顔だった。
翌週も煙は来た。
いつのまにか子供たちの遊び場は、道路と人の庭まで広がっていた。
フェンスにボールをぶつける音。
敷地に走り込んでくる足音。
在宅勤務の日、その音がオンライン会議のマイクに入った。
「結衣さん、今なにか聞こえましたけど……」
上司にそう言われて、ミュートにした。
顔が熱かった。
車の問題もあった。
隣のミニバンが、うちの駐車スペースにはみ出している。
月に二、三度。
ある朝、切り返しでバンパーを縁石に擦った。
修理費三万二千円。
自腹だった。
夫の拓也に相談するたびに、返ってくる言葉は同じだった。
「また隣の話? 窓閉めとけって」
「三週連続でシーツ洗い直してるの、知ってる?」
「気にしすぎ。穏便にやれよ」
穏便に。
拓也の口癖だった。
シーツも、バンパーも、会議に入った騒音も。
全部「気にしすぎ」で片づけられた。
◇◇◇
月曜の朝。
フェンスに亀裂を見つけた。
週末に子供たちがボールをぶつけていた、ちょうどそのあたり。
写真を撮って、亜美さんに話した。
「え、うちの子がやったって証拠あります?」
笑顔のまま、そう言われた。
証拠。
その一言が、ずっと頭から離れなかった。
その夜。
布団に入っても眠れなかった。
隣から笑い声と音楽が聞こえていた。
時計を見た。深夜1時。
翌日の昼休み、理沙に電話した。
大学からの親友で、損害保険会社勤務。
こういう話には強い。
半年間のできごとを、全部話した。
理沙は最後まで黙って聞いてくれた。
「結衣。防犯カメラつけな」
「カメラ?」
「敷地内設置は合法。
騒音は録音。
日時と内容を全部記録して」
「そこまでする?」
「する。ああいうのは同じ人間じゃないから。
法律で殴るのが一番だよ。
近隣トラブルに強い先生、知り合いにいるから紹介する」
夜、拓也にカメラの件を話した。
箸が止まった。
「は? 防犯カメラ?」
「つけようと思う」
「やめろよ。近所にバレたら恥ずかしいだろ」
「3回お願いして3回無視された。弁護士にも相談する」
「弁護士って……大げさなんだよ、穏便にやれって」
「穏便にした結果が、亀裂の入ったフェンスと3万のバンパー修理なんだけど」
拓也は味噌汁を啜って、何も言わずに席を立った。
引っかかった。
なぜ、そこまで嫌がるのか。
そのときは、わからなかった。
◇◇◇
理沙の紹介で、大河原先生という弁護士に会った。
40代半ば。
落ち着いた物腰で、目だけが鋭い人だった。
「まず証拠を揃えましょう。映像、音声、日記。最低2ヶ月」
防犯カメラを二台、敷地内に設置した。
玄関側とベランダ側。
録音アプリ。
デシベル計測。
日記。
全部、毎日続けた。
カメラは淡々と記録を積み上げる。
毎週末の煙。
フェンスを蹴る足。
はみ出して停まるミニバン。
深夜の騒音。
日付と時刻つきで、全部。
拓也は日に日に不機嫌になった。
「まだカメラ動いてんの」
「証拠が揃うまで」
「近所に角が立つって言ってんだろ」
最近、夜中にスマホの画面を伏せるようになった。
返事はしなかった。
◇◇◇
6週間目の夜。
録画データをパソコンに取り込んで、整理していた。
もう慣れた作業だった。
タイムラインを流す。
該当箇所を切り出す。
深夜2時台の映像で、マウスが止まった。
玄関側カメラ。
拓也が、一階廊下の窓から出ていく。
外で靴を履き、隣の家の庭側に回り込む。
門扉の内側に、人影が待っていた。
亜美さんだった。
2人の距離が、なくなった。
夜間モードの粗い画質。
でも顔は映っていた。
時刻も。
一度最後まで見た。
巻き戻して、もう一度見た。
穏便にしろ。
大げさだろ。
カメラをやめろ。
全部、繋がった。
スマホを取った。
拓也にはかけなかった。
理沙にかけた。
深夜3時。
2コールで出た。
全部話す。
「映像ある?」
「ある」
「保存して。スマホ、パソコン、クラウド、全部に」
「……うん」
「絶対消させないで。明日、大河原先生に連絡する」
少し間があって、理沙が言った。
「泣いてもいいよ」
「……ありがと」
◇◇◇
大河原先生の事務所。
理沙が隣に座ってくれた。
テーブルの上に並べた。
防犯カメラの映像。
騒音の録音。
デシベルの記録。
日記。
フェンスの写真。
車の傷の写真。
そして、深夜2時の映像。
大河原先生は全部に目を通した。
映像を早送りせず、最後まで見た。
表情は変わらなかった。
「十分です」
ペンを取った。
「近隣被害の損害賠償と、不貞行為の慰謝料請求。同時に進めましょう」
「同時に?」
「相手方が重複しています。
亜美さんには迷惑行為の賠償と不貞の慰謝料。
拓也さんには不貞の慰謝料と離婚条件の整理」
理沙が小声で「完璧な証拠だね」と呟いた。
大河原先生が少し間を置いた。
「翔太さんにも事実をお伝えする必要があります。彼もまた被害者ですから」
◇◇◇
内容証明が届いた夜。
拓也が帰ってきた。顔色が白かった。
「おい、これ何だよ」
「読んだでしょ」
「なんで勝手に——」
「防犯カメラ、いい仕事したよ。深夜二時もちゃんと録れてた」
五秒くらい、空気が止まった。
「嘘だろ。あんな暗いのに映るのかよ」
拓也は椅子に崩れた。
何か言おうとしていたけど、言葉になっていなかった。
翔太さんへの報告は、大河原先生の立ち会いのもとで行われた。
映像を見終わった翔太さんは、しばらく机の一点を見つめていた。
「……知らなかった」
長い沈黙のあと、顔を上げた。
「亜美のやつ、俺をコケにしやがって」
大河原先生の助言で、近隣の住民にも声をかけた。
「煙、うちもずっと困ってました」
「深夜の騒音、何度も寝られなくて」
「子供が道路で遊ぶの危ないって言ったんですけど、聞いてもらえなくて」
皆、ずっと我慢していた。
臨時の住民会合が開かれた。
改善勧告の決議。
賛成は全会一致だった。
◇◇◇
亜美さんから電話がかかってきた。
出なかった。
留守電。
「ねえ、ちょっと話聞いて? そんなつもりじゃなかったの。
子供がいたらしょうがないこともあるじゃない? 直接話そ?」
子供がいたらしょうがない。
最初から最後まで、同じ言葉だった。
メッセージは大河原先生に転送した。
「直接の連絡には応じないでください」
法的手続きを進めているあいだにひとつ事件が起こった。
翔太さんが妻の亜美さんに対して殴る、蹴るの暴行を行い、右腕を骨折させた。
事実だけ抜き出せばDVで、翔太さんは逮捕。
ただ、背景には亜美さんの不倫もある。
どういう決着になるかは――どうでもいい。
私は自分のことで手一杯。
証拠が全部揃っていたので、進行は早かった。
迷惑行為の損害賠償。
ほぼ請求通り。
不貞の慰謝料。
亜美さんからと、拓也からと。
気付けば隣の駐車場からミニバンは消えていた。
売って、お金にしたのだろう。
離婚届にサインをもらう日。
ファミレスの奥の席。
拓也はやつれていた。
頬がこけて、目の下に濃い隈。
「結衣。もう一度だけ話を聞いてくれ」
「サインして」
「お前がいなくなったら俺——」
「サインして」
「飯もまともに作れない、洗濯も、ゴミの日も全部お前に任せてた。
全部わかった。俺が悪かった。やり直させてくれ」
私は拓也の目を見た。
半年間。
煙のついたシーツを黙って洗い直した夜のこと。
「穏便にしろ」と言われて飲み込んだ言葉のこと。
深夜二時の映像のこと。
全部思い出して、全部手放した。
「最後にひとつだけ」
「……なんだ」
「穏便にサインして」
拓也の手が止まった。
ペンが動くまで、たぶん十秒くらいだった。
書類を確認して、封筒にしまった。
立ち上がる。
「ゴミの日、火曜と金曜ね。資源ごみは水曜」
背を向けた。
後ろで何か聞こえた気がした。
振り返らなかった。
◇◇◇
引っ越したのは、桜が咲く少し前だった。
駅から十分。日当たりのいいマンション。
理沙が物件探しから当日まで付き合ってくれた。
段ボールを運びながら、理沙が言った。
「いい部屋じゃん。風通し最高」
「でしょ」
「前の家よりずっといい。煙くないし」
笑った。久しぶりに、普通に笑えた。
後日、理沙から少しだけ聞いた。
拓也は実家に戻ったらしい。
一人暮らしは一ヶ月で破綻したと。
亜美さんは引っ越した。
翔太さんは家を売りに出している。
親権はどっちにいったのだろう。
まあいい。
もう、関係のない人たちだ。
ベランダに出る。
空が広い。
真っ白なシーツが、ただ静かに揺れていた。
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