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【6/30まで】キングの怒り  作者: 皆中明
4、別れへ
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朝露2


 才見から指定された花壇の草むしりは、なんと日が暮れるまで続いた。植えてあるものが全く見えないくらいに、一面に雑草が生い茂っていた。二人で黙々と抜いた雑草は、小さな花壇一つに対して大きなゴミ袋三つ分にもなっていた。


「でもあのサボテンは可愛かったな。つるんってしてて、トゲがなくて。あんなのがあるって知らなかった」


「俺ちょっと調べたんだけど、園芸用として人気があるらしいぞ。才見先生、かわいいものが好きらしいし、似合ってるよな」


 そんな会話を交わした後は、急激に疲れが襲って来る。長い間茹るような暑さの中にいたためか、今日はこのまま自室へ戻ろうということになった。普段は口に入れるものを徹底的に管理するために、黎と八木は夕食も共に摂るようにしている。

 しかし、今日はもう食べることすら面倒で、八木は飲み物だけを黎へ渡すと、早々に第ニ寮へと帰って行った。


「ただいま……」


 黎は自室のドアを開け、一人になってからも欠かさずに口にしていた帰宅の挨拶を口にした。誰からも反応が返ってこないことにも、随分と慣れて来たようだ。今は疲れも手伝って、何も気にすることが出来ない。ベッドに飛び込むように倒れ込み、布団にしがみついてしまったら本当に動けなくなってしまった。


「あーもう何も出来ない」


 あまりに疲れてしまったためにそんな風に独言ていると、突然背中に重みを感じた。


「えっ……!」


 一人の生活に慣れ始めていた黎は、部屋の中に誰かがいる可能性について考えていなかった。背後からの急襲に肝を冷やす。ただでさえここは身の危険の多いところだ。それに、彼は何度も幻覚剤に振り回されている。また何かの影響を受けたのかと思い、一瞬身を固くした。


「あっ……」


 しかしそれも僅かの間だけだった。彼の鼻先に触れた香りが、警戒を解いていいと教えてくれている。ふわりと香った嗅ぎ慣れた香水は、黎の心をじわじわと温めていった。


「っ……」


 その中で、彼が予想もしなかった感情が一気に溢れ出した。無くして初めてその存在の大きさを知り、焦がれ続けて寂しさよりも辛さを味わった。その期間に無くしていた大好きな香りが、今ここに戻って来ている。声が震えてうまく出せないのをどうにか誤魔化すと、その香りの主に声をかけた。


「……おかえり、光彰」


 その声に、耳元でふっと息を吐くように笑う声がした。光彰は黎を包み込むようにして抱きしめている。振り返ってみると、この上なく優しい顔で微笑んでいた。あれほど鬱陶しいと思っていたその行動が、今はとても心地いい。嬉さが溢れてそれ以上言葉を発することが出来ず、黎は唇を引き結んだ。


「ただいま、黎。お前たちが遅くなるっていうから、父さんは帰ったぞ。今日はひどく疲れてるんだな。才見の指導はそんなに大変だったのか?」


 光彰は腕の中の黎の存在を確かめるように、何度も抱き直しながら声をかけている。平静を装ってはいるものの、よく見ると彼も感情が溢れているのか、その目が赤く染まっていた。


「あー、実はさあ……」


 黎は震える心を押し隠したまま、今日の出来事を光彰に話して聞かせた。彼はそれに優しく相槌を打って聞いてくれている。そして全ての話を聞き終わると、改めてぎゅっと黎を抱きしめた。


「そうか。大変だったんだな。お疲れ様」


 光彰は何度も黎の頬に自らの頬を擦り付けた。そうやって相手の存在を確認するように愛しんでいく。黎もそれをされる度にじわりと心が温まるのを感じていて、出来る事ならこのままでいて欲しいとまで思うようになっていた。


「ん?」


 しかし、それは長くは続かなかった。再会の喜びに浸っていた光彰が、突然顔を顰めて動きを止めた。黎はどうしたのかと気になり、光彰の方へと顔を向けた。


「どうかした?」


 光彰は黎の問いに首を傾げている。あまり見ることのない、困惑した表情を見せていた。


「いや……、なんだかわからないけれど、いつもと違う匂いがするなと思って」


 そう答えた光彰は、突然黎の首元に鼻先を埋め始めた。


「ちょっ……。何してんだよ」


 すんすんと鼻を鳴らして匂いを確認する姿は、まるで大型犬のようだ。違和感の元を探ろうとして、必死になっている。ただ、そうされているうちに黎はふとあることに気がついた。そして、光彰の腕の中から逃れようともがいた。


「ごめん、それ多分汗の匂いだ。外が暑かった上にずっと草むしりしてたから、めちゃくちゃ汗かいたんだよ。俺まだシャワーもしてないし、汗臭いんだろ」


 そう言って必死に光彰の体を引き剥がそうとした。

 それでも、光彰はそんな彼をさらに力を込めて抱き竦めてしまう。更に、何を言っているのか理解できないといった表情で熱く反論し始める。


「何言ってんだ。お前の汗の匂いならいい匂いに決まってるだろ? そうじゃないんだよ。そんなんじゃない香りがする」


 何でもない調子で彼はそう言い切った。黎はたまらずに、


「お前、それちょっと怖いぞ。変態か?」


 と慄いた。そして、あらためて自分の体の匂いを確認しながら、


「どんな匂いなんだよ……」


 と呟いている。


 しかし、光彰は黎のいつもと違う香りが何であるのかを探ろうと真剣になっており、記憶の中のものと比べては答えを探すように逡巡していた。その姿は、黎の目にはどう頑張ってもただの変態にしか見えない。

 久しぶりに会ったのでそうはしたくないのだが、彼を思い切り貶したくてたまらなくなっていた。


 そんなことは知る由もなく、しばらく考え続けた光彰は、いつもと違う香りの成分に思い当たったようで、ポンと手を打った。


「この不自然な匂い……酢酸だな。混ざり物の匂いじゃなくて、もっと純粋な酢酸の匂いだ。人工的な香りだから、おそらく薬品だろう。今日化学の実験でもあったのか?」


「いや、今日は化学系の授業自体が無かった。酢酸なんて触れる機会はそうそうないだろう? あ、もしかしてこれかな? これを作る時に酢酸を使うって言ってた気がする」


 黎は覆い被さっている光彰の体を乗せたまま這うようにして移動すると、サイドテーブルへと手を伸ばした。そこには、透明な液体の入ったボトルが置かれている。キャップ付きの、スプレー式ボトルだ。鏡の近くに置かれていたもので、確かに酢酸特有のツンとした香りがする。


「これ、俺が落ち込んであんまり眠れなかったりメシが食えなかった時に、才見先生がくれたんだよ。肌が荒れてるから、化粧水をあげるよって」


「化粧水? 才見が?」


 光彰はスプレーボトルに入っている液体を振ってその性質を確認した。ツンと鼻をつく酢酸の匂い、粘性は無くサラサラとした漿液性のもので、無色透明の液体だった。


「何かの抽出液か? 肌にいいもの……」


「そう、サボテンの抽出液だって言ってた。サボテンって保水力高いんだろう? 昔千晃兄さんが言ってた気がする」


 千晃は千夜になる前から美意識が高く、肌や髪の手入れに力を入れていた。元々中性的な顔立ちをしていたので、そうするだけでかなり理想の見た目に近づけるのだと笑っていた。その影響なのか、黎も肌の手入れに手間を惜しまないタイプになっていた。


「サボテン? ああ、確かにあいつが使ってたな。保水力は高いだろう、砂漠の植物だからな」


 光彰は千晃がパックをしていた姿を思い出しながら、サボテンの抽出液だという化粧水を観察した。そして、ふと以前八木と話したことを思い出した。


『千夜さんの体にメスカリンが付着していたのは、事実だろう?』


 千夜は転落死(実際には生きている)したことは間違いなく、メスカリンがどうやってその体に付着したのかはわかっていない。ペヨーテというサボテンから抽出されるその物質は、水やアルコールに容易に溶けることで知られている。


 もし、あのシロップだけでなくこの化粧水という形態でも幻覚剤が作られていたとしたら……。田岡が時計塔から転落した日に黎が幻覚を見て走り出したことにも説明がつくかもしれない。彼はそう考えた。


——ただ、それなら才見が犯人だと言うことになる。それなら、あいつが黎を狙う理由はなんだ?


 光彰はその液体が入ったスプレーボトルを振りながら、最後のワンピースが嵌まらないパズルに苛立っていた。


 しかし、考えてみれば才見は最初から黎を気に入っているように見えた。直接対立した光彰と違って、黎には才見と親しくなる機会など、どこにも無かったはずだ。

 それにも関わらず、光彰が停学になってからと言うものの、八木や辰之助から集められる情報には、才見が黎を特に可愛がっているということがわかるものばかりがあった。


 八木の体を借りてそばにはいたものの、光彰としては自分の体ではないものと黎が触れ合うようなことはしたく無かった。そうして彼が我慢を続けている側で、簡単に黎を抱きしめる才見に殺意めいた嫉妬心を抱いたのは、一度や二度ではない。


 寮監でも無い教師が寮内へ付き添い、ハグしたり、本を貸したり、化粧品を与えたりしている。賄賂の横行しているこの学校ではかわいいものではあるが、それにしても彼がそこまで黎を気にかける理由が全くわから無い。


「何で才見はお前にこれをくれたんだ?」


「……お前が戻ってくる時に心配かけたく無いなら、肌の調子だけでも整えておいた方がいいよって言われたんだ。これ結構酸っぱい匂いがするから、俺も最初は驚いた。でも、使うと沈んでた気持ちが肌の調子と一緒に上向いた気がするんだよ。だから、ほら、調子がいいだろう?」


 黎はそう言うと、得意げに頬を突き出してその肌の美しさを見せつけた。


「気持ちが上向く……高揚するってことか?」


 光彰はその白く艶のある肌をまじまじと見つめながら、液性と効果について考えようとした。肌に塗布することでいいことなどあるのだろうか。


「あー、そう言われてみればそうかもしれない。新しい服を着ると嬉しかったりするよな。あのくらいの高揚感はあると思うぞ」


 そう言いながら、両手で頬を押している。それを数回繰り返しても光彰が反応を示さないことに気がつくと、黎は恥ずかしそうに顔を隠した。何をやっているのだろうという羞恥心が、急速に彼に襲いかかっていた。


「何隠れてるんだ?」


「いや、なんだか急に恥ずかしくなって……。ちょっと一人で盛り上がりすぎて、バカみたいだなと……」


 そう言って亀のように丸まってしまった黎を見て、光彰は目を細めた。


「何だよそれ」


 そう言うと、丸まった体を軽々と持ち上げた。そして、そのまま彼を膝の上に抱えて座ると、ヘッドボードに体を預けた。

 あっけに取られている黎の顎に手を添え、その自慢の肌の状態を確認する。しばらく観察した後に、愛おしそうにその瞳を見つめて微笑んだ。


「うん、キレイだ」


 そう言って更に黎の目の奥を覗き込む。突然の行動に、黎の顔は次第に赤く染まっていった。


「確かにキレイだ。でもなあ、それが才見のおかげだと思うとちょっと腹立たしい。だから素直に喜べない」


「あ、そういう……」


 嫉妬しているのだということを知らされて、黎は更に顔を赤らめた。こんなことを言われて、恥ずかしいと思う日が来るとは、彼は思いもしなかった。

 これまで何も考えずに二人部屋で過ごして来たものの、これからどうしたものかと悩んでしまう。こんなに動揺していては、卒業までに心臓が破裂してしまうかもしれない。黎は胸を抑えてため息をついた。


 ただ、光彰は黎とは違うことを考えているようで、ボトルの中の液体を見ながら何か考え込み始めたようだ。


「それがどうかしたのか?」


 黎が尋ねると、彼は言いにくそうに俯く。光彰が下を向くこと自体が珍しく、黎は驚いた。


「お前、これを毎日使ってたのか? 使用量はどれくらいだった?」


「んん? えーっと、乾燥しそうだなと思うたびに使うから、結構頻繁に使ってたよ。そうするのがいいって言われてたし」


「そうか。スプレーってことは、噴霧した時に吸い込んだりすることもあるよな?」


 何を聞かれているのだろうかと、漫然とした不安が黎を襲う。しかも、それは自分が聞きたくない結末を迎えるような気がしていた。黎の中に、少しずつ黒い澱のようなものが溜まっていく。


「うん、あると思うよ。たまにだけど、咽せたりしてたから。え、もしかして吸い込んじゃダメだった?」


 不安げに瞳を揺らして黎が尋ねた。しかし、光彰はそれには「いや、多分大丈夫だろう」と明るく答える。


「ただ、な」


 今度は打って変わって引き締まった表情で黎を見つめる。その様子に、黎は怯えた。


「お前が飲まされた幻覚剤なんだが、メスカリンじゃ無いかって話になってる。血液サンプルは、それを確かめるために必要だったんだ。あれは水にもアルコールにも溶ける。こんなふうに化粧水とかにすることも出来るかもしれない。だから、これからは食べ物以外も貰わないようにしてくれないか」


「え……?」


 光彰の説明を聞いていた黎は、瞬時に顔を顰めた。何を言っているのかはわかっているけれど、それを信じられないとばかりに目を見開いている。

 光彰の大切さを痛感して、ようやくそれを認めることが出来そうだった。再会を果たして、目の前にいる彼を大切にしたいと思っていた矢先に、自分を支えてくれた人を、自分が大切に思っている人を彼に否定されてしまった。その事実が、どうにも許し難かった。


「お前、もしかして才見先生が犯人だと思ってる? あの人が俺に危害を加えようとしてるって、そう言いたいのか? なんであの人が俺にそんなことをすると思うんだよ。何か根拠があるのか?」


「……黎? どうした、落ち着け。俺はまだ何も言ってない」


「言ってるようなものだろう!」


 黎は光彰の膝の上から立ち上がると、拳を握りしめて声を張り上げた。いつの間にか彼の目は暗く光を失っていた。青白い顔に冷や汗を流し、肩で息をしている。いかにも具合の悪そうな様相の上に、抑えきれない怒りを抱えているようだ。普段の黎には考えられないほどに、負の感情が膨れ上がっていた。


——バッドトリップか……?


 光彰はベッドから立ち上がると、ヘッドボード付近にある照明のスイッチへと手を伸ばした。そして、それを阻むように殴りかかってくる黎を抱きしめる。


「離せよ!」


 少しでも刺激を減らして落ち着かせなくてはならない。どうにかして証明を落としたが、腕は黎の爪に引っ掻かれて傷だらけになっていた。


「黎、落ち着いてくれ」


 抱きしめて声をかけても、興奮状態は落ち着きそうに無かった。このまま暴れられては埒が明かない。光彰は仕方なく千夜の力を借りることにした。


 ポケットから革張りのケースを取り出すと、そこに収まっている楔を抜いた。そして、それを黎の耳元へと差し込んでいく。差し込まれている間も、黎は暴れ続けていた。千夜が姿を現すまでが、まるで永遠のように長く感じた。


「千夜、早く来い!」


 光彰が千夜へ命令すると、黎の瞳にゆっくりと変化が表れた。入れ替わる時間の間にさえ、黎は光彰への攻撃をやめなかった。


「お前がいない間、あの人がどれほど俺を助けてくれたか……。才見先生を悪く言うんなら、お前でも許さないぞ!」


 そう叫ぶと同時に、光彰の頬を殴りつけた。その衝撃に耐えながら彼を強く抱きしめると、ようやく千夜の魂がその体の中へと入り込んできた。

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