キングの怒りを買う1
「俺は今、何を見ているんだろう……。お前本当に光彰か?」
黎はそう疑いつつも、光彰が八木に対して心を開いていることに喜んだ。彼が眠っている間に二人がどう交流したのかは分からないが、彼の顔つきを見る限り、本心から八木を信用したのがわかる。
千晃が亡くなってから特に人嫌いが進んだように見えていたため、誰かにそんな表情を向けていることはまず無かった。自分だけに向けられていた視線が分散するのだなと思うと喜ばしかったのだが、言いようのない寂しさも僅かに感じていた。
「な、なあ。じゃあ俺にあのホログラフィを幽霊だと思わせることに成功したんだとして、なんで俺は温田見くんを追いかけたんだろうか。俺は別に、彼を追いかけて懐かしんだりするほど、温田見くんと親しかったわけじゃない。小野さんに頼まれた光彰に付き合ってあの場に行っただけだったわけだし。夢中になって追いかけるなんて、おかしくないか?」
妙な気分になりかけていたところを誤魔化すように、黎は話を進めようとした。人工的に作り上げた幽霊を本物だと信じさせられた彼は、その後どうすることを期待されていたのだろう、それが疑問だったのだ。
「黎、ちなみにお前はあれははっきりと温田見の霊だったと言い切れるか? 何か他のものが一緒に見えたりはしてなかったのか?」
「他のもの? どういうこと?」
「例えば、温田見と一緒に他に誰かが見えたとか、何かよく分からないものが見えたりだとか」
「他のもの……?」
黎は頭を抱えた。間違いなく温田見の霊を見たと思っていたけれど、そうでは無かったのかもしれないとも思い始めたのだ。はっきりと言い切れないことに、違和感を感じていた。そして、それを恐ろしく思い始めていた。
すると、八木が冷蔵庫を開けて小さな箱を取り出した。そして、黎のために用意していたというカフェラテを取り出し、その二つをトレイに載せて「はい」と手渡す。黎はそれを受け取った。
「ありがとう……。あれ? これって小野さんがくれたものと同じもの?」
そう言ってカフェラテを飲もうとしたところで、はたと動きを止めた。そして、トレイの上の小箱をじっと見つめる。その箱には、小野が黎に渡したキャラメルフレーバーのシロップと同じロゴがプリントされていた。
「なあ、もしかして、これなんかヤバいやつなんじゃ無いの? げ、幻覚が見えるとかそういう類の……」
「……幻覚が見えたのか?」
光彰が黎に訊くと、彼は腕をさすりながら「多分そうだと思う」と答えた。
「今思い出した。最初は温田見くんに見えたあの霊が、だんだん小さい頃の光彰に見えていったんだ。それがギラギラしたピンク色の虫みたいなのに追いかけられてて、食べられそうになっててさ。ヤバいと思って、助けようとして一生懸命追いかけてた」
「極彩色の光とか、綺麗な色が見える、目の前のものが歪んで見えたりとかはあったのか?」
八木がそう問いかけると、黎は小さく何度か頷いた。
「あ、あったと思う。浮遊感っていうか、自分だけ時間が止まったような感じもした。それが気持ち悪いって思ったところまでは覚えてる」
「そうか……。やっぱりメスカリンなんだろうか。八木、どう思う?」
「本物を分析するしか無いから、今の時点ではなんとも言えないよな。それに、もしそうだとしても、入手ルートが分からない。ルートというか、原材料自体は日本でも普通に買えるものだからな。小野か田岡を張るしか無さそうだな」
八木はそう言うと、「本当に無事で良かったな」と黎の背中を摩った。
「ありがとう。もしあのままついて行ってたらどうなってたんだろうって思うと、すっごい怖いよ」
黎はそう言うと、ブルリと体を震わせた。
三人の頭上を、カラスアゲハがゆっくりと舞う。そのビロード状の毛は青く妖しく輝きを放っている。そこから発せられる光は、緩やかに曲線を描いていた。その様を、三人でぼんやりと眺めた。
すると、ふと思い立ったように光彰が
「小野はあのクスリを使ったんだろうか」
と、つぶやいた。黎も八木も、同じことを考えていた。
小野は温田見に会えるのなら、霊であったとしても会いたいと言っていた。聞きたいことがあるからと言って、自分の未来さえ犠牲にしようとしていた。
「それもよくわかんねえよな。寂しくてクスリに手を出したとしても、自分で売人から購入したわけじゃねえなら、学園内の誰かが彼女にそれを渡したってことになる。あ、宅配便は送付元から受取人、その内容に至るまでもう俺が調べた。外部からの荷物に、あの甘味料は確認されていない。小野や温田見が、自分から進んで薬物を買いにいくなんてことはねえだろうし」
そう言い切った八木に、黎は
「なんでそう思うの?」
と尋ねた。八木は、シガーケースからタバコを一本取り出しながら黎の方へと向き直った。
「あいつらは、親のためにずっと頑張ってたんだ。勉強も運動も手を抜かず、生活態度も必死に優等生を貫いていた。ひとえに、両親の会社がうまく立ち回れるようにという思いの元に動いていた。薬物なんて、その努力を一瞬で吹っ飛ばす悪魔みてえなもんだ。そこまで頑張ってきた奴らが、自分からそんなものに手を出したりするか? 小野に限っていえば、可能性だけの話なら、温田見からもらったかもしれない。でも、それなら温田見は誰からもらったんだ? そもそも、自分から欲しがる理由があったのか、ってことになる。二人ともすでに進路は決まっていた。そんなタイミングで自分を潰すなんてことは、しないと思うんだよ。誰かに強制されない限りは、ね」
八木は、オイルライターの蓋を軽い金属音とともに開き、タバコの先端に火を灯した。黎は目の前でタバコを吸う八木にやや驚きながらも、温田見に薬物を押し付ける可能性のある人物について考え始めた。
「想像したくはないけれど……田岡くんかな」
思わずそう零すと、光彰が
「そう思わせることも計算済みだろうな。田岡がピアスをつけ始めたのは、割と最近だ。それまでは、どちらかと言うと授業に出ない事が問題とされていたはずだ。イメージに流されたらダメだぞ、黎」
と、言って彼の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「いや、だってさ。あんなに反省指導受けてばっかりだと、どうしても素行不良な人を思い浮かべる時に、真っ先に名前が浮かんじゃうよ」
そう言って黎が光彰の手を振り解こうとする。その時、窓にかかるブラインドの向こうに、何かが光るっていのが目に入った。
「……なんだ?」
八木の部屋の正面には、あの時計の文字盤がちょうど目の前に見える。三人は、そこにあのニセ千夜が現れたのかと思い、ブラインドを開けた。
「この時間だとこっちは月明かりが届きにくいから、視界が……」
八木がそう言いながら、外を照らすものを探していると、窓の外でドスンという鈍い音が響いた。
「おい、今の音……」
三人はそれを聞いて一瞬凍りついた。しかし、すぐに気を取り直すと、窓を開けて時計塔の周囲を見渡した。音はすぐ近くで鳴ったように聞こえた。灯りがあれば、すぐに確認出来るだろう。
「八木、急げ! 階段室前を照らしてくれ!」
光彰が声を上げると、八木は見廻用の懐中電灯を取り出してきた。光彰はそれを受け取ると、時計塔の入り口である階段室のドアを照らす。見廻用のライトは白色LEDで、第二寮と時計塔の間くらいであれば楽に見通せる。僅かに見えた腕と頭に、黎が悲鳴を上げた。
「光彰! あれ、人だ! 誰か落ちたんだ!」
真っ白な光の中に在る黒い塊からは、何かを掴もうとしたのか、腕がまっすぐに突き出して見えていた。
◆
八木の部屋で飛び降りを目撃してから、半日が過ぎた。光彰、黎、八木の三人は、これから起こりうる事態に胃が重くなる思いをしていた。それは避けようも無く訪れるだろう。そして、これまで通り、変わらずこの流れから始まる。
「……最上くん」
八木が光彰の前に立つ。教師からの伝言を携えてきた八木の顔は、僅かに憂いを帯びていた。しかし、光彰はあまり変わりなくいつも通りのように見え、無言で顔を上げると、いつも通りに八木をじっと見つめながらその先の言葉を待った。
「今すぐ校長室に来て欲しいらしいよ。ちょっと雲行きが怪しくなりそうな気配だったんだけど、……大丈夫?」
八木が心配そうに光彰の顔を覗き込むと、彼はふっと目を細めて笑った。
「さあ、どうだろうな。どうやら、昨夜小野が飛び降りたのも、俺が千夜を使って落とした事になってるみたいだ。これまでとは教師たちの対応も違うし、俺もお咎めなしじゃいられないだろうな」
そう答える光彰を、黎が心配そうに自分のことを見ている。光彰は彼の頭を撫でると、
「大丈夫だから、心配するな」
と柔らかく笑った。いつもであれば黎はその手を払うのだが、今回ばかりはそれも出来ない。もしかしたら、このまま光彰とは会えなくなるかもしれないからだ。
「なあ、どうしていつもこうなるんだ? お前は確かに口は悪いし態度も冷たいけど、人を殺したりするようなやつじゃないのに……。なんでみんなはそれが分からないんだ」
黎は光彰を見つめたまま、ずっと涙を流している。泣き喚いたりする力は、もう無いのだろう。時計塔で小野の姿を見た後から、彼はずっと泣いていた。
「疑いを晴らそうとしてやったことで、自分の疑いを深めてしまったんだ。俺もバカだったってことだろう。……俺を嵌めた奴らは、そう言って嘆くことを期待してる。でも、こうなった以上は、俺も遠慮なく探らせてもらう。だから、心配するな」
そう言って口の端を持ち上げると、毒々しい笑顔を貼り付けた。
光彰が昨日の夜に自習室の霊を見にいくということを、警備の人間から伝え聞いた者がいたらしい。その晩に人が飛び降りたのであれば、噂通りのことを光彰が自ら実行して、自分が犯人だと証明してしまったようなものだと、皆は捉えた。そんな馬鹿げた話は無いだろうと、普通ならば思うだろう。
しかし、噂が大好きで暇を持て余している高校生には、そんな細かいことはどうでもいいらしい。今や学校中が、光彰を逮捕しろとばかりに色めき立っている。
「でも、昨日光彰と俺が夜に出歩くことは、届を出してたんだからみんな知ってた事だろう? 人殺しをしようとする奴が、そんなことしないよ。誰かに見張られるかもしれないし、邪魔されるかもしれないじゃないか。そんなの、バカのすることだ。光彰がそんなことをするわけがない。小野さんのためにやったことで、小野さんを殺した疑いを持たれるなんて……酷いだろ」
小野は結局コミュニケーションルームに来ていたらしく、そこから飛び出してきた温田見と黎を目撃してしまったらしい。寮監が一人で温田見の名を叫びながら走り回る小野に気がつき、彼女を連れ戻そうとした。温田見を探しながら時計塔に登った彼女は、そのまま転落死した。
なぜかそれが光彰の仕業だと言われている。彼が温田見を使って小野を飛び降りへ誘導したという話に変わってしまっていたのだ。今朝、登校中にやたらと光彰が後ろ指を刺されていたため、気になった黎が周囲を問いただしてわかった事だ。そのことで、黎は自分自身を酷く責めている。
「俺が錯乱してなかったら、八木くんと光彰が小野さんを止められたかもしれないのに……」
そう言って、ずっと泣いていた。
「キングの怒りを買ったんだろ? 小野も寮長だから、最上とは度々顔を合わせていたはずだ。関わりがないっていう言い訳は出来ないもんな。最上が小野を気に入らなくて、千夜の呪いを発動させたんだろう? 八木、お前も気をつけないと殺されるんじゃねーか?」
以前から陰で光彰のことを悪く言っていた葉咲を中心とする連中が、今度は堂々と目の前でそれを言ってのけた。その言葉を聞いた黎は、これまでずっと光彰のためにと我慢をしていたが、ついに耐えきれなくなってしまった。
勢いよく席を立つと、その集団の方へと向かっていく。あまりの勢いに、光彰も止める事ができなかった。
「ふっざけんなよ、このカスどもが!」
グラグラと煮えたつ頭を抱えながら、黎は思い切り椅子を蹴り飛ばした。金属と堅い木がぶつかる派手な衝突音が鳴り響く。その衝撃で周囲の机も巻き込まれて倒れていった。