記憶が消えた理由2
「えっ? 戸田先生?」
「痛いっ! 離して、離してちょうだい。……八木くんっ!」
戸田は髪を振り乱しながら身を捩り、どうにかして八木の手から逃れようともがいた。扉の向こうには才見がいるだろうとは予測していたものの、戸田が才見を気絶させていたとは、生徒側は誰も予想していなかった。ただし、千夜はそうでは無かったらしい。
「戸田先生、先輩を気絶させてどうするつもりだったの? 先輩だけを悪者にして、自分たちは何も悪く無いって言おうとしてたの? そんなの虫が良すぎるんじゃない? もういい加減にしたら?」
黎は、戸田の上着の襟を掴んで彼女の体を引き上げた。無理に上を向かされている戸田は、苦しげに顔を歪めていく。
「な、何をするのよ、柳野くん。手を離してちょうだい。八木くんも、離して。生徒が教師にこんなことをしていいと思ってるの?」
戸田は黎を睨みつけながらそう言った。彼女の言葉はひどく薄っぺらく聞こえ、その場の生徒たちの神経を逆撫でした。心を動かす術を知らない人間ほど、立場を振り翳したがる。しかも、それが大したものでもないものだから、手に負えない。
「……教師が聞いて呆れるわ。あんたは私たちに一体何を教えてくれるの? 人の騙し方? 幼気な生徒の唆し方? それとも、助けを求めている生徒を見殺しするスキルかな。ねえ、戸田先生。あんたはその全てが得意でしょう?」
黎は戸田に対して、突然強烈な言葉を次々と浴びせていった。光彰たちは黎の言っている意味が全く理解出来ていない。しかし、彼女が失っていた記憶を取り戻したのだろうということだけは分かっていた。
「な、何を言ってるのよ、柳野くん。さっきからおかしいわよ」
戸田は光彰や葉咲の顔色を伺うようにして視線を泳がせると、黎の顔をチラリと見てそう言った。光彰は戸田のその様子を見て、彼女は黎の体に千夜が入り込んでいることに気がついているようだと判断した。それなのに、頑なにそのことに気がついていないフリをしている。それは一体何のためなのだろうかと不思議に思っていた。
「おかしいのはあんたよ。自分の旦那がゼミの男子生徒達に手を出してることも、その子達を使って地位を確立して来たことも知っていたでしょう? それなのに、旦那が捕まると自分の生活が苦しくなるのが嫌で、ずっと隠し通してきた。そのせいで先輩は壊れたのよ! 大人が誰も先輩の味方をしてくれなかったから、あんな風に壊れて……。あんたの旦那が、彼をクスリ漬けにしてまで身を売らせてたから!」
黎のその言葉に、光彰と葉咲が「はあ?」と口を揃えて声を漏らした。それは、あまりに予想外のことだった。
「才見がクスリを作ってるわけじゃ無いのか? あの男も被害者なのか?」
光彰の問いかけに、千夜はポツリと「そうよ」と答える。そして、「あのクスリは、売春行為を嫌がる先輩を楽にするために、戸田教授が自ら作ったものなのよ」と答えた。
「戸田教授って……。この大学で戸田ゼミって言ったら、憧れの存在じゃないか。その人が、生徒を売ってるのか? 嫌がるからって、クスリまでやらせて? う、嘘だろう? 確かにアレはそんなに依存性ないし体も壊さないけど……」
それを聞いていた黎は、戸田を投げ捨てるようにしてその襟から手を離した。そして、そのままドアの後ろに隠れるようにしている葉咲へと近づくと、彼の腕を引いて才見のそばへと座らせる。
「な、なに、なんだよ柳野。急に……」
巻き込まれた葉咲はひどく狼狽ている。そもそも、彼は黎の中に千夜がいるという状況にも慣れていない。誰も説明一つせずに話を進めていっており、黎の体に千夜がいることなど瑣末なことだと捉えているようだった。
「あんたたちが使ってるものは、純度が低いんでしょう? だからそんな呑気なことが言えるの。高純度のものを使って依存させられてごらんよ。それも、間隔を空けずに使い続けてるとこうなるのよ。見て」
そう言って才見のスラックスの裾をめくった。そこには、大小様々な大きさと濃淡の違うアザがびっしりと出来ていた。真新しく濃い紫色をしたものや赤みを含んだものから、治りかけて黄色くなっているものまで、どこにも彼のもとの肌色がわかる場所が無いくらいに、一面にびっしりとそれはあった。
「ただ、これはクスリの影響だけじゃ無いんだけどね。殴られても蹴られても耐えられるようにクスリを使われる。痛みが快楽に変わるから、いくらでも受け入れられてしまう。そのうちこうなって、肌の色なんて分からなくなるのよ。先輩はこれが首と顔以外全てにある。そして、いくら軽いとはいえ精神依存性があるから……。クスリが切れそうになったら、暴力を振るわれたくなるのよ。だから自分からその場に向かうの。あんたもこうなる寸前だったのよ。ぼーっと生きてるからそんなことにも気がつけないのよ!」
葉咲は、そのアザを凝視して震えていた。それは、どう見ても異常な状態だった。自分もそうなるはずだと言われたことで、初めてことの重大さを理解したようだ。体が小さく震え始め、それはだんだんと大きくなっていった。
「嘘だろう……。だって、おじさんだって勧めてたんだ。安全だけから娯楽の一つにすればいいって……。じゃあ、お、俺も売られるかもしれなかったってことか?」
「そうよ」と黎が答えると、葉咲はその場にへたり込んでしまった。
「どうしてそんな……」
「恵那みたいな悪党がいうことを信じる方がどうかしてるわ」
葉咲は千夜のその言葉に、悔しそうな表情を滲ませた。その目元に、じわりと涙が浮かぶ。
「なあ千夜。お前が言っていたニセ千夜の足にあったアザってこれのことか? じゃあ、お前はあれが才見だと、あの時に気がついていたんだな?」
「そうよ」
そう答えた黎は、久しぶりに目の当たりにしたそのアザだらけの足へと手を伸ばした。そして、そのアザの上を労わるように優しく摩っていく。
「本当はね、ニセ千夜がレモンイエローのサマードレスを着てるってわかった時点で、そうかなって思ってた。だって、これは私が死んだ時に着てた服だもの。でも、落ちた時に頭を打ってかなり出血してたから、本当はどういう色なのかを知ってる人はあんまりいないのよ。それを知ってたのは、デート前に寄った最上家で会った光彰、遠くから見てた黎、おじさま、夜中にやって来た戸田と、これをプレゼントしてくれた先輩だけ。普通幽霊って言ったら白い服でしょう? それなのに、ちゃんと私の服と同じものだったのよ。そんな細かいことを気にしてくれるのって、先輩くらいじゃない?」
そう言って、気を失っている才見の頬に愛おしそうに手を滑らせた。そして、チラリと首筋を見る。そこについている青いあざを見つけると小さく息を吐き、唇を噛んだ。
「でも、その記憶を辿るたびに思考が途絶えてた。あの夜に先輩は気が狂ってしまったのよ。戸田がいなくなると急に私に襲いかかって来て、体の中に『キングの怒り』を埋め込んだ。光彰もそれは知ってるんでしょう?」
八木は光彰へチラリと視線を送った。光彰はそれを見て頷く。最上家から八木の探偵事務所へ出されている資料の中にも、千夜の直腸内にカプセルの残滓があったと記載されていたと聞いている。千夜だってそれは知っているだろう。そのことを今更ここで誤魔化しても意味がない。
「ああ、聞いてる」
「そうよね。それがまた純度の高いものでね。私はすぐに高揚感に包まれて、目の前にぱあっと明るい幻覚が見えるようになった。それを追いかけるのに夢中になって、いつの間にか屋上へ出てて。気がついたら落ちてるところだったの。皮肉なんだけどね、落ちてる時には恐怖を感じたのよ。もう死ぬんだと思ったら、途端に恐ろしくなって……。急激なバッドトリップを起こした。今もその時のことを思い出そうとするのは怖い。でも、きっとその日のことを思い出さないと、この事件は終わらないと思ってた。どうしたらいいかなと悩んでた時だったの。あの夜、風が吹いてスカートが捲れた。そしてはっきりと足のアザが見えた。私が最後の時計塔での夜に見た、アザだらけのあの足と同じだった。それが引き金になってね。戸田のことまで一気に全部思い出したってわけ」
千夜は才見の頬を撫でている。彼女が苦しんだ末に初めて手に入れた幸せは、才見によってもたらされ、終わらせたのもまた才見だった。戸田教授が作っていたという「キングの怒り」は、今や才見に引き継がれている。そして、彼は生徒を薬漬けにして、命を奪い続けるような化け物へと変わってしまったのだ。
「千夜、お前は才見をどうしたい?」
光彰は横たわる才見の手を拘束しながら、彼女に尋ねた。このまま才見を警察へ引き渡したとすれば、彼は生徒に麻薬を使用させて飛び降りるように誘導したとして、罪に問われるだろう。しかし、そこに戸田教授のしたことを含ませることは、おそらく難しい。そうなれば、才見が単独で行動したという扱いになりかねない。
「戸田に関することは、これから調べ上げていかなくてはならないだろう。でも、才見は捕まえておかないと、これから先も犠牲者が出る可能性がある。この先をどうしたいのか、お前はどう思ってるんだ?」
ある意味彼も被害者ではある。しかし、命を失ったものがいる以上は、彼も罪を償わなければならない。その償い方をどうするか、光彰は敢えてそれを千夜に尋ねた。
「……私に決めさせてくれるの?」
黎は彼の問いへの答えを質問で返した。そうしたということは、おそらく彼の意図することを理解しているのだろう。経緯がどうあれ、彼は複数人を死に追いやっている。彼が「キングの怒り」を売り、それを摂取した者たちが転落するように仕向けたのであれば、おそらく刑は重くなる。彼女がそれを望んでいるとは、到底思えなかった。
「お前が体を残してまでこの世に止まったのは、才見を連れて行くためだったんじゃ無いのか?」
「え……?」
光彰の問いかけに、千夜は戸惑った。その言葉に引っ掛かるものがあったのだ。
——何が引っ掛かってる?
落ちていく時の記憶を手繰り寄せながら、才見の口が何を言っていたのかを拾おうとした。
「……あの時、先輩からは『一緒に行く』って言われた。それなのに、来てくれなかった」
千夜の脳裏に、落ちる時の才見の言葉が蘇っていく。
『千夜、君と別れて地獄の中に生きるくらいなら、君が僕を殺してくれ。勝手に殺した僕を恨んでくれて構わない。だから、その怒りをもって僕を殺しに来て。待ってる』
「……先輩、私に自分を殺しに来てくれって言ってた。私を殺すのは自分の勝手だから、それを恨んで自分を殺しにきて欲しいって……。私、そのことも忘れてたんだわ」
「生きてる間に一緒にいられないなら、死んで一緒にいようってことか?」
光彰がそう尋ねると、千夜はこくりと頷いた。それは酷く勝手な理屈だった。光彰には、到底理解出来るものではない。しかし、追い詰められクスリ漬けにされていた人間に、整然とした理屈を求めるのもまたおかしな話だろう。それがその時の才見の精一杯だったのかも知れないと思うと、光彰はどうにも居た堪れなくなってしまった。
「先輩、私のことを待っていたの?」
千夜は、目を瞑ったままの才見にそっと声をかけた。その声が届いたのだろうか、彼の長いまつ毛が震えた。そして、ゆっくりと瞼が開かれていく。
「千夜……」
才見は目を覚ました。三人の生徒の命を奪った冷酷な犯人だと思われるその男は、目の前にある愛しい恋人の姿に嬉しそうに笑みを浮かべ、はらはらと美しい涙を流していた。