さようなら2
「ねえ、ごめん。ちょっと疑問なんだけど。温田見くんは自殺だったんだよね? じゃあ、市岡はなんで千夜と温田見くんを見てるんだろう。才見がわざわざ自殺に合わせてホログラフィを仕掛けたとは思えないんだよね。メリット無いし。だけど、あの人は嘘つけるほど器用じゃ無いよね」
八木はタバコの煙を星へ向けて吹きかけながら、ふと思いついた疑問を口にした。ほとんどの事件が夜中に起きていたにも関わらず、温田見の件だけは登校時間に起きている。そのことだけは謎のままだったことを思い出したようだ。その問いに、光彰と千夜は顔を見合わせて困ったように笑った。そして、二人で声を合わせると「まあ、あの人じゃあしょうがない」と言った。
「市岡先生はね、ちょっと……人に興味がなさすぎるのよ。あれね、映像だったの。それなのに、本当に目の前で落ちたと勘違いするくらい、思い込みが激しいのよ」
「映像? いや、だってそれは……」
驚いた八木は、思わずがばりとデッキチェアから身を起こした。動揺が大きかったのか激しく動いてしまい、灰が服の上に落ちている。慌てているのか、素手でそれを払い落としていた。
「あっつ! え、いや、嘘でしょ? 普通気がつくだろ? それとも、あの人は、その、視覚的に病気とかそういう問題があるの?」
八木の反応を見て、光彰は「普通はそう思うよな」と笑いながら答えた。
「視覚的に問題がというか、市岡は人のことがあまり覚えられないんだよ。だってな……市岡は『時計塔の千夜』は自分のクラスの生徒だったって思ってるだろ? みんな市岡からそう聞いてるだろ?」
八木は新しいタバコに火をつけながら、何度も頷いた。
「そう聞いてる。みんなそう思ってるだろう? え、違うのか?」
光彰は千夜の方を見やった。千夜はその視線の意図を理解して、「いいわよ、話して」と返す。「そうか」と答えながら、光彰は八木の方へと、改めて向き直った。
「正確には、『並木千夜』は市岡のクラスの生徒じゃなかった。市岡のクラスにいたのは二年生の時で、当時の千夜は、『柳野千晃』っていう名前で、まだどう見ても男だったんだよ。だから市岡の記憶には男の千晃がいないといけないんだ。ずっと女子生徒として扱うようにと言われていたから、記憶違いをしたのかもしれない。そのうちに、三年生で自分のクラスの生徒だった『並木千夜』がいじめられていたんだと記憶がすり替わってしまったんだ。千夜は三年の時は別の先生のクラスにいた。普通、そんな特別な対応が必要な生徒がいたら、忘れないだろう? 学年が変わる時に性別の変更手続きがあって、名前も変わってる。かなり厄介な目に遭ってるはずなんだよ。それなのに忘れてるんだ。それくらいには、あいつは人を覚えられないんだよ」
「そうなのか……。でも、それなら市岡の証言なんて当てにならないって、学校はわかってたはずだよな。……いやまあ、それはいいとして、だ。才見はなんでわざわざそんなことをしたんだ? 映像作って市岡に見せるなんて、面倒だしバレて大騒ぎになるだけだろう?」
八木の疑問はもっともだ。あの映像がなければ、温田見の遺体は夕方くらいまで見つからなかっただろう。あの場所は使われなくなった時計塔の裏手であり、生徒が登校する通路とは離れている。職員用の駐車場の出入り口との境目ではあったが、そこは草が生い茂っていたため、職員も別の出入り口を使用していた。
市岡が温田見を探しに来たとしても、あの映像を見なければ時計塔の裏へ探しにいくことは無かったはずなのだ。それなのに、なぜ才見はあの映像を作ったのだろうか。
「見つけて欲しかったみたいよ」
八木の問いに、千夜が答えた。その顔は寂しそうに笑っている。彼女も同じ疑問を抱いていたのだろう。口ぶりからして、本人がそう言っていたに違いない。
「それは、捕まりたがっていたってこと?」
「そうね。ただ、警察に捕まりたがっていたと言うよりは、光彰に暴かれて引導を渡して欲しかったみたい。歪んだ自分に疲れちゃったみたいよ」
「そうか……。そう言えば、才見はもともと千夜さんに殺して欲しがってたんだったな? だったら、捕まりたくないっていう思いは最初からなかった可能性もあるな」
「そうだな」
光彰は八木に同意すると、コーヒーに口をつけた。夏場とはいえ陽が落ちた後では、高台にあるこの家の周りの空気はやや冷え込む。カップの周囲に漂う湯気を見つめながら、三人は言葉にならない思いをその中に見ていた。
「七月に俺は十八になった。最上は十八で総領として認められる。だから、千夜に才見の命を奪う選択をさせられた。これからは、あいつをうちの指揮下に入れて働かせる。そうすれば、罪はいずれ消えるだろう。だから、安心しておけ」
光彰はそう言って、ごくりと喉を鳴らした。
「ありがとう。先輩のこと、よろしくね」
千夜はそういうと、カフェラテの入ったカップを握った。しかし、それを飲むことはしない。これは黎の好きな飲み物であって、千夜にとってはそうでないからだ。黎は自分に牛乳アレルギーがあると思い込んでいるが、それは千夜の記憶がそうさせている。実際は甘いカフェラテは彼の好物であることも、彼女が抜ければすぐに思い出すだろう。だから、千夜は自分のためではなく黎のためにカフェラテを淹れてきたのだ。
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
八木はその隣で派手な音を立てながらコーヒーを啜っていく。あまりの音に二人は顔を顰めながら「何?」と声を揃えた。
「光彰はなんで千夜さんを柳野の体に入れることにしたんだ? 柳野本人は、未だに自分の体に千夜さんがいることを知らないだろう?」
それを聞いて、千夜は呆れたように光彰を見た。半分は怒っているようにも見える。
「え、そうなの? あんた、まだ話してないの?」
千夜が驚いてそう尋ねると、光彰は言いにくそうに「まだ言ってない……」と呟いて顔を顰めた。もちろん、そこには光彰なりのちゃんとした理由がある。それを説明すればいいだけの話だろう。しかし、そうなればその裏に隠していることを誰かに話すということが、彼にとっては苦痛なのだ。そのことを話すのは、どうしても嫌だった。言い淀んだままコーヒーを何度も飲み下し、必死に言い訳を探していく。しかし、光彰のその様子を見て、千夜はその言いたくない理由に気がついてしまったらしい。思い切り悪どい笑みを浮かべると、楽しそうに光彰をつつき始めた。
「言えばいいじゃない。あんたが隠したがってることって、もう黎にも周りにもバレてることでしょう?」
「千夜、うるさい。お前が成仏したら言おうと思ってるんだ。それまでは言わない」
それを聞いて、八木は目を見開いた。光彰がとる行動にしては、妙に自分勝手で子供っぽいように感じたからだ。そして、この話を振られた時からずっと、光彰の顔が紅潮しているように見えることも気になっていた。
「でも、自分の体を勝手に使われたら怒るんじゃないか? いくら兄弟とはいえ、俺だったらブチ切れるぞ」
そして、その八木の言葉に、千夜が賛同する。
「そうでしょう? 私もそう思うの。しかも、私が体を使うってことは、仕草や行動がいかにも女性って感じになるのよ。そんな姿を人に見られてるって思ったら、黎は嫌がるんじゃない? だから言っておいた方がいいと思うのよね。ねえ、なんで言わないのよ。そこまで頑なに隠す必要ってある?」
光彰は結局そのしつこさに根負けしてしまった。そして「わかったよ、話せばいいんだろ!」と叫ぶ。そんな光彰の行動に驚いている八木の方をチラリと見やると、大きくため息を吐いた。
「八木、俺が昔千夜と偽装カップルだったのは知ってるだろう?」
「まあな。辰之助さんからもらった事前資料に書いてあった」
「黎はそれを知らない。俺が本当に千夜を好きで付き合ってたと思ってるはずだ。だから、もし黎の体に千夜がいることを話してしまったら、俺がいくら黎に好きだと言っても、それは千夜に向けて言ってると勘違いする可能性が高いんだよ。今だってアプローチしても伝わらないのに、それを知っていたら逃げ道にされる可能性だってある。だから言いたくない」
「えっ? おいおい、嘘だろう。思ったよりも幼稚で勝手な理由だな」
「ねえ、やっぱりそう思うでしょう? ほらあ、やっぱり言わないとダメよ。それにさあ、今だって全く伝わってないんでしょう? それなら絶対秘密は少ない方がいいわよ。もう今日話しなさい!」
そう言って千夜は楽しそうに笑った。
「千夜、お前本当にうるさい。本っ当に性格が悪いな……」
光彰がそう言ってむくれていると、千夜は光彰の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「だってさあー! 心配なんていらないんだから、早く言って楽になりなさいって思うじゃない。その苦しみ、絶対無駄なのよ。ねえ、八木くん?」
千夜の言葉に、八木は激しく首を縦に振って頷いた。
「おお。俺もそう思うぞ」
そう言って、テーブルの上にずいっと身を乗り出す。
「あのさ、まず思ったんだけど、伝わるも伝わらないもない気がするんだよ。だってお前ら二人は両思いだろ? 少なくとも、同じクラスの奴らは、みんなお前らは付き合ってると思ってるぞ。知らぬは本人たちばかりなんじゃねえか?」
「……本当か? 周りと関わってないのに、なんでそんなことを思われてるんだ?」
驚く光彰をよそに、千夜は八木の言う事など今更だという態度で続ける。
「いやだから、お互いに思い合ってるのがバレバレだからよ。だからね、もしあんたが黎に告白して、それを黎が穿った受け止め方をしても、周りが言いくるめてくれると思うのよ。……ただ、もうその心配も必要ないんだけどね。私いなくなるし」
戯けるように両手を上げて微笑みながら千夜は言う。それを受けて、八木は急激に悲しそうな表情を浮かべた。
「そうだな、本当だ。うわ、そう考えると急に寂しくなってきたな」
「そうね、私もよ。今更だけど、八木くんとたくさん話せて嬉しかった。あ、光彰。ほら、八木くんが知りたがってることのもう一つもちゃんと教えてあげてよ」
千夜はそう言って、自分の方を指で指し示した。光彰がなぜ千夜の魂を黎の体に入れたのかという説明を、きちんとするようにと促している。
「ああ、そうだな」
浮ついた話をしていたからか、いつもよりやや幼い印象を与えていた光彰も、魂と体の話になると表情が引き締まる。キリッと空気ごと引き締めると、大切な話をする雰囲気へと変えていった。
「千夜を黎の体に入れたのは、黎を死なせないためだ。形だけ千夜の葬儀をした時に、黎が高熱を出したという話をしただろう? 千夜を守れなかったことを気に病んでいたからか、黎の命も危なかったんだ。そういうところには悪霊が溜まりやすくて、下手したら体を乗っ取られる可能性もある。だから、千夜の魂を宿した楔を作って、それを黎の体に差し込んだ。そうすると黎の体は霊的に満たされていると判断されて、他のものは入れなくなる。そうすることであいつを守ったんだよ」
「八木くんもわかってると思うけれど、楔を使われるとそれを使った人とは主従関係が出来上がる。だから、『時計塔の千夜』の話は嘘ばっかりではないのよ。光彰が命令すれば、私はその通りに遣いとして働く。一哉先輩を死なせた時みたいにね」
千夜はそう言うと耳元のホクロの群れを指さした。そこには、それに重なるようにして二つの楔が打ってある。八木も今はそれを知っているため、その指先を見て「ああ」と納得したようだ。
「そっか、じゃあ柳野くんを守るために、千夜さんに協力してもらったんだ。なるほど」
八木はようやく謎が解けたとばかりに頷いた。その姿を見て、千夜はふっと小さく笑う。
「八木くん、もう普通に話せるようになってるね。魂とか霊とか言ってるのに」
八木はそれを聞いて、目を丸くした。あれほど苦手だったオバケの話に、いつの間にか自分も自然に参加している。すっかり日の暮れたテラスに、八木の大声が響き渡った。
「本当だ!」
千夜は八木のその様子を見て、一段と楽しそうに笑った。
「あはは! 面白いね、八木くん。本当に楽しかったよ。でも、残念だけど私はそろそろ行かないと。光彰、私の記憶が戻るまで力を貸してくれてありがとう。怖かったけれど、向き合えたのは光彰がいたからよ。後のことはよろしくお願いします。それと、黎を幸せにしてあげてね」
千夜はその言葉をきっかけに、黎の体から離れる準備を始めた。光彰はその体を引き寄せると、最後にもう一度その存在を記憶に残そうとして抱きしめた。一度消えた楔を作り直し、無理を言って呼び戻した。そのために作った楔も、もうリミットが近づいている。
——これで本当に、千夜に触れることは出来なくなる。
込み上げる思いに振り回されそうになりながらも、何とか平静を装った。
「わかった。心配するな」
千夜も光彰を抱きしめ返した。そして、その頭を撫でる。
「いい子だな、光彰」
「……っ」
それは、光彰の遠い記憶の中にある、『従兄弟のちあきにいちゃん』が昔よくしてくれていた、懐かしい抱擁だった。今や頼るもののない立場になろうとしている光彰には、それは胸の奥が痛むほどに嬉しいものだった。
「なんだよ、あの頃の自分は嫌いだったんだろう?」
鼻を啜りながらそう訊ねる光彰に、千夜は満面の笑みを浮かべながら被りを振った。
「そんなことないわよ。私はいつも幸せだった。ただ、女性になれたことでようやく満たされた気がしたのも確かなの。だから、やっぱり私は女なんだなって思った。それだけよ」
「じゃあ、千晃兄ちゃんとの思い出のハグを喜んでもいいのか?」
そう言って涙を零した光彰に、千夜はふわりと笑って答えた。
「もちろんよ」
そう答えた千夜の体が、夜の色に溶け出しそうになってきた。輪郭を徐々に失い、少しずつ空へ混ざり始める。黎の体が、ぐらりと傾いた。
『次は完全な契約関係で会うことになるだろうから、それまでは一哉先輩と精進しておきます』
倒れ込む弟の体を受け止める光彰を見下ろして、千夜は言った。そして、上空へと消えゆく千夜を見上げて、光彰は答える。
「ああ、待ってる」
千夜は八木へと向き直ると、笑顔を作って手を差し出した。霊体を実体化出来るのは、ほんの僅かな時間だけだ。
『じゃあ、八木くんもお元気でね。探偵の仕事は大変だろうけれど、少しでも怪我なく健康でいられるように見守ってるよ』
「……これで本当にさよならか?」
いつの間にか、八木の目も空と同じように小さな輝きを纏っていた。千夜はそれを見て微笑むと、驚くほど冷たい指先でそれを拭ってあげた。八木はその温度にびくりと跳ねた。それは、千夜が既に自分達と同じ存在ではなくなってしまったという悲しい事実を突きつけている。
『……驚いたね、ごめんね。そうよ、今度は本当にさようならするわ。二人のことをよろしくね、八木くん』
八木は思わず涙を零し、素直に何度も頷いた。そんな風にして二人がしんみりと別れを惜しんでいると、光彰がいつものように冷たい一言を浴びせて来る。
「才見が奪った命の分だけ、俺にこき使われる準備をしておけよ」
千夜はそれで調子を取り戻したのか、元気な言葉を返した。
『はいはい。わかりました』
「じゃあ、黎の体から完全に楔を抜くぞ。……黎を守ってくれてありがとうな、千夜」
千夜は光彰を見つめると、穏やかな笑みを浮かべた。光彰は、千夜がそんなふうに笑うのを、生まれて初めて目にした気がした。
たくさん傷つけられ、その度に隠れて泣いていた。それなのに、年下の光彰や黎にはとても優しく、頼れる人であり続けてくれた。泣く度に強くなり、乗り越えては前を向いて歩いていた。それなのに、本当に欲しかったものを手に入れる前に尽きた彼女の命を、光彰はずっと不憫に思っていた。
「こんなに幸せそうに笑うなんて……」
黎の耳元から、千夜の魂の入った楔を抜く。これが本当に最後の楔だ。光彰の手元に現れた楔をするりと抜いた。それは、彼の手のひらの中で一度強く輝くと、そのまま音もなく消えていった。
「安らかに眠ってくれ」
最後の一欠片が、空へ登っていく。その光が消える頃、小さく千夜の声が聞こえた。
『ありがとう』
その言葉の最後は夜空に浮かぶ星たちの間の闇の中へ、溶けるように吸い込まれて消えていった。