大切な時間
友達と、浅ましい郷土料理と、そうじゃない郷土料理の境界線について話していた。
たぶん世界でいちばんどうでもよくて、でも妙に真剣な議題だった。
きりたんぽは許せる。
芋煮も許せる。
あれはちゃんと「土地の事情」が滲んでいるからだと思う。
寒さとか、米とか、川とか、人が集まる理由とか、そういう生活の必然がある。
でも、なみえ焼きそばは許せない。
今治焼き鳥も、正直、かなり怪しい。
それ、ただの焼きそばじゃない?
それ、焼き方変えただけじゃない?
郷土料理って名乗るには、動機が浅くない?
観光ポスターの匂いがしない?
そんなふうに言い合って、最終的に出た結論が、
「スープカレーともみじ饅頭が境界線だよな」
という、誰にも説明できない納得だった。
理由は分からない。
でも感覚として、そこに線が引ける気がした。
そのあと、ふと思い出したみたいに、友達が言った。
「じゃあ、わんこそばってどうなんだろうね」
一瞬、会話が止まった。
わんこそば。
冷静に考えれば、ただの蕎麦だ。
量を細かく分けて、無限に出してくるだけ。
発想だけ見れば、かなり浅ましい。
むしろ企画勝ちの料理ですらある。
なのに、不思議と「許せない」側に入らない。
それは有名すぎるからなのか。
歴史があるからなのか。
それとも、浅ましさを突き抜けて、もはや儀式になっているからなのか。
わんこそばは、食べ物というより、耐久試験に近い。
味じゃなくて、体験だ。
腹八分目という概念を無視して、
「もういい」と言う勇気を試される行事。
そこまで行くと、浅ましいとか浅ましくないとかいう評価軸から外れてしまう。
もはや、郷土料理じゃなくて、文化財だ。
「浅ましさって、たぶん“言い訳の匂い”なんだと思う」
誰かが、ぽつりと言った。
生活の延長として生まれたものは、貧しくても品がある。
でも、後から理由をくっつけて、「郷土」を名乗り始めた瞬間、
その料理は急に信用できなくなる。
わんこそばには、言い訳がない。
理由も主張もない。
ただ、ひたすら出てくる。
やめたければ、自分でやめろ、という態度。
だから許せるのかもしれない。
そんな結論に落ち着いたころには、
もう誰も、最初に何の話をしていたのか覚えていなかった。
ただ、こういうどうでもいい線引きを、
真面目に考えられる時間だけは、
なんとなく、郷土料理よりも大事な気がしていた。




