依代2
大学を卒業する頃にはお互いに道が分かれることが決まっている。二人で相談して、それまでは同じところへ通おうということになり、この学園を選んだ。それが、こんな形で離れ離れになろうとは、光彰も黎も全く予想していなかった。
「光彰……」
後悔の念が胸を潰す。息が通りにくくなったその場所を、ぎゅっと握りしめて蹲った。
「誰かいるんですか?」
ちょうど涙が一筋流れ落ちたところに、不意に後ろから声をかけられた。驚いて振り返ると、才見が走ってくる姿がぼんやりと見えた。
「しまった、ここ立ち入り禁止なんだった」
無断で他寮棟に上がったことを咎められると思った彼は、慌てて立ち上がった。陽が傾いた屋上で涙に濡れた目では、視界はかなりぼやけていた。よく見えないままに立ち上がってしまったら、思ったよりも近くに柵があった。慌てていた彼は、勢い余ってそこに思い切り倒れ込んでしまった。
「うわっ!」
第三寮は基本的に立ち入りが禁止されており、時計塔へ入るためには階段室の鍵を開けなくてはならず、通常は出入りが出来なくなっている。しかし、昨年の秋頃からその鍵は壊れていて、学校はそれを承知していながらも未だに修繕していなかった。
そういった怠慢があちこちに見られるため、今の校長である恵那はダメだと噂されている。今彼がぶつかった柵も同じだったようで、彼の体重を支えきれずに、ぐらりと傾いてしまった。
「わっ……!」
落ちる、と思った黎はぎゅっと瞼を閉じた。柵はそのまま折れ、地面へと落ちていく。金属製の柵が落下したことで派手な騒音が巻き起こったが、黎は落下することは無かった。こちらへ走り寄っていた才見が、彼に飛びついてそれを阻止してくれたのだ。
「っ……!」
下に落ちることは無かったものの、飛びついた勢いで二人揃ってそのままコンクリートに体を打ちつけてしまった。肘を打ちつけた黎の手は、指先まで強烈な痺れに見舞われた。
言葉が出ずに縮こまっていると、先に立ち上がった才見から「大丈夫か」と声をかけられる。黎は何度も頷いて、それに答えた。
才見は、美しく整った顔に似つかわしく無いほどに、髪を振り乱して必死の形相をしていた。その姿に、生徒への想いの深さが見てとれる。黎はそれを見ると、胸がズキリと痛んだ。
「こんなところで何をしてたんだ! 最近ここで落ちて亡くなる事故が多発してるんだから、近寄っちゃダメだろう! 元々立ち入り禁止なんだ、そもそも入っちゃいけないよ。ほら、早く寮に戻りなさい!」
才見はそういって黎を立たせると、自らの服の汚れをはたき落とし始めた。
「ご、ごめんなさい、先生。ありがとうございます」
黎も才見に倣ってブレザーについた土埃を落とそうと、軽く叩いていく。すると、才見が「最上くんのことを思ってたのかい?」と声をかけてきた。黎は才見がなぜそれを訊いて来たのか、意図がわからずに才見の顔を覗き込んだ。
「どういう意味ですか?」
すると才見は、ふっと力を抜くように微笑むと、徐に黎の頭を撫で始めた。
「最上くんが停学になった話は、もちろん僕も知ってる。君たちはとても仲がいいだろう? だから、離れ離れになるのは寂しいだろうと思っただけだよ。それに、君は悲しいんじゃ無いのか? 仲のいい友人が殺人犯扱いされていて、それを教師が誰も否定しなかった。味方しなかったことが悔しいんだろう?」
その言葉を聞いて、黎は嫌悪感をあらわにした。確かにその通りなのだが、才見もその教師のうちの一人だ。自分が守ってやれなかったということには触れないつもりなのだろうかと思うと、僅かながらに腹が立った。そして、才見もそれを察知したのだろう。突然コンクリートの上に正座すると、そのまま地面に頭をつけて黎に謝罪を始めた。
「生徒一人守ってやれなくて、申し訳なかった。もし良ければ、最上くんが早く戻って来れるように、僕に手伝わせてくれないだろうか。まだこの学校では新人だし、出来ることは限られている。けれど、それでも職員である僕にしか出来ないこともあると思うんだ。君たちが掴めない情報を仕入れることがあると思うし、出来る対応もあると思う。何より、僕は学校側の対応に納得がいってない。だから、自己満足になるかもしれないけれど、一緒に戦わせてもらいたいんだよ」
そう言うと、一度顔をあげて黎の目を真っ直ぐに見据えた。そして、再び地面に頭をつけると、「頼む」と声を震わせながら懇願した。その真摯な姿に、黎はまた胸を打たれてしまった。
◆
オレンジ色の夕日が消えると、閑静な住宅街にはそこかしこで家族へと帰宅を告げる声が聞こえ始める。小さな子供から大人まで色々な声が聞こえてくるあたりで、いつもの寮生活とは違うのだということを、光彰は痛いほど実感させられた。
何よりも、隣に黎がいない。いつも隣にいたはずの幼馴染の姿が見えないことに、言いようのない寂しさを覚えた。
自室のベッドに腰掛けた状態で、窓の向こうに見えている寮の灯りをぼんやりと眺める。最上の家は、清水田学園とは目と鼻の先にあって、会いにいこうと思えばいつでも行ける距離ではあった。
しかし、停学中は全ての学校設備の使用を禁じられるため、黎がこちらへ来ない限りは顔を合わせる事もできない。ただ会えなくて寂しいだけなのであれば、問題はない。光彰には、黎のそばにいなければならない理由がある。その勤めを果たせないことが、何よりも気がかりだった。
「そろそろ時間だな」
これから父と一連の事件に関する話をすることになっている。他の家族には話しても理解できないことであるため、父と二人だけで話すことにしてもらっていた。壁掛け時計を確認して自室を後にしようとして、窓の向こうの学園風景をもう一度チラリと見やる。
「必ず、捕まえてやるからな」
そう決意を新たにして、ドアを閉めた。
最上家の二階部分は、両親の寝室と父の書斎、母の趣味の部屋、妹たちの部屋、そして近しい親戚だけが使用する客間が一室ある。近しい親戚とはつまり、柳野の一家だ。
他の客が宿泊する際は、別棟に客用のコテージがあるためそちらを使ってもらう。霊能力を使用するということは、霊がここを見つけやすくなるということでもある。波長が合ってしまえば、誰にでもそれは見えてしまうだろう。
予備知識もなく、突然霊が見えるようになってしまった人は、ほぼ全ての人が間違いなく気が狂ってしまう。そのため、対処法を知らない人は母屋の二階には近づかないようにしてあるのだ。
そして、母屋の客間には今、一人の宿泊客がいる。その客は誰にも明かすことの出来ない人物であり、この三年ほど父と光彰以外はこの部屋に近づけないようにしてあった。今から二人は、その部屋で今後の話をすることになっている。その特別な客間のドアの前に立ち、しっかりと重ためのノックを二回、それを二度。それが父と二人で会う時の合図だ。
「どうぞ」
昼間に聞いたものよりも、さらに柔らかい声で父が応える。光彰は久しぶりに父と二人で過ごせることを喜び、顔を綻ばせた。
「失礼します」
二階の角部屋に当たる、大きめの客間。そこには、大きな天蓋付きのベッドが一つと、大きなダイニングテーブル、八人がけのソファが一つずつ置いてある。親戚が遊びに来た際に、ここで食事も出来るようにという配慮から置かれたものだった。
だが、今ここに眠っている客人には、そのどれも必要が無い。彼女は、ずっと眠ったままだからだ。
「彼女に会うのは久しぶりだろう? 声をかけてあげなさい」
父はソファに腰かけ、コーヒーを飲んでいた。手元には何かの書類が置いてある。その紙面から目を離さずに、光彰を中へと促した。
「霊体には毎日合っていますからね。少々鬱陶しいくらいですけれど」
そう言って、キングサイズのダブルベッドの端に寂しそうに横たわっている女性の髪を撫でた。その髪は白銀に輝いて長く、綺麗に手入れがされて艶めいていた。白く輝く肌と、大きな瞳を囲む長いまつ毛。まるで人形が横たえられているようにも見える。
「千夜。ここで会うのは久しぶりだな。今日はこっちに戻って来い」
光彰は横たわっている千夜にそう声をかけると、いつの間にか隣に来ていた父から、皮のケースに厳かにしまってある木製の楔を受け取った。それを眠っている千夜の肉体の耳元に、グッと差し込んだ。
しばらく経つと、それは体に馴染んでいき、傍目にはどこに刺したのかわからなくなっていった。それと同時に、千夜の瞼がピクリと動く。そしてゆっくりとそれは開かれていき、完全に開き切るとギロリと光彰を睨みつけた。
「あっち行けとか戻って来いとか、本当に人使いが荒いわね、この家の人たちは」
むくれる千夜に、光彰と辰之助は苦笑いを漏らした。光彰は千夜の機嫌を取るために、彼女が好きだった香を炊く。そして、
「悪いな。でも今回ばかりはお前の助けが必要だ。このままじゃ俺は二人殺した殺人犯扱いだ。下手したら、死刑だぞ」
と言った。
千夜はすんすんと鼻を鳴らすと、
「あら、このお香買ってきてくれたのね。それなら許してあげるわ」
と言って穏やかに微笑んだ。