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「穏便にしろ」が口癖の夫へ。迷惑隣人の証拠を集めていたら、カメラに深夜2時のあなたも映っていました。穏便に離婚してください。

作者: 遠野九重
掲載日:2026/03/15

「子供がいない人にはわかんないと思うけどさ」


 隣の亜美さんは、笑ってそう言った。


「子供って元気なのが普通じゃない? いちいち気にしてたらキリないよ」


 ボールが花壇に落ちて、植えたばかりのラベンダーが折れた日のこと。


 私は「そうですよね」と返した。

 それ以上、何も言えなかった。




◇◇◇




 隣に越してきたのは半年前だった。


 夫婦と、男の子が三人。


 休日になると庭先でバーベキューが始まる。

 煙が風に乗って、うちのベランダに流れてくる。


 干したばかりのシーツに匂いが染みついた。

 洗い直した。


 翌週も。

 その翌週も。




 一度、意を決して亜美さんに声をかけた。


「煙がベランダのほうに来てしまうので、少し頻度を減らしていただけると……」


「えー、でもうち庭でやってるし。別に違法じゃないですよね?」


「違法とかじゃなくて、洗濯物に——」


「子供いるとさ、外食もなかなかで。家で楽しめることくらい好きにやりたいなって」


 亜美さんはスマホに目を落とした。

 話は終わり、という顔だった。


 翌週も煙は来た。




 いつのまにか子供たちの遊び場は、道路と人の庭まで広がっていた。


 フェンスにボールをぶつける音。

 敷地に走り込んでくる足音。


 在宅勤務の日、その音がオンライン会議のマイクに入った。


「結衣さん、今なにか聞こえましたけど……」


 上司にそう言われて、ミュートにした。

 顔が熱かった。




 車の問題もあった。


 隣のミニバンが、うちの駐車スペースにはみ出している。

 月に二、三度。


 ある朝、切り返しでバンパーを縁石に擦った。


 修理費三万二千円。

 自腹だった。





 夫の拓也に相談するたびに、返ってくる言葉は同じだった。


「また隣の話? 窓閉めとけって」


「三週連続でシーツ洗い直してるの、知ってる?」


「気にしすぎ。穏便にやれよ」


 穏便に。


 拓也の口癖だった。


 シーツも、バンパーも、会議に入った騒音も。

 全部「気にしすぎ」で片づけられた。




◇◇◇




 月曜の朝。


 フェンスに亀裂を見つけた。

 週末に子供たちがボールをぶつけていた、ちょうどそのあたり。


 写真を撮って、亜美さんに話した。


「え、うちの子がやったって証拠あります?」


 笑顔のまま、そう言われた。

 証拠。

 その一言が、ずっと頭から離れなかった。




 その夜。

 布団に入っても眠れなかった。


 隣から笑い声と音楽が聞こえていた。

 時計を見た。深夜1時。





 翌日の昼休み、理沙に電話した。


 大学からの親友で、損害保険会社勤務。

 こういう話には強い。


 半年間のできごとを、全部話した。


 理沙は最後まで黙って聞いてくれた。


「結衣。防犯カメラつけな」


「カメラ?」


「敷地内設置は合法。

 騒音は録音。

 日時と内容を全部記録して」


「そこまでする?」


「する。ああいうのは同じ人間じゃないから。

 法律で殴るのが一番だよ。

 近隣トラブルに強い先生、知り合いにいるから紹介する」





 夜、拓也にカメラの件を話した。

 箸が止まった。


「は? 防犯カメラ?」


「つけようと思う」


「やめろよ。近所にバレたら恥ずかしいだろ」


「3回お願いして3回無視された。弁護士にも相談する」


「弁護士って……大げさなんだよ、穏便にやれって」


「穏便にした結果が、亀裂の入ったフェンスと3万のバンパー修理なんだけど」


 拓也は味噌汁を啜って、何も言わずに席を立った。

 引っかかった。

 なぜ、そこまで嫌がるのか。

 そのときは、わからなかった。




◇◇◇




 理沙の紹介で、大河原先生という弁護士に会った。


 40代半ば。

 落ち着いた物腰で、目だけが鋭い人だった。


「まず証拠を揃えましょう。映像、音声、日記。最低2ヶ月」


 防犯カメラを二台、敷地内に設置した。

 玄関側とベランダ側。


 録音アプリ。

 デシベル計測。

 日記。


 全部、毎日続けた。




 カメラは淡々と記録を積み上げる。


 毎週末の煙。

 フェンスを蹴る足。

 はみ出して停まるミニバン。

 深夜の騒音。


 日付と時刻つきで、全部。






 拓也は日に日に不機嫌になった。


「まだカメラ動いてんの」


「証拠が揃うまで」


「近所に角が立つって言ってんだろ」


 最近、夜中にスマホの画面を伏せるようになった。

 返事はしなかった。




◇◇◇




 6週間目の夜。


 録画データをパソコンに取り込んで、整理していた。

 もう慣れた作業だった。


 タイムラインを流す。

 該当箇所を切り出す。


 深夜2時台の映像で、マウスが止まった。


 玄関側カメラ。


 拓也が、一階廊下の窓から出ていく。

 外で靴を履き、隣の家の庭側に回り込む。


 門扉の内側に、人影が待っていた。


 亜美さんだった。


 2人の距離が、なくなった。


 夜間モードの粗い画質。


 でも顔は映っていた。


 時刻も。


 一度最後まで見た。

 巻き戻して、もう一度見た。


 穏便にしろ。

 大げさだろ。

 カメラをやめろ。


 全部、繋がった。





 スマホを取った。

 拓也にはかけなかった。


 理沙にかけた。


 深夜3時。


 2コールで出た。


 全部話す。


「映像ある?」


「ある」


「保存して。スマホ、パソコン、クラウド、全部に」


「……うん」


「絶対消させないで。明日、大河原先生に連絡する」


 少し間があって、理沙が言った。


「泣いてもいいよ」


「……ありがと」




◇◇◇




 大河原先生の事務所。


 理沙が隣に座ってくれた。


 テーブルの上に並べた。


 防犯カメラの映像。

 騒音の録音。

 デシベルの記録。

 日記。

 フェンスの写真。

 車の傷の写真。


 そして、深夜2時の映像。


 大河原先生は全部に目を通した。

 映像を早送りせず、最後まで見た。


 表情は変わらなかった。


「十分です」


 ペンを取った。


「近隣被害の損害賠償と、不貞行為の慰謝料請求。同時に進めましょう」


「同時に?」


「相手方が重複しています。

 亜美さんには迷惑行為の賠償と不貞の慰謝料。

 拓也さんには不貞の慰謝料と離婚条件の整理」


 理沙が小声で「完璧な証拠だね」と呟いた。


 大河原先生が少し間を置いた。


「翔太さんにも事実をお伝えする必要があります。彼もまた被害者ですから」




◇◇◇




 内容証明が届いた夜。


 拓也が帰ってきた。顔色が白かった。


「おい、これ何だよ」


「読んだでしょ」


「なんで勝手に——」


「防犯カメラ、いい仕事したよ。深夜二時もちゃんと録れてた」


 五秒くらい、空気が止まった。


「嘘だろ。あんな暗いのに映るのかよ」


 拓也は椅子に崩れた。

 何か言おうとしていたけど、言葉になっていなかった。






 翔太さんへの報告は、大河原先生の立ち会いのもとで行われた。


 映像を見終わった翔太さんは、しばらく机の一点を見つめていた。


「……知らなかった」


 長い沈黙のあと、顔を上げた。


「亜美のやつ、俺をコケにしやがって」






 大河原先生の助言で、近隣の住民にも声をかけた。


「煙、うちもずっと困ってました」


「深夜の騒音、何度も寝られなくて」


「子供が道路で遊ぶの危ないって言ったんですけど、聞いてもらえなくて」


 皆、ずっと我慢していた。

 臨時の住民会合が開かれた。

 改善勧告の決議。

 賛成は全会一致だった。




◇◇◇




 亜美さんから電話がかかってきた。

 出なかった。

 留守電。


「ねえ、ちょっと話聞いて? そんなつもりじゃなかったの。

 子供がいたらしょうがないこともあるじゃない? 直接話そ?」


 子供がいたらしょうがない。

 最初から最後まで、同じ言葉だった。


 メッセージは大河原先生に転送した。


「直接の連絡には応じないでください」






 法的手続きを進めているあいだにひとつ事件が起こった。


 翔太さんが妻の亜美さんに対して殴る、蹴るの暴行を行い、右腕を骨折させた。


 事実だけ抜き出せばDVで、翔太さんは逮捕。


 ただ、背景には亜美さんの不倫もある。


 どういう決着になるかは――どうでもいい。


 私は自分のことで手一杯。


 証拠が全部揃っていたので、進行は早かった。


 迷惑行為の損害賠償。

 ほぼ請求通り。

 不貞の慰謝料。

 亜美さんからと、拓也からと。


 気付けば隣の駐車場からミニバンは消えていた。


 売って、お金にしたのだろう。






 離婚届にサインをもらう日。


 ファミレスの奥の席。


 拓也はやつれていた。

 頬がこけて、目の下に濃い隈。


「結衣。もう一度だけ話を聞いてくれ」


「サインして」


「お前がいなくなったら俺——」


「サインして」


「飯もまともに作れない、洗濯も、ゴミの日も全部お前に任せてた。

 全部わかった。俺が悪かった。やり直させてくれ」


 私は拓也の目を見た。


 半年間。

 煙のついたシーツを黙って洗い直した夜のこと。

「穏便にしろ」と言われて飲み込んだ言葉のこと。

 深夜二時の映像のこと。


 全部思い出して、全部手放した。


「最後にひとつだけ」


「……なんだ」


「穏便にサインして」


 拓也の手が止まった。

 ペンが動くまで、たぶん十秒くらいだった。

 書類を確認して、封筒にしまった。

 立ち上がる。


「ゴミの日、火曜と金曜ね。資源ごみは水曜」


 背を向けた。

 後ろで何か聞こえた気がした。

 振り返らなかった。




◇◇◇




 引っ越したのは、桜が咲く少し前だった。


 駅から十分。日当たりのいいマンション。


 理沙が物件探しから当日まで付き合ってくれた。

 段ボールを運びながら、理沙が言った。


「いい部屋じゃん。風通し最高」


「でしょ」


「前の家よりずっといい。煙くないし」


 笑った。久しぶりに、普通に笑えた。






 後日、理沙から少しだけ聞いた。


 拓也は実家に戻ったらしい。

 一人暮らしは一ヶ月で破綻したと。


 亜美さんは引っ越した。

 翔太さんは家を売りに出している。

 親権はどっちにいったのだろう。


 まあいい。

 もう、関係のない人たちだ。







 ベランダに出る。


 空が広い。


 真っ白なシーツが、ただ静かに揺れていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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